平安期の山田郡・春日部郡の境についてと式内社についての雑感
1.はじめに
尾張の平安期の郡については、竹内理三氏の「荘園分布図」が、先駆的な研究成果でありま
しょう。
その図が、小牧市史 P.68 図2−6 春日部・山田郡境図(1)として表示されております。
市史では、「 山田郡の境を、更に玉野川(現 庄内川)を超え広がっていたのではと。勝川の
両宮社、もしくは、春日井朝宮神社(大字和爾良)を式内社 和や神社に比定した場合であるよ
うですが・・・。」とも記述されております。
更に、「 小牧市にある上末・下末の地区について、ここを和名抄にある山田郡主恵とすれば、
山田郡は、小牧市の一部が含まれる事となるとも記されています。」 確定はできないようであり
ましょうが、一考を要する課題かと。
現 春日井市牛山町は、かって山村郷と呼ばれし地域であったとか。参考までに{「評」の代りに
「郡」を用いるようになるのもやはり大宝令(701年)からである。ともあれカスガベノコホリは浄御
(きよみ)原令発布(689年)の頃にはすでに建置されていたもようであり、春日部を春部と略す書
き方も藤原宮の頃にはすでに行われていたのである。なおこの木簡の末尾は、類例から推して
春部里とか何とか里名が記されているのではないかと思われる。「春」1文字しか読みとれないの
は惜しい。
藤原宮の時期の地域行政単位評里制は、大宝令によって評を郡と改称し、さらに霊亀元年
(715)には里を郷と改称するとともに郷を2つないし3つの里に分割して郡郷里制としたようであり
ます。
倭名類聚抄には春部郡を構成する郷として、池田・柏井・安食・山村・高苑・餘戸の6郷が記され
ている。このうち『奈良朝遺文』にその名が見られるのは山村郷(正倉院丹裏古文書)だけであるが、
安食郷も年代は降るが康治2年(1143)の安食荘立券文にその名があり、まず信頼できる。
しかし他の4郷は奈良時代までさかのぼりうるものかどうか詳かでなく(たとえば餘戸郷は倭名類
聚抄の刊本には記載されているが、高山寺所蔵の古写本には記載されていない。『筆者注として
餘戸郷は、山田郡の郷名ではないか。』 )、また記載もれの郷がありはしないか、という疑いもあ
る。たとえば藤原宮出土木簡の「春部評春□」の春が里名の頭字だとすると、倭名類聚抄の記載
する6郷中にはそのような郷名は見られないが、『日本地理志料』が論及しているこの郡の倭名類
聚抄不載の郷の中に「春部郷」があって符号する。}(以上の既述は、郷土誌かすがい 第3号 参
照)と。一概に、倭名類聚抄の記載だけでは、不十分という事になりましょうか。
この山村郷は、春日部郡に含まれると判断して差し支えなさそうでありましょう。牛山を流下する
大山川に合流する西行堂川の上流域には、陶(上末・下末)があり、後、末御厨となる地域であり、
山田郡であった可能性は、ゼロなのでしょうか。
愛知県史・東春日井郡誌・春日井市史により作成された小牧市史 P、70の図2−7 春日部・
山田郡境域図 (2) には、山田郡に置かれた式内社の分布から、山田郡域は、師勝町より西よ
りの地域を含み、豊山・師勝・牛山等々の北側、現 小牧市南西部域まで伸びていた。そして、山
田郡の端境には、上末・下末が含まれるように図示されていた。まだ、確定はしていない事柄では
ありましょうが・・。
{ しかし、私(筆者)は、何らしっかりとした根拠は、見い出せてはいませんが・・・。更に山田郡の端
境を小牧市大山辺りまで延ばせないのかと考えるに至りました。}
( 参照 白山信仰と7・8世紀須恵器古窯跡地域との関連と大山寺との関わりについての覚書
)
この拙文を記述していた頃は、下末や上末の延長上に大山を捉え、山田郡が、本荘から林、野口の
山々を含めて細長く伸びていたのではと推測いたしておりましたが、現在は、山田郡の先端は、下末ま
で。大山・野口という旧 篠木荘が、山田郡であるのでは・・・という見解に傾いております。(平成26年
現在)
2.安食荘について
康治2(1143)年の尾張国安食郷内田畠等検注帳案に、安食荘の田畠の坪付けが、条里で表
