旧 美濃国 垂井に存在する南宮御旅神社についての雑感
1.はじめに
まだ一度も参拝しておりませんが、現 垂井の府中に建立する御旅神社。創建年は、不詳のようですが、
現在の神社は、近世になってその地に建立されたようです。建立地は、かっての美濃国府の役所の正殿
跡とか。国府が衰退し、国府跡を知らしめるように、安立寺・御旅神社等が建立されたかのようです。
詳しくは、http://www.ginet.or.jp/tarui/public/pdf/pub25_2_01.pdf を参照されたい。
現在の南宮御旅神社は、「神社の建物は、本殿、弊殿、渡廊、拝殿からなり、寛永19年(1642)に南宮大社
とともに再建されたようで、現在地は、美濃国府の正殿跡地に建立されているとか。」それ以前の神社は、ど
こに建立されていたのでありましょうか。そうした記述は、見当たらない。
ウイキペデイア 南宮御旅神社の項目では、御旅神社の主祭神は、金山姫命(金山彦の姉とも奥さんとも
言うようであります。)。相殿には、豊玉姫・埴山姫が祀られていると記述されていました。(最終更新
2013
年12月20日 (金) 17:04
)
参考までに、「安立寺南西にある奈良時代後半から平安時代の遺物を伴う鍜冶炉跡。」の存在。国府近く
の北側であり、国府に関わる
鋳物師集団の存在が想起されましょうか。
2.豊玉姫について
豊玉姫は、大海神(オオワタツミ)の娘とかで、ニニギとオオヤマツミの娘 木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)との間に
出来た子と結ばれたという。(拙稿 南宮大社を訪ねて も参照されたい。)
参考までに、「奥の院が、南宮山山頂の近くにあるようで、南宮大社の奥の院かと思いきや、摂社の高山神
社{祭神は、木花開耶姫(オオヤマツミの娘)とニニギノミコト(天照大神)の子}の奥の院であるとか。」
とすれば、南宮山麓は、元々高山神社の祭神の管轄地であったのでしょうカ、そして、豊玉姫は、結ばれたと
いう事から類推すれば、先にこの地を支配していたのは、こうした祭神を信奉する集団ではなかっただろうか。
また、一説では、{『記紀』に明確な記載はないが、豊玉という名前から勾玉の一大産地であった出雲の姫で
あるとの指摘」もある。}とか。
3.埴山姫について
埴山姫とは、一説には{ハニヤスとは、日本神話に登場する土の神であり、「ハニ」(埴)とは粘土のことであり、「
ハニヤス」は土をねって柔かくすることの意とされる。}とか。
確か、垂井の北方の山麓では、古窯址(美濃国府創設の瓦等を産出カ)が存在しているようで、埴山姫命は、こうし
た集団の祭神であったのでありましょうか。しかし、「宮処寺跡 県内最古級の白鳳寺院」とか、「宮代廃寺跡 大領
神社の南東に位置。不破郡大領・宮勝木実の氏寺とされる。」(前掲 PDF 参照)とかいう記述。これらの寺院は、
奈良時代の前頃の創建でありましょうか。瓦葺であったようで、建立地であった所から瓦類が出土している。これら
のことから、当地の古窯址は、もっと古い存在であったのではという推測を致しますが、実証はされておりません。
更に付け加えるとすれば、この地域は、かって聖徳太子の祭地(天武天皇の湯沐邑になっていった。)であったかと。
「聖徳太子の息子は、蘇我氏により攻められますが、太子の息子のお付の者(美濃国の豪族の舎人カ)は、皇子に秦
氏の居住地の深草の地へ逃げるよう耳打ちしたという。これは、蘇我氏といえども、この頃の秦氏には直接手を下せ
ないと言うことを暗に示していると言えるのではないでしょうか。皇子は、そこへは逃げず、亡くなりました。」。そのお付
の者は、深草で、馬を借り、美濃の地へという事を暗に示し、援助するという申し出をしたのでしょう。しかし、皇子は、
父の教え”和を以って尊しとせよ”を自ら実践されたのでしょう。民を巻き込んでの争いを望まれなかったという事でしょ
うか。
「このお付の者は、もしかすると壬申の乱時に、大海人皇子に味方した後の美濃国府大領 宮勝木実のご先祖様であ
ったのではなかろうか。」(推測以外の何物でもありません・・・筆者注) 宮勝木実は、渡来人の一族ではありましょう。詳
