幼川(五条川中、上流域の名称)・青木川に挟まれた地域の弥生集落についての覚書
1五条川・青木川に挟まれた地域の弥生集落遺跡について
主な集落は、御 山寺遺跡(ゴサンジイセキ、岩倉市中野町から鈴井町にかけての範囲)、大地遺跡(岩倉市大
地町野合地内)、権現山遺跡(岩倉市北島町・野寄町地内)、町屋遺跡(一宮市千秋町町屋)、猫島遺跡(一宮
市千秋町塩尻)、三井遺跡、元屋敷遺跡(一宮市丹陽町伝法寺)、野田遺跡(一宮市丹陽町伝法寺)等々であ
りましょうか。
これらの遺跡は、道路拡張、家屋建築、高速道一宮パーキングエリア設置、浄化センター設置、土地区画整
理事業等々 工事の為に地中に埋まっていた所を発見され、緊急に発掘調査された遺跡等であります。殆どは、
洪水で埋まったものなのでしょうか。
その当時の川筋をみれば、網の目の様になっており、そうした微高地上の大地で営まれていた弥生集落の跡
が、平成の御世に現れてきたという事であります。
これらの遺跡は、五条川・青木川による微高地形成に伴って、こうした微高地上に出来た縄文末〜弥生期にか
けての弥生集落群であるようです。
( こうした遺跡は、愛知県埋蔵文化センターが中心になって発掘調査され、HP上に発表されています。)
一宮市史では、こうした木曽川派流は、古墳時代までは、流れも一定であり、洪水の危険が無かったのではないか
と述べられていましたが、この遺跡群を見る限り、やはり洪水は、時として起こったのかも知れません。
2.岩倉市一帯の弥生集落遺跡群
・ 御山寺遺跡(ごさんじ いせき)
岩倉市中野町から鈴井町にかけての範囲であり、現 五条川右岸側に位置し、犬山扇状地の扇端から沖積平
野に移行する地点であるようです。海抜は、約11m。この遺跡近辺には、ノンベ遺跡、西北出遺跡、大地遺跡、
野田遺跡等が存在する。
この遺跡を総括すると
@ 縄文晩期の土器片を出土している。
A 古墳時代前期の集落跡がみつかった。
B 古代末〜中世前半の灰釉陶器・山茶碗が出土。馬?の歯、モモの種子が多量にみつかり、非仏教系の祭祀
が行われていた事等勘案してよいのでは・・・。とまとめられておりました。
( 詳しくは http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/nenpo19/1901gosa.pdf を参照されたい。)
・ 大地遺跡
岩倉市大地町野合地内にあった遺跡であり、竪穴式住居跡、縄文時代後期から弥生時代後期にかけての各種
土器が出土。 1947年(昭和22年)に畑から出土した「弥生式壺形土器」は、名古屋市博物館で展示。一部の出土
物は、岩倉市図書館内郷土資料室で展示されているようです。
その竪穴式住居は、岩倉市史跡公園に再建されているという。
・ 権現山遺跡
岩倉市北島町・野寄町地内にあり、五条川右岸 自然堤防上に立地していた遺跡であります。
これまでの遺跡発掘により、
@ 縄文時代後期の遺跡・遺物の出土
A 弥生時代後期〜古墳時代初期の遺跡・遺物の出土
B 古墳時代後期の遺跡・遺物の出土
C 奈良時代後期の遺跡・遺物の出土
D 江戸時代後期以降の遺跡・遺物の出土
と幅広い利用のされ方をしていると言えましょう。現在は、海抜6m程度の平坦な地形になっておりますが、かって
は、起伏があり、遺跡等は、自然堤防上に立地していたと思われます。また、遺跡も、連続して、継続して存在して
いたとは思えません。時代時代に空白の期間があったのでは・・・。洪水等で埋まり、再度できた自然堤防上に、再
構築したのではと。
それを裏付けるかのような各種の調査結果がでているようであり、以下そうした調査から得られた結論のみ記載
