東海地区に於ける古代の市場について
                                     − 日本霊異記から読み取れる事 −

           1.はじめに
              日本霊異記は、日本最古の仏教説話集として知られていますが、正式な名称は、「日本国現報善悪霊異記」と言うようで、
             平安時代初期に書かれ、著者は景戒。私は、新編日本古典文学全集 10 1995年版 小学館発行の書籍をみています。

                            現存する霊異記は、全て写本であり、原典は、見つかっていない状況かと。霊異記は、上・中・下の三巻からなっている。
              東海地区に関わる説話は、上巻には、第2話・3話に。中巻には、第4話・27話に。下巻に、第31話。計5つの説話があ
             る。美濃国 3話・尾張国 2話であり、美濃国は、大野郡であったり、片県(カタカタ)郡の2ヶ所 尾張国は、愛智郡片輪里
             の事柄であります。

              説話として取り上げられた地域は、東山道沿いと東海道沿いでありましょう。
              それ以外の説話は、大部分が畿内国であり、西国の事柄であるようです。一部関東・北陸が1・2話あったかと。

           2.美濃国 片県郡の市(イチ)
              古代の市は、聖武天皇の御世との書き出しではじまる中巻 第4話に出てくる、小川市(イチ)であったようです。小学館の
             上段の注には、片県郡は、現 岐阜県本巣郡本巣町辺りと記され、「片県郡には、延喜式駅伝制下、片県駅が置かれていた。
             その駅は、現 岐阜市街地の北東に位置していたようです。」(旅の古代史 道・端・関をめぐって 1999年版 大巧社刊 
             P。307 推定令制東山道と中山道 春日井市教育委員会作製図 参照)と。

              令制東山道は、東海地区では、江戸期の中山道のルートより更に北側を通り、大河 揖斐・長良川の上流域を渡河したと
             想定されている。
              上記旅の古代史では、長良川の支流 伊自良川と鳥羽川が合流した辺りと長良川本流上流で、武儀川が長良川に合流し
             ている中間辺りに片県駅があったと記されている。とすれば、その駅周辺が、片県郡域であろうか。片県郡の小川市(イチ)は、
             長良川沿いに存在していたとも推測できましょう。また、東山道の通る辺りであった可能性が高いように推測する。

              別の著書 「完全踏破 古代の道 −畿内・東海道・東山道・北陸道ー 吉川弘文館 2004年刊」によれば、東海地区の
             令制東山道上の大野駅を現 大野町下磯に比定し、片県駅を現 岐阜市長良の長良川右岸川岸を比定している。そして、
             長良対岸の日野へと渡河したとする。著者は、中津川市史が想定する、令制東山道推定ルート上には、小字名「仙道(センド
             ウ)」という地名に依られたとしている。

              両説ともほぼ同様なルートを想定されたかのようです。霊異記に記された「小川市(イチ)」は、現岐阜市長良 長良川右岸
             川岸に存在していた事になりましょうか。 

                            さて、この市場で取引されていた物は何であったかは、詳らかではありませんが、内陸部の市場であり、川運を利用した海
             産物が運ばれていた事は確かでありましょう。説話中にもこの市場へ愛智郡片輪里(小学館本の頭注では、現 名古屋市中
             区古渡町が、比定されている。ここは、中央線金山駅から北西に直線距離で500m程度の地域であり、「古渡町より南には波
             寄町という町名もあり、平安・鎌倉・戦国期頃は、この辺りまで伊勢湾が入り込んでいた可能性が高い。」 (参考までに、下記 
             URLを参照されたい。 http://www.n-fukushi.ac.jp/chitaken/publication/bulletin/vol16/file/09.pdf 中の 図3 森 
             勇一 1998原案より作製された 古墳時代のあゆち潟とその周辺の干潟図 福岡猛志氏の論述 参照)

              また、この地域は熱田へ、(南南西直線距離で5Km程の地域でもあります。・・筆者注)の女が、はまぐりの桶50石を船に乗
             せ、伊勢湾から現 長良川・木曽川が一体になった川を上り、当地へ赴いたと推測出来そうです。
              舟ではなく、船と記載されているところから丸太舟ではない、今風の造りの大船では、ありましょうか。

