戦国期 尾張地域に於ける旧 篠木荘に存在した在地武士の系譜と所領
1.はじめに
我が家のある地域は、鎌倉期以前には、篠木荘であったのでありましょうが、ここは、丘陵地で
あり、たぬきやむじなの住む未開の土地であったのでしょう。
この丘陵地周辺の大山川源流域、八田川上流大草川流域の低地部が、開拓され、水田化して
いたようです。
鎌倉末期頃には、尾張国林・阿賀良村という自然村落が形成され、鎌倉 円覚寺文書にもその
名が記載され、史料が残されていました。
この林・阿賀良村(現 小牧市林・池ノ内地区でありましょうか。)は、篠木荘・味岡荘に挟まれた地
域であり、荘園外の存在として、犬山の大縣神社領(二ノ宮領)として平安末期から室町末期頃まで
は、存続していたと思われます。大縣神社が、尾張二ノ宮となったのは、康治2(1143)年以降であ
るという事も知りえた。
参考までに、二ノ宮社の領家は、九条家であった。一時は、後鳥羽天皇の乳母であった藤原兼子
が、領有していましたが、承久の乱で、没収され、後に、九条家に渡され以後天正期までは、領有
されていたようです。「九条家が、二ノ宮社を放棄したと分かる文書は、文明期から200年程経過し
た天正13(1585)年5月14日 九条家当知行併不知行所々指出目録案でありました。」(犬山市
史 史料編 三 考古・古代・中世 参照)
篠木荘も、室町前期頃までは、鎌倉 円覚寺が地頭職を得て、この地に君臨していたようです。
{康安2(1362)年2月28日付の文書請取状に、「篠木荘内野口・石丸両郷、光録(土岐頼康)方
より寺家に返付さるる渡し状正文一通」とある。}という小牧市市史 P.101 に記述があり、これ
は、「観応2(1351年)〜嘉慶元(1387年)までは、土岐右馬権頭 ( 美濃の豪族 土岐一族 土
岐頼康。・・筆者注)」( 佐藤進一著 「室町幕府守護制度の研究」上より抜粋 )が、尾張守護を歴
任し、直ちに兵糧米徴発等に名を借りた一族及びその軍勢により荘園・国衙領侵略が行われたの
でしょう。しかし、この時は、こうした侵略からも、円覚寺は、両保(野口・石丸)を旧来のように維持
できたようであります。( 小牧市史 参照 )
「嘉慶2(1388)年に立河、糟屋、曽我、斉藤、島津、富田、各務入道、宇津木、古見弾正、同小
弾正次郎、猿子弥四郎、神戸新右衛門入道、河村兵衛次郎、奥田得丸以下の輩が、篠木荘等に
押し入り、乱暴狼藉を致していた。将軍義満は、自ら土岐氏の弟を本家を差し置いて、尾張守護に
任命し、その土岐伊予守に鎮めるように命じたという。
美濃の在地武士者達に篠木荘は、押領され、14世紀末には、一旦足利将軍の命により、篠木荘は、
旧来の体制に戻されたという。が、また、諸国動乱時に、再度美濃の在地武士等に蹂躙されたという。」
( 春日井市史 P.127に記述されておりました。)
参考までに、この尾張守護の鎌倉期以降を記載すれば、
建久4(1195年)〜 は、小野刑部丞成綱 ( 武蔵七党に属する関東の武士 )
建長4(1252年)〜 は、中条左衛門尉頼平
正和3(1314年)〜 は、名越遠江入道宗教 ( 鎌倉幕府執権 北条氏の一族 )
南北朝動乱期以降
建武3(1336年)〜 は、中条大夫判官秀長 ( 鎌倉時代以来の守護家 )
暦応2(1339年)〜 は、高 師秦 ( 足利将軍の親戚筋 南朝方北畠軍と互角以上に戦った勇者)
観応2(1351年)〜 は、土岐右馬権頭 ( 美濃の豪族 土岐頼康 正平6年11月20日付け『土岐
右馬権頭
頼康宛足利尊氏書状』より知る事が出来た。 )
嘉慶2(1388年)〜 は、土岐伊予守満貞 ( 篠木荘への在地武士の乱入を鎮める為に将軍義満に
任命された。 土岐一族で、頼康の次男。)
(以上の守護の経歴は、佐藤進一著 「鎌倉幕府守護制度の研究」・「室町幕府守護制度の研究」上より抜粋)
