旧 美濃国 村国真墨田神社・村国神社を訪れて

          1.はじめに
             桃花台の周辺の古代のたたら製鉄に関わる事柄で調べていく内、垂井の南宮社に始まり、犬山の木曽川対岸 鵜沼・
            おがせ辺りの豪族 村国氏にたどり付いた。村国氏に関わる村国神社・村国真墨田神社へ行きたいと思いつつ、平成
            26年が終わり、平成27年の正月を迎えてしまった。

             その1月4日(日)午後、一度旧 41号線を北上しましたが、三が日を過ぎても、まだ初詣客が、車で来ているようで、
            田懸神社・犬山の成田山への辺りは、ひどい渋滞で、諦めて引き返しました。

             再度の挑戦と、1月8日(木)午前9時半に愛車に乗り込み、一路犬山へ。今回は、それ程の込みようではなく、30分
            後には、名鉄 新鵜沼駅に着いた。

             名鉄 各務原線とJR高山本線の踏み切りを越えた所に村国真墨田神社の立て看板が道路左手に立っており、細道へ
            右折して、神社駐車場へと車を走らせ、参拝する事が出来ました。(只、駐車場が、直ぐには神社用か、隣のアパート
            用か判断し難かった事は、確かであります。)

         2.新鵜沼駅近くの村国真墨田神社を訪れて
            神社 右手に手水場があり、ちょろちょろと竜の口から水が流れていた。そこで、柄杓に水を貯め、両手を清め、口もす
           すいでおもむろに、散策致しました。
            右手側には、古木のアラカシが3本保存樹として注連縄を飾られていた。神社は、南向きで、直ぐ前をJR高山本線と名
           鉄電車が併走して走っており、やや騒がしい。

            左手入り口辺りに、赤い鳥居が連なる稲荷神社が、東西に置かれ、更に本殿南西寄りに大己貴命を祭る小さな社が、東
           向きに置かれていた。本殿 左脇には、更に小さな社が、数基置かれ、社の名前も薄く見える字で、「山神社」「御鍬社」等
           読めた。

            初発の神社は、伊木山の麓(伊木山山頂より東へ約2km程東の現 木曽川べり 現在は、大脇グループ 木曽川寮に
           なっているという。現在は、何も残っていないようです。・・筆者注)にあったとか。現在の神社は、そこから移ったという。
           この神社の創建は、7世紀代であるという。壬申の乱後であろうか。

            初発の神社名は、どのようであったかは不明。祭神は、美濃国一宮(南宮大社)の金山彦命と尾張国一宮(真清田神社)
           の天火明命(アメノホアカリノミコト)であり、その後村国氏の末裔が功臣 男依を合祀したとか。この辺りまで、村国氏の支配が
           及んでいたのでありましょう。

            現在の神社名は、江戸時代 安政期に命名されたとか聞く。

         3.村国神社を訪ねて
            犬山より国道21号線を岐阜方面に愛車を走らせ、おがせ町の交差点で、右折。県道205号線(通称 おがせ街道)を走
           る。各務山の東側斜面(峠を越える感じでありました。)を通り過ぎると、やや広い低地部が広がってみえた。その最初の信
           号機の右側に、「村国座」を示す矢印があり、そのT字路を右折。しばらく走ると更に村国座への案内矢印があり、細道へ左
           折すると、村国神社の一つ お旅所神社がみえた。
                        一説には、このお旅所の村国神社は、壬申の乱の功臣 村国男依の墓のあった所とも言うようであります。

            左手側に大きな村国神社の駐車場であろうか。その場所に愛車を止め、その先に二つ目の正真正銘 村国神社の石柱と
           石の大鳥居が立っていた。

            村国神社の祭神は天火明命、石凝姥(イシコリドメ)命、村国男依だという。『各務村史』に、村国男依が村国氏の太祖 天火
           明命(海部・尾張連氏系カ・・筆者注)と鏡作りの祖神 石凝姥命(イシコリドメノ命 物部系とも言われてる方もあるようです。・・
           筆者注)を祀って創建した社に、その後 子孫が村国男依を合祀し村国神社と称したと記されている。創建は、7世紀かと。

