旧 春日部郡の下末古墳について
1.はじめに
小牧市下末に存在している下末古墳。民家に囲まれひっそりとたたずんでいる。
江戸時代の下末村絵図には、古墳という認識はあったのだろうか。古天神松と表記されているのみでありました。
「昭和9年代には、地元の方は、陶主山(ドウスヤマ)という認識であったようです。」( 愛知教育 564号 昭和9年 12月号 「郷土史料をあさりて」 参照 )
2.愛知教育(雑誌) 「郷土史料をあさりて」内「521 陶主山古墳と宇江社」より
筆者は、山村 敏行・伊奈 林太郎の2氏であり、今回引用する資料は、伊奈氏による執筆であるようです。
その当時、現 小牧市下末に在住されていた伊奈氏の友人 宮地 謙吉氏 の案内で当地を視察され、書かれた内容も地元に詳しい友人の話が元になっ
ているのではなかろうか。
「友人宮地謙吉氏の家が、この付近であることをば知らなかったが、図らずも案内の美藤老人から聞いて、宮地氏を訪ねた。これより宮地氏の案内により
陶主山(ドウスヤマ)に行った。
陶主山といはれる所は、昔宇江社が祀られてあり、大きな松が三本あったが、今は1本しかない。この宇江社の祭神は、天の児屋根命で大正3年1月15日
同じ下末にある天神社に合祀せられたといふ。」
*上記記述から、昭和9(1934)年8月頃には、陶主山上に宇江社が祀られていたかは不明、しかし、小祠は、昭和9年時もあったかと。1本の松があり、宇
江社の祭神は、天の児屋根命であったが、大正3(1914)年に下末にある天神社へ合祀された事が知られる。昔は、松は、3本あったようです。*
「陶主山に登って見れば、確かに前方後円式の古墳で、今は前方部は大部分破壊せられ、後円部も1本の大きな松のあるのと、宇江社が近年まで存して
居た為(今も其の跡に小祠が残って居る)、辛うじて破壊をまぬがれて居る。古老のいふ処によると、小祠の横に立ててある大きな石を指して、この石がこの
所の地中にふさって居て、その下にこのー小祠の壇に積んであるー沢山の石があったと語られた。」
*古老の話として、古墳造営時の石室は、周囲は、石を積み上げた状態で、蓋として大きな石板が載せられていた事をご存じのようで、古老の若かりし頃
古墳前方部が破壊されたのか、祖父よりのまた聞きであろうか。破壊は、それ程古い時期の話ではなさそうに思える。
又、近年まで宇江社が残っていたとも話されており、ここに宇江社が在った事は、事実でありましょう。いつ頃まで存在していたかは不明。或いは、大正
3年までは、当地に宇江社として祀られていた可能性はありましょうか。*
「前方部の処に土器の破片が散乱して居た。拾ってみると須惠の円筒埴輪の破片である。」
「陶主山周囲に堀のあった痕跡も見られる。尚又付近にも塚があったといふが、今は田になって居る。小さい陪塚のあとであると思ふ。」
*江戸期の村絵図には、古墳のある高台より西側、段差のある低地部にツカと書かれた箇所があるようで、或いは、これが、陪塚であろうか。確かにこのあ
たりは、水田となっている。又、古墳は、古天神松としてのみ記載されていた。*
執筆された伊奈氏は、「いつのころか古墳の山に社を建てて氏神様がまつられて、宇江社といふようになり、村の人は古墳であることをわすれてしまい、宇江社
が栄えて、終には祭神の名を必要とするに至り、氏神様や宇江社様では通らなくなって、中臣氏の祖 天児屋根命を祭神と称するに至ったのではなかろうか。」
と推敲されたようです。
3.推敲
平成の世に、私は、この下末古墳跡を訪れた。確かに前方部の無い円墳のように思えた。が、後円墳上には、小祠と古墳から掘り出された大きな石板は、今
も残っていた。傍には、昭和9年代残っていた1本の松であろう切り株が、朽ち果てて無残な姿を残していた。伊勢湾台風で、この辺りの木は、根こそぎ倒れた
可能性を推測する。
