律令制前の行政区分についての覚書
1.はじめに
大宝律令(701年)以前の行政区分をさだめたのは、飛鳥浄御原令(689年)が最初であろうか。その前に
近江令(668年)という事も聞きますが、非存在説もあり、確かな事では、ないかも知れません。
では、律令以前では、行政区分は、どのようになっていたのであろうか。
国造制において、国造が支配しえた地域が、国という領域であったかと。その後、律令が出来、国ー評ー里
という制度(飛鳥浄御原令)がしかれ、大宝元(701)年に国ー郡ー里制となり、霊亀元(715)年に里を郷とし、
郷の下に里を置く、郷ー里制となり、天平12(740)年には、国ー郡ー郷ー里制として定着したかと。
郡衙の確立期は、7世紀中頃であろうか。在地の有力首長層を郡司として任用していったようであります。
こうした流れで、行政区分がはっきりしていくようです。しかし、国造制が出てくる頃の領域は、どのようであ
っただろうか。
日本書紀には、景行天皇の子 ヤマトタケル命の東国への東征説話やら雄略天皇の栄への上表文でも、祖
先が、征服していった事柄を述べている。この頃東北を除く西国・畿内・東国・北陸等を傘下に治めたといえま
しょうか。
壬申の乱(672年)後の天武天皇治下になって、人民を直接統治するようになったようですが、それ以前では
各地の国造を通して人民を間接的に統治するという二重構造であったかと。
国造制は、尾張では、オトヨが最初と国造本紀では記述されている。在地の人物かは不明ですが、在地の眞
敷刀婢命{マシキトベ、尾張大印岐女子(おわりおおいなぎのむすめ)}を娶っている。系図から読み取れる事柄
ではありましょうが・・。しかし、大印岐(オオイナギ)という点、在地の有力な首長の娘であったでありましょうか。
縣主・稲置等は、国造より早く設定されたのだろうか。
確かに、4世紀代には、愛知県内尾張地区には、犬山市の木曽川左岸に東之宮古墳(4世紀初頭)・小牧市小
木の五条川支流域の宇都宮古墳(3世紀末〜4世紀)・名古屋市北区志段味地区の庄内川左岸の尾張戸神社古
墳・白鳥古墳(4世紀前半)を挙げる事ができましょう。犬山の古墳は、縣主 大荒田命の系譜でありましょう。
愛知県内尾張地区の早い時期の古墳造営主等の末裔は、その後古墳を造営しなくなり、代わって庄内川 勝川
地区の二子山古墳を含む味美古墳群・名古屋市熱田地区の断夫山古墳へと収斂していくようです。(6世紀前半)
そして、尾張地区では、尾張氏(オトヨが祖カ)が、国造として君臨していた。
天武朝の各地の行政区画は、一朝一夕には、確立したとは、考えられませんからかなり前から順次着手されて
いったのでしょう。そうした事柄への解明は、歴史学では、既に着手されているようで、私は、吉川弘文館刊の「
日本の古代の道とちまた」前川晴人著の第4章 「四方国=四道」制の構造 P。118〜150が参考になろうかと
思い、筆を取りました。
2.「四方国=四道」制の構造の要旨
総領制であろうか。律令前の地方官でありましょう。「総領を文献的に確認し得るのは、筑紫・周防・吉備・伊予・
東国(坂東)であるという。」(上記著書 P。155 参照)主に、西国ばかり。早川庄八氏は、「大化の東国国司と
常陸国風土記の総領が、評司詮擬の点で共通性を有する。」(早川庄八「律令制の形成」岩波講座 日本歴史2
参照)と示唆されている。
この点から、前川氏は、改新前代の国司制は、実は総領制と想定できると考えられたようです。
総領制は、大化元(645)年中には、実施されたのでは。孝徳記大化2年8月14日詔の文末の一部から読み取
れるとかで、大化2年には、全国に向けて発遣されようとしていた「国司並びにかの国造」に指示された任務「よろ
しく国々の境を観、或いは書、或いは図を持ち来たり示し奉るべし。国・県の名来たりし時、将に定める。」という文
言に着目され、既に、大化2年には、先行して何らかの地域区分がされたかのように把握されていた。
こうして孝徳朝後半期には、現実化する「天下立評」に関わる最初の基礎的調査があったと考えられると。
しかし、王権は、こうした調査後でも、旧来の既存の領域編成をそのまま踏襲しているに過ぎないと。氏は、日本
書紀の記述から、東国国司の任務は、具体的には、「東方八道」であり、「国」概念ではなく、「道」概念であろうとさ
れるようです。
文献的には、大化2年8月派遣の「国司」の数年後に常陸国風土記の文中に「総領」という言葉が現れている事。
東国国司と総領とは、共通項があるという事になりましょうか。いわゆる律令以前の地方官であったのでしょう。
こうした要旨からは、大化の改新以降 既に大和王権は、中央集権化構想を持ち、在地の国造制を基礎とし、そ
