平成24年 今から10年程前の東海豪雨の尾張 西枇杷島地区と岐阜県多治見市平和町地区の類似性

         1.はじめに
            河川流域では、古い時代(ここでは江戸時代頃を想定)に、水害に会う常習地はあったという。庄内川・新川
           沿いの枇杷島、庄内川上流域(土岐川流域)の岐阜県多治見市平和町の低地部は、江戸時代には、常に浸水
           に晒された地区であったという。

            その江戸時代の頃は、得てして水害に晒された地域は、水田地帯であり、人的・建物被害は、皆無であったよ
           うだという。被害は、稲作への被害であり、それはそれで、その当時には、大変な事柄ではあったでしょう。

            被害が出れば、幕府や尾張藩が何らかの救済策を講じてくれたことでありましょう。年貢徴収に差しさわりが出
           てくる事は、必定でありましょうから。

         2.平成の東海豪雨による水害事例の一例
            新川堤防決壊と多治見市平和町の内水氾濫
              10年程前の東海豪雨により枇杷島(庄内川下流域)は、水害を蒙った。その様子を当時そこに居住する方が
             記述してみえました。
              「数年前、名古屋市に隣接した西枇杷島町で大水害が発生した。一時間100ミリを超す前代未聞の豪雨に
             より破堤し、庄内川と、そのバイパス水路である新川に挟まれた市街地の多くが二階まで浸水した。
              当時住んでいた私の旧住所から徒歩で30分ほど、行ってみて驚いた光景があった。ここには名古屋市と岐
             阜を結ぶ古い街道、美濃路が通っていて、尾張藩最大の市場、枇杷島市(いち)があった。その枇杷島市を中
             心に、青物問屋や運送屋などで発展した街路が西枇杷島町だったが、その旧市街地は、ほとんど無傷で浸水
             がなかったのだ。
              旧市街地は、庄内川右岸堤防に沿い、小高い土手上を新川町に向けて延びていた。それは水田地帯から2
             メートルほどの高みにあった。浸水被害は、すべて江戸時代の水田を埋め立てて作られた新市街地に集中し、
             旧市街の水没箇所は皆無だった。」 と、更に続けてこのようにも記述されていた。
              「こんな水害常襲地帯では、家は必ず、標準的浸水ラインより上に建設されていた。だから江戸時代の市街
             地、美濃路の両脇にあった古い市街では被害は発生しなかった。軒までの浸水地帯は、すべて戦後の水田埋
             め立て地であった。
              このことは、戦後異常な経済成長の過程で、急速に拡大した都市近郊市街地といえども、江戸時代の基本都
             市構造を無視した場合、大きな危険に晒される可能性があることを如実に示したと言えよう。
              我々が土地や家を購入する場合、まずは江戸時代の市街地を参考にしなければいけない。とりわけ、戦後景
             気、バブル時代に売り出された土地には、地質的・地理的・歴史的なリスクを無視し、不動産屋の儲けだけを追
             求した無責任なものがあることを肝に銘じなければいけない。」 (上記の記述は、下記URLより引用しました。
              http://www1.odn.ne.jp/cam22440/nagoya3.htm ) と。貴重な忠告と受け取りたい。

              その東海豪雨時、庄内川の上流域である岐阜県多治見市平和町も、あれよあれよという間に、堤防決壊では
             ない、内水氾濫(支流の川の水が、本流に流れなくなり、堤防を越え、溢れてきた洪水と旧多治見市街地の悪水
             いわゆる現代的に言えば 下水と雨水が大量に平和町へ流入し、悪水路堤防から溢れた二重水害であった。)
             により、浸水。深いところでは3m位になったという。

