所得倍増計画を推し進めた 時の自民党 池田勇人首相の「貧乏人は、麦を食え。」発言
の真意とその時代背景についての覚書
1.池田勇人首相について
第3次吉田内閣にて大蔵大臣・通商産業大臣を務めていた1950年3月1日、「中小企業の一部倒産もやむを
得ない」との発言が問題となる。また、第3次吉田第1次改造内閣にて大蔵大臣を務めていた同年12月7日、「
貧乏人は麦を食え」と発言したとして話題となる。
実際は、参議院予算委員会で社会党の木村禧八郎の質問に答えた中で、「所得に応じて、所得の少い人は
麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたい」という発言を
当時の新聞が改ざんして報道した言葉のようであるという。今から約半世紀余前の事柄ではあります。
この首相は、明治末生まれであり、満65歳の頃死去されたかと。明治・大正・昭和を生き抜いた方であった
ようです。おそらく、上記の言葉は、自分の生まれ育った時期の事とも絡んだその当時の一般的な世情であっ
た事を是認しての言葉であったかと推察致しますが・・。自身は、裕福な家庭の生まれであり、造り酒屋の息子
として何不自由なく育った家柄であったかと。およそ現在の長老格の国の代議士先生方は、大なり小なりそうし
た家庭のご子息ではなかろうか。そうでなければ、なかなか政治の世界へは飛び込んでいけなかった時代では
あったのでしょう。
2.明治期の食料事情 (尾張編)
私自身、考えた事もありませんでしたが、こうした昔の食糧事情について研究されている方の論述にであった。
そして、私自身の生まれ育った頃の食料事情にも思いをはせると、私の昭和2・30年代に於いても、明治期と
変わらないか、やや進化した(しかし、たったそれだけの進化に、どれだけの時間を要したことでありましょうか。)
程度の状況であった事に愕然といたしました。弥生時代から以降、米つくりに勤しんできた国民が、米を自らが満
足に食する事ができるようになるのに、一体どれだけの時間を要したのでありましょうか。満足に米を食していた
のは、一部の上層階級の方々だけであったのでありましょう。それが、日本の歴史の現実であったように取れまし
た。( あのNHKの朝ドラ おしん の状況であったかと。)
東海学セミナー (4) −山と川と海の食 古代からの食文化 − 春日井市教育委員会という冊子の”伝えてお
きたい「岐阜県山間部の食」” 日本民具学会 脇田雅彦氏の論述を読んで、愕然といたし、直ぐに、上記の池田
勇人氏の言葉を思い出してしまいました。
脇田氏の立場は、民具関係でありますが、その民具調査時にも、各地の食料事情等も古老等の聞き取りより、
知りえられた事も多かったのではなかろうか。民俗学の手法が入った領域の研究ではありましょう。
さて、氏によれば、中部地方は、東日本・西日本文化の間に有る故、中間地帯かと言われるのかと思いきや、
伊吹山を含む白山(岐阜県と福井県の境 揖斐郡藤橋村辺り)へかけての西美濃一帯は、東日本を望める最西
端の地であり、どちらかというと東日本文化の要素の濃い地域であろうと指摘されているように取れました。
・ 明治18年 『愛知県勧業雑誌』 第10号所収 「県下人民常食歩合表」と書かれた尾張分が、氏により表示さ
れていた。更に私が、都市と自身が居住している小牧市(当時東春日井郡)を比較する為に取り出して表示した
のが、下表の一覧であります。表題等は、変えておりません。他郡もほぼ同様かと。役所が統計を取った資料で
はあります。
この表を目にして、明治期の上層の方々の認識は、この表を作成された最上等食を食する上流層と、中間層、
そして最下等食を食する最下層の民とに国民を色分けして捉えられていたという事が、はっきりと表示されている
事でしょうか。
最上等食 普通食
人口(%) 米 麦 稗 雑穀 芋類 菜類 人口(%) 米 麦 稗 雑穀 芋類 菜類
名古屋 30
100 0 0
0 0
0
50 90 10
0 0
0
0
東春日井郡 10 70 20
0 5
1
4
70 20 50
5 5
10 10
最下等食
人口(%) 米 麦 稗 雑穀 芋類 菜類
木の実
名古屋
20 60 38
0 0
1
1
0
東春日井郡 20 5 30
10 10
20
20
5
上記の人民常食歩合表は、明治初期の主食の実態を知る事が出来る貴重な資料でありましょう。おそらく、上
記の表の基となる資料があっての事といえましょう。
その例証として、明治18年6月30日の安八郡柳瀬村他三か村 戸長 和田平右衛門が、安八郡長 小原宛
「部内人民日常食餌取調書」を提出している資料が、「郷土の歴史 神戸」に残っているという。この神戸は、揖
斐川沿いの現 神戸(ゴウド)町であるとか。こうした調査の具申により、官の歩合表が作られていったのでしょう。
