旧 美濃国 垂井 相川(河川名)以南の地の古代の概観
1.はじめに
旧 美濃国 垂井の地は、知れば知るほど不可解な地であります。今回は、垂井を東西方向に流れ、
やがて赤坂宿東を流れるかっての元 揖斐川であった杭瀬川に合流している相川という河川以南の地
に限って古代の概観をしておきたい。
やはりこの以南の地にも、古墳が存在している。野上の地に近い所には、朝倉古墳群(5世紀後半 4
基の円墳)、表佐(オサ)の地には、勝宮古墳(6世紀後半から7世紀初頭頃に築造)、栗原の地には、栗原
古墳群が知られる。
表佐(オサ)の地の勝宮古墳は、前方後円墳(後期古墳)であり、大領神社の祭神となっている壬申の乱
時の宮勝木実、金山彦を祀る仲山金山彦神社の宮司になられた方のご先祖様とは、直接繋がっていると
は、思えませんが・・・。
2.垂井盆地のマンボ
「金蓮寺の南の道に出ると、この道筋の庭先に珍しいマンボ(地下水を集めた横井戸)が見られる。
不破地方ではかってあちらこちらに見られたが今では貴重な存在となりました。
マンボとは、他に例を見ない長い横井戸のような暗渠のことで、素掘りでつくり、地中の浸透水を集め、
目的の田んぼまで水を運ぶための灌漑施設です。金蓮寺辺りの横穴は600mも掘ってあるそうです。
40年前には126本のマンボがありましたが、圃場整備をきっかけに大部分が消滅しました。」(この記述
は、文末 (1) URLからの抜粋であります。)
こうしたマンボは、{他には南濃町,上石津町,養老町にも残されています。全国的にも多く見られます
が現存するものは珍しい。
三重県大安町ではマンボを漢字で「間風」と書き,隣の三重県北勢町では「間歩」もしくは「間保」と綴っ
ています。
知多半島では「マンボ」あるいは「マンボー」と呼びます。
鉱山用語では、坑道を「まぶ(間府)」といいます。とか。
鉱山技術者にとってみれば類似の施設ですので、鉱山用語からの転用が説得力があります。
しかし、谷崎潤一郎の『細雪』にマンボウの記述があり,「マンボウとはガード,トンネルの事で,オラ
ンダ語のマンプウに由来する」と述べています。また、スペイン語からの派生という説もあるようです。}
以上の解説も、上記のURL htm文書に記載されております。
こうしたマンボが、いつ頃敷設されたのか。三重大学の研究紀要では、「江戸期に技術が開発され,明
治になってからさらに潜及をみた。」と記されている。それ程古い起源の物ではなさそうです。谷崎氏のオ
ランダ語のマンブウに由来するは。けだし明察でありましょう。
私は、もしかすると古代の技術かと推測いたしましたが、見事に裏切られました。
3.宮処寺(グウショジ)跡について
南宮大社参道沿いに宮処寺跡は、存在していたとか。白鳳期((
650年〜654年)の寺(出土瓦よりの推定)
であったようです。
とすれば、聖徳太子の仏教奨励の詔を受けた在地豪族の氏寺として建立された可能性が高いと思われま
す。
宮処寺跡については、文末の(2) URLにて参照されたい。
この宮処寺の存在は、{『続日本紀』天平12年(740年)12月条に、「幸宮処寺及曳常泉」(宮処寺及び曳常泉
<ヒキツネノイズミ 通例は、垂井の泉の事と言われていますが、新修 垂井町史 通史 では、元 南宮大社名誉
宮司 宇都宮敢著 「栄光の曳常泉・宮処寺考」 平成2年刊 から、この泉は、南宮大社境内社 湖干海社の
そばにある ”如法水”だという。・・筆者注>を聖武天皇が、訪れたとの記事がある。」事から、史実であろうと。
しかし、現在の宮処寺跡地については、「発掘調査未了のうちに宅地開発が進んで遺構が破壊された。」よう