江戸期には、村人は、この円墳を山とみなしていたのだろうか。小祠があったのか無かったのか?、そこには、3本の松があり、村人等は、「古天神松」と呼び、
もし、小祠が残っていたのであれば、その社を宇江社と認識し、「天神」様を祀る社と思っていたのではなかろうか。どのような「天神」であるのかは、もうその当時
には、天神とのみ伝わり、古い天神ー>古天神と呼称するしかなかったかも知れない。古天神様の祠の傍の松故、「古天神松」と言い伝えたと推測する。
村絵図には、祠も記載されていないようで、既にその当時は、小祠は無かったかも知れない。松のみであったのかも・・・。
只、古い天神様という伝承は、江戸期までは確かに残っていた。昭和期の古老にも宇江社があったという伝承は伝わっていた。何天神かは、よく分らないよう
で、それ故であろうか大正期になって、同地区にある天神社へ合祀した事も”天神”という一くくりで自然な流れであったのかも知れません。
とすれば、現在 円墳上にある小祠は、大正期以降の祠か、以前の祠の継続か。今となっては、そうした事柄をよく知る古老らは、存命されてはいない可能性が
高いと思われます。
下末古墳は、地域の宝であり、古くから開けた地域であり、伝承も残っていて当然かと。こうした貴重な伝承は、ややもすると消え去る運命なのかも知れません
が、寂しい限りではあります。後世のためにも何らかの形で、残しておきたいと思う今日この頃です。伊奈・山村両氏の業績に感謝したい。
( 伝承類は、ややもすると、江戸期の国学の学者様の捏造という面での把握もして置かなくてはならないかと。1級史料ではありませんから。)
*
大胆な推測に過ぎませんが、本庄村に乎江の神社が存在していたとすると、当地の「式内乎江神社は、正慶年中(1332年〜)兵乱の為、消失して絶社。」(
東春日井郡誌 参照)し、その当時の本庄村の誰かが、下末に密かに・・・・・と考える事は出来ないであろうか。あくまで推測以外の何物でもありませんが・・・。
そして、下末に口伝として残ったと推察致しますが、どうであろうか。前記論述が、的を得ているとすれば、江戸期・昭和期に残る古天神松・宇江社という伝承
から或いは、当地の伝承の元は、鎌倉末期頃以降かと類推致しました。
戦乱は、その当時の支配層を駆逐するか、転出させえたとも。「口碑によれば、戦国時代 熱田の東方 井戸田より移れる井戸田将監が、土着し、更に後、梶
原景時の九世孫
三郎左衛門忠長の次男 永井三金なる者 田楽村より移住し、此地(野口・・私の注)に神明社を勧請したりと云う。」(東春日井郡誌 昭和52
年版 P.726 参照
初版本は、大正12年)とあるような配置傾向があったのかも。尾張東北部は、室町末期頃に村民の総入れ替えカ、村の上層農民の配置傾
向は、多かったとも推測出来えますから。本庄しかり、野口しかり、林しかり、上末しかり、大草に至りては、戦国期 西尾道永(大草城主)なる人物も居住してい
ますから。*
<<参考>>
・ 本国神名帳 写本(愛知県図書館所蔵 https://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/pdf/1103267241-001.pdf
参照)
「従三位 別小江(ワケヲエ)天神 1ニ(入カ或いは大カ・・私の注)江ニ作ル 神社考燈曰乎江神社若子宿禰(
更に隣の行には、)按旧事紀物部印葉連之弟大別
連カ」とある。確かに別小江神社は、現 庄内川右岸に存在している。その当時の従三位 別小江(ワケヲエ)天神に比定出来ればですが・・・・。とすれば、入江で
はなく、大江(庄内川に比定出来る。・・・私の注)でありましょう。
若子宿禰とは、尾張馬身の子 若子麻呂の事ではなかろうか。とすれば、乎江神社と若子麻呂の間には、何らかの関わりがあったという伝承の存在を推測
いたします。また、本国神名帳には、「従三位 乎江天神 魚江天神カ」とも記述され、式内社として記載されています。