その内容は、日常食を上等・中等・下等・等外の4段階に分けて記述している事。この地域では、お米だけの階
層は、僅か3.9% 中等で、半麦(ハンバク)と言って米5分、麦5分の割合ですが、36% 下等の階層で、米2分麦8
分で35%。等外とされた階層は、同じく米2 麦8で24%であったとか。(これが、山間部の村々の明治初期頃の実
情であったのでしょう。でも、この神戸町は、現 岐阜県安八郡内の地域であります。現 大垣市から左程離れてい
ない地域でもあります。)
この取調書には、日常食の細目が、列記されている事。それによれば、下等の階層の混ぜ物は、芋茎・大根干
混入の雑食である事。等外においては、芋葉・大根葉・更に芹(セリ)、嫁菜(ヨメナ)の摘菜(野草)が雑食或いは粥等
定食なしであった事。上記の歩合表は、こうした各地からの調査具申を統計処理した結果の表であったと思われま
す。
この名古屋地域と東春日井郡域とでは、上流層の割合は、全体の30%と10%であり、主食の割合は、米100%
が、名古屋であり、東春日井郡の上流階級は、それでも米7割麦2割そして、雑穀・芋・菜類で1割補充しての食事で
あったかと。
どちらにしても、多いのは、中間層でありましょう。その中間層の主食の割合は、名古屋では、米9割麦1割層が、
50%。東春日井郡では、米2割麦5割、そして、稗・雑穀・芋・菜類を補充した3割分で主食とする食事層が、全体の
70%に達している。この中間層たる大部分の東春日井郡層は、稗なる物をも主食に加えて食べているのであります。
私が幼少期でももはや稗なる言葉は、死語に近い言葉であり、現物など見たこともなかった。只、餅をつく時に、き
びとかよもぎを入れて突いていた事は、記憶していますが、ついぞ稗は、どのような味なのか、どのような物であるの
かは、言葉として聞くくらいであったのでは・・・。そうそう田んぼに稗が育つと、よく引き抜いていた植物であった。昭
和2・30年代の私の幼少期の地域においては、既に稗なる言葉は、死語になりかかっていたようです。
そして、昭和2・30年代の我が家の主食は、米8〜9割麦1〜2割であった。これって、明治初期の名古屋の中間
層の食事ではなかったかと。やっと岐阜県の山奥でも、昭和2・30年年代頃になって、主食が、名古屋の明治初期
頃の中間層の位置まできたといえるのかと。それにしても、ゆっくりとした進化でしかない。明治18年から昭和30年
までには、約70年弱の月日がたっている勘定になりましょうか。ほぼ半世紀強経たないと、私の生まれ育った地域
は、明治18年頃の名古屋の中間層の状況にしか為れなかったといえましょう。
池田勇人氏の発言は、こうした在地の経済状況、食料状況の上に立った氏にしてみれば、一般的な見識であった
のでありましょう。現在の政権党が、このような事を言ったならば、それこそ見識を疑われましょうが、その当時として
は、世論は、少なからず肯定する事柄だったかも知れません。そうした時代背景があったこその言葉ではあったので
ありましょう。
・ 尾張地域の聞き取りによる昔の食生活
「ハンバクハ エエトコ」という明治30年代生まれの古老の言葉。大正生まれの古老からも、同様な言葉が聞け
たという。このハンバクとは、米と麦の比率が半分半分という混合率の主食の事。
名古屋市東部の盆踊り歌の歌詞に、「盆がきたらこそよーー、ワリニ 米 混ぜてよーー」云々が、あるという。ワ
リとは、大麦の食べ方の古形の一つで、各家々にあった碾き臼で、大麦を粗く引き割った物のこと。之に、盆が来
れば、米を混ぜて食べれるという。では、盆前までは、米なし。全麦食と言う事なのでしょうか。そうとしか考えようが
ありません。
もっと美的な言い方も残っているとか。現 一宮市の「一宮の民俗」(一宮市文化財調査報告3 一宮市教育委
員会 1975年刊行)資料、或いは、岩倉市史 通史編にもみられるという事ですが、”ホタルメシ”という言い方。
或いは、”ホタルコゾウスイ”という言い方があったという名古屋市西部地域での事。
この主食は、芋やら大根やらの混ぜ物が大部分で、お米がどこにあるのか分からない、けれども、「時々、白い
米粒が、キラーリと光っている」という雑炊の何と美的で優しい文学的な響きを持った言い方でありましょうか。
しかも、この米粒は、大抵 コゴメ(米粒が割れた物)とかシイナ(充分成長しなかった未成熟米粒の事)類であっ
たという事。完熟米粒の部類では無かったという現実が、最下層の食事であったかと言う事であります。
春日井市内でも、かっては、最下層の食事は、「人増えりゃ、水増やせ。」という炊き方であったとか。聞き取り
調査ではあるようです。上記の最下層の雑炊に、更に水を増した嵩(カサ)増やしで、その日を過ごしたとか。
全体の20%に当たる最下層の人々の米5・麦30・それ以外65%の混ぜ物を主食とした生き様であるという。
