年越し蕎麦の起源考
1.はじめに
我が家でも、毎年大晦日に年越し蕎麦を食している。いったい、どのような起源をもっているのであろうか。土用の丑のうなぎ
と同様に、何やら営業的な匂いがしないでもないのですが・・・。
そんな思いで、蕎麦について調べてみました。既に先学の方がみえ、そうした論述に依拠しつつ、大よその事が分かってきま
したので、記述する事に致しました。
2.そばの由来
・ そばの原産地について
「日本のそばも、元をたどれば大陸伝来の食べ物となる。植物のソバの原産地は、DNA分析などから現在では中国雲南省か
らヒマラヤあたりにかけてという説が有力になっている。」(引用 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/29463 参照 )とい
う。
別の記述では、上記を更に詳しく述べてみえます。
「蕎麦の起源地はずっと東アジア北部だと信じられてきたが、近年多くの研究により、カシミール、ネパールを中心とするヒマ
ラヤ地方、中国南部の雲南地域からタイの産地にかけてではないかという説が浮上してきた。東西に細長く分布する野生のソ
バ群が見つかったのだ。これこそ蕎麦の起源を解明する大発見。
早速この野生種を調べた所、染色体の数の違いによる2倍種と4倍種のふたつの型が存在していることがわかった。
栽培ソバは例外なく2倍種であり、発見された野生2倍種分布が、雲南地域に限定されていることから、栽培ソバの起源は中
国雲南地域だということがほぼ確実視されるようになった。
中国雲南省で野生種から栽培種が成立したという。」事のようでしょう。 (詳しくは、下記 URLを参照されたい。
http://www.toshi-system.com/soba/soba_kigen.html )
・ 日本へのそばの伝来時期について
「縄文時代前期後半の遺物を出土したハマナス野遺跡、第27号竪穴住居を埋積した地層の中から,トロント大学の人類学部
で古民族学植物学を研究しているG·
クロフォード氏と地元の教育委員会の考古学研究者によって,たった1点ですが炭化した
ソパの種子が検出されています.これは明らかな栽培型のもので,出土状況も確実なものです。」
(詳しくは、北大 人文学部 教授 吉崎 昌一氏の論述 「古代北方農耕文化の源流」 下記のURLを参照されたい。
http://www.utm.utoronto.ca/~crawfor7/gcrawford_site/Japanese_Palaeoethnobotany_files/northern%20agriculture.pdf)
既に縄文時代頃には、日本各地で、そばの花粉や種子等は、発掘時散見されているようです。例えば、長野県ナウマン象の化
石が出ている野尻湖畔では、そばの花粉・高知県内で9000年以上前の遺跡からもソバの花粉・さいたま市岩槻区では、3000年
前の遺跡からソバの種子等々。北海道でも僅かそばの種子 一点のみですが、散見されています。
青森の三内丸山遺跡からも、「みぞそば」(タデ科)の花粉が見つかっているという。
各地で見つかった「そば」の花粉は、おおよそ泥炭層とか、川べり等から出土したように思われます。そばの種子もやはり同様
かと。
果たして散見されるそばは、現在のそばとDNAが同系統であるのだろうか。具体的なそばの名称で分かるのは、「みぞそば」と
いう物のようです。この「みぞそば」は、特性としては、田圃の畦などやや湿ったところに群生する
ようであります。縄文時代の遺
跡からのそばの花粉と現在食用にされているそばの花粉のDNA調査は、されているのであろうか。同系統の物であれば、そばは、
相当古い時代から栽培されていたのでしょう。、日本への伝来は、縄文人と共に伝来したのかも知れませんが・・・。