「足利将軍 三代義満は、土岐氏の勢力の分散をねらったのか土岐満負の野心を利用し、満負を尾張の
守護職に補任した。満負は、頼康の子であり、その当時頼康の跡を継いだ康行(三国守護)の弟であった
筈。
そして、その満負は、京都に代官として派遣され、幕府との連絡役をしていたとある。」( 多治見市史 参
照 ) その満負は、嘉慶2(1388)年〜 尾張守護となった土岐伊予守満貞と同一人物ではなかろうか。
( この一件により、三国守護たる土岐本家は、足利三代将軍義満により勢力を弱められたようです。・・筆
者注 )
応永年間(1394年以降)〜 は、斯波氏(足利一族で、三管領の一角を占めた名家)の世襲となり、斯波氏
は、京都に在住し、尾張へは、守護代(代官)として、越前の織田氏を入国
させたという。
(最近の研究成果では、「越前織田荘の荘官であった織田氏を、斯波氏が、越前守護の立場から被官化し
たようで、その結果、尾張へ守護代或いは又代として入国させたようである。」(論集 戦国大名と国衆 6
尾張織田氏 柴裕之編 2011年版 岩田書院 参照 ) と。
応仁の乱(1467〜1477年)の頃、伊勢守 敏広×大和守 敏定が、尾張一国をかけて争ったという。
{ 上記尾張織田氏の研究では、初期の入国織田氏の系統である岩倉 伊勢守系は、守護 斯波氏と組み、
足利将軍からは、悪の権化とめされ、後の大和守系の敏定に命じて征伐するようと。その結果、戦いになった
という。決着が付かず、和睦し、敏定は、尾張3分の一支配(尾張二郡 海東・中島郡)を認められたという。}
「 それ以後織田氏 ー>伊勢守系統は、岩倉を拠点として春日部・丹羽・葉栗・中島郡の上4郡を諸将
( 二派に別れ )
により、分割統治していったいう。
−>出雲守(後 大和守)系統は、清洲を拠点にして、海東・海西・愛知・知多郡の
下4郡を統一支配していったという。」 (信長公記 参照)
そして、大和守系の傍系 織田信長の父であった信秀が、後に尾張一国を統一したということであります。
(上記記述の出展は、郷土誌春日井 第6号 重松明久氏の論述 「中世武士と農民の社会」であります。)
とすれば、康安2(1362)年前後頃、
嘉慶2(1388)年とそれ以前の乱暴狼藉による押領と、応仁の乱頃の
15世紀中 前後頃の乱暴狼藉による押領が、現 小牧市東部地域には、あったという事になりましょう。
更に、篠木荘は、確かに一円荘園化されましたが、その荘園内には、国衙領(保が存在)、他領家の荘園も含ま
れていたようで、鎌倉幕府の後ろ盾があったが故に、一円荘園化が継続されていたと思われます。後ろ盾がなくな
った、建武の中興以降は、そうしたかっての領有権を有した寺・家が、元の地へ乗り込み乱暴狼藉をして、所領の
権益を取り戻そうと暗躍していたようです。国衙領では、下地は地頭方へ、国税は、領家方へ納める事で示談が成
立。熱田社が、押領した篠木荘園内 玉野郷は、下地中分が行われ、折半されて決着したと思われます。
そして、守護の力で、室町末期頃(15世紀中頃)の旧 篠木荘内は、岩倉に拠点を置いた伊勢守系により支配され
ていたと言う事になりましょうか。確かに旧 篠木荘内にあります現 春日井市神領地域( 旧 野田村 )、密蔵院(
比叡山 天台宗系 )には、伊勢守系の所領安堵状が、存在しております。( 春日井市史 資料編 参照 篠木下
郷内の密蔵院所領安堵状 その当時篠木は、上・中・下の三郷に分かれていたと思われます。 )
2.尾張国 林・阿賀良村について
この地は、平安期の春日部郡司による開発地であるようで、大縣神社(二ノ宮)へ寄進された土地であると言う。
そして、この寄進は、小牧市史によれば、鎌倉期前後頃ではないかとされているようです。「この当時、在
庁官人・領主は、尾張一ノ宮・二ノ宮・三ノ宮へ盛んに寄進をしていた。」という記述から推測できましょう。
