旧 美濃国一ノ宮 南宮大社を訪れて
1.はじめに
南宮社は、製鉄神である金山彦を祀る社であるという。「実際この目で、南宮大社・伊富岐神社等をみて見たいもの
であります。」と以前 拙稿 南宮社の覚書でも記述いたしました。平成26年6月12日(木)やっと、それを実現出来ま
した。
家から名鉄 小牧駅ー>名鉄 小牧線、犬山にて名鉄 各務原線に乗り換え一路 名鉄 岐阜駅へ。徒歩にてJR東
海 東海道本線 岐阜駅に向かい、そこから快速 大垣行きに乗り込み、大垣で乗り換え一駅離れた垂井駅へ、米原
行き快速で行きました。梅雨の晴れ間というか、むちゃくちゃ暑かった。
家で、地図を印刷して行きましたが、よく分からなくなり、垂井駅南口前に止まっていたタクシーの運転手さんにお聞き
しますと、「地図を持っているのそれで説明しましょう。」と親切に対応して頂けました。しかし、私が印刷した地図では、現
地の細かな所が表示されていなくて、運転手さんが大切にされていた簡易版垂井町観光マップ地図を惜しげもなく渡して
頂けました。
やっと南宮大社のある位置が、垂井駅からみておぼろげでありますが、方向付けられ、タクシーの運転手さんには、申し
訳なかったのですが、徒歩で行く事に致しました。車で行けば、5分位、歩けば2・30分位かと。
車で行けば、楽なのですが、周りの様子やら雰囲気が感じられませんので、徒歩という選択をした次第です。
2.南宮大社近辺の地域の様子から
南宮大社のある場所は、南宮山麓の北側の麓であり、JR垂井駅より南西方向でありました。緩やかに南
宮大社からはJR垂井駅に向かって下りになっており、民家は、狭い道沿いに建っており、畑地が多そうでありました。
田と思われる耕地では、刈り取られた麦さやが、放置されており、普通6月も中旬なら、たいてい田であれば、水田となっ
て苗が植えられているのですが、この地域では、6月中頃でも水田風景は、皆無。雪の多い地区でもあり、水田は、もっと
遅い作業なのかも知れません。この地区には、大きな川も無く、南宮山の沢水が、唯一の水源のようです。
こうした地域でありますから、弥生人が、定住していく条件は、低くかったのではなかろうかと。もしかすると定住は、相当
新しい時代ではなかっただろうか。
であれば、神社の創建は、それ程古い時代を想定でき兼ねる筈。南宮大社の社伝では、崇神天皇の御世の創建とか説明
板には、記載されていました。崇神朝は、それ程強大なものではなく、近畿の狭い地域の政権ではなかったと理解しておりま
すが・・・。
吉田東伍博士の『大日本地名辞書』第五巻に、「伊吹神社ありて、野上の民も之を氏神とす。蓋し古姓氏に尾治(尾張に同じ)
・伊幅部(五百木部、蘆城部にも作る)ありて實に同族とす。……尾治・伊福神二氏の祭れる者たること明瞭也」。とも記述され
ているようです。
とあるHPでは、近畿中心部は、内 物部氏が、それ以外は、外 物部氏が活躍していたとか。外 物部は、ナガスネヒコ系
であろうと記述されていた。尾張では、そこへ尾張連氏が流入し、圧倒していったのではないかと。垂井の伊福部氏も、尾張
氏と同族であるとすれば・・・。この地域でも、同じような展開であったのかも知れない。
この野上の地に古くからいた豪族 伊福部氏は、尾張連氏の祖先の娘ミヤズ姫と結ばれたヤマトタケルが、関東遠征後、
草薙の剣を尾張に置いて、伊吹征伐に行き、負けて三重の地で死去したという逸話に関わっていた氏族であったのだろうか。
もともと伊福部氏は、尾張氏と同族の可能性があったとすれば、副将軍格で、関東遠征に随行した尾張連の祖 建稲種命
死去に伴う報復とも読み取れますが・・・・。
名古屋市史では、尾張連の系図には、ヤマトタケルと結ばれたミヤズ姫は、いなかったと記述されているようです。また、不
破の関(壬申の乱以降に出来たと思われますが・・筆者注)より東は、崇神朝では、支配地外であった可能性は、高い。従属
させる働きが、あったのかなかったのか・・・。それが、ヤマトタケルという形で、日本書紀に記述されたのでしょうか。
或いは、{この伊富岐神社の創建年代は未詳であるが、伊福部氏は、壬申の乱(672年)以前から當地を中心に勢力を張
つていたと考へられるので、その氏神を祀る杜は早くから建てられていたと思われる。平安時代に人ると、仁壽2年(852)12
月癸亥「美濃國伊富岐神」を官社に列せられ(文徳天皇賽録)、ついで貞観7年(865)5月8日、従五位下から從四位下とされ、