いたします。詳しくは、権現山遺跡発掘調査報告書を参照下さい。そのURLを記載しておきます。
( http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/1100.pdf )
まずは、堆積物炭化物の年代測定により 約4500年前から1820年前までの年代測定値が得られたという。
紀元前2500年前頃から紀元200年頃と推定でき、縄文時代末から弥生時代末・古墳時代初期頃かと推測いたし
ますが、どうでしょうか。
花粉化石では、イネ科、アカザ科、アブナラ科の出現率が高いという。
珪酸体(プラントオパール分析法)の分析では、イネ科の検出は、500〜2200個/gと低値であったという。また、キ
ビ族型、葦族型も検出したという。
堆積物の様子から、約4500年前以降の変化について、この遺跡近くには、木曽川に匹敵する流路があり、通常時
は、網状河川でありますが、突然の河川の流路変更(洪水カ)があり、網状河川が移動し、後背湿地化したり、自然堤
防へと変化したと思われる変化が、推測出来るという。
*
やはり、五条川上流域でも大きな洪水が起こったようで、長い年月の間には、河川の流路変更が起こり、土地の
状況が変化したようです。その為、同一場所の継続した発展は、望むべくもなかったと言えましょうか。また、現在
の五条川は、水量も僅かであり、まるで小川状態ですが、縄文・弥生期いや近世初頭までは、木曽川の派流でも
あったのでしょうか。相当量の水量を流す堂々とした河川であったと推察いたします。
自然堤防化した時、その微高地に村落ができ、しばらくは、生活できえますが、河川の流路変更により、自然堤
防は、あっという間に後背湿地化の危険も併せ持つという危うい状況下での集落構造であったようです。100年単
位程度で一度という確率で起こったことでありましょうか。
また、この権現山遺跡での水田は、稲作が行われていたようですが、稲作が、全てでは無かったかと。キビ、ア
ブラナ等の畑作も合わせて行っていたと思われます。権現山に住んでいた後期弥生人は、いったいどのような物
を食べ、生活を維持させていたのであろうか。縄文人とは、弱冠違った生活サイクルであったであろうが、稲作に
どの程度比重を置いていたのでしょうか。木の実等も収穫していたのではないかと・・・想像いたしますが・・・。*
3.一宮市一帯の弥生集落遺跡群
・ 町屋遺跡
一宮市千秋町町屋にあり、青木川左岸の自然堤防上に立地する遺跡であるという。かって、この辺りの遺跡は、「
花ノ木遺跡」として発表されていたようですが、今回の調査で、弥生中期前葉の集落跡と弥生中期後葉の墓域であっ
た事が確定されたようです。この地域は、犬山扇状地の末端であり、海抜 約11mのところであります。
・ 猫島遺跡
一宮市千秋町塩尻にあり、五条川・青木川によって形成された微高地上(海抜7.5m)に立地する遺跡であります。
この遺跡の西側には、弥生時代前期の集落がみつかった元屋敷遺跡があり、南には、弥生時代中期の水田跡等
がみつかった伝法寺野田遺跡、東には、縄文時代後晩期〜弥生時代にかけての拠点的な集落が存在する大地遺跡
弥生時代後期の墓域と考えられる蕪池遺跡が分布しているようです。
この猫島遺跡の発掘をまとめると
@ 調査区の全域で、縄文晩期〜弥生時代前期の遺物が散見できる。( この遺跡の初発時期でありましょう。)
A 弥生時代中期初頭から中葉に属する環濠・掘っ立て柱建物・竪穴式住居・
土壙墓・方形周溝墓・水田という集
落を形づくる遺構が残っていた。
B 集落の西側に造営された墓域は、当時の精神生活の一端を窺い知る事ができる物ではないか。
C 古墳時代から中世にかけての遺跡・遺物は希薄であった。