縄文時代の頃の蕎麦花粉と現在の栽培そばの花粉とのDNA照合がされたという文献に私は、一度もお目にかかっておりません
が、されているのであればご教示頂きたいのですが・・。
3.そばの栽培
そばについての文献は、『続日本紀』 元正天皇(680〜748)条の詔「今年の夏は雨がなく、田からとれるものがみのらず、よろ
しく天下の国司をして、百姓(おおみたから)を勧課し、晩禾(ばんか)、蕎麦及び小麦を植えしめ、たくわえおき、もって救荒に備
えしむべし」であろうか。奈良時代前期頃の事ではありましょう。
そばは、日照りや冷涼な気候にも強く、また栽培する土地もさほど選ばないため、凶作の時も収穫が見込める救荒作物として
の位置付けでありましょうか。古来より、そばは、食糧難を救う頼もしい救済食物であったのでしょう。そうした名残りが、現在でも
山間部でいき続けているのであろうか。とすれば、縄文時代のそばの花粉は、長い年月をかけて、特性を変え、水辺でなくても育
つように改良されてきたのでありましょうか。
4.そばの食し方
本来、そばは、粉にしてそばかき・すいとんというようにして食されていた可能性が高い。時代時代で、粉にする方法は、変化し
ていったのでありましょうが、そばを麺のようにする事は、いったいいつ頃からであろうか。
手延べ蕎麦に関する現在最古の文献は、{天正2年(1574)2月10日に木曽の常勝寺(長野県木曽郡大桑村須原)の仏殿等の
修理に関するその「番匠作事日記」中の「同(作事之)振舞同音信衆」に、「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」および「振舞ソハ
キリ 金永」という記述}であるようです。(詳しくは、長野郷土史研究会の機関誌、「長野」第167号(1993年1月)の「特集
信濃そ
ば」の誌上に郷土史家・関保男氏の「信州そば史雑考」平成5年刊 参照 )
しかしであります。この{「振舞ソハキリ」は、柳田国男的には、日常食ではないハレの食事であり、そば切り誕生の場所や年代は
わかっていないが、常勝寺での出来事は、すでに誕生から相応の期間を経ていたと考えるのが自然ではなかろうか。}と結ばれて
おり、この頃より朝夕二食制が、朝昼夜の三食制に切り替わっていく頃の出来事ではなかろうかとも記載されていた。
とすれば、室町期のどこかから手延べ蕎麦の源流が、行われた可能性を推測いたしますが、どうであろうか。その発祥は、信州
であったかも知れません。例証として、「そば切は信濃本山宿発祥で全国に広がった」(雲鈴/蕎麦切ノ頌 宝永3(1707)年 本
朝文選 参照)という記述もあるようですから。(ウイキペデイア 蕎麦 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6
最終更新 2014年12月28日(日) 21:55 抜粋 )
4.年越し蕎麦の由来
年越しそばの由来については諸説ある。
・ 蕎麦は細く長いことから延命・長寿を願ったものであるとする説
・
そばが細く長いことに由来する年越しそばの長寿延命の意味は、引越し蕎麦の「末永く宜しく」と意味を通じる
・ 金銀細工師が金箔を延ばす為にそば粉を用いたとする説
・ 金銀細工師が金粉銀粉を集める為にそば粉の団子を使用したことから金を集める縁起物であるとする
・ 鎌倉時代の謝国明による承天寺の「世直しそば」に由来するという説
・ ソバは風雨に叩かれてもその後の晴天で日光を浴びると元気になる事から健康の縁起を担ぐ説
・ 蕎麦が五臓の毒を取ると信じられていたことに由来するとの説
・ 蕎麦が切れやすいことから、一年間の苦労や借金を切り捨て翌年に持ち越さないよう願ったという説
・ 家族の縁が長く続くようにとの意味であるとの説
以上の説は、ウイキペデイア 年越し蕎麦 最終更新