              「この地域では、こうした洪水は、ちょくちょく起こっていた為、国により脇之島排水機場が、支流と本流が接す
             る所に造られていた。この脇之島排水機場の能力は、『 ポンプ排水能力は、一台 1立方m/秒であり、同型が
                            もう一台設置されて、計 2立方m/秒の能力であるという。(これは、このポンプ場が、昭和53年完成であり、その
                            年代の制約で建設されたからではありましょうか・・・。)
              この現在の能力で、排水可能降雨量は、時間当たり10〜20mmであろうと説明された。実際、50mm/hの雨
             量が、降った場合の必要処理能力は、10.6立方m/秒のポンプであるとも説明されたのであるが、こうした実情
             でありますので、平成12年以降、市として、国に対して増設等の要望やら協議をしていますが、未だ改善されてい
             ないという報告でありました。平成12年の床上浸水時の時間雨量は、54mm。総雨量は、361mmに達していた
             筈。』が、この排水機場には、排水ポンプが設置されていたにも関わらず一度も稼動された事がない排水機場であ
             ります。」( 平成24年になって、初めてこうした事実が明らかになったという。)
              平成12年当時の東海豪雨時、旧 脇之島は、平和町5丁目から西は、水没し、床上浸水をしました。排水機が、
             当時は、水没して稼動出来なかったから水没したと地元も住民は、考え、河川事務所等の折衝時、地元の方が、
             聞かれたようですが、「動きました。」と答えられたかと。確かに稼動出来る状態であったようで、住民は、排水をし
             たのかどうかを聞かれた筈。見事にはぐらかされていたようです。この当時は、正確に住民に実情を知らせようと
             は、考えてみえたのでしょうか。              
              つまり、新川の方で堤防が破壊され、大洪水(外水氾濫)となり、上流域の水位がみるみる下降し、水が引いて
             いった事によるようでありました。でも、平和町も、水害に会ったことは事実であり、かって水田地帯でありました
             が、平成の東海豪雨時は、水田は潰され、宅地化され、民家が多くなっていたのでした。

              江戸時代には、平和町でも確かにこの水田地帯には、民家はなく、殆どの家は、山裾にあり、水害に会わない
             構想が、在地にはあったのでしょう。

           3.現代の水害被害への対応
              江戸時代では、幕府・尾張藩が、堤防の修復。百姓への対応を何らかの形で取られたと推察いたします。
              現代は、こうした、水害を蒙りやすい地域における対策は、どのようになっているのでしょうか。
              こうした時に、真っ先に対応されるのが、人口密度の高い都市近郊の被害地であり、人口密度の低い地域は、必
             要性の観点から、後回しになる嫌いはあったと思われます。対費用効果という一見公平な尺度なるものが、江戸時
             代の葵の御紋のように、この紋所がみえぬのかとでも言いたげに一人歩きしていたのでしょう。

              インターネット上では、日本全国の至る所で、人口密度のやや低い内水氾濫の常習地と思われる所から声が上が
             っていました。が、国土交通省の出先機関の河川事務所等は、旧来の考え方があるのでしょう、こうした声への対応
             が、鈍いの一声に尽きるようでした。

              最近、こうした声に動きがでてきたのでしょうか。現政権党は、国土強靭化計画なる言葉で、そうした声に対応しよ
             うとやっと動き出したようです。

              それというのも、経済面での儲け主義が横行した事によるのは、言うに及ばない事ではありましょうか。先述の某氏
             ではありませんが、「戦後景気、バブル時代に売り出された土地には、地質的・地理的・歴史的なリスクを無視し、不動
             産屋の儲けだけを追求した無責任なものがあることを肝に銘じなければいけない。」という事に尽きましょうか。

              土地売買の先に、こうした地域の土地開発が、今後の生活(100年先を見越した配慮)に於けるリスク回避を、しっ
             かりなされた計画であるのかをチェックする事という、行政側に背負わされるのが望ましい事ではありましょうか。でな
             いと悪戯にそのリスクの尻拭いは、購入した個人に帰され、更には莫大な支出( 税金が投入 )をする羽目になる事
             を自覚すべきでありましょう。

              企業には、小さな会社もあり、潰れてしまえばそれまで、後のことにまで責任を負わない、無責任体制(株式会社)で
             あるからでしょう。商行為にも、一定程度の責任を負わす。行政の方も、仕事に対し責任を負わす制度でないと、税金
             を使うだけで一向に業績の上がらない法人や特別会計に巣くう独立行政法人ばかりが、増えていくのではないだろうか。