旧 尾張国 一宮 真清田神社と旧 美濃国 村国真墨田神社について
1.はじめに
尾張と美濃、国が違いますが、どちらも音(オン)では、「マスミダ」と読む。何らかの繋がりを想起いたします。
現 一宮市の真清田神社は、古くは、真墨田神社と記載されているとか聞く。やはり。それからいろいろ調べました。
そうしてまとまってきましたので、記述する事に致しました。
2.旧 尾張国 一宮 真清田神社
拙稿 今伊勢古墳群にある式内社 野見神社・酒見神社を訪れて 内に一部記述をしておりますので、抜粋いたしま
す。
「濃尾平野の歴史 二 古代の川と地名を探る」著者 小池 昭氏は、その著書P.78、79に真清田神社の祭神の歴
史をつぶさに調べられ、下記のように記されています。
室町期の真清田神社古縁起、大日本一宮記、真清深桃集、神祇宝典、天野信影の本国神明帳集説等々において、さ
まざまな神の名が出ており、新編一宮市史は、この神社の祭神は、壬申の乱の功臣 神麻加牟陀君であり、三輪氏と同
族であり、真清田神社古縁起の竜神信仰は、大三輪の神(大巳貴命)が、蛇と関係あるとの事で、根底で繋がっていると
いう見解であるようです。
参考までに、神麻加牟陀君とは、「三輪
子首(みわ の こびと、生年不明 -
天武天皇5年(676年)8月)は、日本の飛鳥
時代の人物である。大三輪真上田子人(おおみわのまかむだのこびと)、あるいは神麻加牟陀児首(みわのまかむだのこ
びと)ともいう。
死後に大三輪真上田迎(おおみわのまかむだのむかえ)と諡された。姓は君。冠位は贈内小紫。
672年の壬申の乱に際して、伊勢で大海人皇子(天武天皇)を迎え、後に大和への増援軍の指揮官の一人になった。」と。
詳しくは、(ウィキペデイア 三輪子首を参照されたい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BC%AA%E5%AD%90%E9%A6%96 )
また、郷土史家とも言える 加藤 宏氏の著書「古代尾張氏の足跡と尾張国の式内社」昭和63年出版 氏の著書の真清
田神社の記述は、以下のようであります。
「真清田神社 (延喜式では、真墨田神社と称した。)
所在地は、一宮市真清田1丁目、祭神は、天火明命。尾張氏の遠祖であります。」と。
三輪氏に関わる神社も存在します。
「 大神(おおみわ)神社
所在地は、一宮市花池2丁目、祭神は、大物主神であるという。当社は、大和から移住してきた大三輪氏と地元豪族集
団の融合により、美和氏が誕生したのではないかと考えられる。当社の東隣には、真言宗薬師寺があり、神宮寺であった
とか。
この寺は、江戸時代「いせや寺」と呼ばれ、伊勢神宮の初穂料を取り納める場所であったとか。
現社地は、旧社地から少し南方に移っているようで、旧社地は、古宮とか御手洗と呼んでいるようであります。」と。
とすれば、物部一族の祀れる神社でありましょう。
多氏に関わる神社もあるようです。
「大(おお)神社
所在地は、一宮市大和町於保字郷中、祭神は、神八井耳命(かむやいみみのみこと)で、この神は、多氏の祖とされる。
当時は、祭祀と政治は分かれていて、祭祀は、上位に位置していたようで、神八井耳命は、兄である故祭祀を司り、その
弟は、天皇として政治を取ったという。
神八井耳命の後裔である多氏は、相当高い地位にあったのでありましょう。あの太安万侶も、多氏の一族であるという。
「新撰姓氏録」には、多氏は、大、太、於保、飫富とも記されており、和名抄にも、「大和国十市郡飫富という地名より出た
る氏なり。」とある。当社へは、大和国から移住した多氏が、氏神祭祀の地として、地元豪族の丹羽氏等と融合し、尾張北
部一帯を次第に支配下に置いていったのでありましょうか。」
参考までに、多氏の系譜は、九州と畿内に系譜を伝えるとも聞く。
後、尾張国造として熱田地区に県下最大の断夫山古墳を築いたとされる尾張連草香の娘は、継体天皇になる以前から
天皇の正妻として嫁いでいる。
その娘については、書記と古事記では、記述が微妙に違っている。
{目子比売については、日本書紀、古事記共に記述があります。
「尾張連等の祖、凡連の妹・目子郎女(古事記)
尾張連草香の娘・目子媛という、またの名は色部(日本書紀)」以上でありました。
凡連(おおしのむらじ)の妹という関係が、古事記の伝える間柄。尾張連草香の娘という間柄をいう日本書紀。
古事記は、太安万侶であり、多氏一族の記述、日本書紀は、藤原不比等であり、あの中臣鎌足一族であります。