            参道は、4m程の幅で、3・400m続いていた。新境川に架かる赤い橋を渡ると、そこは村国神社本殿の境内。左手に村
           国座(村歌舞伎小屋 明治期に創建)が建っていた。本殿の後ろには、奥の院があり、小高い丘の上に建立されていた。(
           その土地の語り部でありましょう方に偶然散策中にお会いし、奥の院が創建されているところは、前方後円墳の部分である。
           とご教示を受けた。)
            社の神紋をみると、「三つ巴紋」あれ、垂井の南宮社の古い神紋と同じではないか。
            南宮社の紋については、「神紋は、現在は菊紋を使用しているが、昔は三つ巴。 境内の荒魂社などには、三つ巴の幕。
           また、本殿の側面にも三つ巴が付いています。(不破家の家紋は三つ巴). 」とか。(詳しくは、下記 URL 南宮大社と不破
           と金山彦命の関係 http://www.fuwaiin.com/takehanajou-rekisi/nanguu-taisya/nanguu.htm 参照 )

            さて、村国氏の出自についてですが、拙稿では、尾張連氏系という認識でありますが、最近 この辺りの事柄を記述してい
           る http://akon.sakura.ne.jp/kisogawa/unumarv.html に遭遇した。

            そこには、村国氏は、蘇我倉山田石川麻呂に関わる一族ではないかという記述。うーむ。村国神社近くには、石川麻呂の
           墓もあるという。

            *参考までに、蘇我倉山田石川麻呂は、蘇我氏本流の傍系で、入鹿とは、従兄弟関係。蘇我氏本流に批判的な人物とか。
           中臣氏と合い通じていたようで、中大兄皇子に娘を嫁がせていたとも聞く。石川麻呂の異母弟の密告により、自ら命を絶つ
           はめになった人物。大化の改新頃の人物のようであります。*

            とすれば、上記の執筆者は、蘇我氏という素性を隠し、姓(かばね)無しの村国男依として、大海人皇子の舎人として仕え、
           壬申の乱で活躍し、中央貴族へと復帰したとする筋書きになりましょうか。それにしても、中央では、最末端の下級貴族とし
           ての扱いに終始している。合点がいかない事ではあります。
            尾張連氏は、あの継体天皇時中央貴族の一員として、勢力を誇っていたにも関わらず、蘇我氏等に追い落とされていった
           かと。壬申の乱以降でも、尾張連大隅は、中央へは、向かわず、在地で活動をしたのは、そうした過去の尾張連草香に関わ
           る家訓のせいであろうか。

            しかしであります。村国神社は、「奈良県田原本町八尾に鎮座する延喜式内大社、「和名抄」鏡作郷に鎮座する鏡作坐天
           照御魂(カガミツクリニマスアマテルミタマ)神社、その祭神は天照国照日子火明命、石凝姥命、天児屋根命で、古来から鏡鋳造の神
           として信仰されたという。このうち石凝姥命は、天照大神の御魂の神爾の鏡として内待所に祀る鏡を鋳造したとされる神で、
           社伝ではその試鋳の鏡が鏡作神社のご神体であると伝える。」この神社に酷似している。(下記 URLより 「」内の記述は、
           引用変更致しました。http://www.town.tawaramoto.nara.jp/03_sightseeing/old-shrine/shrine_kagamitsukuri.html )

            創建が、7世紀頃とすれば、壬申の乱前後でありましょうか。男依が、大海人皇子の舎人として付き添っていた点、一地方
           の豪族で、中央朝廷へ出仕していた事になりましょうし、それなりの地盤を有した一族であった筈であろう。そして、鏡作坐天
           照御魂(カガミツクリニマスアマテルミタマ)神社に酷似した村国神社の創建。やはり、尾張連系の一族とみなしたほうが辻褄は合うよ
           うに思えます。(また、語り部の方は、権現山は、かってマンガン山とも言われていたと話された。・・筆者注)マンガン鉱があ
           れば、鉄鉱石も存在したかもと私は、推測してしまいました。
         
            村国氏は、中央の政変にて失脚。在地に残った不破系の各務氏にその座を奪われていった事の例証であろうか。村国神社
           奥の院の社に記された「三つ巴」紋は。やはり、中央では、地位の維持は、簡単ではないようです。在地に根を張り、在地で
           地位を維持していく事は、それ程難しくは無いのかもしれない。

            さて、現在の木曽川は、古代では、広野川とも鵜沼川とも言われ、幅が広い川であり、現在のような堤防ではなく、自然堤防
           であった筈。今の流路は、古代では分流、では、古代の本流は、どのあたりを流れていたのでありましょうか。苧ヶ瀬(オガセ)池
           は、もしかして古代の本流の一部が残った所ではないかとも思いつつ愛車を走らせて岐路につきました。