こうした嵩(カサ)増やしの麦を助けていたのが、私の幼少期には、死語となった”稗”なる食料であったようです。
東春日井郡では、中間層でさえ5%、最下層は、10%、知多郡では、それが、30%であったとか。明治初期
頃では、まだまだ 稗は、死語ではなく、現役であり、最下層の人々を助けるお救い食料であった事を忘れては
いけないと、脇田氏は、声を大にして言われていました。
その前に、雑穀とは、粟(アワ)・キビ・ソバ・タカキビ(モロコシともトウモロコシとも言う物)・豆類でしょうか。
そして、芋類は、里芋系でありましょう。菜類は、大根であったかと。最後の木の実は、尾張地区では、現 春日
井市廻間地区での聞き取りで、ホオスの食習慣が出たと言う。愛知県内では、木の実の食習慣は、三河の北設
楽郡下のみであったという。
この時期では、あまり、木の実の食習慣は、残っていない習慣かと氏は、思われていたようであります。
ホオスとは、普通 コナラの木の実であろうとされていたようで、廻間地区では、アベマキの木の実であったという。
縄文時代に繋がる食生活でありましょうか。
こうしたトチの実は、アクがあり、アク抜きをしないと食せない物であった。アク抜きの方法は、縄文人でも、東北
系 所謂東日本の文化圏の技術であったという。縄文末期には、寒冷化が常態となり、あの最近発見された三内
丸山遺跡が、崩壊した要因でもあったという。縄文末期以前には、どちらかというと東日本に、人口が多く、栄えて
いたとか。
縄文の大移動が起こり、大多数は、生き抜く事が出来ず、僅かな人数が、その当時人が住んでいなかった四国・
九州薩摩地域へと移り住んでいったという。そして、東日本・西日本の文化圏の違いが、一時的にせよ平均化した
という。そして、薩摩地域のシラス台地は、作物を作ってもアク抜きの技術を知らない人種では、到底住めない所で
あったという。東日本から移住してきた縄文人には、その技術があり、生活出来えたという。西日本に最初からいた
縄文人は、アク抜きしないでも食べれる物を、そのまま食していたとか。要するにアク抜きの方法を知らない人種で
あったようです。
昭和46年刊行の『尾張旭市誌』にも、「トチ・ドングリもアク抜きし・・・。」云々と記されており、このトチは、三河に
連なるアベマキであり、ドングリは、コナラであろうと予測できるかと。それ故、郡下での木の実は、二種類の樹木、
アベマキ・コナラの木の実の利用があった事が分かったという。
3.まとめ
明治初期頃の米より麦優位の主食が、実は、稗をはじめとした雑穀類から木の実までも加わって支えられていた
事のようであり、そして、米・麦同量の半麦期があり、伝承による限り、大正中期頃以降 尾張部では、お米優位の
食生活へ変わっていったという。
私の幼少期(戦後生まれの第一次ベビーブーム世代)には、確かに農家でありましたから、米は、買った事は無く、
籾殻つきで納屋に保管し、半年に一回位籾摺りに、地域の籾摺り小屋(地域で共同使用する小屋)で、半年分を白
米にして、家の玄関口の後ろ部屋に大きな保管庫(金属で出来た密閉式の器)が二基置かれ、その中に白米を保管
し、必要に応じて、下の取り出し口から出しては、使っていたかと。油断をすると穀(コク)ゾウムシが大発生し易く、そ
れ故、密閉式の保管庫に格納していた筈。
また、家の中には、かまどが設置され、お釜で、大麦を拉げた状態にした扁平麦を二八蕎麦ではありませんが、麦
1〜2、白米8〜9割の麦飯であったかと。どこの家でもほとんど白米だけの家は無く、只、陶磁器を焼く窯を持ってい
た家のみが、日常いつも白米だけであったかと。太平洋戦争後の昭和30年代頃は、まだまだ私の地区では、白米の
みという状況ではなかったかと。但し、盆・正月は、さしもの白米だけであったかと。
弥生時代から、米つくりをしてきた筈でありましょうが、本当の意味で、主食が、白米食のみになったのは、私の地
域では、テレビがほとんどの家庭に普及した頃(現 天皇陛下が、正田美智子妃殿下と御成婚された頃)以降からで
はなかったでしょうか。
だから、所得(この当時 聖徳太子が印刷されたお札が一番高額であった為に、揶揄して 聖徳)倍増計画を出し
た時の総理大臣 池田勇人氏と世間は、持て囃したようでありましょう。只以後、所得も増えていったと同時に物価
も上がっていったように思いますが・・・。
そして、総理大臣になる前の吉田内閣の一員であった大蔵大臣の時、新聞紙上で、「貧乏人は、麦を食え。」と言
ったとか、言わないとか。事実は、「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというよ
うな、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたい」という発言であったようであります。首相自身が、幼少期の食事
の実情を是認するが如き発言であったのでしょう。