桃花台ニュータウンの歩み概略
1.はじめに
私が、まだ働き盛りの30代前半頃、この丘陵地の造成は、真っ盛りであった。確か一鍬ゴルフ場
(打ちっぱなしゴルフ場)は存在していたようで、まだ未舗装の道を、仲間と一緒に出かけたものであ
った。
現在でもその打ちっぱなしのゴルフ場はあり、高根地域であったかと。
そのような地域に、この時は、住むことになろうとは露ほどにも思ってはいなかった。居住してから
早30年にならんとしています。
2.桃花台開発計画
この地域は、昭和30年代(1960年代)の頃は、まだまだ、日本の”” ふるさと ””の原型を保っ
ていたようで、あります。
確か、小牧の中心地には、大正9(1920)年9月23日に開通した旧 小牧線と呼ばれた岩倉〜
小牧間を単線の電車が走っていた。後に、現 小牧線と呼ばれる名鉄線の出来る前の事でありま
すが、その線は、現 名鉄バス 桜井・小木経由岩倉行きが往来する路線を走っていたようです。
岩倉からの車窓からは、くっきりと小牧山の裾野までが見え、その辺りは一面水田であり、畑であ
り、人家はほとんど見られなかったという。
その頃から昭和に入っても小牧の中心地は、巨大な田舎、田園都市そのものであったと言う。
そもそも、この桃花台開発計画は、時の小牧市長に、下末で神盛館という蚕種屋(養蚕業の基にな
る蚕の卵を売る店)の館主であった神戸 眞氏が、就任してから急速に工場誘致が図られ、当地は、
田園都市から商工業都市へと変貌し、その後、舟橋市長以下同様な市政であり、大きな工場(三菱重
工等)等も進出して、市役所を起点にして各地に無秩序に工場が誘致されたという。これを神戸市長在
職中は、無秩序の計画と自らに科し、同一企業でない職種を選んで配置したという逸話もあるという。違
う職種であれば、一度に全て倒産する事もなかろうという氏独自の深謀配慮かと推測いたします。
当然、就業人口の増加は、小牧市の人口増加となり、新しい住宅地、工業従業員の社宅等々の必要
に迫られてくるのは必定であった。そうして、この農地には不向きな、荒廃した雑木林地域にその白羽の
矢が立ったようであります。この地域は、既に開発から取り残された後進地であり、その開発をも兼ねた
新興住宅地造りだったと言えましょう。
最初のマスタープランでは、計画区域は、約500haで、戸数にして1万4500戸、規模5万4000人を
予定していたと言う。この頃は、桃花台ハイタウンという呼称で計画がなされていたと思います。
事業主体は、愛知県であり、「尾張北部都市計画新住宅市街地開発事業桃花台新住宅市街地開発事
業」として国の事業認可を受け、昭和47(1972)年4月には、計画区域は、312.8haに縮小されたが、
計画戸数は、当初と同じであったという。計画当初は、6住区に分けられていたようですが、現在では、4
住区(古雅、篠岡、光ヶ丘、城山)となってしまったようです。
・ 用地買収
この計画地域は、民有地の割合が高く、総面積の約30%が、国、県の土地であり、残りは民有地であ
り、その半分は、山林、原野であった。残りは、農地で、59haが、桃や柿を栽培する果樹園、38haが畑、
13haが田地であったという。
この民有地の地主は、小牧市民394人、市外地主184人の計478人であったという。買収工作は順
調に進み、坪当たり8000円で買収されていったという。その後、坪当たり単価も1万2000円台となり、
土地を手放す事に反対する地主も現れ難航。その為、土地購入価格を平均9760円に改定し、その当
時、買収価格より高い値段で購入した地主には、その購入価格にて買収する事とし、買収は、進んだと
言う。
既に8000円で売却した地主へは、9760円の差額分を支払って、解決させたという。
昭和58(1983)年に、私は、この桃花台住区の一つ篠岡に入居しましたが、その当時、この地域の購
入不動産坪単価は、約30万円弱であったかと。そう思うと、この価格の中には、純粋な土地価格だけで
なく、土地整備費、ピーチライナー等の付加価値整備・設置費用及び最初に分譲した安価な土地分等の
差額も含まれていたのではないかと邪推しております。
・ 用地造成開始
昭和48(1973)年6月以降から造成が始まったと言う。この辺りは、尾北古窯址群であり、穴窯が至る
所に隠れており、小牧市教育委員会が中心となって発掘調査が行われ、昭和49(1974)年調査終了ま
でに、何と100基を越える窯跡と出土品があったと言う。これらの窯跡は、発掘後消滅したと言う。