で、確かな事は分からないようであるという。推定ではありますが、現 宮処寺跡地近くには、不破郡家(天智朝
の頃の郡家であろうか。・・筆者注)があったとか。
やはり、この宮処寺は、こうした地方豪族の氏寺として建立されたのでありましょう。
「伝承によれば、真禅院の前身は天平11年(739年)行基により創建された象背山宮処寺(ぞうはいさんぐうしょ
じ)であるとされる。その後、延暦年間(790年頃)、勅令があり、最澄によって南宮神社(現南宮大社)と両部習
合(神仏習合)され、神宮寺と改称したという。宮処寺の名は『行基年譜』に見えず、創立者を行基とするのは後
世の付託と思われる。」という記述が、ウイキペデイア 真禅院 最終更新
2013年10月30日 (水) 06:38
の項目
にありました。
こうした行基伝承を持つ寺院等は、もしかすると平城京内の行基集団が、強制帰国させられた為各地で交通
施設を造る活動をされた可能性も否定できません。この現 宮処寺跡が、正しければ、古東山道沿いであり、平
城京に居住する行基集団を本貫地へと強制送還したのは、養老6(722)年7月10日の太政官奏(類聚三代格
巻三)によりますから、まんざら無いとは言い得ないでしょう。
しかも、その宮処寺は、最澄により移築される790年代までは、古東山道沿いにあったとも推定できましょうか。
*
推定ではありますが、この宮処寺は、こうした地方豪族の氏寺であったのでしょう。創建は、白鳳期であり
ましょう。壬申の乱の頃の不破郡家が、誰であったのかは、不明ですが、表佐(オサ)に存在する古墳後期の前
方後円墳(勝宮古墳)が、この垂井の相川以南の地を最終的には押さえた存在であった可能性が高い。
尾張の熱田台地に存在する断夫山古墳の尾張連草香のような人物として。
その古墳近くに勝神社が建てられている。勝氏と古墳主との関わりは、不明です。
そして、宮勝木実と勝神社は、繋がるのか。断絶があるのか。この宮勝木実の出自は、伊福氏の勢力圏で
ある野上郷である事から、伊福氏の部の民とも推測出来そうです。その後、不破郡の大領に出世している事か
ら、この地では、後発の氏族の印象を受けます。更に、伝承では、現 関ヶ原には、尾張宿禰大隅の別業(別荘)
があったようで、壬申の乱では、この別邸が、大海人皇子の野上行宮(仮の宮)とされたという。
また、真禅院は、天慶年間938年〜947年の南宮十坊の一つであり、10世紀頃の事と推測されます。初発の
南宮社の神宮寺は、延暦の年(8世紀末頃)に勅令により天台宗の開祖比叡山延暦寺の最澄(伝教大師)によ
って、南宮大社と両部習合され現在の南宮大社地に移転し、寺号を宮処寺から神宮寺と改められ、天台宗の
寺院となったとか。この辺りが、史実に近いのではないかと推察致しますが、どうであろうか。*
さて、現在 宮処寺跡は、二ヶ所想定されており、聖武天皇の宮処寺と泉への御幸があったという点、泉は、
現在の垂井の泉とすれば、大領神社近くではない、金蓮寺近くの跡地が、宮処寺跡ではなかったか。この垂井
の泉は、「JR東海道線の垂井駅から西に10分ほど歩いた玉泉寺の門前にあり、その南側に大ケヤキが立って
いる。」所であるという。南宮大社参道沿いにどちらも存在している事になりましょうか。
参考までに、南宮大社の神宮寺であったという現 真禅院には、突く事が禁止されている釣鐘(梵鐘)が存在し
ているようで、「無銘だが撞座(つきざ)の位置、龍頭の取り付き方などに古代鐘特有の様式を示し、奈良時代か
ら平安時代前期の制作と推定される。」<前掲 (2) ウイキペデイア 参照>とも記述されていました。
この梵鐘は、最澄と関わりのある南宮社の神宮寺の物であろうか。
