桃花台周辺の古代の製鉄址についてのアプローチ
(再考)
1.はじめに
拙稿では、桃花台周辺の古代の製鉄址の具体相を主に記述いたしました。今回は、現在までの歴史学に於ける研究成果を踏
まえて、当地の古代製鉄址の位置づけをしてみたいと思い筆をとりました。
製鉄史についての現在の水準でありましょう「列島の古代史 2 暮らしと生業 岩波書店 2005年版 内 P、222〜245の
”鉄の精錬と工房”と「倭人と鉄の考古学」 村上恭通著に依拠しつつ記述いたします。
2.当地における製鉄炉の形状
上記二氏の製鉄炉の分類は、「鉄の精錬と工房」の執筆者 花田勝広氏は、箱型炉については、AとB型の二タイプに分けてみえ
ます。
(1) 長方形箱型炉 A型
炉床の焼成面が長方形を呈し、下部に防湿造を持つA1タイプと有しないA2タイプに細分。
A1 炉床下に土坑を有し炭層を設ける。 A2 炉床下に粘土を貼り、長側辺に石材を配す
る構造。
(2) 方形箱型炉 B型
炉床の焼成面下に、方形または隅丸方形に近い土坑を設け防湿構造としたもの。
他方 村上氏は、花田氏の(1)と(2)を長方形箱型炉として把握されている。
とすれば、当地の製鉄炉は、花田氏の分類に従えば、春日井市西山地区に於けるタタラ製鉄跡 ( 西山遺跡 )と小牧市下末・
高根地区に於けるタタラ製鉄跡 (狩山戸遺跡)は、共にA1とA2タイプ両方を部分的に有する長方形箱型炉でありましょうか。
炉床の焼成面が長方形を呈し、炉床下に土坑を有し、部分的に石材を敷いた構造であったようですから。(詳しくは、拙稿を参照)
3.製鉄炉の伝播
「鉄の精錬と工房」の執筆者 花田勝広氏は、同書 P.230に、「発掘された製鉄炉跡の事例から推定するに、製鉄工房は、精
錬に伴う炉と作業空間の単位群があり、工人がそこに居住する場合は、2〜3棟の工房からなる。一方、集落から製鉄作業場へ臨
時的に通う場合、作業場のみと考えられる。」と。
とすれば、当地での製鉄は、発掘報告書にも、居住したと思われる住居跡の報告はない。通いの作業場と捉えられるのでは・・。
確かに西山遺跡では、他工房の存在を推測する遺物が出ているようですが・・・。
村上氏は、同書 p.173〜176において「長方形箱形炉は、古墳時代後期の岡山県大蔵池遺跡や緑山遺跡のように構造的な炉
床を持たず、溝の中に炉底を築くタイプがベースとか。律令前後頃には、両端に排滓用の土こうを持ち、掘り方の平面が鉄亜鈴形
の炉が成立すると。こうした鉄亜鈴形の製鉄炉は、7世紀後半に北部北九州を中心に現れる。」と記載されている。
まさに、狩山戸遺跡は、そうした記述と同様ではなかろうか。とすれば、尾張地区の工人の系譜も北部北九州の工人と同系では
ないかと推測いたしますが、どうでありましょうか。
・ 各地への製鉄炉技術の伝播
花田氏は、同書で、「5世紀前葉以降の製鉄・鍛冶集団の分業化が著しく進んだ結果であり、また、専業集団を掌握する氏族が、
ヤマト王権と一部の地方首長に独占され、鉄・鉄器生産の掌握が政治権力の基幹であったことが窺える。」とまとめてみえます。
一方、村上氏は、「畿内政権が、統一して工人を各地に配したのではなく、北九州を窓口にして、各地の首長層が、独自に渡来
工人を招聘した。」(同書 P.127 参照)かのように記述されている。両氏共に、時期的には、5・6世紀頃の事かと。
こうした点、須恵器の穴窯は、尾張地区は、畿内とほぼ同時期に製品を焼成しているようですが、製鉄炉については、畿内より
は、遅れて活動している。桃花台周辺では、早くても7世紀中頃以降であり、製鉄に関する限り、東進は、緩やかであったと考えざ
るを得ません。
しかし、小鍛冶技術を持った工人は、既に古墳時代後期には、尾張地区へ伝播していたようですが・・。
参考までに、「五社大明神社(現 春日井市高蔵寺町)の祭神の一柱に、天目一箇命が名を連ねている。この祭神は、所謂 製
鉄神と考えられている。ダイダラボッチとも呼ばれるようであります。何故この神が、五社大明神社に登場するのであろうか。この
神社以外には、当地域において天目一箇命を祭神とする神社は、見当たらないようであります。
一つには、高蔵寺5号墳(春日井市玉野町塚本に所在)からは、鉄鐸(テッタク)と砥石が出土。廻間7号墳からは、鞴(フイゴ)羽口
が出土。既に、後期古墳である横穴式古墳から鉄に関わる遺物が出土していることは、確かであります。この古墳は、五社大明神
の近くであり、早くから天目一箇命は、この高蔵寺・玉野地区に伝わっていた可能性は、高いのかもしれません。
詳しくは、古墳時代の鉄鐸について 早野浩二氏の論文を参照されたい。そのURLは、下記の通りです。
( http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo09/0903haya.pdf )
*
古墳時代後期以降における水運・陸路についても、系統的ではないようですが、記述はあるようです。
「既に古墳時代末期頃には、内津峠を通る道があり、伊勢湾沿岸から美濃を経て信州へ抜ける交通の要所に近かっただけに、
この現 春日井市西尾(サイオ)町の集団は、交通交易機能を握り比較的早く成長出来えたのであろうか、尾張地区では、現在知
りうる最初の横穴式石室を持った”欠ノ下古墳(6世紀中頃築造カ 既に滅失)”を造りえたようであります。」( 春日井市史 P.