この林・阿賀良村は、平安時代末の尾張目代(国守の代わりに派遣された私設の代官)により再開発された
地域でありましょうか。目代の一族が、二ノ宮に寄進をしたのか、国衙より免田と認められ、除地扱いにされた
のか真相は不明でありますが、寄進地系荘園ではない、神社領として独自に、在地の耕作権を相伝し続けてい
たのでありましょう。
参考として、郷土誌かすがい 第6号 重松明久氏(当時 広島大教授)による「中世武士と農民の社会」の
記述に、「尾張二ノ宮(大縣神社)宮司である 平安時代以来の春日部郡司 良峯氏の子孫 原大夫高春は、
南北朝の頃 熱田大宮司 千秋(ちあき)一族と共に、南朝側に属した。」とありましたが、「その後、氏の論述
は、修正が加えられたようで、良峯氏には、春日部郡司の肩書きは、付かなくなっていました。」( 春日井市
史 参照 )
当然、平安以来の春日部郡司の系統である尾張氏一族と熱田大宮司 千秋氏とは、婚籍関係であり、もと
もと熱田大宮司職は、平安以来の春日部郡司家が、世襲していたもの。平安末頃に尾張目代として入国して
きた藤原氏へ春日部郡司家から嫁を取り、その息子が、それ以後熱田大宮司を世襲していく事になった筈。(
詳しくは、拙稿 春日部郡 郡司 範俊なる人物についての覚書 参照されたい。 )
大縣神社へは、丹羽郡郡司家の末裔が、しっかり尾張二ノ宮(大縣神社)の宮司に納まっているという事であ
りました。何かしら、この寄進には、いわくがありそうな気もいたします。
大縣神社の宮司には、丹羽郡郡司家の者が、室町の南北朝頃には、しっかり納まっていた事は確かな事で
はありましょう。
更に詳しく調べていくと、「良峯季高が、丹羽郡司であった頃、子である高成を二ノ宮宮司となし、その子 高春
は、原 大夫と名乗り、二ノ宮大宮司におさまり、原大夫 高春の末裔は、南北朝動乱期には、南朝方に属した
ようです。」(春日井市史・小牧市史 参照)
「文和2(1352)年 北朝方 尾張守護代土岐氏家人が、南朝方の原氏・蜂屋氏と尾張で戦い、賊首20ばか
り持参したという。この原大夫氏は、二ノ宮神官として武士化した者のようであるという。」(春日井市史 参照
詳しくは、園太暦 巻4 参照) 在地での武士化は、この当時の傾向であったのでしょう。
上記 原 大夫に関する事柄は、拙稿 謎の多い南北朝期以前の 二ノ宮宮司 原大夫系統についての覚書
を参照下さい。
また、大縣神社は、丹羽郡のかっての統治者 丹羽氏の氏神であり、尾張連氏とは、大荒田命の娘 玉姫と
は、尾張連の祖とも言うべき建稲種命”(タケイナダネノミコト)と婚姻関係にあったという一族では在った筈。
更に、継体天皇に嫁がせた尾張連草香の娘は、あの畿内で名をはせた太安万侶(凡氏一族)系統の凡氏
の一統とも推測され、この尾張へ移住し、丹羽氏と繋がり、更に尾張氏とも繋がっていき、尾張連草香に繋が
っていたのではないか。日本書紀・古事記両記紀の記述からそのように読み取れるという。
{目子比売については、日本書紀、古事記共に記述がありますが、記述内容が、微妙に違っております。
「 また尾張連等の祖、凡連の妹・目子郎女(古事記)
尾張連草香の娘・目子媛という、またの名は色部(日本書紀)」以上でありました。
凡連(おおしのむらじ)の妹という関係が、古事記の伝える間柄。尾張連草香の娘という間柄をいう日本書紀。
どのように理解すればいいのでしょうか。
これらは、双方とも事実であるとすれば、尾張連草香も”凡連系”という視点でみれば、凡連は、草香の息子で
あり、見事に辻褄はあうのではないでしょうか。} 苦しい解釈ではありますが・・・。既に、古事記・日本書紀の著者
のこの当時の記憶としては、このようなものであったのでしょう。
( この出展は、拙稿 古代 尾張の地に登場する人物についての雑感 参照 )
