式内社 犬山市前原の虫鹿神社を尋ねて
1.はじめに
私の家から車を走らせれば、僅か15分程度で着いてしまうところにあるようです。
この神社は、そもそもは、現 入鹿池の底になってしまった神社であり、江戸時代の灌漑池築
堤の為に、已む無く移住した神社であります。
ここに住んでいた住民共々、前原新田(所謂 入鹿出新田であります。)に引っ越す事になった
ようであります。
現在の場所は、入鹿池の北西方向に当たる地域であり、住居は、やや高台であり、前原地域の
南西方向には、低地が広がり、水田に適した地域ではありましょうか。
この入鹿村(入鹿池に沈んだ村)は、古代6世紀前半頃には、大和王権の屯倉となっていたよ
うであり、尾張氏が、管理した土地であったのでしょうか。
2.虫鹿神社を尋ねて
平成25(2013)年1月12日(土)の午後、少し暖かい日でありましたので、老人保養センター
で、無料のお風呂を頂き、その足で虫鹿神社まで車を走らせました。
保養センターからは、野口を経由して入鹿池に向かって走る直通の道路があり、入鹿池前で、左
折し、長者町住宅の中を通り、前原東交差点までは、車の交通量は少なく、快適に我が愛車の軽で
行けました。その交差点を直進すると、その道路は、整備中であり行き止まりになっていた。その手
前を右折して細い道を進んでいくと、100m先に石の鳥居が見えていた。
右手には、式内 虫鹿神社と彫られている大きな石柱が立っているのが目に入ってきました。
先回尋ねた”天道宮神明社”よりこじんまりとした神社であった。全てが、昭和か平成になって、
再建された石灯籠とか、石の鳥居等々ばかり。古の虫鹿神社の名残りは、どこかにないかと一生
懸命に探しましたが、唯一古いと感じたのは、寛政9年創建の常夜灯一基のみ。
百度石もあったようですが、還暦祝いに最近建てられた物であり、見かけは立派になっております
が、由緒ある神社という風情は感じられませんでした。
只、本殿前には、神楽殿らしき拝殿があり、これが、一般的な神社形式なのでしょうか。
そして、本殿に向かって左手側に、二基の石が鎮座しており一つには、「山神」もう一つには、「宇
治土公」(ウジノツチギミと読む。 猿田彦と秦氏の謎 清川理一郎著 P.106〜109 参照 )と彫られてい
た。しいて古いと言えば、これ等の石でしょうか。「磐座
(いわくら)」のような物かと推察しました。
参考までに、{宇治土公氏について概説をすれば、伊勢神宮の神官であり、代々、内宮の「玉串大内
人職」( タマグシオオウチンドシキ )として仕えた。この職は、内宮の祭祀の時、斉王・勅使・大宮に大玉串
を進めたり、20年式年遷宮には、心の御柱を造立する等、神職としては、極めて重要な役割を担って
いたようであります。渡会氏と宇治土公氏は、共に磯部氏と呼ばれており、氏は、古代、伊勢地方の海
の漁撈民を統括する豪族であったという。そして、「秀真伝」では、伊勢神宮の元宮である伊雑宮があっ
た地域を統括していたという。
宇治土公氏は、二見ヶ浦地域をも支配し、二見氏とも呼称していたという。猿田彦の神裔であるという。
また、内宮・外宮のある辺りは、古来 猿田彦の神域であり、内宮・外宮の中間地には、猿田彦神社が
鎮座しており、天照大神が、その地に侵入してきたという。倭姫が、直ぐには、五十鈴川上流域に来れず、
尾張地域を巡行していたのは、猿田彦大神の反対が、強かった為でもありましょうか。
確かに、伊勢神宮は、その後現在の地に鎮座しますが、天皇が、伊勢神宮に御幸されたのは、持統天
皇の御代になってからであり、それ以前は、畿内の大神神社等のスサノウ系の祭神神社への御幸であっ
たようです。事実、伊勢神宮御幸の詔に、当時、大神神社系の神官等は、職をかけて反対したという経緯
もあったようです。藤原不比等による「中臣神道」の完遂が、ここに実現し、以後伊勢神宮が、天皇家の皇
祖神へと切り替わっていったという。}( この辺りの事は、先代旧事本紀、猿田彦と秦氏の謎 清川理一郎
著からの抜粋であります。 )
とすれば、虫鹿神社は、猿田彦系の祭神であったのでしょうか。それとも、伊勢神宮領の名残りなのでし
ょうか。確か、室町期には、一丘陵離れた現 小牧市(旧 林・阿賀良村)一帯に、伊勢神宮の大使が入り、
もともと伊勢神宮領ではないところにも、開発主が同じという理由で、押領された事があった筈。その流れで、
この辺りまで押領したのであろうか。
入鹿村の神様は、もともとは、”山の神”であったのでしょうか。古くは、今のような神社形式ではなく、
神聖な地区に木を建てたり、石を祭り、山に住む神を向かえ、用事が済めば、また山に戻っていただく
犯すべからざる土地であったのではなかろうかと・・・。強いて言えば、神社の境内にある禁足地のような
ものであったのではないかと。それこそ、古くからの猿田彦大神の神域と同様の考え方でなかろうかと。
また、この旧 入鹿村には、縄文時代の遺跡もあったようで、奥入鹿には、十三塚古墳とか、多数の後
期古墳があったやにも聞く。現 明治村の中にも、古墳が存在する。入鹿池築堤の際に、こうした古墳は
壊され、多くの石が取り出され、築堤に使われたという。そして、古墳からは、刀も100余振りも出土し、こ
うした刀は、築堤の守り神として、再度まとめて新堤に埋められたという。
「古代では、山々からの少量の流れの河川であれば、弥生人でもコントロールでき得る流れであり、容
易に水田に水を引き込む事もできたのでしょう。この地の古墳は、6〜7世紀にかけての古墳であり、生
産力は、あまり高くはなかったと推察いたしますが、安定した生活が出来えたのでありましょう。」( 古代
の川と地名を探る 濃尾平野の歴史 二 小池 昭著 参照 )
また、この入鹿村は、犬山(鵜沼の渡し)から可児駅へ向かう古東山道の行程にあったと考えられ、信
州方面への大和王権の前線基地と考えれば、回りを山々に囲まれ、入り口出口は1ヶ所のみ。天然の要
塞とも言える位置でもありましたでしょう。古墳の数に比べ、出土した刀類の多さも尋常ではないと推察い
たします。
また、犬山には、木曽川沿いに桃太郎神社も存在し、何やら吉備地域の桃太郎伝説とも似通っており、
余り遠くない所に、進出する者に反対する勢力が、あったのでしょうか。とすれば、可児川沿いで勢力を持
ちえた豪族が、鬼ヶ城と呼ぶべき地域であったのでしょうか。想像逞しく推察いたしました。
3.まとめ
期待した割には、新しき神社であり、残念でありました。
この神社は、村の郷社的な謂れの神社であったのでしょうか。延喜式には、記述されなかった天道宮神明
社の方が、格調が高い、大和王権と密接不可分な神社であったからでしょうか。
氏子の皆さんは、二つの神社のどちらにより肩入れしてみえるのでしょうか。