65〜67参照 )とか。
また、列島の古代史4 人と物の移動 岩波書店 2005年版には、次のような論考があった。「河海の交通ー日本海交通を
中心としてー」 松原弘宣著。 その中の 1 列島の水上交通 <地方の水上交通>に、美濃尾張三河川(揖斐・長良・木曾
川)と伊勢湾交通なる項目があった。
「揖斐・長良・木曾川と伊勢湾交通は、東山道上の青墓(岐阜県大垣市赤坂町)−笠縫・中川(大垣市北部)−結ぶ(墨俣町)
−墨俣渡ーたまの井・黒田(愛知県旧 木曽川町)−一の宮(一宮市)−下津(オリツ 稲沢市)−東海道上の萱津(海部郡甚目
寺町)という美濃・尾張間陸路と揖斐・長良・木曾による三河川によって形成されている。」と。
更に「そこでの交易が水上交通を利用して行われた事は、『日本霊異記』中巻第4話 美濃国 方県(カタカタ)郡 現在の岐阜
県本巣郡本巣町の辺りカ に小川市(イチ)が在った事、そして、尾張国愛智郡片輪の里 現在の名古屋市中区古渡町付近の女
が、小川市へ出向く話を例証にして記述されていた。」詳しい事は、同氏の「日本古代水上交通史の研究」吉川弘文館 参照。
上記 『日本霊異記』中巻第4話 美濃国 方県(カタカタ)郡 現在の岐阜県本巣郡本巣町の辺りカ に小川市(イチ)が在った事
は、聖武天皇時の事柄のようで、8世紀 奈良時代の事であるようです。同氏の「日本古代水上交通史の研究」吉川弘文館に
は、小川市(イチ)で、乱暴をしていた女は、当地の新興郡司に関わる者とも捉えられており、小川市(イチ)へ乗り込んでいった尾
張国愛智郡片輪の里 現在の名古屋市中区古渡町付近の女も、尾張国愛智郡域の郡司層の女とも把握されているようです。
この捉え方が、的を得ているとすれば、既に奈良時代頃には、水運に関わる交易が、郡司層等により行われていた事になりま
しょうか。水路については、律令制下特に規定は無いようで、在地の郡司層に委ねられていた可能性は高く、その延長線上での
交易であったのでしょう。平安時代になって、受領層特に尾張国では、あの有名な郡司及び百姓等の受領訴追の内容には、在
地に於ける交易に受領が介入し、その権益を犯したから、訴追を受ける事になったとも読み取れるとも同氏の「日本古代水上交
通史の研究」吉川弘文館 には、記述されている事を付記致しておきます。
古代の水上交通については、次のような記述もあります。「伊勢の国 桑名郡榎撫駅(東海道の駅)と津島は、水路移動。そ
して、三宅川を遡上し、稲沢国府に至る通路は、古代の尾張国の幹線路であった。」と一宮市史 第5節 沖積平野の小地形と
環境に記述されている。東海道(中路)からの支線であり、小路であったと思われます。
陸路であれば、駅には、馬が置かれた筈。水路となれば、馬ではなく、船が置かれていたのでしょうか。そうした記述はありま
せんからこの船は、推量であります。古代では、この部分の水運を尾張氏が、握っていたのでしょう。
伊勢湾内と伊勢湾に流れ込んでいる大河への水運が、握られていたと推察できましょうか。
律令制度下では、駅路の規定はあるようですが、水路については、別段規定はないようです。水路の運用は、在地に任せら
れていた可能性が高いと思われます。「日本書紀には、5世紀以前に、既に尾張連氏は、尾張国に居たのであり、536年に、
尾張国にある屯倉の穀(もみ)を尾張連によって現 博多港へ運ぶように蘇我稲目を通して命じさせたという事が記述されてい
る。」事が例証になりましょうか。
縄文時代の青森 三内丸山遺跡のヒスイ・黒曜石等の有用な物については、縄文時代といえども陸路ではない海路を通して
流通していた事が知られている。上記のことから7世紀代での水路・海路・陸路等による流通を想起しても何ら不都合はないよう
に思われますが、いかがなものでありましょうか。
さて、歴史上 大きな出来事をみてみれば、朝鮮半島での白村江の戦(663年 百済滅ぶ。)に敗れる。百済人2000余人を東国