さらに元慶元年閏2月21日、従四位上を授げられている(三代実録)。延喜式では、大領神社と同じく小社とあり、『美濃國神
名帳』では大領神社を越えて「正一位伊富岐大明神」とされ、いつしか南宮神社につぐ美濃の二宮とみられるやうになったと
いうが、壬申の乱では、伊福部氏は、大海人皇子側の武器製造に加担したのであろうか。尾張連一族は、尾張国守 小子部
さひち を大海人皇子側へ加勢するように促した張本人ともめされているとか。そして、また、この小子部一族は、製鉄に関
わる氏族であると言う方もあるようです。}(拙稿 関ヶ原近く 垂井町にある南宮大社等についての覚書 参照)
以上から、早くから開発されていたのは、現東海道本線垂井駅以北側一帯であり、現 南宮大社側は、野上に居住してい
た伊福部氏の領域であったのか、未開の地ではなかったかと。「南宮大社の前身は、野上に近い府中の南宮御旅神社とか。
鎮座地は、垂井町府中 -南宮社の旧鎮座地とされ、祭神は、金山姫命
(豊玉姫命、埴山姫命を配祀) 現在は御旅所。美
濃国総社とも伝えられる。」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%AE%AE%E5%A4%A7%E7%A4%BE 最終更新
2013年
11月2日 (土)
06:01 参照)という記載もあります。
しかし、南宮大社は、金山彦のみが、祭神。金山姫とは、ご夫婦になられたとか。姉弟関係とも。その子供が、金屋子とも。
まとめて三神を製鉄神というようであります。何故、南宮大社の祭神が、金山姫ー>金山彦となるのか。摩訶不思議な変身
がおこなわれたのでしょうか。
いつ、誰によって現在地に南宮大社が、遷座されたかは、古史・古伝類より諸説あるようですが、私は、天武天皇朝前後で
はなかったかと大胆に推測いたしますが、どうでありましょうか。野上行宮を南宮社に寄贈したとかしないとか。したとすれば、
この頃に現在地になったのでは・・・。
国譲りならん神社譲りでもあったのでしょうか。とすれば、金山彦の方が金山姫より後発でありましょうし、こうした神社譲り
は、もしかするとその当時の政変を暗示しているのかも知れません。
3.南宮大社の散策
JR垂井駅から少し歩くと、遥か先に真っ赤な大鳥居が見えてきました。国道21号線にある御所野という交差点近くから
でした。垂井町には、公共交通機関(バス)のバス停は、町営の巡回バス位で、住民は、自家用車での移動が主であるの
でしょうか。駅前には、北側に近鉄タクシー、南側は、地元のタクシーと色分けされているのかも知れません。近畿圏に、取
り込まれているかのように推測いたしました。
南宮社の摂社は、境内外にもあるようで、現在の社の境内は、極狭い範囲に限定されているように思えました。それでも
美濃国一ノ宮という肩書きは、健在のようであります。
訪れた日が、平日であったせいか、参拝客は皆無。私だけでした。
南宮社は、美濃国府の南にある社である事から、南宮社と呼ばれるようになったようで、国府との関わりが強い事を推測
せざるを得ません。神社は、古東山道沿いに存在している事は言うを待たない。
南宮社と呼称せらるるようになるのは、『梁塵秘抄』{編者は後白河法皇。治承年間(1180年前後)の作カ}に「南宮の宮」
「南宮の…中の宮」などとみえ、この頃から現行の「南宮神社(大社)」という呼称の方へ一般化していったのではなかろうか。
それ以前では、平安時代中期の『延喜式神名帳』には「美濃国不破郡
仲山金山彦神社」と記載されていますから。
神階は、低い従五位下 (『続日本後紀』
は、文徳天皇の勅命により斉衡2年(855年)に編纂が開始され、貞観11年(869
年)に完成したという。9世紀中頃には、既に仲山金山彦神社の存在が知られるようです。)
が初発であり、平安後期以降
から名が知られるようになっていったのでしょう。
早速 社の散策をはじめました。古の社は、慶長の関が原の合戦で、戦火に合い消失してしまったようで、現在の社は、
江戸時代 三代将軍 徳川家光の助力で再興されたとの事。数百m東に離れた大領神社も、同様で再興されたようでした。
こちらは、南宮大社程には、助力されなかったのか、そこそこの出来でありました。
奥の院が、南宮山山頂の近くにあるようで、南宮大社の奥の院かと思いきや、摂社の高山神社{祭神は、木花開耶姫(オ