4.宮代廃寺跡について
「出土した瓦類は、単弁蓮華文や複弁蓮華文の軒丸瓦・軒平瓦・丸瓦・平瓦など白鳳期から平安時代に及んでい
る。
また、基壇東部の階段跡から、「開元通宝」(中国の銅銭 7世紀〜10世紀頃に流通)が出土した。
この廃寺の創建は白鳳期(
650年〜654年)の初期に遡るとされ、壬申の乱の功臣 後の郡大領(郡司職の長官
に当たる。)宮勝木実の氏寺であったと考えられ、聖武天皇の美濃行幸の時の「宮処寺」にあてる説がある。」とか。
詳しくは、文末の(3)URLを参照されたい。
新修 垂井町史 通史の執筆者も、宮処寺を、宮代廃寺と想定されているのでしょう。また、不破郡家も、大領神
社近辺に存在していた可能性を推測されているようです。
垂井町教育委員会の調査等では、この宮代廃寺跡は、壬申の乱の功臣 後の郡大領 宮勝木実の氏寺であった
と考えられるという認識のようですが、勝神社を祀った豪族と宮代廃寺との関わりは、どのようにみておられるので
しょうか。
この宮代廃寺跡地は、大領神社近くにあったようで、現 藤樹寺が管轄しているという。
藤樹寺は、正式名 藤樹禅寺とか。禅寺であれば、遅くとも室町期のどこかで創建されたのでしょうか。藤樹とい
う名前が、私には引っかかります。中江藤樹と関わりでもあるのでしょうか。確か氏は、近江出身の筈。直接氏とは
関わっていないにしてもそのお弟子さんが関わっているのでは・・。確認しておりませんから推測です。寛永頃に、
中江藤樹は、宮仕えを辞して故郷に帰られたとか。現 南宮御旅神社も、寛永頃の創建とか。気にかかります。
宮勝木実は、百済系帰化人 多利須々の後胤とかで、下記「不破年譜」では、木実は、「美濃国当芸郡野上郷仲
山麓にて誕生。」とも記されており、由緒書でありますから、どこまで信用できましょうか。
しかし、「『古事記』には倭建命が”当芸野上”に到ったとする記述もあり、これを当芸郡 野上郷と読めば、古事
記(712年 和銅5年に太朝臣安萬侶<おほのあそみやすまろ 通称 太安万侶の編纂とか。)は、8世紀初頭頃の
作であり、編者は、その当時の評・郡に基づいて記述された可能性は高いのではないかと。時期的には、不破年譜
の内容と古事記の内容の郡名は、一致していると言えましょうか。一説には、当芸郡(多芸郡カ)から分割されて不
破郡が出来たとも。
不破町史 昭和43年刊の通史史料編 P.4には、一級史料とは言いがたいのですが、「不破年譜」なる史料が
掲載されております。それによると「宮勝広盛 不破大領 実は天武天皇の御落胤とも記述され、母 藤子 天武
天皇野上行宮時、藤子皇后ト為シ、天皇京還之後、白鳳2年5月 広盛生マレル。奏上して、封十戸賜ウ 後霊正三
位宮氏明神祭ル。」と記されている。宮氏明神は、当地には現存していないようであります。更に「宮勝盛好 広盛
嫡子 不破大領 称徳帝から嵯峨帝ニ至、後霊正三位 勝氏明神祭ル。」とも記載されている。これが、あの勝神社
でありましょうか。
また、「勝宮(カツミヤ)古墳(6世紀後半から7世紀初頭頃に築造)近くには、勝(カツ)神社が存在しています。この勝
氏は、あの大和朝廷の基礎を築かれたという武内宿禰(謎の人物)に関わりがあるとも記述されているようです。」詳
しくは、文末の(1)のURL
htmlファイルを参照されたい。
しかし、
岐阜県神社庁公式HPには、勝神社について、「創建年紀不詳。勝氏霊神は即ち美濃國神明帳に有之
従四位下 勝氏明神なるべし。尤も社の裏に塚あり。この塚は、明神の塚なりと申し伝えあり。」と記載されている。
ここは、現 垂井町立表佐小学校近くであり、「勝神社の主祭神は、勝氏明神であり、摂社として、うけのりの命・