                             * 参考までに、はまぐりの桶 50石とは、どれ程の量であろうか。体積・容量の度量衡換算ですれば、1石=0.18039㎥
               でしょうから、直径2mの底であれば、高さ2.9m程の丸桶になりましょうか。これに入るはまぐりの量。かなりの量のはまぐり
               でしょう。このような大量のはまぐりが、この小川市で売れてしまったのであれば、相当の賑わいの様子でありましょうか。*

              また、この女は、文中小文字にて「元興寺(ガンゴウジ 596年に完成した法興寺、蘇我馬子の創建 現 飛鳥地方にある安居
             寺。小学館本 頭注とあるようですが、はたして畿内の寺であったのであろうか。尾張の愛智郡にあった寺ではないだろうか。
                            ・・私の注)の道場法師(寺院守護の法師 小学館本 頭注による。)の孫」と説明があります。

                              *参考までに、新修名古屋市史 第1巻 平成9年版 P.586〜590には、「尾張元興寺跡についてが記述されている。
               この寺跡は、JR金山総合駅の西、名古屋市中区正木4丁目にあたり、造営は、7世紀中頃にははじまり、後半にかけて継
               続して行われたと。また、元慶8(884)年に尾張国分寺が火災で類損した為、愛知郡定額願興寺(おそらく元興寺の事)を
               国分金光明寺としていると。*

              更に、この女は、尾張宿禰久玖利(オワリスクネククリ 中嶋郡の大領 8世紀半ば頃)の妻女となっている事は、霊異記 中巻 第
             27話により知る事が出来る。やはり、27話文中に小文字にて「元興寺の道場法師の孫」と注記してある事。しかし、この妻女
             夫より離縁され、郷里の草津川へ戻されたようです。その原文は、「然後此嬢、至彼里草津川之河津、而衣洗。」であり、やは
             り、草津川とは、郷里の愛智郡片輪の里を流れていた精進川の古名カ。新修名古屋市史第1巻では、草津川(古名)は、現 五
             条川と庄内川が合流する萱津辺りの河川と推定されているようです。船での移動であれば、木曽川派流の水が流れ込んでいる
             五条川・庄内川水域の方が、妥当性はありそうでしょう。

                            また、今昔物語集 B 小学館 2001年版でも、霊異記と同様な記述があり、中島郡大領 尾張久坂利として登場し、妻女
             は、愛知郡片輪里の住人で、道場法師の孫であった。離縁され、「妻本(メモト)の郷の草津川」となっており、片輪の里に戻って
             いたのでしょう。

              所で、日本霊異記は、延暦6(787)年に一旦作製され、その後増補して、弘仁年間(810〜824年)に今のような形にな
             ったと伝わる。今昔物語集は、12世紀初期に編纂されたという。とすれば、原本は、日本霊異記でありましょうか。

              私は、妻女が、戻ったのは、郷里 片輪の里であったと取りたい。とすれば、草津川は、片輪の里を流れる河川名でありましょう。
             その当時、萱津は、草津と呼ばれていた可能性が高い。私も新修名古屋市史の説を支持します。河川は、五条川と庄内川が合流
             していた辺りと推測致します。妻女が生存していた時代は、8世紀半ば頃であり、平城京乃至は平安京遷都前後頃か。小川市の出
             来事は、妻女になる前の出来事であったのでしょう。             

              「その草津川の川津で、洗濯をしていた元妻女は、川を上ってきた草を積んだ船を船尻から水の中へ沈めたとか。」。(今昔物
             語集から) おそらく、この当時は、馬を河口近くの牧で養育していた可能性が高く、荷が、草であれば、馬用の飼料ではなかっ
             たろうか。

