1.                                                        平田町の千代保稲荷神社の起源考

          1.はじめに
             おちょぼさんとかおちょぼ稲荷で、この辺りでは割と有名な神社です。行った事は今までありませんでした。
             平成30(2018)年2月24日(土)陽気な日の予報で、急きょ出かけました。縁日でもないのに現地は、かなりの人出でした。主は、車で来ている方
            でありましょう。無料駐車場は、二十数台しか留められず、道路沿いに空くのを待つ車列が出来ていました。
             神社に一番近い有料駐車場は、既に満車状態。立派な屋外トイレも完備し、店も狭い道両側にずらっと軒を連ねて営業してみえました。
             詳しくは、拙稿散策記 平田町にある千代保稲荷神社(通称 おちょぼさん、おちょぼいなり)について を参照してください。

          2.お千代保稲荷について
                        お千代保稲荷の歴史を紐解くと以下のようになりましょうか。詳しくは、「平田町史 下巻」 昭和62年復刻版(初版は、昭和39年)臨川書店 P.106
            4〜1065を参照されたい。ちなみに平田町の町名由来は、あの江戸時代薩摩の藩士さん達の木曽三川分離工事(千本松原で有名な公園)を指揮した
            薩摩藩家老 平田靱負の平田であると。末代までもその労苦を忘れないように町名にしたという。現在は、海津市に合併されています。

             「お千代保稲荷 所在地 須脇1980番鎮座  祭神 大祖大神・保食神・祖霊の三柱」とか。
             「由緒 戦前扶桑教稲荷教会に属していたが、戦後勃興宗教と共に、お千代保稲荷は独立して、ここがいわゆる本山となった。往古森姓を千代に保て
            と三種の神宝を授けられて伝えていると云う。名鉄大須駅までの電車の開通を見て以来、信仰圏が拡大し、名古屋・伊勢方面にも信者層があり、名鉄と
            岐阜乗合を利用し、或いは貸切バスの参拝者も少なくない。毎月1日15日22日の三日間は、警察官が取締に出張を見る程であり、殊に旧2月の初午
            に執行する春の大祭、10月10日の秋の大祭には、駐車場から社殿まで人垣が続く程の賑わいで・・(中略)ともあれ門前町が出来、飲食店と土産物屋
            が軒を並べている事は、この稲荷のお陰である。」と。(この記述は、昭和39年前後の執筆でありましょうから、昭和30年代頃の出来事でありましょう。) 

              *  名鉄大須駅・・1929年(昭和4年)4月1日 - 竹鼻鉄道の駅として開業。岐阜県羽島市桑原町にあった名鉄竹鼻線の駅でありましたが、2001年(平成
                        13年)10月1日廃止。

              *  「教派神道系の諸教団は,神道的宗教伝統の中から特定の組織者・創唱者を中心とし,彼らの教説や宗教体験に従う信者からなる組織宗教であ
               る。その萌芽は古く山岳信仰の講集団などに求められるが,本年鑑に記載されている諸教団は,幕末以降に成立したものである。
                教派神道系の諸教団の成立の過程は一様ではないが,制度的な経緯から分類すれば,明治時代に公認宗教の神道教派とされた十三派(黒住教,
               神道修成派,出雲大社教,実行教,神道大成教,神習教,扶桑教,御嶽教,神理教,禊教,金光教,天理教,神道大教――現在の名称)及びその傘
               下に入っていて戦後分離・独立した教団並びにそれらの教団の系譜を引くもの(本年鑑では教派神道系に分類),とそれらの教団とは別に成立したも
               の(本年鑑では新教派系に分類)とに区分される。」(http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3507157_po_h20nenkan.pdf?contentNo=1&alternativeNo=
               からの引用)と。*

              「社殿 昭和30年〜35年まで長日子を費やして、名匠 伊藤平左衛門の苦心になる荘厳な白木造りである。また社務所は、これより先、25年〜28年
             に亘り造営した豪壮な白木造りである。祭主 森 淳一」以上でありました。

              町史下巻の「お千代保稲荷 所在地 須脇1980番鎮座」なる「須脇」とは、洲脇?の意味であり、古木曽川(天正の大洪水で、流路が大きく変わり、
             ずれた元の木曽川の流れ)の洲の脇の字名の名残りではなかろうか。現在の所在地は、海津市平田町三郷1980。

              江戸時代、定免制度下でも、洪水の為 租税は、常に検見願で行われる程の困窮ぎみであったようで、百姓間にも大きな差が生じていたようです。
              祭主の森家は、その当時どのようであったかは、森家の方にしか分からない事ゆえ町史以上の事は分からないとしか言えないでしょう。

              お千代保稲荷の初発は、家神?でしょうか。その後明治維新の廃仏毀釈以降、扶桑教稲荷教会に属し、戦後新教派系として独立したとも取れそうです。
              あの門前町は、戦前戦後発展していった可能性が高い。昭和30年代以降急速に発展したともとれそうでしょうか。それも公共交通機関(名鉄等)の運行
             に伴って。

               *  『名古屋鉄道百年史』によると大須駅での1992年度当時の1日平均乗降人員は946人であり、この値は岐阜市内線均一運賃区間内各駅(岐阜市内線
                ・田神線・美濃町線徹明町駅 - 琴塚駅間)を除く名鉄全駅(342駅)中228位、竹鼻線・羽島線(16駅)中8位であったとか。
                 ちなみに名古屋の大須観音は、元はこの岐阜県の大須に建立されていたのを江戸時代、徳川家康の指示で、名古屋に移築されたと聞く。

                 以前は、大須駅とお千代保稲荷、海津市歴史民俗資料館結ぶ岐阜バスお千代保稲荷線が存在した。2001年に竹鼻線江吉良駅 - 大須駅間の営業
                廃止後も存続し、羽島市代替バス(竹鼻線代替バス)と接続していたが、2002年9月30日に廃止されたとか。
                 ( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%A0%88%E9%A7%85 最終更新 2017年5月18日 (木) 00:37 より引用 )*