オヤマツミの娘)とニニギノミコト(天照大神)の子}の奥の院であるとか。
とすれば、この神社の原型は、元は、高山神社であったと考えるべきであろうか。
では、南宮大社の前身は、野上に近い府中の南宮御旅神社とすると整合性は・・・。
南宮御旅神社を氏神とする集団が、高山神社を氏神とする集団を従える形で当地へ遷座されたと理解すればいいのであろ
うか。既に昭和2年の不破郡史 下巻には、大海人皇子が、戦勝祈願に南宮社を訪れた可能性を示唆されているようですが、
その南宮社とは、仲山金山彦神社であったのか。はたまた現在地のではない南宮御旅神社であったのだろうか。この神社も、
伊福部氏の部民(製鉄集団)の氏神と見たてれば、祭神が、金山姫・金山彦であることは頷けましょうから。あくまで、推測の
事柄ではあります。
伊福部氏は、野上に居住していた一族であり、伊富岐神社を氏神としていた。では、南宮御旅神社は、どのような集団の祭
神であったのでしょうか。不破郡史(昭和2年刊)・垂井町史(昭和44年刊)においては、その点については、まったく述べられ
ていません。
拙稿の南宮大社の覚書で、以下のような事柄を付け加えておきました。
<伊福部氏の近くには、息長氏の陵も存在し、この古墳時代の製鉄は、息長氏との関わりをも想起する。この息長氏か
ら出た継体天皇は、尾張連氏の娘を、妃にしている関係上尾張連氏とも深い繋がりを持っていた事は明白。>
「息長氏は、古い氏族で、銅鐸を信仰していた蛇族系の古代氏族とか。応神朝頃から再起しはじめ、はっきりした形で現
れるのは、継体天皇の頃とか。」( 「物部氏の伝承」 畑井 弘著 参照 )
後期古墳技術伝播も、九州が基でありますが、北陸経由の美濃から尾張へというルートも在るやに東海学セミナー (2)
東海の横穴式石室を考える 冊子内の「尾張の横穴式石室」 名古屋市教育委員会 名古屋晴見台考古資料館 服部哲
也氏の論述から知りえる事であります。
とすれば、古墳時代後期から既に、北陸経由の美濃から尾張へのルートも存在していた事になりましょうか。古墳技術の
畿内からという伝播もあったようですが、事 後期古墳築造技術の工人を含む伝播は、九州系が強く、畿内系の技術は、尾
張では、九州系に飲み込まれていたという。後期古墳に関わる事ではありましょうが・・・。尾張の独自性の所以でありましょ
う。
同様に、須恵器技術においても、同様で、尾張は、独自の尾張系須恵器の存在が知られ、美濃は、畿内系須恵器圏であ
りました、独自の美濃系須恵器が出てくると、西濃地域を中心にして、拡大し、畿内系須恵器を追いやっていくようであると
いう。しかし、東濃地域は、庄内川流域(岐阜県内は、土岐川と呼称)であるからでしょうか、最後まで美濃系須恵器は、入っ
てこず、尾張系須恵器圏のまま継続しているという。このような現象は、6・7世紀以降頃の事柄かと。以上であります。
尾張の須恵器については、2005年発刊 列島の古代史 4 人と物の移動 「須恵器の生産者 −5世紀から8世紀の
須恵器工人ー 菱田哲郎氏の論述は、現在の研究の到達点のまとめでありましょう。
話を元にもどします。
金山彦なる祭神を信奉する新たな製鉄集団が、当地に流入し、古い製鉄集団(金山姫を祭神とする集団)を飲み込み、金
山彦と金山姫は、夫婦となられたとも、姉弟とも。現在の南宮大社(それ以前の神社名は、仲山金山彦神社として、遷座カ)
となっていったと解釈しては、余りに突飛な解釈であろうか。
近江の古代製鉄では、以下のような事柄を述べてみえるHPもありました。
「鉱石製錬の鉄は砂鉄製錬のものに比し鍛接温度幅が狭く、(砂鉄では1100度〜1300度であるのに、赤鉄鉱では1150度〜
1180度しかない。温度計のない時代、この測定は至難の技だった。)造刀に不利ですが、壬申の乱のとき、大海人軍は新羅
の技術者の指導で金生山〈キンショウサン〉《美濃赤阪》の鉱石製鉄で刀を造り、近江軍の剣を圧倒したといわれています。(伝承
を引用されたのか、このHPの著者の推測であろうか。・・筆者注)
岐阜県垂井〈タルイ〉町の南宮〈ナングウ〉神社には、そのときの製法で造った藤原兼正( 竜子〈エンリュウシ〉)氏作の刀が御神体と
して納められています。(この部分は、断定的表現。・・筆者注)
(同町の表佐〈オサ〉《垂井町表佐》には通訳が多数宿泊していたという言い伝えがあります。地名の起源か?)