尾張地域には、まだまだ古代の系譜(尾張連)に繋がる方々が、しっかり根付いておられるというのか、根強
くはばを利かしているのでしょう。
しかし、平安末・鎌倉初期の丹羽郡の郡司家は、良峯家系図からすれば、他国より移住せし者のようであ
り、尾張氏とは、関わりがあった者ではなさそうです。
そして、戦国期には、こうした古代の古い職体制は、織田氏、豊臣氏により根底から覆され、消滅或いは追
放されていったようであります。織田信長は、寺社関係を徹底的に潰し、秀吉は、在地の古代の系譜を消滅さ
せていったのでしょうか。
その例証として、{ 古老口碑として、「牛山村は、古くは宇多須村と称し、うち片山に大社が鎮座していた。
元亀(1570〜1572)年間、この神社の守護人 玄殿がいたが、秀吉により放火され、社蔵の縁起書等や
玄殿の家屋も焼失、彼の子孫の事も一切不明なってしまったとも尾張地名考には、付記されているという。}
或いは、「田楽の伊多波刀神社は、連綿と続く式内社でありますが、古い縁起類を伝えていない。( ここも、
秀吉により放火され、社人等が、放逐されたからでありましょうか。牛山と同じように ・・筆者注) 故に古
代のこの神社を奉祀した豪族とか、創建の経緯等を知りえない。そして、神社名も、江戸期では、八幡社と
名称を替え存続し、明治期になり、廃仏毀釈により、元の神社名に戻り、神宮寺である常念寺は、廃寺とな
り、その地は一面藪となり、面影を残していないようである。」と春日井市史 P.103に記述されております。
また、「尾張国大草郷(旧 篠木荘園内)に存在している大久佐神社では、流鏑馬等の神事が、盛んに行わ
れていましたが、秀吉により、社領を召し上げられ、衰退した。」という。( 小牧市史 参照 )
3.尾張国 林・阿賀良村にみる戦国期の余語氏について
14・15世紀には、かっての林・阿賀良村の在地耕作者等は、どうしたのであろうか。三明社の社人は、「
郡史の記述通り、承久の乱でも、応仁の乱でも、しぶとく生き延び、天正年間の戦国時代に、とうとう身の危
険を感じて、遁走したという。その後、この三明社は、祥雲寺が、引き取ったという。」
とすれば、二ノ宮領へ寄進されてからは、耕作者の上部にいた大縣神社の神宮寺系の僧や大縣神社の寄
人( 大縣神社の神官ではなく、その下で活動する神社の非農耕民 神人ジニン )によって実質管理されてい
たのでありましょうか。三明社の社人もこうした人であったのでしょうか。天正戦国時代以降は、この地は、ど
のような在地構成になっていったのでしょう。すっかり在地の構成員も様変わりしたのか、しぶとく生き延びて
みえたのでしょうか。
小牧の草分け的史家 入谷哲夫氏は、JA尾張農協 広報誌 ふれあい 2011年11月号誌上で、「林村と
三明神社と」と題して記述されていますが、その文末に気になる言葉で締め括ってみえました。
「 さて、余一左近の名が気になる。戦国の世に、この地に登場する余語右近の事。広大な屋敷を構え、信長
・秀吉に仕える郷士一族と同族では?この地に余語姓が、多いのも符号する。」 と。生き延びてみえたのでしょ
うか。
入谷氏は、鎌倉末期以降の林村の在地農民 余一左近系の一族が、武士化して、戦国期には、信長・秀吉
に仕える郷士となったのではと推測されているのでしょうか。はたまた、林の余語右近と、信長に仕えたあの比
良の余語氏(後の佐々氏)と同族の者ととらえてみえるのでしょうか。
しかし、次のような事を記述されているHPもありました。記述の出展が、明示されていませんので確認できま
せんが、「http://www.geocities.jp/buntoyou/f3-3/a-f-owari019.html 尾張の城019には、以下のような記
述がしてあります。{おそらくは、武功夜話(前野文書)からでありましょうか。・・・筆者注}
