日本史に於ける 沈黙の4世紀を伝える民間伝承について
1.はじめに
4世紀は、大陸との交渉がなくなったのか、大陸自体でも混乱期であり、遠い地域の事柄に、目を向けられ
ない事情でもあったのでしょうか。
こと、日本列島の山陰地域や北陸地域には、民間伝承として4世紀頃の事柄ではないかと思われる事象が、
伝わっているようであります。
天皇(その当時は、大王であったかも知れませんが・・。)は、崇神天皇後の垂仁天皇治下の頃ではありまし
ょうか。
2.山陰地域に伝わる民間伝承について
・ 丹波地域の民間伝承
崇神の治世の終りころ加羅の人 蘇那曷叱智が来たという。崇神の時代に、すでにおぼろげな半島との交
流のはじまりがあったのでしょう。361年、天日矛 { 網野町浜詰にある志布比神社の社伝(『網野町史』
より、網野町は現在、周辺5町と合併し京都府京丹後市として、新たに生まれ変わりました)には、
「創立年代は不詳であるが、第十一代垂仁天皇の御代、新羅王の王子 天日槍が九種の宝物を日本に伝
え、垂仁天皇に献上した。九種の宝物というのは、『日の鏡』・『熊の神籬(ひもろぎ)』・『出石の
太刀』・『羽太玉』・『足高玉』・『金の鉾』・『高馬鵜』・『赤石玉』・『橘』で、これらを御船に
積んで来朝されたのである。」
この御船を案内された大神は『塩土翁(しおづちのおきな)の神』である。
その船の着いた所は竹野郡の北浜で筥石(はこいし)の傍である、日本に初めて橘を持って来て下っ
たので、この辺を『橘の荘』と名付け、後世文字を替えて『木津』と書くようになった。}が、来朝。
とある。
渡来という記述もあり、この日矛(或いは、天日槍とも記述)は、新羅の王というが、時に新羅はまだ斯廬の都
邑に過ぎず、新羅の建国の王と思われる奈勿王の即位は356年と伝えられる。そもそも新羅は、6世紀の真平王
が隋に上表したなかに「王は、もと百済人。海から逃げて新羅に入り、ついにその国の王となった」という記事があ
るという。それ故、この天日矛(或いは、天日槍とも記述)は、この国に来たまま、居ついたのであろうか。
・ 出雲地域に伝わる民間伝承
出雲神族の末裔「富氏」の口伝には、「物部」を将としたアメノヒボコ族が、出雲」に攻め込でいくと
いう一節があります。アメノヒボコ族というのですから、個人ではないことになりますが、アメノヒボ
コ=「誉田真若王」とすれば、日本海側にいた「誉田真若王」が、「河内」にたどり着く経路が推察で
きます。(何やら、日本書紀の王の入れ替わり説話の伏線の様な気がいたしますが・・。筆者注)
と言うのも、『但馬故事記』にあるニギハヤヒの降臨コースと、多分に重なってくるように思えるか
らです。
『先代旧事本紀』は、ニギハヤヒの降臨を次のように伝えています。
「饒速日尊は天神の御祖の命令を受け天磐船にのって、河内国河上の哮峰に天降った。さらに大倭国鳥
見の白庭山に移った。いわゆる、天磐船に乗り、大空を翔行きこの郷を巡り睨み天降られた。いわゆる、
空より見た日本の国とはこれである。」
『但馬故事記』は、この白庭山(しろにわやま)に着くまでの行程を伝えていて、
田庭の比地の真名井原→但馬国美伊→小田井→佐々前→屋岡→比治→丹庭津国→河内国村上哮峰
というのですが、簡単に言えば、但馬→丹波→河内の順になります。しかし、田庭の比地の真名井原が
「丹波国与謝郡」(常識的に考えれば、真名井神社のある籠神社)に比定されていますから、「但馬」も
「丹波」も大きい意味での「丹波」なのでしょう。「田庭」は「但馬」とも「丹波」とも読めるからとも。
・美濃地域に残る伝承
「『美濃國雑事記』『美濃明細記』『新撰美濃志』および『美濃國式内神社祭神記』など、いづれもこの
説であり、伴信友の『神名帳考證』も、『百莖根』を引いて「祭紳ウガヤフキアヘズ尊」とする。これは、
アメノヒビコという新羅から来たという王子であるやに。」という事柄。上記の記述は、『不破郡史』下
巻(昭和二年刊)にあるという。美濃の野上近くにある伊富岐神社 所在地 不破郡垂井町岩手字伊吹1、
484番地の祭神の説明として引用されている説とか。後世の者が、伊富岐神社の祭神 伊富岐神を説明
せんが為に用いた論拠の無い事柄かと思われます。
3.日本書紀に残る垂仁紀の条
日本書紀 垂仁紀には、「崇神天皇の御代に、額に角の生えた人が、ひとつの船に乗って越の国の笥飯
の浦についた。そこでそこを名づけて角鹿(つぬが)という。越前”敦賀”の地名由来のようでもありま
すが、このとき訪れた人物とは、「大加羅国」の王子「都怒我阿羅斯等」(つぬがあらしと)であった
という。
4.古事記に残る事柄
『古事記』には、山陰地域に残る民間伝承のアメノヒボコのエピソードが記載されているという。
対して、『日本書紀』では、ツヌガアラシトとして記載されているようです。
こうしてみてくると、古事記、日本書紀共に、何らかの事実である事を巧みに引用して、記述している
という事なのかも知れません。
5、まとめ
『先代旧事本紀』が語るニギハヤヒの降臨の事柄は、また更に前の大和朝廷の国譲り神話の基となった
事柄の事ではなかったろうか。三輪王朝創始者と推定されている崇神天皇の頃、先に畿内を治めていたニ
ギハヤヒ族(スサノウ系カ)の追い出しでもあり、そして、各地にも存在したニギハヤヒ系の痕跡を、長い
時間をかけて、消滅させていったとも取れましょうか。
こうした民間伝承は、更に、崇神・垂仁朝から後の河内王朝(応神朝)への移行を何やら暗示しているよ
うにも思えるのですが・・・。
現在 連綿と続いている天皇は、どこかで代が、1度替わりそれ以後は、途切れることなく今に続いてい
るのでしょうか。そのようであった事を、日本書紀の編者、藤原不比等は、知っていたのか、知らぬのか曖
昧にする記述で、天武天皇の意向に沿うよう、また己の神道思想を確固たるものにするべく用意周到に記述
して編纂したのでありましょう。
外国の書籍にも詳しく、それらしい言い回しやその当時知られていた事柄でもすっとぼけて誰であったか
知らずとか、天皇と悪しき関わりを持った豪族名は、新しい朝鮮語の意味を持つ氏族名で登場させ、悪名高
い豪族名を歴史上から抹殺しているとも言えるようで、稀に見る策士の一面を持ち合わせている人物のよう
でもありましょうか。
律令制が整っていく奈良時代以降、各地に残る物部名の氏族の何と多い事。これらは、ニギハヤヒを推し
頂いた一族であり、スサノウ系でありましょうか。天照系より前に渡来し、ヤマトに居住。勢力を持ちえて
いたとも。
その後に、天照系の一族が渡来し、乗っ取ったという図式が、あったのでは・・。各地でも、それなりの
塗り替えが徐々に進行していっていたのではと推測いたしますが、どうでありましょうか。