筑後玉垂命・諏訪住吉があり、摂社の祭神は、後に祭祀すと亦申し伝えあり。」とある。
勝宮古墳(6世紀後半から7世紀初頭頃に築造)の主と勝氏明神(上記記述より宮勝氏と関わりがある可能性が
高い。・・筆者注)とは、断絶があるのではなかろうか。
勝宮古墳は、6世紀後半から7世紀初頭頃に築造。とすれば、この古墳を築造した豪族の末裔と宮勝木実とは、
関わりがあったのであろうか。
その後、壬申の乱の活躍で、木実が、当地の郡司大領に抜擢された可能性が高い。
表佐には、「、『続日本紀』に登場する栗原氏や勝神社のある表佐に居住する曰佐氏が存在していたようで、奈良
県の石神遺跡から出土した乙丑年(665)の紀年をもつ木簡にも三野国 曰佐なる記載がある。」 という。
この日佐氏は、その後どのようになっていったのかは、記載が無いのでよく分かりかねます。
私の居住する地域の近くには、白鳳期の大山廃寺跡があり、その山の麓には、延喜式に記載された神社が存在し
ていたようですが、消滅していったようです。垂井の勝神社は、その後も存続していますからこの豪族(実は、宮勝氏
後の不破氏に繋がるのでしょうか。・・筆者注)は、それ以後も存続できえていたのでしょう。
公式HPの記載からは、うけのりの命は、奈良県吉野郡吉野町の勝手神社の祭神カ。筑後玉垂命は、九州の土着
の神カ。諏訪は、諏訪大社の意カ。住吉は、住吉大社(九州の神)の意カ。こうした祭神は、後から付会した神々であ
るようだという伝承があるようです。
宮処寺跡地にしろ宮代廃寺跡にしろどちらも瓦類の出土があり、垂井には、相川右岸(南側)側には、白鳳期(
650
年〜654年)頃には、当地には、豪族が居た事になりましょうか。まるで、筆者の地 尾張北部 勝川廃寺跡・大山廃寺
跡と同様であり、当地では、須恵器工人の活躍していた時期と重なります。垂井の地では、須恵器工人であったのか
たたら工人であったのでありましょうか。
5.南宮大社について
この神社の主祭神は、金山彦。配神として彦火火出見命、見野命の2柱が祀られているとか。
彦火火出見命は、南宮大社の摂社である高山神社の祭神(ニニギとコノハナサクヤ姫)の三男(別名 山幸彦)であ
るようで、見野命は、「『日本書紀』には、豊組野尊(豐斟渟尊)の別名に見野尊が登場するが、美濃國の神、美濃国
造の祖神ということかもしれない。
」と。
出雲系の集団と美濃国造系の集団により、当地は、鉄に関わる聖地とされたのかも知れません。当然伊福氏や尾張
氏も何等かの関わりをしていたと推測致します。
参考として「大海人皇子は、自身が行動をおこす2日前の6月22日に、村国男依、和珥部君手、身毛広の3人に美
濃国に先行するよう命じた。彼らの任務は多品治(大海人皇子の封戸である湯沐邑の湯沐令)に連絡し、まず安八
磨郡(安八郡)で挙兵させることであった。彼らと多品治は無事にその任を果たし、美濃の兵3千が大海人皇子のた
めに不破道を塞いだ。このおかげで大海人皇子は東国の兵力を集めることができた。という。あの美濃国 国守 小
子部さひちが、亡き天智天皇の陵を造るとして2万人とも言われる民を集めていた集団を引き連れ、不破郡家に到着
した大海人皇子に合流した事は、周知のことでありましょう。
天智朝時、不破郡家がどこにあったのかは諸説あり、不明ですが、、大海人皇子の祭地(湯沐邑)は、垂井まで含
んでいたかどうか。仮に含まれていたとしても湯沐令(ユノウナジ)の方が、郡家より数段力が上であったようですから郡
家は、従った筈。事実かどうかは定かではありませんが、不破郡家で、壬申の乱直前吉野から移動してきた大海人