「延徳三年(1491年)に尾張守護職斯波武衛は、清洲城の織田敏定に近江の佐々木六角氏を攻めさ
せました。甲賀山に陣を構えたところ、余語蔵人(後の佐々盛政)なる者が参陣しました。余語氏は敏定に
従い尾張に入り、敏定が楽田城に入り、余語氏は小坂氏とともに代官職を仰せ付けられ、余語氏は比良
(名古屋市西区山田町)に屋敷を給わり居住しました。」とあるようです。
しかし、前野家文書のなかには、小坂・余語両氏は、長享の年の戦後両氏共、尾張に入国したという記述
もあり、この長享年間(1478〜88年)であれば、延徳3(1491)年より弱冠早くなるかも知れません。
尾張に入国した小坂氏は柏井庄吉田、佐々氏(余語氏)は比良の地を賜り、敏定の舎弟於台弾正左衛
門(常寛)の旗下に加わり、各々50貫文を給ひ奉行を勤める事になったという事のようです。
参考までに、「佐々成政関係資料集成」 浅野 清編著 平成2年刊行 新人物往来社 P.26には、「武功
夜話からの抜粋として」 { 治郎左衛門様(清洲 織田敏定の舎弟カ・・筆者注)江州御引き払い尾州に御帰
陣。小坂、余語の両人御伴仕り尾州へ入国、尾州春日部郡居住の初めなり。春日部郡篠木、柏井の三郷の
地は、治郎左衛門楽田に御城構えられ、春日部郡篠木、柏井の三郷御取り抱えなされ、御台地と定められよ
って、余語、小坂に御台地の代官職を仰せ付けられ、春日部郡柏井吉田なる処に屋敷を給わりこの地に居住
候なり。}とある。これが、長享年間(1487〜88年)の事であったのでしょうか。
小坂氏の柏井庄吉田とは、現在のどこに当るのでしょうか。それは、現 春日井市下条町にある常泉院
辺りであろうと推察されます。小牧・長久手の戦い後、この吉田の城は、廃城となり、変わって現 上条町へ
居城を変更したと思われます。そして、当の小坂氏は、城を明け渡し、織田氏に返し、自らは武士を捨て、
農民になられたとか。
柏井庄吉田に居住した小坂氏の城(吉田城)は{ 柏井庄吉田の地は下条吉田の地であり「近世村絵図(
春日井市編纂)第18図下条村絵図」に「吉田城跡」と明記されています。各村絵図面は江戸後期に作成さ
れたものですが、吉田城の存在を立証するものでありましょう。}という記述が、郷土誌かすがい 第41号
にありました。その論述のなかで、吉田城は、現 常泉院辺りではないかと記述されています。
更にその傍証として、「信長公記」や現 春日井市柏井の当時地侍 柏井衆や前野氏{ この前野氏は、
(平安期の春日部郡司に関わる系譜を持った氏族であるとか。・・「姓氏家系辞書」(太田亮著)による。)
に関わる前野家文書( 前野家文書とは、昭和57・8年代の頃、江南市前野の吉田竜雲氏所蔵の文書
類やら「先祖武功夜話」・・享保15年(1730)に茂平次なる人が書き改たもの。「千代女覚書」は孫九郎の
孫、孫四郎の娘千代女が親や親族より聞いた話を書き留めた、寛永年間の覚書であり、
これらを前野
家文書と総称するようです。記憶を頼りに書かれた物であり、年代等には、やや信憑性に欠けるきらい
が無きにしも在らずという評価であるようです。・・筆者注 )
天文18(1549)年1月17日の事として、犬山勢が、柏井・篠木にあった織田氏の御台地(食料確保地)
の押領を企て、押し入った事の顛末が記録されているという。
郷土誌かすがい 第43号 春日井の人物誌 小坂孫九郎雄吉について、春日井市郷土史研究会員 石
川石太呂氏の記述に依拠しております。
「既に天文18(1549)年頃、16世紀中頃には、信長は、柏井にも篠木にも御台地(直轄領)を持っていた
事になりましょうか。この柏井の御台地警護をしていた者は、上条城の小坂氏、佐々平左衛門・佐々蔵人(何
れもかっての余語氏一族でありましょうか。・・筆者注)という比良に居住した者達であったようです。篠木の御
