建武の新政時 野口・石丸保の国衙領主 柳原資明の系譜

        1.藤原北家の系譜
           中途略 藤原有国ー7男 資業ーーーーーーー次男 実綱ーーーー三男 有信ーーーーーーー長男 実光ーーーーー
                        道長が三条院 院司の頃    後白河上皇     長暦3(1039)年      1202〜
                        三条院 判官代          の近臣        〜康和元年の人       1247年の公卿

            −−資長ーーー資実(スケザネ)ーーー家光ーーーー次男 資宣(スケノブ)ーーーー俊光ーー4男 資明
                      平安末〜鎌倉    鎌倉初期の     元和元(1209)年            柳原を称する
                      初期の公卿      公卿         〜正応5年の公卿
                      日野を称する。

        2.11〜12世紀の私領・公領の成立
           私領である荘園制(摂関政治〜院政期)は、下司ー領家ー本家という重層的な「職」の体系を成立させ、公領である国衙(院政
          期後の天皇側の政策)は、新しい郡・郷の別名として荘園化に歯止めをかけるべく組織化し、新しい徴税単位とした。その階層は、
          私領主ー国衙ー知行主として成立。

           こうした私領・公領の面積比は、ほぼ半々に成立したと記述されたのは、日本の社会史 第4巻 1986年 岩波書店 負担と
          贈与にかかわる ”年貢・公事・有徳銭” の論者 峰岸純夫氏 P.64〜66であります。

           こうした体制が成立したのは、平安末期に近い頃であり、やがて、鎌倉幕府の成立へと繋がっていく頃かと。

           平治の乱(1160年)後 後白河上皇に変わり平清盛は、諸国の国司任命権を握り、一族郎党をそうした諸国の国守として派遣、
          皇室・寺院・権門勢家等も、在地荘園の体制を固めていったようであります。

           そうした例として、尾張国・若狭国には、平氏滅亡まで国守は、代々平氏一門が就任し、鳥羽上皇のお気に入り美福門院領として、
          尾張国では、篠木荘を尾張国守 平忠盛・郡司・郷司等が共謀して、立件し、院に取り入っていたという。尾張国々主 平氏一門は、
          院への寄進の仲介業務を推進した事により、また、尾張国の平氏は、伊勢湾岸より定着し、寄進荘園の仲介者となり、尾張国内に開
          発領主ではないにもかかわらず領家職をも手に入れて、基盤固めをしていたようであります。

           在地の郡司以下在庁者は、そうした地位を利用して各所に散在的に在庁名の名田として私領化していたようであり、そうした権益を
          寄進、或いは、新しく出来た郷・保として国司(受領・国守)に認定して貰う方向で、共謀していたのでは・・・。