皇子を出迎えたのは、尾張国の郡司 尾張宿禰大隅であったとかなかったとか。壬申記では、出迎えたのは、大海人
皇子の皇子であったようです。
村国氏は美濃国各務郡の豪族である。村国男依は舎人として大海人皇子に仕えたと考えられている。
岐阜県各務原市(かかみがはらし)の各務に村国神社があった。この神社の祭神は天火明命、石凝姥命、村国男依
だという。『各務村史』に、町名「各務」は往古は「鏡」であったといい、村国男依が村国氏の太祖天火明命と鏡作りの祖
神 石凝姥命を祀って創建した社に、その後 子孫が村国男依を合祀し村国神社と称したと記されている。
古代において鏡も金属器であった。因みに石凝姥命は奈良県田原本町の「鏡作坐天照御魂神社」(かがみつくりに
ますあまてるみたま神社)に主祭神天照国照彦天火明命(ニギハヤヒ)とともに祀られている人だという。(何だか物部
氏も絡んでいるのでしょうか。・・筆者つぶやき)
村国男依は西美濃の刀鍛冶を掌握して何千本もの刀を作らせたという。村国男依は数万の兵を率いて不破から一
気に近江に攻め込み連戦連勝し、天武天皇の勝利に貢献した。
村国男依が西美濃の金属加工集団を掌握できたのは、同族の関係者がこの地に多かったからに他ならない。南宮
大社の金山彦命に象徴される神を祀っていた金属集団は、結果として大海人皇子の武器製造所として機能したことに
なるとも記述されている。
南宮大社は、岐阜県不破郡垂井町にある。この不破郡であるが、当芸郡より分割されたものだ。
<百済系帰化人多利須々の後胤で美濃国当芸郡野上郷仲山麓に生まれた宮勝木実が、壬申の乱の功によって、当
芸郡より分割した不破郡を賜り、不破と改姓したとされる。>」という記述を目にした。この記述は、下記のURLからの抜
粋であります。詳しくは、http://09270927.at.webry.info/201310/article_9.html を参照されたい。残念ではありま
すが、<上記内容>の出展については、記載されておりませんでした。
どうやら上記の出展は、『新修 垂井町史 通史編』
P.113及びP.903であるようです。ウイキペデイア不破氏 最終
更新 2013年5月3日 (金) 13:38
の項目から分かりました。
そして、不破郡大領 宮勝氏の系譜を引く不破氏は、南宮大社の社家の一つとなったという。また、南宮大社の神紋
は、現在は菊紋を使用しているが、昔は三つ巴だった。境内の荒魂社などには、三つ巴の幕、本殿の側面にも三つ巴
が付いている。そして不破家の家紋も三つ巴であるという。
神紋・家紋が同一である事は、何をものがたっているのであろうか。尾張の熱田社の宮司が、尾張連氏の一族であ
ったように、南宮社の初発の宮司は、どの一族の末裔であったであろうか。明らかに不破氏は、後発の宮司であるか
のように思われますが・・・。初発からこの渡来人も関わっていたのでありましょうか。
壬申の乱時、大海人皇子は、戦勝祈願を南宮社でおこなった可能性が高いという。その当時は、南宮社は、府中に
あったのだろうか。また、野上行宮(仮の宮)は、あの尾張国の郡司 尾張連大隅の別業(別荘)であり、その跡地は、
現 関ヶ原であったのであろうか。。
あくまで伝承の類からの推論でありましょうが、何がしかの史実を言いえていると推測いたします。事実とすれば、既
に尾張氏は、壬申の乱以前に、この美濃国 垂井辺りまで進出していた事になりましょうか。水運だけでなく、陸路にも
関わっていたのでありましょう。
参考までに、6世紀頃は、尾張国では、尾張連草香の勢力が最高潮に達し、あの県下で一番の規模を誇る熱田神宮
近くに断夫山古墳を築造していた。この草香は、古事記の記述によると(尾張連氏系図の一つから、草香の直系の長