当時の近江軍の剣は継体天皇の頃とあまり違っていなかったといわれています。」と。(詳しくは、下記URL を参照された
い。 http://ohmikairou.org/col15.html )
上記の記載は、伝承からの推論が多いように思えますが、現在の南宮大社の前身 仲山金山彦神社は、新たな新羅か
らの製鉄技術者の流入との関わりと捉えれば、辻褄はあいます。実証はされてはいない事柄ではありましょうが。
既に「昭和44年発行の『垂井町史』通史編では、{注目すべきは、製鐵(鍛造)職業部とみる説である。即ち、前川明久氏
は、樋口清之博士等のごとく、伊福を「息吹」と解し、製錬用の高熱をうるための送風装置(踏鞴)と結びつけ、「美濃におけ
る伊福部の分布地域の立地條件をみると……いわゆるイブキオロシの吹く地域で……伊福部の名稱は、この風を利用し
熔解炉の火を高熱にするため吹きいれることから拠ったのではなかろうか。
……大場盤雄氏によれぱ、滋賀縣坂田郡伊吹村金山付近(現 滋賀県坂田郡伊吹町)に露天掘の…石鐵採堀址が発
見され、その付近に鐵滓・フイゴ.火口などをともなう古墳時代の製鐵所址をも発見したという。(この遺跡は、追認されたか
どうかは、不明・・・筆者注)
美濃の伊福部は伊吹山の産鐵(のみならず他地方産の鐵も含めて)を原料として武器の鍛造にあたっていたのではなか
ろうか。」(「壬申の乱と湯沐邑」『日本歴史』第230號)}と推測しておられる。}のは、当時としては、卓見ではなかろうか。
参考までに、「素戔嗚尊(スサノウ)の妻となる奇稲田姫(クシナダヒメ)の父母、国津神とされる出雲の足名椎命・手名椎命(アシナ
ヅチ・テナヅチ)もオオヤマツミの子と名乗っている。」とも。(ウイキペデイア オオヤマツミ 最終更新
2014年5月23日 (金) 11:02
)
この出雲の国津神は、朝鮮語の読みと意味では、トンカチ・ハンマーを意味し、小鍛冶王とも解釈される方もいます。
オオヤマツミは、大いなる山の神という意味であるようで、金山彦・金山姫も、鉱山がらみの広い意味の山ノ神の範疇に入
るようです。こうした神々を信仰する集団がいたとすれば、オオヤマツミが先発で、金山姫そして金山彦となるのでしょうか。
オオヤマツミは、相当早くから日本へ到達した事を示唆しているのでしょう。とすれば、スサノウ・天照大神は、後発の日
本流入者としか読み取れませんが・・・。婚姻関係やら征服等で、徐々に大和勢力(天照一族)が、当地に浸透していった事
を暗示しているのではないかと。
話を戻します。
私は、山頂近くの方へと散策を続けました。所々に摂社があり、聖武天皇が、大仏建立の願い{天平15年(743年)カ}をさ
れたという大社近くの清水が湧く所も見ました。現在は、その湧き水も枯れてしまったのか、干乾びておりました。
聖武天皇の大仏建立の願いが、何故に南宮社であったのか。やはり金属神たる金山彦がらみとみるのが、自然でありま
しょう。
さらに奥には、京都伏見が本山でありましょう南宮稲荷神社もあり、そこまでで散策を終えました。ハイキングコースを更に
上に登れば、奥の院へも行けましたでしょうが、所用を思い出し、大領神社も見てみたい故、そちらへ向かいました。
南宮大社から東方向に数分歩いていくと大領神社らしきこんもりとした林が見えてきました。大領神社は、ほぼ南向きに
建立されており、私は、神社北側へ近づいて行ったようでした。北側神社境内には、追分路の道しるべである道標が立って
おり、その追分の南北路は、もしかすると壬申の乱時、大海人皇子達一行が、鈴鹿から垂井へ向かって移動して来たかっ