台地についての記述は、ほとんど出てきません。犬山勢の目的は、信長が、弱っている頃を狙って、大口(大
久地)目代を使者として、訃厳(信清)殿の趣旨を上条城主 小坂氏に伝え、味方にしようと画策した事から始
まるようです。
大留城主 村瀬氏は、寝返っている。貴殿もわれ等に味方してくれれば、この柏井の御台地は、勝手にされ
るがよいという事で、談判に来たという。犬山勢の目的は、守山の奪還にあったのであろうか。
小坂氏は、直ちに大留城主 村瀬氏の真意を確かめ、謀反の心なしと判断し、現 春日井市内の野武士達、
こうした柏井衆(前野党・蜂須賀党・梶田党)の地侍・野伏等にも、相談した所、信長の父 織田信秀の恩顧・義
理があり、こうした心情を法度として、一致団結、事の顛末を信長・孫三郎に注進。犬山勢に対処し、駆逐したよ
うであります。」と。
当時守山城は、織田孫三郎が、守っていたとか。犬山勢の中には、岩倉七兵衛(信安)尉殿(もしかして 岩
倉を拠点とした織田伊勢守系の一族カ・・・筆者注)も加わっていたという。とすれば、内紛であったかも知れない。
その事に関して、別の記述では、{信秀の遺産相続に際して信秀の蔵入り地であったであろう「篠木三
郷」を勘十郎(信長の弟カ)から取上げたのに、家来はそのまま信秀の下にいた武将を受け継がせた
ために収支に著しいアンバランスが発生していたのだろうと推測できる。つまり、勘十郎には配下の
武将に対して軍事動員した際に奉公に見合った恩賞を与える元手がないわけなのだ。それだから、
勘十郎は積極的に信長の対外的な軍事動員に参加していないようにも見受けられるのだ。と言うよ
りも動員できなかったのかも知れない。」と。(これは、もしかして、信長の深謀熟慮の上の遺産相続
であり、信長家臣団には、譲り過ぎではないかという不満があったやにと推測いたしました。・・筆者
注)
こうした恩賞への不安が、勘十郎の家臣(特に柴田権六)にあり、篠木三郷、守山の地奪還が企てられたので
あろうか。}と。
この記述は、独自に探求されてみえる著作権
かぎや散人さんのhttp://kagiya.rakurakuhp.net/i_658975.htm
よりの一部抜粋であります。連絡方法が分かりませんので、HPのURLやら著作者を明記し、掲載させて頂きまし
た。
仮に、林に比良の地の余語氏一族の者が、住み着いたとすれば、早くて15世紀終わり頃以降であろうか、本
当に林地区には、余語姓が多く、余語でなければ、林ではない。と言うくらい居住民が、入れ替わったのであろう
か。
であれば、鎌倉末期頃まで林地区に存在した長源寺なる寺のこと等、既に早ければ室町前期頃、遅くとも応仁
の乱のかなり以前に消滅していたのではなかろうか。( これ等の事は、美濃系の在地武士等の押領と関わって
いた可能性が高いと思われます。・・・筆者注 )
現 小牧市林地区にある祥雲寺(1467年頃創建カ 応仁の乱の始まる前頃)の創建前にここには、長源寺が
あったのではと考えるのでありますが・・・・。この長源寺は、三明社の神宮寺的存在であったのではないかと大胆
にも推測いたしております。
もしかして、かっての阿賀良村(筆者は、この村を現 池ノ内地域の大泉寺のある辺りではなかったかと。推測い
たしますが・・。)に創建された大泉寺、「府志に曰く、池之内村に在り、金剛山と号す、曹洞宗、三淵正眼寺に属す、
天正7(1579)巳卯年、郷豪足立氏某、僧某与(ト)相議して始めて之を建つ。」 とあるように、在地には、郷豪が
存在していたようで、林地域にも、そうした郷豪が存在していたのではと推測いたします。その郷豪が、余語氏であ
ったかも・・・。かっての余一左近系の在地武士化した生き残りが、その余語氏であるのか、或いは、比良の余語氏
の移住か。真相は藪の中でありましょうか。