してある。
この当時、尾張国衙の役人が、荘園としての特権を否定し、賦課を行った為、領家である醍醐
寺より前関白藤原忠実に訴え、その結果、荘園の境界を明確にし、荘民から上納される年貢を、
醍醐寺修理料並びに同寺灌頂堂への布施料と定めた時に作成されたようであるという。
この安食荘内の里をかって水野時二氏(私も、学生の頃講義を受けた記憶があります。)は、現
在位置に比定されたようで、16条 馬賀(うまよし)里を現 味美付近、17条 田村里を 現 楠村
付近、17条 安萌里を勝川付近、18条 石河田里を 松河戸付近(松河戸には、小字名として河
田とか河戸の存在が知られる事より。)と比定されていた。 上記記述は、春日井市史 P.97〜99
からの抜粋であります。
郷土誌かすがい 第4号にも、安食荘についての記述があった。
「康治2年(1143)、安食(あじき)荘についての古文書によれば、当時の安食荘は春日部郡に属し、
矢田川古流の南岸が第20条。この南限に並んだ各里の西部、小稲里(名古屋市稲生町)の東畔が
西限。{ この古文書とは、山城醍醐寺の荘園であり寄進地系の荘園であった「安食荘」の「官宣旨
案」(平安遺文第6巻・史料番号2520)で、康治2年(1143年)の記録である事が分かりました。}
以下この古文書に基いて要点を略記すれば、庄内川の北、18条より当市域に入り、味鏡(みまり)
里(東北の一角が当市中新町の一部)、水分(みくまり)里(南部は名古屋市)、
賀智(かち)里・頸成(
くいな)里・馬屋里・石河田里の6里が並ぶ。石河田−小野道風の伝承地・観音寺に東接し北方に直
進している古道が里界線趾−が安食荘の東限。賀智里のカチは勝川に通じ、イシカワダ・マツカワ
ドは語呂が相似ている。
17条の町原里は味鏡里の北に接し、安萌(あもえ)里は頸成里の北に続く台地上に在る。
16条には水分里の北、1里飛んで馬賀(うまよし)里がある。安食荘の北限である。味鋺原−後の味
美(あじよし)村の中央部に相当する。ウマヨシ・アジヨシも語呂が似ている。安萌・馬賀のあたりは水田
は無く、主として草生地であったらしい。狩猟・放牧などの適地であったか。
延喜式内の古社、牛山の片山神社は10条に、田楽(たらが)の伊多波刀神社は9条に現存している。
伊多波刀神社のあたりを広く南(みなみ)条と云い、その北方を北条と呼ぶは、8・9の条界線を以って
するこの地方での区別であろう。
先年、小牧市域の古窯跡より「多楽里」とある瓦が出土した。田楽は多楽里の名残か。
更に北進し
て春日部郡の第1条の北限は昔の味岡荘の久保一色(小牧市)の北、古墳青塚(犬山市)あたりの一
線と比定される。
古い地籍図を並べてみるに、白山(しらやま)村の小針・沖中・大曲(まがり)。庄名村の東ノ坪・東畑・
神明前・水田(すいでん)。神明(しんみょう)村の長筬(ながおさ)・神明前。松本村の上(かみ)条坊・下(し
も)条坊。
出川(てがわ)村の長(おさ)・三反田・北坪・米田(こめだ)・榎(えのき)坪。大留村の井高上(か
み)・井高下(しも)・大門(だいもん)・中筬(おさ)・茨(いばら)ノ木・四反田・五反田・松ノ木・樋田(といだ)な
どに不完全ながらも100メートル平方ほどの正方形らしいものが散在している。これ等を縦横にたどり
整頓しながら線引きを試みれば井然たる条里制の坪割となってあらわれる。
気噴(きぶき)村の井高川の西に三ノ坪、東に黒坪という字がある。両字は共に第11条に位し、偶(た
ま)々井高川の線が里界をなし、割塚の基点の南北の里界線より6本目−三ノ坪は西の里の第3坪、
黒坪は東の里の第29坪を含んでいる。クノツボをクロツボと訛るところは少なくないが、ここでは29ノ
坪をクロツボと省略している。
神領村以西は洪水に因るか遺構は大きく乱れている。更に東部および北部の丘陵地帯の古い村
々の狭間(はざま)などについては資料に乏しく、遺構の跡は定かではない。」 以上であります。
とすれば、この方は、安食荘の範囲は、「矢田川古流の南岸が第20条。この南限に並んだ各里の