粗造成工事は、最初 現 古雅から始まり、1年間で完了。続いて上下水道、ガス管、電話ケーブルの
敷設や雨水管の埋設、道路整備を含めた整造成工事が、昭和50(1975)年4月には完了したようであ
ります。ほぼ、2年間で、古雅の地域は、最終造成が完了したようです。
ところが、汚水処理問題が、起こった。当初予定していた小木郷西のトラックターミナルに終末処理場を
と目論んでいたようでしたが、藤島団地、岩倉団地等ターミナル周辺の住民から反対運動が広がり、着工
の見通しもたたない状況となり、桃花台の宅地分譲、建売分譲に影響したと言う。
この問題が解決しないうちは、桃花台の販売も滞り、計画の手直しがなされたという。その結果、計画区
域の面積に変更はなかったものの、当初人数 5万4000人が、4万7000人へ減少され、戸数も1万45
00戸から1万2300戸へと減少したという。当然、戸別販売住宅地(分譲住宅、賃貸住宅)の敷地は広くな
ったという。
これも、庭付き一戸建て住宅志向と当地への定住化への対応であったと思われます。
当初の終末処理場は、棚上げし、タウン内にある4ッ池の北側(ここは、アピタのやや北東寄りでありまし
ょう。)に暫定処理場を建設する事として最初は、3500人規模、人口増に合わせて、最終処理能力を8500
人分まで高める計画で、昭和54(1979)年から着手し、一期工事を終えたようであります。
ピーチライナー計画は、県を中心に第三セクターにて運営する事が、早くから出ていましたが、タウン計
画の遅れもあり、巨額の赤字も予想された為、当初は、実現はされなかったという。この予想は、当たっ
ていた筈でありましたが、どこでどう間違ったのか、鉄道や銀行などの民間企業6社による準備委員会が、
採算面の再度の検討をしたところ、県の低金利の40億円か、20億円分の施設提供があれば、営業開始
7年後には、営業黒字となり、累積赤字は、20年目には解消できるという結論が出たとして、新鉄道建設
のゴーサインを愛知県は出したと言う。おそらく、この当時の見通しには、交通インフラを建設すれば、桃
花台の住民は、必ず乗客となるという甘い見通しであったのでしょう。
業官共に甘い見通しにたって建設されたあのピーチライナーは、名古屋への接続問題等が進まず、乗
客も、高運賃体系のピーチ、名鉄経由を利用せず、もっぱら自家用車によるJR春日井駅までの家人によ
る送迎で、済ますか、自家用車での通勤であったと言えましょう。お陰で、桃花台から春日井方面に降りる
幹線道路は、2本しかなく、朝夕のラッシュは、言葉に言えない位激しいものであった。
現在は、名鉄とあおい交通両社によるJR春日井行きのバス路線が定着し、往時の混み様ではなくなった
とはいえ、まだまだ朝夕の混み具合は、筆舌に尽くし難いと言えましょう。当時、私は、名古屋方面に勤務し
ており、自家用車にて通勤しておりました。その込み具合に嫌気が差し、裏道を探し、通勤しておりましたか
ら、幹線道路の込み具合は、良く知っております。
桃花台ニュータウンが愛知県主体であり、小牧市民を優先的に入居させ得なかった事も、このピーチラ
イナー営業にも影響したと言えましょうか。そうした先の見通しが甘かった事だけは確かな事ではありまし
ょう。知り合いの住民の方は、やがて、この地を棄て、尾張旭の通勤に便利な所へ転居されてしまいました。
・ 宅地分譲開始
昭和54(1979)年10月より、古雅の一部分600区画の分譲を予定し、一般公募の受付をしたという。当
初は、一般向け195区画、土地提供者優先分譲地12区画、県住宅供給公社へ譲渡した建売分譲分399
戸、共同店舗用1区画、診療所用地2区画がその対象となったという。
その当初の分譲は、一般向け宅地は、約58坪(192u)〜約98坪(323u)であったようで、坪(3.3u)
単価は、約10万円弱と周辺地域より低く設定されて売り出されたという。
その申し込み条件は、申し込み者が、愛知県に在住か、勤務先が愛知県であれば可とされ、当選後2年
以内に、建物を建てる事が条件とされたようでありましたが、申し込みは、初日から1000人を越す申し込
みがあったという。
そして、第1次当選者の入居は、昭和55(1980)年8月から始まったという。
第1次、第2次と順調に入居が行われていましたが、第3次からは、応募も下がり、倍率も当初の半分
位まで下がったという。しかし、持ち家志向は根強く、賃貸住宅は、入居者確保に相当難渋したという。
ところが、この賃貸住宅入居者用駐車場が以外に少なく、入居者の中には、車の駐車場探しに苦労さ