2014年2月2日 (日) 12:16
より引用。『蕎麦事典』(新島繁著)が原典
でありましょう。
しかし、上記の説は、いずれも後の付会であるような気がしてならない。ハレの食事が、ルーツの基本であったのはなかろうか。
現在の年越し蕎麦の定着は、日常食への転化が起こった以降の定着ではなかろうかと推測するのですが・・・。
<参考までに、ハレの食事(非日常食)に関わるそば食は、既に江戸期に於いて広範に認められる。
大阪や江戸の商家の晦日そば。
武士層にも{江戸時代の後期、桑名藩下級武士の父と、越後柏崎飛び地領に赴任中の(養)子が交わした生活の交信日記があっ
て、桑名では年越しそばをそば屋に食べに行く毎年の様子を書き、一方、年越しそばの風習の無かった柏崎からは、天保10年(18
39)「大晦日にそば切りを買いに遣わしたが、そば切りなど一切無之よし」「これまで御陣屋内にて大晦日にそば切りなど食べ候者は
無之ことのよし・・」とあって、三重・桑名の年越しそば風景と、新潟・柏崎には年越しそばの風習が無かった。}(「桑名日記」と「柏崎
日記」のなかの記録)ことを書いている。
庶民の間でも{「泉光院 江戸旅日記(山伏が見た江戸期庶民のくらし 石川英輔著)」は、日向国・佐土原(宮崎県宮崎郡佐土原
町)の山伏寺住職・泉光院が文化九年から十五年(1812〜18)にかけて諸国を旅した修行日記で、その中で甲斐国下積翠寺村で正
月を迎えている。
「元日の朝七ツ(四時頃)、そばを儀式に食し、すぐに鎮守へ行った後で雑煮を祝う習慣」「親類や近所の人が年礼に来たときも、最
初はそばを出して、後で雑煮を出す習慣」とある。ここでは、大晦日の最後の食事として年越しそばを食べるのと、新年の最初の食
事にそばを食べるのとはもともと一続きの風習だったらしい。}と記されてる。
多治見市旧脇之島(現平和町)の我が家では、私が幼少の頃は、年越しそばを、食した記憶がない。かわって、大晦日には、昆布
の細切りと大根・にんじん・レンコン・ちくわ等を入れたごっちゃ煮が定番であった。また、幼少期には、そばを栽培する農家は、皆無
であった筈。
やはり、年越しそばの歴史的な背景をみた場合、近世から明治・大正を通じて、日常生活のなかで多くの人は「米の飯」を食べるこ
とはできなかった。農村や山間地帯は言うに及ばず庶民にとっては麦類や雑穀類が主食であり、芋や野菜類が食生活の中心であっ
た。
そして、「米の飯」を筆頭に「餅・粟餅」「蕎麦・蕎麦切り」などは、元旦や節分、盆、大晦日、そして氏神様の祭りなど、重要な年中行
事やハレの祝い事の特別な「ご馳走」としての食べ物であったのでしょう。> この捉え方は、私も同感であります。
以上の記述は、http://www.eonet.ne.jp/~sobakiri/5.html からの抜粋であります。
拙稿 所得倍増計画を推し進めた 時の自民党 池田勇人首相の「貧乏人は、麦を食え。」発言の真意とその時代背景についての
覚書 にも愛知県内の明治期以降についての「米の飯」についてを論述しております。
現在の年越し蕎麦の定着は、やはり庶民文化への広範な広がりがある中での事ではなかろうか。手延べ蕎麦の指南書が出された
以降ではないかと。同様な事柄は、雲鈴/蕎麦切ノ頌 宝永3(1707)年 本朝文選にも記述があるようです。そばきりは、室町期以
降 全国へ伝播した可能性は、高い。
手延べ蕎麦の指南書としては、{寛永20年(1643年)に書かれた料理書「料理物語」には、饂飩、切麦などと並んで蕎麦切りの製
法が載っている。17世紀中期以降に、蕎麦は江戸を中心に急速に普及し、日常的な食物として定着していった。}(詳しくは、上記
ウイキペデイア 蕎麦 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6 最終更新