もし、仮に林地区へ余語氏一族のどなたかが移住されたとすれば、長源寺の消滅後であり、林地区に祥雲寺が、
創建された後頃以降の移住でありましょうか。先住の住民を駆逐しての移住であったのか、もともと住民が居なくな
っていたのかも知れませんが・・・。
拙稿 小牧市林 余語右近将監の碑を訪ねて
も併せて参照下さい。
4.戦国期 旧 篠木荘内の地侍の系譜
戦国期の篠木荘内の所領関係は、元佐渡からの移住の小坂氏、琵琶湖からの移住の土豪余語氏等々、尾張に
はいなかった方々である場合が多く、かっての丹羽郡司系で、美濃・尾張の国境の川並衆であった前野氏、同じく美
濃・尾張の国境の川並衆の頭領であった蜂須賀氏、現 春日井市下市場の土豪 梶田氏{清和源氏の系譜をひく、
武田大膳太夫信賢6代孫加治田民部少輔政直が、美濃武儀郡加治田村(現加茂郡富加村)に住んでいたが、そ
の嫡子隼人正直繁が篠木荘下市場村に来住し、秀吉に仕官した。
直繁の嫡子出雲守繁政のとき、加治田を梶田と称するに至った。繁政は福島政則に仕え、備後三原城の守りに
ついた。
「福島政則家中分限帳」には、梶田出雲守2千3百2石6斗、与力10人を与えられたことがみえる。正則配流の後は
下市場に還住したという。・・出展は、郷土誌かすがい 第29号 戦国の武将 梶田繁政による。}等の柏井衆とそ
の当時呼ばれし面々。かっての土着の者の存在を確認できえるのであろうか。
出川辺りには、盗人 俗称 そろり氏もまた、この当時の野伏せりの変り種であったのでしょう。「
室町期には、現
春日井市白山地区に、江戸期、現 名古屋市鍋屋上野で鋳物師を束ねていた水野家が、存在していたと。この系譜
は、この春日井市白山地区の上野町で、鋳物師として活躍していたその水野氏の祖ではなかろうかと。」(出展は、守
山の事柄を主に記述されています http://www.geocities.jp/moriyamamyhometown/index.html 尾張・守山の鋳物師
参照 )
「永禄5年(1562)織田信長より判物(朱印状)を拝領し尾張の鋳物師を傘下にした水野太郎左衛門家が、生活
物資から武具製造、梵鐘等寺社御用、藩への貢納業務の代行と原料の搬入から製作、販売、鋳物師の移動等
生活まで、藩外での一部製作を除き全てを統括していました。
水野家の祖は春日井郡上野村、上野金屋鋳物師集団であろうと思われ、後名古屋城築城と共に清洲から移
住し、上野村(現名古屋市千種区鍋屋上野)に居住。」したと記述されておりました。
もし、春日井市白山地区 上野町に水野家の祖がいたとすれば、その出自は、どこであったのであろう。犬山の金
屋であったのか、はたまた平安期の小牧市大山の大山廃寺跡のたたら製鉄の系譜を引いているのであろうか。
更にその系譜を遡れば、7・8世紀頃の現 桃花台下 現 小牧市高根地区、春日井市西山住宅近辺のたたら製
鉄に繋がるのであろうか。朝鮮系の技術者集団の流れを汲む系譜であったのであろうか。
これ以上の追求は、不可能でありましょうが、興味は尽きない事柄ではあります。
勝川に在住されていた大脇二三氏による「ふるさと地名考」の存在を知った。昭和53年12月2日の記載のあるふ
るさと地名考 (二)に、この春日井近辺の地名の由来やら在地土豪の事が記述されており、参考として掲載してお
きます。
{ 柏井荘・篠木荘には、室町期から戦国時代にかけて地侍(郷士)が、数多くいたという。その中の現 松本町に
は、かって「文明年間(1469〜1487年)に 松本源兵衛 松本松重の名がみえる。」(春日井市史 参照)。という。
久木(ひさき)村のいわれも、種々あって、確定はしていないようであります。その内のひとつ、ふたつを記述すれば、
日本紀 景行の巻に「歴木」を比佐木と読むとか。尾張戸神社の古地図には、この辺りの村の事を「条村」と記し、こ
れを誤って久木の二文字にしたという説等いろいろあるようです。久木(ひさき)という地名は、古くからあったのでは・・。