西部、小稲里(名古屋市稲生町)の東畔が西限。石河田−小野道風の伝承地・観音寺に東接し北方
に直進している古道が里界線趾−が安食荘の東限。か。北限については、「16条には水分里の北、
1里飛んで馬賀(うまよし)里がある。安食荘の北限である。味鋺原−後の味美(あじよし)村の中央部に
相当する」と。
分かりやすく言えば、安食荘は、南は、矢田川辺りから北は、春日井市味美の間で、東は、名古屋市
稲生町から西は、松河戸に至る地域であったのでしょうか。
JA尾張中央 広報誌 ふれあい 2012年3月号に、安食荘の絵図が掲載されていた。詳しくは、入
谷氏の記述に委ねます。( http://www.ja-owari-chuoh.or.jp/about/pdf/fureai-201203.pdf 参照 )
「 掻い摘んで記述すれば、安食荘の東側と南側一部には、柏井荘が存在している事が見て取れると
いう。また、西よりには、味鏡(みまりと読み、江戸時代以降 あじまと呼ばれし地域となる所かと)があ
るようです。絵図は、かなりデホルメされているのか、やや方位は、正確さに欠ける嫌いがします。
柏井荘と安食荘の境には、醍醐塚があるようにみえ、この醍醐塚を、愛宕神社とみるか、滅失したダ
イゴヅカ(愛知県史が指摘する)とみなすのかとも記されておりました。
また、絵図には、松のような描き方の木と、松以外の木の描き方には、違いがあり、自然村落であろ
う勝川村が、名称入りで記述されており、その近くには、二つの自然村落らしき村も書き入れてありまし
た。おそらく、味美村と名古屋市北区辺りの如意村でありましょうか。村落の周りの木々は、低い木で、
松は、やや高い木のように描かれているような気がいたします。
もうひとつ気になりますのは、中央に書かれた道、安食荘が、押領した柏井荘側の地域、道沿いの
土地であり、この道は、入谷氏によれば、大草へ続いているのか、内津へ続いているのか。とも記述
されており、気にはなりました。」ここまでが、安食荘の絵図から読み取れる事柄ではあります。
とすれば、この絵図から読み取れる安食荘の範囲は、北は、勝川から南は、名古屋市如意町あたり
か。東の境が柏井荘であれば、王子製紙辺りか。西は、あじま地域であろうか。
「安食荘」の「官宣旨案」(平安遺文第6巻・史料番号2520)と安食荘の絵図では、弱冠範囲が、ずれて
いるように思える。勝川は、一体、どちらの荘園に入っていたのであろうか。醍醐寺領には、勝川が入っ
ていた筈。とすれば、絵図の方を信頼した方がよいのかも。
この時期、境では、押領等の行為が、あったようで広くなったり、狭くなったりしていた結果の違いで
あろうか。
この安食荘の北側から東側で、柏井荘と接し、この柏井荘の東側で、篠木荘が接していたのであろう。
柏井荘と、篠木荘が接する春日井原は、原野の状態であり、未開の地であったのでしょう。
そういえば、明治期の勝川の様子の記述でも、勝川辺りの庄内川は、行く筋もの流れであり、堤防も
自然堤防のようであり、八田川・地蔵川が流れ込み、砂地であり、松林があったという。(詳しくは大脇
二三氏著 「ふるさと地名考」 第1集を参照されたい。 ( 下記 URLにても、参照可能かと。参照
http://www.kasugai.ed.jp/sanno-e/%E6%A0%A1%E5%8C%BA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E5%9C%B0%E5%90%8D.htm )
この辺りは、弥生中期頃以降 弥生村落があり、盛んに近くの木を利用して、農具等の加工をしてい
た遺跡も発掘されており、荘園内の木々は、自然林ではなく、人工林になった可能性が高いと推測いた
します。
話を元に戻しまして、この方は、春日部郡の北限は、「第1条は昔の味岡荘の久保一色(小牧市)の北、
古墳青塚(犬山市)あたりの一線と比定される。」 という記述であり、であるならば、青塚古墳のある
近辺までもが、春日部郡であったのでしょうか。その辺りは、丹羽郡であったのでは・・。
春日部郡は、安食荘・篠木荘・柏井荘等を含む地域であったのではなかったかと。郷土誌 かすがい