この凡連(おおしのむらじ)は、どのような氏族の一族でありましょうか。
古事記の編者は、何故 尾張連草香一族を凡(おおし)連と記述されたのであろうか。この記述からは、何がしかの思惑
が、太安万侶の脳裏にあったと推測する事も出来ましょう。
しかしであります、尾張連氏の系図でみれば、一目瞭然。草香の直系の子が、長子 凡(オオ)であり、長女が、目子媛。凡
からみれば、目子は、妹であろうという関係が読み取れる。安万呂は、美しき誤解が生ずる事を暗に想定していたのかも知
れません。
日本書紀は、父と娘の関係を系図から採用したに過ぎなかったのでありましょう。人騒がせな記述ではあります。
(尾張連氏の系図から分かる事では、ありました。・・筆者注)
尾張物部系と尾張氏は、手を組んだ可能性があったのではなかろうか。真清田神社の祭神の天火明命は、真清田神社々
伝では、本名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアマノホアカリクシタマ ニギハヤヒ ノミコト)といい、
ニギハヤヒ(物部氏の祖)は、アメノオシホミミの子でニニギの兄である天火明命(アメノホアカリ)と同一の神であるとしてい
る。真清田神社社伝は、その謂れをこの祭神に込めたのかもしれない。
言い換えれば、初発の真清田神社の創建は、在地の竜神信仰が基とも、物部氏系の氏神として祭っていたとも推測でき、
尾張連氏との婚姻等とかで、尾張連系に取り込まれていったという事の痕跡ではないかと。
新修名古屋市史では、尾張氏の系図へ物部氏が、乗っかったという解釈でありましょう。名古屋市史では、春日井市勝川近
辺の二子山古墳を築いた豪族については、市域外であるからでしょうか、熱田の豪族とは違う豪族と論述をされているようで
す。物部氏という記述は、一切されておりません。が、その可能性は、高いように推測いたします。
3.村国真墨田神社について
美濃国延喜式神名帳には、各務郡に、村国神社二座と村国真墨田神社は、式内社として記載されている。
村国真墨田神社は、旧 鵜沼村に存在する。勝野氏(不破連勝氏の系譜カ)の基盤であり、同氏は、百済系の渡来人とい
う系譜のようで、村国氏との関わりで壬申の乱時には、同一行動をとった一族の末裔でありましょうか。
参考までに、この村国真墨田神社の{創建時期は7世紀頃。美濃国各務郡を支配していた豪族 村国氏が美濃国一宮の
南宮大社の主神「金山彦命」と尾張国一宮の真清田神社の主神天火明命を合祀して創建したという。後に村国男依を祭神
として合祀している。
創建当時は、現在地の南数百m(現在の木曽川沿い)にあったという(現在は御旅所になっている)}(引用は、ウィキペデイア
村国真墨田神社 最終更新
2014年8月11日 (月) 06:14
)という神社であるとか。
この神社は、壬申の乱前後の創建であるようで、鵜沼と言えば、古東山道の木曽川渡しのある所であり、交通の要衝を固
める意味もあったのだろうか。
*
この記述からは、村国氏が、尾張連氏と同系であるとすれば、壬申の乱前後頃 百済系の勝氏(金属・陶器関係を担う一
族)を招聘したか、中央から派遣されて居住するようになった可能性を推測するのですが・・・。・・筆者推測。
おそらくは、666年 百済人2000余名を東国に置く。と関わりがあるのでしょう。
*
村国氏が、聖武天皇の娘(女帝)の家政官吏であった藤原仲麻呂(後の恵美押勝)の元で仕えていたのであり、乱後 藤原
氏と共に畿内での立場がなくなり、失脚。
在地に残り力を蓄えた各務氏と同系の一族の可能性の高い勝野氏が台頭してきたのでしょうか。村国氏失脚後 各務郡(
現 鵜沼辺り)で、その力を発揮するようになったのでしょうか。
詳しくは、拙稿 古代 尾張国 木曽川近辺の村国氏一族と各務氏について
を参照されたい。
また、次のような記述をされている方もあるようです。
『真清田神社史』を書かれた田中卓氏は、その著書で、「村国真墨田神社は、恐らく一宮の真清田神社の摂社であり、尾張氏
の側からすれば、美濃、信濃方面への抑えの拠点として、摂社をこの地に祭ったのではあるまいか。」と。また、「村国氏を尾張
連氏に繋がる一族」と推定されているようです。
(上記記述は、春日井シンポジュウム 壬申の乱と東海ー大海人皇子から天武天皇へー 春日井市教育委員会発刊 平成7
年 P.202〜203からの抜粋であります。)
平成26年12月25日 最終脱稿