この久木村には、室町期、この地にいた名主クラスの豪族に 久木二郎左衛門、久木源左右、久木源右衛門等一
族がいたという。
足振(あしぶり)村には、この辺りは、条里制が敷かれた地域ではありますが、村としての発生は、室町期であり、
ここも、やはり当時の豪族 足振新衛門の存在が知れるという。
神明(しんみょう)村においても、新名(しんみょう)五郎右衛門、新名彦左衛門の存在が知られるという。この新
名(しんみょう)が、後年神明(しんみょう)と当て字で語り継がれたのでは・・・。というようであるという。
そして関田村についても、林昌寺の境内にある薬師堂には、「文明11(1479)巳亥年 関田七郎右衛門創建」
の棟札があり、並びに文明9(1477)年白山円福寺寄進帳には、「関田七郎太衛門」という関田姓一族の名もみえ
るという。}
やはり、応仁の乱後以降でありましょう。土着の者であるのか、移住してきた者であるのかは、不明ではあります。
この篠木荘内は、地侍(郷士クラス)として、名田の名主クラスが、武装化し、在地で統率していた可能性は大い
にあり得る事でしょうが、農耕と武芸の二本立てであり、完全には、武士化し得ない状況であり、木下藤吉郎は、こ
うした現地の地侍を家臣に加え、活躍した事は、言うに及ばない事であり、こうした地侍は、戦で、亡くなったりして、
没落していった可能性は、大でありましょう。
5.むすび
天下を取った秀吉は、古来の職の体系を葬り去り、世情不安になった元凶の一掃を取り除くべく刀狩・太閤検地に
より徹底した兵農分離を成し遂げ、近世世界の基礎を作り上げて、一生を終えたのでありましょう。
参考までに、尾張地域、特に春日井地域には、織田信長に可愛がられた地侍の柏井衆が存在し、信長より「領地
内於而 百姓衆鉄砲玉薬等召置其上者可手入肝要候
然上者於分国 鹿鳥打取事不苦候 委細佐々可申者也 依
状如件 永禄(成政)八年八月廿三日 信長 花押
」なる判物が与えられており、鉄砲が、5百数十挺存在していた
という。
秀吉は、天正16年(1588)7月8日に、3ケ条に亘る刀狩令を発した。
尾張では織田信雄に司令されると、奉行に家老滝川三郎兵衛雄利を任じ、清須から各給人へ御触書を出した
一、
このたび百姓に武器を差出すよう通達がきました。これは大変厳重な達しですからよろしく願いたい。但し、
給人、奉公人、軍役の雑人は別です。百姓から急に武器をとりあげると危険なこともありますので、道中安全
のために短刀1腰、但し1尺以内のものは対象外とします。
( 残り二ヶ条は、省略・・筆者 )
柏井衆に対しては、領主 織田信雄の領地であり、当然強い反発が出た事は想像に難くない。全て取り上げる事
も出来ず、差し出さなければ、かえって主君に対する秀吉方からの追求を受ける事となり、家老は困り果てていたと
いう。{それでもねばり強く折衝するうち家老 滝川も柏井衆等の言い分である「鉄砲を差し出してしまうと鳥獣が子
をふやし作物を荒らす。」というのを生かし、主君 信雄と協議してくれ次の如く回答した。
「お前たちの住む柏井、篠木の方は山間で鹿も兎も多いので、鉄砲をとりあげられてはさぞ困るだろう。五、六十
挺ぐらいなら給人の土蔵に留置し、作物を荒らす鳥獣をうつだけに使うにおいてはお咎めはないだろう。」
かくて、一部の鉄砲は差し出しを免れた。
}という逸話があるという。春日井の刀狩 実施例ではあります。
( 上記の春日井の刀狩実施例は、郷土誌かすがい 第34号 春日井の刀狩 からの抜粋であります。 )
そうして天下餅のおいしい所は、徳川家康が受け継いだのは、言うに及ばない事でありましょうが・・・・。
平成25(2013)年6月18日 脱稿
平成25(2013)年6月23日 一部加筆
平成25(2013)年8月20日 一部修正