子が、凡(オオ)であるかのような記載あり。)凡連であり、あの安八郡の大海人皇子の湯沐邑の長官は、多品治(大海
人皇子の封戸である湯沐邑の湯沐令)であった。こちらも凡氏一族であるようです。
更に、大海人皇子の乳母は、何と尾張国の大海宿禰菖蒲(オオシ アマノスクネ アラカマ)(凡海連)といい、そのため
大海人皇子は、養育係りの名前から幼名をもらったともいわれているとか。
*
大胆な推測ではありますが、尾張国の大海宿禰菖蒲(オオシ アマノスクネ アラカマ)(凡海連)を、草香の長子 凡
の末裔とする事はできないだろうか。尾張連氏の系図上では、凡のその後については、不詳となっていますが・・。筆者
注*
すべて、尾張国の大海人皇子を助けていた者は、凡氏一族のような・・・。これって偶然の一致にしては、出来すぎで
はないだろうか。尾張・美濃国の在地の豪族は、全て初発から大海人側であったようで、天智朝から任命されていた尾
張国 国守 小子部サヒチは、在地の郡司達に逆らってまで己の主張を貫き得なかったのでしょう。
所で、小子部氏の出自は、何と凡氏一族であったともいう。
凡氏(多氏ともいう。)は、「多氏の本貫は肥後国だが、その子孫は、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、
阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造、長
狹國造、伊勢船木直、尾張丹波臣、嶋田臣など、全国にわたり国造になっている場合が多い。」とか。太安万侶も、
凡氏の一族であるようです。
5.垂井 不破高校辺りにあった冑山古墳について
「冑山古墳は7世紀前半の直径35mの円墳でしたが、昭和39年、不破高校のグランド建設のため、それまで田圃にあっ
た古墳が破却されました。」
(詳しくは、http://fuwaiin.com/kofun/tarui-kabutozuka-kofun-zangai/tarui-kabutozuka-kofun-zangai.html
を参照されたい。)
このURLの不破高校グラウンドに残されている古墳石室の残がい物の写真は、何とも言えません。この古墳は、南宮
山西側から流下する川の右岸側流域に築造されていたようです。そして、相川に大滝川が、合流する反対側で、この川
は、落ち合っています。また、この川の源流域には、湖のような存在が確認できます。
付記
謎に満ちた武内宿禰について、とあるHP上にこういう見方もあるものかという仮説ではありましょうが、ありました。
成程とうなずいてしまいましたが・・。それを読まれた方は、どのような判断をくだされるのでしょうか。
そのURLを添付しておきます。http://kawasaky.at.webry.info/201104/article_15.html
です。
参考資料
(1) http://mori70nakasendo2.dousetsu.com/23mino142.htm
(2)
http://www.pref.gifu.lg.jp/kyoiku-bunka-sports/bunka-geijutsu/bunkazai-zuroku/bunkazai-zuroku/shiseki/taruichou/gushojiato.html
(3)
http://www.pref.gifu.lg.jp/kyoiku-bunka-sports/bunka-geijutsu/bunkazai-zuroku/bunkazai-zuroku/shiseki/taruichou/miyasiro.html