れていたようであります。その当時、知人がこの賃貸住宅に入居いたしましたが、当時から交通インフラ
が十分では無かった為、夫婦は、自家用車2台が、普通であったかと。その為、残り1台分の駐車場の確
保に苦労していたようでした。
それ故、昭和59(1984)年4月、都市計画事業変更の認可を受け、計画人口を4万7000人から4万
人に、計画戸数については、分譲住宅を5300戸から6200戸へ増加させ、反対に賃貸住宅を7000戸
から4200戸に減少させたという。住区構成も6住区から現在の4住区に変更したという。
私が、分譲住宅を購入したのが、昭和58(1983)年でありましたが、売れ残る住宅もあり、その販売
の陰りはありありとみえました。その当時、アピタはなく、最初の分譲地であった古雅に「エステ」というシ
ョッピング店があり、その店の前には、連結店舗があったと思います。この店舗は、昭和56(1981)年
にオープンした店であったという。今は、その店舗は、見る影も無く、アピタ開店と共に次第に客足が遠
のき、いつの間にか閉店されたようでありました。大型ショッピングモールの威力は、すごいと感じました。
只、篠岡にあった「マルマツ」店(生鮮食料品店)は、経営者は変わりましたが、現在も営業を続けてお
り、その低価格路線は、根強い人気があり、すごいものと感じています。
・ 広域下水道の完成
小牧市には、下水処理場がなく、周辺の市町域(犬山市、岩倉市、大口町)にもない事から費用を分担
し、県が中心になって五条川左岸に下水処理場(浄化センター)を建設し、維持管理する事となり、昭和6
2(1987)年より共用が開始されたという。
私が住んでいる篠岡には、雨水を一旦留めておく大きな穴が、残っていましたが、広域下水道が共用さ
れる頃には、不必要になったのか、埋められてしまい、住宅用地としてその後、どのくらい経ってからでしょ
うか。分譲されました。地下深くの所には、排水用の太い管があったかと。適切に地下の排水はされるよう
にして埋め戻されたと思いますから大きな地震がきても、大きな揺れにはならないとは思いたい。
元あった土地を削ったりした所ではなく、埋められた土地でありますから、地盤はしっかりした状態では
ないのではと推察されます。大地震時には、どうなるのだろうとそこに住んでみえる住民の方が知れば、
恐ろしい事ではありましょう。
昭和63(1988)年4月には、光ヶ丘小学校が開校し、その後も光ヶ丘、城山地区は、住宅の建設ラッ
シュが続いていました。
平成4(1992)年8月には、人口は、2万人を突破したという。
平成9(1997)年には、高層33階マンションの建設が終了したといえましょうか。その年に、人口は、2
万6000人をやっと突破したという。計画人口は、当初規模5万4000人が、その後、4万人に変更され、
最終人口は、2万6000人。大幅な人口減であり、規模も弱冠縮小されたやに聞き及んでおります。
桃花台ニュータウンの建設は、平成11(1999)年3月を以って完了したようです。
当初、アピタ内には、東京UFJ銀行の桃花台支店がありましたが、人口が思うように伸びなかった事もあ
ったのでしょうか、支店を閉じ、アピタ屋外に、4〜5台のATMを置き、対処されるようになりました。支店があ
った頃は、春日井の高蔵寺支店の支店員の方の対応とこの地域の支店員の利用者対応には、明らかに違
いがあったように思えました。私は、高蔵寺ニュタウンにも居住していましたし、当地にも居住して両東京UFJ
銀行の支店の対応を比較出来ますので、私は、何をいばった態度で対応されるのだろうと不快に思っており
ました。小牧の支店でも同様でありましょうか。消防署員の方も、春日井と小牧では、対応はえらい違いがあ
った事だけは、確かな事であり、付け加えておきます。
何か田舎者に、上から目線で物を言う態度がありあいと致しておりました。東春信用金庫の池ノ内支店の
窓口のお嬢さん?までそのような言い方であった。何だか自分達は、上であり、顧客はまるで無知の者でも
あるような対応は、いかがなものでありましょうか。
それでは、顧客は増えはしないでありましょうし、しかたなく、金庫代わりに使うしか手はないと思うようなる
のは当たり前でありましょう。失礼な書き方であるとは思いますが、こうした感覚は、私だけかも知れません。
しかし、こうした気持ちになったのは事実であり、耐え難かった事を率直に申し述べました。言い過ぎた所は、
お許しあれ。