著者 天野信景。貞観延喜旧式参考国帳数本・本州神名帳一篇と伊勢神宮神主 度会延経の話を基に記述されたようです。
宝永4
年(1707年)自序; 出版書写年カ
・ 【延喜式神名帳】乎江神社 尾張国
春日部郡鎮座なる記述がある。乎江ー>魚江ー>宇江カ
*
この記述を読まれた方、史実と即断されませんように!! あくまで推論に過ぎません。史実かどうかは、今後の1級史料の発掘にかかっている事柄で
はあります。望みは薄いのが現状ではありますが・・・・。(筆者より)*
< 付記
>
熱田面(この辺りは、田楽面と称する)上に造られた下末古墳(前方後円墳カ)の創建年代は、古墳前期以降でありましょうが、盗掘にあったかのようで、そう
した年代を知る術が無い。味美古墳群や熱田古墳群よりは、古いのかも知れません。
それは、 「陶主山周囲に堀のあった痕跡も見られる。尚又付近にも塚があったといふが、今は田になって居る。小さい陪塚のあとであると思ふ。」と述べて
みえるところから、古墳築造時、陪塚を止め、埴輪に切り替わる前後頃の物であろうか。付近には、「前方部の処に土器の破片が散乱して居た。拾ってみると
須惠の円筒埴輪の破片である。」と。この古墳には、埴輪があり、尚それでも陪塚も存在する。過渡期の古墳でありましょう。
「尾張国内では、春日部なる名代・子代の記述は、記紀等には、見当たらない。が、雄略朝から安閑・宣化天皇(継体天皇の息子であります。)元(535)年期の
どこかで設定された可能性はありましょう。案外雄略朝期に設定されたのではないかと。継体朝期には、早くも衰退した可能性を推測します。」(あくまで仮説に
過ぎませんが・・・。)尾張風土記に伝承として記載されている「国造川瀬連」なる人物。風土記から推測すれば、川瀬連は、春日部郡内で、田を開発した者である
かのようです。この当時、新たに田を造り出す事の出来る存在であれば、多くの者を従わせていた人物でありましょう。
この推論の元は、<『塵袋』巻3にも尾張国風土記の逸文と見なされる一節が載っている。「昔、尾張国、春部郡、国造川瀬連ト云ケル者、田ヲ作タリケルニ、一
夜ノ間、藤オヒタリケリ。アヤシミオソレテ、切棄ルコトモナカリケルニ、其藤大ニナリニケリ。其故ニ此田ヲバハギタト云ヘルトカヤ。」
地名の起原説話は諸風土記に共通して多く、この一節も中世の文体に書改められてはいるが、風土記原文の大意は伝えているごとくである。
ところで、「国造川瀬連」であるが、天武紀の12年9月丁未の條に「川瀬舎人造に姓を賜ひて連と曰ふ」と記されていて、川瀬連という氏姓は確かに存し、元は
川瀬舎人造であった。>かと。
或いは、<雄略記に「十一年夏五月辛亥朔、近江国栗太郡言さく、白きう、谷上浜に居る。因りて詔して川瀬舎人を置きたまふ」とあり、古事記の雄略段にも
「長谷部舎人を定めたまひ、又河瀬舎人を定めたまひき」とあって、雄略朝に河瀬舎人が初めて置かれたことは広く知られた伝承であったらしい。
そうすると塵袋所載の国造川瀬連は祖先は川瀬舎人造であり、ワカタケル大王すなわち雄略天皇の側近に侍したという関係がその後代々子孫とヤマト王朝と
の間に維持せられ、国造制度確立に至った時、国造に任命されたという風な場合もありえぬことではない。
ただし国造といっても尾張国造とは限らず、尾張国として統合される以前の、春日部を中軸としてその隣接地域を合わせた程度のクニの国造だったかも知れぬ。
また川瀬舎人をヤマト王朝に貢進した氏族は尾張連一族か丹羽臣一族か和爾臣一族か、それともまったく別の在地豪族であったのか、想像をめぐらせば限りが
ない。>と。 ( http://www.city.kasugai.lg.jp/shimin/bunka/bunkazai/kyodoshikasugai/1004471/kyodoshi04.html 内 「春日郡の豪族と古寺址」 久永春男氏論考
からの抜粋 )