木津用水(合瀬川)・新木津用水を利用した水運について
1.はじめに
平成の世 新木津用水が合流している八田川の流れを見るにつけ、こんな水量で本当に水運が行われていた
のであろうか。俄かには信じられないでいます。
これは、明治期から大正期にかけての事のようでありますが、犬山から名古屋まで舟で人も物も運んでいたとい
う。
小牧叢書19 「小牧の川・用水」 小牧市教育委員会 平成16年発刊 P16に、「明治になり、愛知県では木津
用水を水運に利用することを考え、愛船株式会社が、明治19(1886)年につくられ、犬山から名古屋へ木材・天
然氷・薪炭・木曽川の丸石をはじめ諸物資の輸送が行われた。」と記述され、更に「人々も舟便を楽しみ、大正時
代の中頃までは水上輸送の重要な役目を果たしていた。」とも記述されていた。
詳しくは、小牧叢書14 「小牧の産業史話」小牧市教育委員会 平成6年3月刊行の冊子でということのようであ
ります。
以下の記述は、その産業史話によります。
2.小牧叢書14 小牧の産業史話 「木津用水と船会社」よりの抜粋
発端 明治時代になると、地域の開発が急速に進み、各用水下流域で深刻な水不足をきたしていた。
愛知県の土木課長であった黒川治愿は、用水改修と同時に納屋橋を中心に名古屋と犬山を船で結ぶ水
運を考え、明治19(1886)年10月、実現させた。
木津・新木津用水での舟運事業は、明治12(1879)年・明治15(1882)年の瀬割堤防工事・伏せ替え
工事等に資材を船にて運んでいたこともあり、更に明治16(1883)年には、新木津用水改修工事では、水
路の工事等に必要な物資を随時船便で運送していた経緯があり、明治19(1886)年、本井組の関係者で
協議し、木曾川から新木津用水・庄内川を経て、名古屋堀川に船を通し、運送する目的で 愛船株式会社
を組織し、県へ通船営業願いを出した。この願いを出した人は、二重堀村選出の県会議員 松永左衛門で
あった。
既に、江戸時代より木曾川を利用した水運は、盛んであったが、木曽川流路の犬山から名古屋までは水路
と陸路の輸送に1週間費やしていた。この用水路を利用すれば、僅か4・5時間で運べると言う利便さが故に、
県を中心に進められたようです。
愛船株式会社の営業
6月11日(夏至10日前)から9月20日(彼岸)までの110日間を除く、250日間として許可。
丸石・薪炭・米・麦・肥料・材木・乗客・天然氷を運搬。
明治23〜24年では、丸石(30万個)・乗客(5千人)・薪炭(5750俵)・米、麦、肥料(20万貫)・氷(60万貫)
材木(尺〆 2万5千本)が、この用水路を通して運搬されていたようです。・・愛船株式会社の運賃及び利用状
況 木津用水史からの抜粋
木津用水(合瀬川)航路と新木津用水航路があった。船の運航は、下りは、水流まかせ、上りは、人力で用水
の両岸から綱で引いてあげていたとか。のどかな風景であったことでしょう。
3.むすび
明治期には、時代に即した物流事業ではありましたが、陸路の整備・動力車(トラック等)の開発が、水運の命
運を断っていった事は、歴史が証明している事ではあります。
「明治初期、愛知県によって庄内川筋通船路が整備され、中央線や瀬戸電が開通するまでの20年余が最盛期
であった。その後は次第に、鉄道と牛馬車による陸上交通優先の時代になって、庄内川は農業用水・工業用水・
発電への水利用が中心となった。最近は、水辺環境を味わう景観としての意義が増加している。」と、郷土誌かす
がい 第73号内で桜井芳昭氏は、述べてみえる。
詳しくは、http://www.city.kasugai.lg.jp/shimin/bunka/bunkazai/kyodoshikasugai/1004412/1004416.html を参照
されたい。上記論述には、小牧がらみの事柄は、含まれていない気がする。
最近の物流は、戸口から戸口へという所謂佐川急便をはじめとする宅急便へと進化していっています。
川は、水運事業の撤退から、雨水等の排水路へと役割を古に戻しましたが、自然のサイクルは、もはや昔の
ようには、回らず、人の手を加えないと再生産出来ない状況になってきているようです。
鮎を例にしても、自然ふ化により、川から海へ、そして海から川への回帰は、僅かには残っていますが、各河
川の漁協の方達の放流事業が無ければ、もはや成り立たない事は、自明の事であります。
江戸期には、米の増産の為新田開発がされ、新用水路も次々に造られていきましたが、もはやこの水田は、
宅地と化し、耕地の減少は目を見張るほどですが、尚且つ人口増にもかかわらず、米余りの状況は、技術的
なコメ生産の成果なのでしょうか。時代のニーズに合った物流は、この先どのように進化していくのであろうか。