第4号のこの部分の記述者は、水野時二氏ではないようであり、春日井市文化財保護委員という肩
書きの方であったようです。
篠木荘の範囲は、{天養元年(1144年)、「春日部郡東条」の地を以って篠木荘が設定されたという。
同荘は後世のいわゆる篠木33ケ村( 小牧市野口、大山、大草、春日井市下原、関田、下市場、神
領、
大富、出川、 松本、玉野、高蔵寺、明知、西尾、内津一帯が、江戸時代の
篠木33ヶ村に
相当す
るのでし
よう。)にわたる広大な荘園にして、その西限は現在の西山町あたりとされており、この地区に
は条里制の名残りとおぼしき、丁田・四反田・八反田などという地名がある。}(既述 第4号)とも記述さ
れておりました。
確かに、現在の地名から過去の地名を追う事が出来る場合もありましょうが、この水野時二氏の記
述からでも、文化財保護委員の方からも、過去の地名で、当てはまる地名は少なく、語呂が同じとか多
少の転化があるように思えました。寧ろ小字名に過去の地名を見出せる事がありそうのようでもありま
す。
また、一説には、この安食荘は、かって尾張地域に設定された間敷屯倉ではないかと言われるようで、
ここが、その屯倉であれば、尾張連氏の祖 乎止与命{オトヨ、ニニギノミコトの兄 天火明命十世の孫}
は、眞敷刀婢命{マシキトベ、尾張大印岐女子(おわりおおいなぎのむすめ)を妻にしている。この眞敷
刀婢命という名前には、何やらマキシトベとマジキ 音韻的には、略音、転訛音に通じるようにも思えて
なりませんし、既に、いなぎという役職名を髣髴とさせる豪族の娘をオトヨ命は、妻にしたという事であり、
乗っ取ったとも取れるのではないかと・・・。
3.式内社・尾張神名帳に記載された神社・国史現在社について
内々神社(内津町)・伊多波刀神社(田楽町)は、式内社でありますが、栗栖地神は、尾張神名帳
には、記載されているようですが、式内社ではなかったようで、六国史に散見する神社を国史現在
社というようで、栗栖地神もあったという。
春日井市史 P.100には、「天武天皇の頃、神名を整理した際、大和系を天神といったのに対し、
出雲系被征服者系を地神と称し、そうした地神は、それを奉祀する氏族の地位が低下すると共に、
消滅してしまったかも知れない。」 と記述されており、大和系でない神社は、多かれすくなかれ消滅
の憂き目に晒されていたのでしょう。
元禄15(1702)年 吉見幸和編著の「妙見宮由緒書」によれば、「この内津の妙見様は、景行天
皇41年、尾張連祖 建稲種命を奉祀したのに始まると言う。この命は、熱田神社にも祀られています
が、内々神社より9年遅いようです。この妙見様は、中世迄は、この地域一帯 篠木33ヶ村より村毎
に毎年湯立神楽を当社に奉納してきたという。実際に使われた湯立釜が6個伝わっているという。
また、雨乞いの際には、尾濃両国の村人等は、当社に祈願をかけるなど、この地域の精神的支柱
であった。」 とも記述されている。
何やら、現 小牧市の尾張白山社と同じような起源の由緒でありましょうか。
六国史にも、「この内々神社には、伊勢度会神主より奉納された大般若経が、神宮寺であったであ
ろう内津見性寺に伝存しているようで、これらは神仏習合思想の結果として、雨乞いとか呪術的祈祷
の為、僧を招きこれを転読させたようであり、平安時代頃から盛行したことは、明らか。」 と。
確かに、すぐお隣岐阜県多治見市池田町屋(内津峠を越えた所の最初にある村落)には、「奈良時
代から平安時代の窯跡は、生田地区を除いて、土岐川以北の丘陵地帯であり、池田御厨 (伊勢神
宮の神領であります。)のなかに分布していることであり、この窯は、伊勢神宮と深い繋がりがある事
を示しています。」と。当然、池田町屋は、御厨内の村であります。また、小牧市にも、末御厨( 現
小牧市上末・下末辺りでしょうか。)があった事が知られるようで、春日井市内津町も、伊勢神宮と何ら
かの繋がりがあったのではと推測できましょう。それが、「内々神社には、伊勢度会神主より奉納され