2014年12月28日 (日) 21:55 参照)と。
とすれば、年越し蕎麦のルーツは、太陰暦での諸世相のハレの食事の語源が、太陽暦に明治期に改暦されて、大晦日の蕎麦へ
と転化したという説明が、一番辻褄が合うような印象を受けます。長い引用ではありますが、ご了承下さい。
{年越しそばに似た言葉に、「晦日(みそか)そば」というのがあります。今は、みそかといえば、12月31日大晦日(おおみそか)のこ
とですが、江戸時代には、毎月の最後の日を晦日(みそか)といいました。
実は、江戸時代には、毎月の晦日にそばを食べる習慣があったのです。もともとは、商家で、月末は集金や棚卸しでいそがしかっ
たので、出前をとって使用人の労をねぎらったということだったらしいのです。
なぜそばだったのかというと、出前をたのめるということもあったでしょうが、やっぱり同じ出前を頼むとしても、寿司や鰻に比べれ
ば安いということだったのではないでしょうか。
明治になって、毎月の末日を晦日という言い方が廃れ、年末の大晦日だけになってしまいました。それにともなって、そばを食べる
晦日(みそか)も、年末の大晦日だけになってしまいました。} ( http://www.h5.dion.ne.jp/~kisin-an/tisin/tosikosi.html より
引用)と説明される方もあるようです。どのような出展で記述されたかは、記載がありませんので分かりかねますが・・・。
商家という庶民的なルーツ。太陰暦での月末の商家の忙しさ。蕎麦屋の出前で、安価。庶民にとって、安価で、簡便な食事は、あ
のいなり寿司のルーツと同様な点は、納得できるのではないかと。
そして、太陰暦から明治6年だったでしょうか。太陽暦への急激な改暦。明治新政府にとって、役人に支払う月給は、毎月。太陰暦
では、閏月があり、13ヶ月の時もあり、太陽暦にすれば、12ヶ月となり、1ヶ月分の支払いが、無くなるというメリットでの改暦であった
という。
こうした世相の諸事情にお構いなく強引な改暦と相まって、ハレの日のそばのルーツは、太陽暦の年末 大晦日に引き継がれたと
しても何ら不思議でもないのでは。忙しさについては、師走と言うくらい忙しい。商家だけではない一般庶民をも巻き込んだ「大晦日
そば」として定着していった可能性は高い。地域地域では、その名称はまちまちであったでありましょうが、蕎麦屋さんからの発案で
はないと推測致します。
名称もいつしか、「年越しそば」となっていったのではないか。とすれば、その初発は、古いものではありましょうが、現在定着して
いる年越し蕎麦は、さほど古い事ではなさそうです。推測以外の何ものでもないことをお断りしておきます。
付則 お雑煮の事
我が家では、お雑煮は、しょうゆベースで、丸餅ではなく、角餅を用い、餅以外には正月菜(別名 餅菜)のみ入れます。私が、幼少
時よりのお雑煮ではあります。私の生まれは、多治見市旧 脇之島(現 平和町)であり、江戸期には、天領でありました。
ウイキペデイア 雑煮の項に、「江戸時代、尾張藩を中心とした東海地方の諸藩では、武家の雑煮には餅菜(正月菜)と呼ばれる小
松菜に近い在来の菜類(あいちの伝統野菜)のみを具とした。餅と菜を一緒に取り上げて食べるのが習わしで、「名(=菜)を持ち(=
餅)上げる」という縁起担ぎだったという。
なお、上記の習わしが武家社会一般の作法だったという説は、誤伝による俗説である。(この影響もあり、現在でも名古屋市周辺で
は餅と餅菜のみの雑煮が見られる)」とある。
土岐川の南側の多治見市旧 脇之島(現 平和町)は、江戸時代 尾張藩領ではありませんが、土岐川の北側は、尾張藩領であり、
文化的な交流も対立もあり、それで、お雑煮の作り方が似ているのでありましょうか。早々 不備。