猫島遺跡は、弥生時代前期末〜中期前葉頃に、大規模な洪水に見舞われている。そして、弥生時代中期中葉後半
〜弥生時代中期後葉頃 再度大規模な洪水に見舞われ、そして、この猫島遺跡の集落は、終焉したと思われるようで
あります。 ( 詳しくは、http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/nenpo11/01neko.pdf を参照されたい。)
・ 元屋敷遺跡
一宮市丹陽町伝法寺にあり、弥生時代前期の環濠集落跡と思われる。東西約130m、南北150mの円形集落で
あろうと推察されております。また、環濠が埋まらない間に、土師器が堆積していたという。更に古墳時代の土坑も存
在していたという。
・ 野田遺跡
一宮市丹陽町伝法寺にあり、五条川によって形成された後背湿地上に位置する遺跡であるようです。この遺跡の
近くには、元屋敷遺跡、岩倉市権現山遺跡があるという。
この遺跡は、弥生時代中期の水田跡を良好な状態で残しており、水田は、微高地の縁周辺の緩傾斜地にあり、小
河川の水を、利用し、水田は、畔により区画され、一辺が2〜5mの小区画田であり、田越しにより水を補給していた
と推察されています。水田面には、稲株跡、農耕具跡も残っているという。
4.まとめ
伊勢湾からかなり離れた、河川上流域の地域であり、こうした地域にも弥生前期、既に集落を形成しえていた事は、
必ずしも、下流域から弥生集落を形成していたのではない証明となりましょう。
以上の遺跡を概観して言える事は、弥生期の初期・中期は、環濠集落を形成して居る集落が存在している事。水
田は、小規模、小区画であり、住居は、自然堤防上に全面的に存在するのではなく、散発的に小規模集落で存在し、
水田耕作に従事しているようであった事。そして、洪水の恐怖は、常にあったのではなく、大規模な洪水時が集落の
終焉であったのでありましょう。弥生期の墓制は、土壙墓・方形周溝墓の形をとっているようであります。
縄文・弥生期の青木川・五条川(青木川が合流する所より上流域は、幼川と呼ばれていたのでしょう。)は、現在の
ような水量が、少ない河川ではなく、木曽川の派流であり、相当な水量を持って流下していた河川であり、網の目状
になって流れていたやに推察いたします。現在のような、常時、一本の流れであったとは思えない様相を呈していた
のでは・・。こうした網目状の流路が、突如流路変更をし、集落構成員が、全滅しない限り、移動をして、再度復活し
ていたのでは・・。
そう考えれば、大胆な推測ではありますが、大地遺跡(縄文後期〜弥生後期)=>御山寺遺跡(古墳前期集落)と
か。元屋敷遺跡(弥生前期の環濠集落)=>猫島遺跡(弥生前期、主は、弥生中期の環濠集落 洪水にて終焉)、
或いは、ノンベ遺跡・野田遺跡(弥生中期の小水田小集落)=> 権現山遺跡(弥生後期〜古墳前期の集落)という
流れが、あったのでは?確証はありません、近い地域で在る故に、移動し易かったのでは・・。
参考までに、地籍図から探る古墳(尾張編) 伊藤秋男著 P33 青木川・五条川中流域の古墳分布図を眺めると、
青木川流域の古墳の数は、極めて少なく(円長寺古墳のみ)、それに対して五条川流域は、枚挙の暇が無いほどの
沢山の古墳の数を数える。「五条川はこの辺りでは、幼(おさな)川という河川名であり、その所以でしょうか。この河川
名は、長(おさと読み、丹羽郡を支配した丹羽縣主となった豪族)の支配する川、長(おさ)の川が転化した名称ではな
いかと言われる。」( 「古代の川と地名を探る 濃尾平野の歴史 二」 小池 昭著 参照 )方もあるようですから。
平成25(2013)年3月3日 最終脱稿