れを前提にして中央権力の側でこれを政治的単位として策定しようとしていた可能性を推測する。
その例証として先代旧事本紀 第十巻 国造本紀に現れる某道某国造という名称をあげてみえる。
例えば、美濃の場合
3つの国造名が記載されている。美濃前国造・美濃後国造・斐陀(ヒダ)国造。
古訓読みで、美濃前(ミノミチノクチ)国造とか、美濃後(ミノミチノシリ)国造と。正確には、美濃道前であるのか、美濃
道後という記述が正しいのかも知れない。国造本紀が記述された頃は、「道」という政治的領域概念が薄れてきて
いたのかも知れない。遺制として古訓読みに残存する程度に・・。
先ほどの東国国司(実は、総領)は、「東方八道」に関与し、東国=12道から8道を引いた残り4道の一つが美濃
道であった可能性が高い。尾張氏の国造は、1道1国造制でありましょうが、美濃道は、3分割された1道3国造制
へと展開した可能性を推測する。
さて、4国の二つは、美濃・尾張道とすれば、残りは、淡海(現 近江)と遠淡海(現 遠江・三河カ)道であろうか。
このように国造制を基礎にして、「道」という政治的領域概念の存在を想定されているのでは・・。
もう少し私見を述べれば、美濃道は、私は、まず最初に2分割されたのではないかと。美濃道前と美濃道後に、
その後美濃道前から斐陀国造が、分化したのだろうか。国造本紀が記述された頃は、「道」という政治的領域概
念が薄れてきていたのでしょう。遺制としての古訓読みに残存する程度で。
以上のことから、総領制は、国造制を基礎として、王権側から政治的に領域区分をした可能性を読み取りました。
人民は、国造の下で、統治され、王権は、間接的にしか人民を統治し得ない体制であり、二重構造であり、天武朝
になって、はじめて中央政権による人民の直接統治体制へと切り替わっていったのでありましょう。
付記
天武朝以前の行政区分 道・国造制の課程で、継体天皇以降 屯倉・御官(総称 ミヤケ)が増加している事は、書
記の記述から知られている。
そうした点を詳しく述べてみえる 吉村武彦編「古代を考える 継体・欽明朝と仏教伝来」吉川弘文館 1999(平成
11)年版 の中に館野和己氏の「ミヤケと国造」なる論文があります。
継体・欽明朝を画期とするヤマト王権の朝鮮半島の動乱・国内の地方豪族の反乱を契機とする国内安定化政策の実
施と把握できる事柄ではないかと。
詳しくは、同上論文をお読み下さい。
掻い摘んで記述すれば、ミヤケには、王権にとって必要とする物の確保を主とするミヤケ(屯倉)もあれば、国造を統
制する為の役所的なミヤケ(官家)もあり、海上交通の拠点的なミヤケ(官家)もあったと。
国造は、在地の有力豪族が当てられていますが、かってのヤマト王権と従属関係にあった初期の頃の独立性が強い
存在ではなくなって従属度が、極めて大きくなった豪族が国造に任命されたと。
かっての有力豪族は、地域の共同体の長であり、一地方の独立した長でありましたが、王権とは、対等とまではいかな
いけれど祭祈儀礼の従属であり、同盟者であったのでありましょう。(いわゆる地方においては 県主・稲置的な関係であ
り、武力貢献を主とする同盟者扱いであったのではないか。)
参考までに、拙稿 壬申の乱に出てくる身毛君広(ムゲツノキミヒロ)について のなかで、書記の記述中に以下のようなヶ
所があることを記述いたしております。
・日本書紀 景行天皇27年条に
{秋8月に、熊襲亦反(ソム)きて、辺境を侵すこと止まず。(中略)ヤマトタケルを遣わして、熊襲を撃たしむ。(略)タケ
ル曰く「吾は、善く射む者を得(タマワ)りて、與(トモ)に行(マカ)らむと欲(オモ)ふ。それ何処に有りらむ。」或る者「美濃国
に善く射る者あり。弟彦公と曰ふ。」(中略)弟彦公を喚(メ)す。故(カレ)、弟彦公、便(タヨリ)に石占横立(イシウラヨコタチ)及
び尾張の田子稲置・乳近稲置(チヂカノイナギ)を率いて来れり。}なる記述がある。これなどは、対等とまではいかないで
しょうが、同盟者としての記述ではなかろうか。
国造は、ヤマト王権への従属度が強い、任命制であったのでありましょう。その為、ミヤケは、国造の本拠地に近い所に
設置された場合は、官家(ミヤケと読み、役所的な官舎のみ 管理は、国造が司どっていた。) 他方 屯倉(ミヤケと読み
水田である場合は、田令が王権より派遣、或いは、鉄原料採掘の為の民の食料確保用としての、或いは朝貢する朝鮮半
島からの来客用食料確保用として等々)の設置を各地の国造に命じている。或いは、反乱した有力豪族から召し上げたも
のもあったようだと。国造任命とミヤケ設置は、一体的であったという論述であります。
平成27(2015)年4月20日 脱稿
平成29(2017)年10月23日 一部訂正