ての古道であったかも知れないと想像逞しく思っておりました。後でその思いは、誠であった可能性が高いと思う論述に出
会う事になりましたが・・・。
伊富岐神社へも行ってみたかったのですが、後日にせざるを得ませんでした。私が、車を運転出来れば、もっと時間が有
効に使えましょうが、出来ないゆえに何回かに分けて散策せざるを得ません。
この垂井町も、複雑怪奇な歴史を経てきた地域でありましょう。大和に近い故にそこの勢力の浸透があり、在地の勢力
は、その痕跡を残しながら、下部へと追いやられていった可能性を垣間見た思いが致しました。尾張と同じように・・・。
家に着いたころは、既に午後6時を大きく回っていました。 次回は、伊富岐神社やら南宮御旅神社の散策をしたいもので
あります。
脱稿後知りえた事。
美濃国府跡について、「平成3年より埋蔵文化財調査を実施した結果、御旅神社から南に、国府政庁域が広がることが
明らかとなった。」
更に、「発掘調査では、土塁は中世以降のものと確認されたが、地形上からは、国府域北限がこの近辺にくる可能性が
あり、当該ライン上付近で行っている調査では、古代の遺構や遺物が確認されている。また、安立寺からは国府の瓦が出
土している。なお、このラインより北側で行われた調査では、古代の遺物や、遺構は発見されていない。
東限は、南宮大社から御旅神社まで続く御幸道から一本東に入った南北道路とする。このみゆきみちの道沿いには南宮
大社の神事にかかわる御手洗と呼ばれる井戸があり、御手洗の北には安立寺が所在する。第12次調査第3トレンチ(東限
推定域の南端での調査)では、遺構は確認されなかったものの8〜9世紀の須恵器が多量に出土し、軒丸瓦が初めて出土
するなど、付近に国府に関する重要な施設が存在していた可能性が考えられた。」と。
まとめとして、「美濃国府跡においても同様で、10世紀中頃には8世紀以来の政庁は廃絶している。しかし、その後も13世
紀初頭頃まで、一般集落とは異なる何らかの勢力を持った存在の活動が判明しており、また古くは鎌倉時代中頃に国府政
庁跡を保存する目的で寺をつくり、のちに安立寺となったとする伝承や、少なくとも近世には政庁跡に御旅神社が創建され
るなど、ここに国府があったことによると考えられる遺跡や由緒を持つ施設が確認できる。
美濃国府跡は、これまでの発掘調査によって、御旅神社及びその南側に政庁が、その東側に区画を伴う曹司群(東方官
衙地区と呼称している)、政庁北側には性格はまだ不明であるが何らかの施設、政庁南側には南に延びる朱雀路と呼称す
る道路跡が見つかり、中枢部分の様相が明らかになりつつあるが、国司館・厨・正倉院等の諸施設は確認されていない。
今後、周辺において、未発見の国府関連諸施設が発見されることは疑いない。」と記述されていました。(詳しい事は、右
記URLにて確認されたい。 http://www.ginet.or.jp/tarui/public/pdf/pub25_2_01.pdf 参照 )
この美濃国府脇には、大滝川が、流れ相川に合流している。私が見てみたいと思っている御旅神社は、近世頃の創建の
ようで、「美濃国府正殿の上に御旅神社が建てられており、歴史的な観点から美濃国府との関連性を考慮する必要がある。」
(前掲URL 参照)とも記されていた。御旅神社の現在地は、分かりますが、明らかに国府衰退以後の建立のようで、それ以
前では、どこに神社は、存在していたのでありましょうか。
更に相川を下っていくと、大谷川が合流し、名神高速 養老ジャンクション東側で、相川は、杭瀬川に合流。その後養老大
橋辺りでは、西から流下してくる牧田川と並走しながら、揖斐川とも並走し、杭瀬川は、いつしか牧田川と合流。海津町辺り