た大般若経が、神宮寺であったであろう内津見性寺に伝存している。」のでしょう。遅くとも平安時代に
は、奉納されていたと推測できえましょうか。
やはり、湯立て神楽と馬之塔(おまんと)では、やはり、神楽の方が、古いのではと思えるのですが・・。
田楽の伊多波刀神社は、連綿と続く式内社でありますが、古い縁起類を伝えていない。( ここも、秀吉
により放火され、社人等が、放逐されたからでありましょうか。牛山と同じように ) 故に古代のこの神社
を奉祀した豪族とか、創建の経緯等を知りえない。
乏しい所伝によれば、祭神は、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと 高木神とも言い、本来は高木が神
格化されたものを指したと考えられている。)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、品陀別命(ほ
んだわけみこと)、玉依姫命(たまよりひめのみこと 日本書紀第七の一書に、「一に云はく」
として高皇産
霊神の子の児萬幡姫の子として玉依姫命が見える。)の4柱とか。
この田楽の伊多波刀神社には、現在までに紆余曲折があり、明治期以前では、八幡社として存続し、明
治期になり、再度以前の名称の伊多波刀神社になったという。祭神である息長足姫命・品陀別命の二柱は、
八幡社の祭神であり、元々の伊多波刀神社の祭神は、高皇産霊尊・玉依姫命ではなかろうか。
参考までに、{この神社の語源は、志賀剛氏は、式内社の研究第9巻 東海道の巻で、「語源は、イタハタ
(伊多畑)」であり、「イタ」は、「ユタチ(湯立)」の意であり、つまり、水の湧く畑がある所ではないかと。}確か
に、この地域は、田楽層であり、熱田層と同様な地層でありましょうか。台地上の地域であり、湧き水がな
ければ、生計が立てられない古代では、安全で暮らし易い所であり、古代人にとっては、得がたい地域であ
ったかと。
この神社は、味岡庄17ヶ村の総産土神として、毎年の祭礼には、17ヶ村から神馬を献上したと言わ
れる。その後江戸時代には、八幡社(伊多波刀神社ではない。) と称し、そこでは、神宮寺である常念寺
において流鏑馬の実演者は、甲ちゅうをつけ、社僧以下庄屋等に酒盃を廻す式を行い、終わって真っ先
に旗竿等を多く立て、流鏑馬は、3騎乗馬のまま、参拝し、神主の祈念ののちに、的ひとつ毎に流鏑馬を
行ったという。
現在 常念寺は、廃寺となり、その地は一面藪となり、面影を残していないようであるが、江戸時代ま
では、神社の神宮寺として存在していたでありましょう。( 明治の廃仏毀釈により、衰微したのでしょう。
その結果、八幡社は、元の伊多波刀神社へと改名したようです。・・筆者注)
この記述は、春日井市史 P.103よりの抜粋であり、神馬(別名 馬之塔カ)奉納が、後 流鏑馬に変
わっていったと言う考察とよく似ていると言えなくはないかと。
同じく式内社であろう片山天神は、現在の牛山であろうと。尾張地名考の著者 津田正生は、この地は
内山と古くは呼び、今は、牛山と呼ぶのは、内山の転語であり、戦国時代以降の事であろうと。
そして、この辺りは、山村郷であり、今の牛山、外山、青山、板場、一之久田、小針村を含むのでありま
しょうか。そして、この山村郷は、かって春日部郡内であった。
この神社に関する古老口碑として、「牛山村は、古くは宇多須村と称し、うち片山に大社が鎮座していた。
元亀(1570〜1572)年間、この神社の守護人 玄殿がいたが、秀吉により放火され、社蔵の縁起書
等や玄殿の家屋も焼失、彼の子孫の事も一切不明なってしまったとも尾張地名考には、付記されていると
いう。
これが、事実であれば、古代の言い伝え、社伝等は、秀吉( 古代の律令制の名残りを根こそぎ粉砕し、
完璧に駆逐した完遂者であったのでしょう。)により、在地の過去のしがらみに生きる層として、根絶やしに
されたのでありましょうか。言ってみれば、「焚書坑儒」の再現であったとも言っていいのでは。
明治期にも、「廃仏毀釈」があり、これも、言ってみれば「焚書坑儒」の再来かと言ってもよいのでは・・・。