              しかし、日本霊異記では、「時商人、大船載荷乗過。船長見嬢、・・」とあり、荷の中身までは記載されてはいない。

              中世(鎌倉期)の日記「海道記」にも、津島の渡りを渡って、尾張国に入った小篠が原(ヲザキガハラ)でこの海道記の作者は、
             駒を見ている箇所があるようです。
              この著者は、鈴鹿から市腋(イチガエは、現 愛知県海部郡佐屋町カ・・小学館 中世日記紀行集の頭注)へ向かい、津島で
             渡河し、萱津宿(庄内川と五条川が合流した辺り)に泊まるコースを行ったようであります。

                              * 『海道記』によると「(夜陰に市腋といふ處に泊る。前を見おろせば、海さし入りて、河伯の民、潮にやしなはれ。)市腋をた
                              ちて津島のわたりといふ處、舟にて下れば(中略)渡りはつれば尾張の國に移りぬ。(中略)萱津の宿に泊りぬ。」と。
               この記述を素直に読み取れば、市腋(イチガエ)は、入り江にある漁師町のようにも取れましょうか。そして、陸路にて津島に
              至ったのでは、この津島にて、乗船し、古川(三宅川と日光川が合流した河なのか、三宅川単独の木曽派流であり、大河で
              ありましょう。)を下りて、渡河し、尾張国に至り、小篠が原(ヲザキガハラ)でこの海道記の作者は、駒を見ている。そして、萱津
              泊まりかと。*

              さて、件の道場法師は、霊異記 上巻 第3話より知られる。愛智郡片輪里の農夫の子として出生。後 元興寺の僧の雑用
             係をする童となり、活動が認められ、優婆塞(ウバソク 在俗のままで仏道に入り、五戒を受け、三宝に親しく仕える者)となり、
             寺田の水争いの調停をこなし、後 出家して道場法師となったようであります。道場法師は、小さい時から怪力の持ち主であっ
             たという言い伝えがあったのだろうか。

              この道場法師の孫は、愛知郡片輪里にいた。元興寺は、現 中央線金山駅近くであり、奈良の蘇我馬子の時代に法興寺(元
             興寺)は、建立され始め、推古4(596)年に完成していますから、愛智郡の元興寺の創建は、もっと後の事柄ではありましょう。
              この道場法師は、その愛智郡の事柄であり、道場法師となったころは、蘇我氏の全盛期から没落していった以降でありましょう。
              道場法師に直系の子がいた筈ですから、丁度尾張連大隅が、郡司として活躍していた時と符合する。何らかの関わりがあっ
             たのかも知れない。

              片輪里の女が、中嶋郡大領の妻女に迎えられるのは、それなりの地位があった可能性を想起する。その当時、この片輪里の
             女の家には、既に何らかの勢力の後ろ盾があったのではなかろうか。推測をまじえれば、大隅の本拠地は、愛智郡であったろう
             し、熱田社との関わりが深い人物であった筈でありましょうから。
              拙稿 壬申の乱で活躍した尾張連大隅について  も参照されたい。

              そのように推測すれば、片輪里の女が、片県郡の小川市(イチ)へ出向いて行ったのは、その当時、伊勢湾や木曾三川の水運
             を司っている尾張連氏の美濃国水運支配の一端ではなかったかとも推測できそうであります。この小川市の新興集団に打撃を
             与え、小川市に住む集団の支配を排除する目的があったのではないかと。

              小川市(イチ)に居住する女の行動は、片県郡域の新興集団による小川市(イチ)への支配を暗に進めているともとれましょうか。
             海賊ならん川賊的な行為を繰り返していたようですから。

              読み取り過ぎであろうか。壬申の乱(668年)の頃には、関ヶ原辺りに尾張連大隅の別業(別荘)があったとも聞くし、尾張連氏
             は、やはり水運等に関わっていたのではなかろうか。

              こうした見解は、既に松原弘宣著「日本古代水上交通史の研究」吉川弘文館にて述べられている事柄ではあります。

              尚付け加えておきたいことは、この霊異記の作者は、中国 魏後晋の歴史書を書いた人物のようなその当時としては、著作前に
             は、資料等に当たり、真摯な態度で臨んでいたとも小学館本から知られる事であります。