岩倉市大山寺(タイサンジ)町と南隣の徳重界隈の大急ぎの散策

              1.はじめに
                 五条川中流域の岩倉市大山寺町近辺を車を利用して散策した。平成26(2014)年11月24日
                (月)勤労感謝の日の出来事でありました。

                 穏やかな日和で、2ヶ所の神社とお寺を見て回った。午前9時頃家を出て、10時少し前には大山寺
                町にある生田明神社に着いた。拝殿は、4隅を補助材で支えられていた。拝殿や本殿は、尾張独特の
                目隠し用として、コンクリートで造られた門{蕃塀(ばんぺい)と云うようで木造が古いかと。}に隠されて
                いた。

                 参考までに、蕃塀(ばんぺい)とは、神社の拝殿の前にある衝立状の塀を言うようです。伊勢神宮との
                関わりか尾張独自の構造でありましょうか。

                 かって、五条川近くにあったという大山寺(タイサンジ)なるお寺が、生田神社の神宮寺(世話をする寺)
                として存在していたという言われを知り、その生田神社の参拝を兼ねての散策でありました。

              2.大山寺町の生田明神社について
                 神社の周りは、すっかり民家が押し寄せ、西隣には公園が併設されていた。南向きの本殿の最深部
                は、高床の神殿で、床下には、数個の石が置かれていた。

                 再建は、いつ頃であろうかと解説がないかと周りを一周して探したが、何も無かった。この辺りの道は、
                軽自動車が、やっと通れる位の狭さの道が多く、難儀した。普通乗用車でいける道を地元の歩いている
                方にお聞きし、やっと現地まで行けました。

                 大山寺町と北名古屋市の境を五条川が流れ、生田明神社から南西寄りには五条川の川底になってい
                る所であるようで、遺物が発掘された場所であるとか。旧字 小森地区になるようであります。室町時代中
                期頃の「永享11(1439)年と記載されていた柿経(コケラキョウ)。」なる書写したお経が発掘された。発掘当
                初は畑地であり、地下4mから掘り出されたと聞く。

                 こうしたお経は、埋納されるのが通例であり、亡き人の何周忌の追善供養で行われるとか。埋められた
                物であれば、それ程深い所(地下4m)に埋納するものであろうか。或いは、埋納後 水害等で埋まった可
                能性も想定しますが、どうでありましょうか。
                 また、納経は、通例でいけば、神社近くの洞穴とか地面の可能性を推測いたしますが・・・・。とすれば、
                この柿経が埋納されていた近くに、神社かお寺があったとも推測出来そうですが・・・。あくまで推測であり
                ます。
            
                 その現場をみようと堤防近くに車を止め、堤防を歩きましたが、地元の人に聞いても、良くご存知ないよ
                うで、「そんな物が出たのですか。」とかえって質問されてしまいました。きっと川の浚渫をした時に出土した
                かもとも言われていました。五条川は、現代でも少しずつ流れを自然にか人工的にか変えているのでありま
                しょう。発掘当初は、畑地であったのが、五条川の川底になっているという事実からであります。

                 この方は、話の端々からは、その近くで生まれ、居住されていた方のようで、既にリタイヤーされた方とお
                見受けいたしました。

                 今は、大雨の時、排水が五条川へ出来かねるようで、強制排水施設が出来ていました。川に接した排水
                溝には、大きな鯉がたむろしており、その近くの一区画には、平成の御世に出来たであろう大山寺墓苑な
                るものが造られていました。また、川沿いに沿って一部分水田があり、今年も米作りがされていたようです。
                残りは全て畑地として利用されていました。もしかすると、柿経発掘現場は、この場所よりもう少し上流であ
                ったかも知れません。

               3.徳重の林證寺(リンショウジ)を訪ねて
                  新生田橋を南に向かい、徳重の交差点を右折し、しばらく走ってから北に向きを変えるとそのお寺さんは、
                 ありました。

                  この寺は、大山寺(タイサンジ)を引き継いだお寺と聞き及んでおりましたが、境内の北名古屋市教育委員会
                 の案内看板には、創建は、嘉禎2(1236)年 宗玄によるとあり、親鸞聖人が関東へ赴く頃真宗に改めたお
                 寺さんであるとか。

                  私は、この寺の創建は、江戸初期頃と思っていましたので、少しびっくりしてしまいました。
                  境内には、墓地もあり、古いお墓は、いつ頃のものかと見て回りました。見つけた中では、某家の寛政期
                 の墓標が一番古いように思いました。その墓は、すごい邸宅の家のでありました。墓標は、火災で焼けたり、
                 水害で埋まったとしても無くなりはしない筈。当地で居住していた一族が全滅しない限り何等かの形で修復さ
                 れたでありましょうから。江戸初期のお墓は、どこを探しても見つからなかった。

                  相当な水害の被害をたびたび受けていたのでありましょう。江戸初期までは。当地域での大きな水害は、お
                 そらく天正期の木曽川大洪水が最後であろうか。

                  この地域の高台といえば、自然堤防でしょう。民家や寺は、その当時の自然堤防上に立地していた可能性
                 は高い。五条川(江戸初期以前の五条川は、木曽川派流の一つであり、相当な水量の堂々とした河川であっ
                 たでありましょうから。)が、流路を変える程の流れがある時は、それまでの地形を極度に変更せしめた状況
                 になっていたでありましょう。土砂の堆積を伴いながら・・・。いったい、五条川が、大山寺町辺りから大曲りし
                 たのは、いつ頃の事であろうか。この地域での最後の大洪水は、天正期?でありましょうから、この時期に確
                 定・・・・カ。

               4.徳重の生田神社について
                  林證寺より東側にあり、再度徳重の交差点まで戻り、そのまま徳重の交差点を突っ切り、車を走らせました。
                 途中から道は、狭くなり、左折して五条川堤防へ出た所で、一旦止め、近くで玉葱の苗を定植されていた老夫
                 婦をお見かけし、その方へ歩き、「神社へは、普通乗用車で行けるのでしょうか。」とお聞きしますと、「とても無
                 理です。」という返事。民家の駐車スペースへ止めさせて頂いて、歩いて行きました。行ってびっくり、何とコンク
                 リートで造られた神社でありました。

                  残念な事にここにも、何ら説明看板はなく、真新しい神社が、ひっそりと建っているだけでした。この辺りは、
                 五条川の左岸地帯で、堤防や川から一段低い地帯でありました。

                  その後、私は、車で、名鉄岩倉駅まで送って貰い、そこで別れて一路名古屋へと名鉄電車に乗り向かいまし
                 た。