で揖斐川に合流していた。
これは、現在の流下状況でありますから、古代では、杭瀬川が、流れている流路が、元揖斐川であったとか聞き及んでお
ります。天正期に木曽川が、大きく流れを変えたように、揖斐川も大きく流れを変え現在に至っていると推測します。
古代における水上交通路及び陸路については、次のような記述もあるようです。
{列島の古代史4 人と物の移動 岩波書店 2005年版には、次のような論考があった。「河海の交通ー日本海交通を
中心としてー」 松原弘宣著。 その中の 1 列島の水上交通 <地方の水上交通>に、美濃尾張三河川(揖斐・長良・木
曾川)と伊勢湾交通なる項目があった。
「揖斐・長良・木曾川と伊勢湾交通は、東山道上の青墓(岐阜県大垣市赤坂町)−笠縫・中川(大垣市北部)−結ぶ(墨
俣町)−墨俣渡ーたまの井・黒田(愛知県旧 木曽川町)−一の宮(一宮市)−下津(オリツ 稲沢市)−東海道上の萱津(
海部郡甚目寺町)という美濃・尾張間陸路と揖斐・長良・木曾による三河川によって形成されている。」と。更に「そこでの
交易が水上交通を利用して行われた事は、『日本霊異記』中巻第4話 美濃国 方県(カタカタ)郡 現在の岐阜県本巣郡
本巣町の辺りか<小学館 新編 日本古典文学全集 101995年版より引用 しかし、平凡社1981年版では、各務
原市古市場と注記してあるようです。> に小川市(イチ)が在った事、そして、尾張国愛智郡片輪の里 現在の名古屋市
中区古渡町付近の女が、小川市(イチ)へハマグリを舟に積んで、出向く話等を例証にして記述されていた。詳しい事は、
同氏の「日本古代水上交通史の研究」 吉川弘文館 参照されたい。}
古代の水上交通については、次のような記述もあります。「伊勢の国 桑名郡榎撫駅(東海道の駅)と津島は、水路移動。
そして、三宅川を遡上し、稲沢国府に至る通路は、古代の尾張国の幹線路であった。」と一宮市史 第5節 沖積平野の小
地形と環境に記述されている。東海道(中路)からの支線であり、小路であったと思われます。
陸路であれば、駅には、馬が置かれた筈。水路となれば、馬ではなく、船が置かれていたのでしょうか。そうした記述は
ありませんからこの船は、私の推量であります。古代では、この部分の水運を尾張氏が、握っていたのでしょう。
伊勢湾内と伊勢湾に流れ込んでいる大河への水運が、握られていったと推察できましょうか。
律令制度下では、駅路の規定はあるようですが、水路については、別段規定はないようです。水路の運用は、在地に任せ
られていた可能性が高いと思われます。「日本書紀には、5世紀以前に、既に尾張連氏は、尾張国に居たのであり、536年
に、尾張国にある屯倉の穀(もみ)を尾張連によって現 博多港へ運ぶように蘇我稲目を通して命じさせたという事が記述さ
れている。」事は、例証に為り得るのではなかろうか。
{律令国家が、水上交通の規定をするようになるのは、8世紀末〜9世紀初め頃の官物運漕規定(弘仁式)であろうと。
運漕雑物功賃条が成立する以前である8世紀代の庸調物運京は、負担者自らが陸路・人担が原則。無規定であった庸調
以外の官物(特には、春米・塩等の重量官物)の運京に、河川交通と海上交通(湖上交通を含む)が利用されていたと。
確かに、延喜式 「主税式正税帳条」には、「川船」規定が存在するようで、こうした点から国府と河川交通との結びつきが
想定されるという。}(前掲書 河海の交通 参照)記述もあります。
律令国家に水上交通の規定が無い時でも、既に何等かの水上交通は、あったようで、遥か縄文時代でさえ、舟(丸太舟)に
よる交易は、不定期でありましょうが、存在していたのは事実でありますから。