しくは、拙稿 渡来人 秦氏についての覚書 を参照して下さい。
この記述後、宮勝木実の出自が、確かではありませんが記載されているURLにたどり着きました。それによると
「百済系帰化人多利須々の後胤で美濃国当芸郡野上郷仲山麓の生まれである。」と。その事を記載されたURLは、
http://09270927.at.webry.info/201310/article_9.html であります。出展については、不明でありますが・・。
4.まとめ
豊玉姫・埴山姫についての記述は、『記紀』の記述によるところが大であります。こうした伝承は、あくまで伝承
でありますが、なにがしかの史実を言いえている可能性を否定出来えません。
大胆な推測が許されるのであれば、当 垂井の地に早くから定住していた集団は、高山神社の祭神集団であり、
豊玉姫を祭神とする集団・埴山姫を祭神とする集団ではなかっただろうか。しかし、この三つの祭神では、やはり、
豊玉姫を祭神とする集団、高山神社の祭神集団が、早かったのではなかろうか。そして、その後 埴山姫を祭神と
する集団(多分7・8世紀以降の須恵器工人集団カ もっと以前からの想定はできないのだろうか。・・筆者注)が、や
ってきたように思えてしかたがない。
豊玉姫の本来の出生地が、出雲であれば、福井 かっての越の国であり、この国と出雲とは、何等かの繋がりが
想定出来る事から、その越の国を経て、垂井へという構図が想像出来る。
またまた想像の翼が広がりますが、継体天皇治下 越の国は、勾玉の生産地であったかと。そうした生産が可能
であったのは、この国には、既に出雲より勾玉工人集団が・・・。あくまで、想像であります。
また、高山神社の祭神も、本来の出生地は、出雲のような印象を受ける。
そして、当地に最後にやって来たのが、金山彦・金山姫を祭神とする集団(多分 最古の工人集団は、応神天皇の
頃の工人集団カその後も時期を置いて新たな工人集団の来訪があったと推測されます。)ではなかろうかと。この製
鉄神の神々は、新羅系の渡来工人集団の祭神ではなかっただろうか。
参考までに、金屋子神は、山陰地域であり、砂鉄を使った製鉄技術集団でありましょうか。金山彦・金山姫は、岩鉄
を用いる製鉄集団の祭神のように推察致しますが、どうであろうか。同じ塊鉄系でも更に二系統の製鉄技術集団の存
在を想定出来そうであります。
列島の古代史 2 暮らしと生業 岩波書店 2005年版 「鉱物の採集と精錬工房」 花田勝広氏の論考内に、渡
来工人のふるさと朝鮮半島の事柄が記載されており、P、226参照 「近年韓国では製鉄遺跡の調査が増加している。
(中略)三国時代前期に朝鮮半島で炭素分の含有量の高い銑鉄と低い塊鉄(カイテツ)の二つの成分を示す鉄器の存在
が指摘される事から、銑鉄系と塊鉄系の鉄素材を生産する二つの製鉄技術が併存していたとみなされる。」(「倭人と鉄
の考古学」 村上恭通著 青木書店 1998年版 参照)と。このうち、塊鉄技術が、工人と共に渡来したかのようであり
ましょうか。銑鉄系の技術の日本への渡来は、8世紀以降であるようです。
以上の集団は、全て外からやってきた集団でありましょう。本来 日本に先にいた集団は、縄文時代人であり、後から
の移住者は、ひっくるめて言えば、弥生人を祖先にした集団の移住でありましょう。
最後に付け加えるとすれば、当地では、白髭神社が、御旅神社に併設されているようです。以前は、字 葉生に鎮座。
昭和39年に御旅神社境内地の南側に遷座移建されたようですが・・・。
この白髭神社の祭神は、猿田彦であり、この神は、縄文神とも言われ、日本列島の最古の神でありましょうか。ま
るで、伊勢神宮のある内宮の謂れと同じではありませんか。
複雑怪奇な歴史を当 垂井の地も、経てきているとしか言いようがありません。
文献史学とも民俗学的手法とも違いますが、神学的祭神分類手法とでも言いましょうか。こうした見方も出来ると
いう一手法であり、科学的かと言われれば、かなり想像的な分野が多い非科学的な見方ではありましょう。
平成26年6月30日 記載
平成26年7月2日 一部加筆