に置く(666年)。 壬申の乱(672年)起こるでありましょうか。
また、地域的には、この7世紀中頃の尾張地区は、尾張大隅・尾張馬身等の国造的色彩の強い郡家が旧来の勢力をまだまだ持ち
えていた頃で、地域には部曲(カキベ 律令制以前における豪族の私有民。それぞれ職業を持ち、蘇我部・大伴部のように主家の名
を上に付けてよばれた。大化の改新後は名目上は廃止され、実質的には天武朝後に公民となったのでありましょう。語源的には、部
曲は古代中国の漢代から魏晋南北朝時代において、人間集団
の組織、とくに軍隊組織において大隊を部、中隊を曲といい、部曲は
軍団を意味したという。・・筆者注)の色彩を色濃く残した集団も、残存していたのではなかろうか。
「壬申の乱時、尾張国は、国守 小子部さひちにより2万人程の農民を集め、武器を携行させていた。」とも知られ、どのような武器
であったかは、不明ですが、武器である以上農具ではない。槍のような物であろうか。木製の先に、鉄製の刃先を取り付けた物であ
れば、装備の補充は可能であろう。
武器は、郡家が持たせたのか、国守の仕事であったのであろうか。大隅については、「古代貴族と地方豪族」 野村忠夫著 吉川弘
文館
平成元年刊によれば、壬申の乱では、軍事費用の負担と行宮の提供が主であり、武人ではないかのような記述であります。
とすれば、武器の手配は、国守であったのであろうか。こうして集めた農民集団への食料は、郡家が担当していたのかも知れません。
全て推測以外の何ものでもありませんが・・・。
また、大隅は、6世紀頃の継体朝を支えた尾張連草香の末裔であり、草香は、海人族であり、水運等で、活躍していた可能性もあり、
犬山市史には、水野時二氏により、「宣化天皇元(536)年頃には、尾張連氏は、伊勢湾を含む海運等を幅広く進めていたのでしょう。
日本沿岸の湊の豪族には、尾張氏と何等かの繋がりの系図を持つ一族が、多く存在している。」という事例をあげて記述されていた。
*
具体的には、「尾張氏は、畿内、美濃、飛騨、越前、近江、丹波、因幡、播磨、備前、紀伊、伊予、豊後の地に広く分布していた。」
と述べてみえた。 時期的には、5・6世紀代でありましょうか。*
*
また、新修 名古屋市史でも、「物部氏も、日の出の勢いの尾張氏の系図に乗っかり、一部を拝借した。」とも記述されている。*
この継体朝期は、系図をこのように改変する事が、多かったのでありましょう。
草香(尾張国造)の時代からは、1世紀余後の頃ではありますが、大隅は、こうした草香の系譜を引き継いでいた可能性は高いので
は・・。それが、美濃国不破郡の別業(別荘)ではなかっただろうか。軍資金の提供も、水運等の活動で得たものであろうか。
さて、もう一人の尾張馬身(マミ)については、よく分かっておりません。尾張氏の系図上には出てこない人物でありますし、本拠地も
不明であります。
*
敢えて歴史学から離れ、上記 尾張連馬身なる人物を推理されている著書に出会った。「古代の謎 抹殺された史実 物部・葛城
・尾張氏と東海のかかわり」 衣川真澄著 2008年版 株式会社パレード なる著書。
その内容は、成程と納得する箇所も随所にありました。
あくまでも推測領域の事柄ではありますが・・・。それによると馬身は、草香の嫡子 凡から数えて4代目の子であり、本家筋の嫡子
であるという。凡から馬身の間の系図が尾張連家には、欠落しているという。大和系の国史に抜き取られたという。
壬申の乱時、馬身が、尾張連家の当主であり、尾張国に本拠があり、大隅は、若君であり、美濃国野上に別邸を持ち居住していた
のであろうと。
更に、氏は記述されてはいませんが、凡から馬身の間の3代の頃からいや草香の時代から若狭・琵琶湖西岸辺りの鉄鉱石を用い
製鉄をしていた息長氏系列の鉄挺(国産)や舶来品を美濃国野上辺りで鍛冶集団を使って農具等や武器を創りだしていたかのよう
な推測をされている。
そして、信濃・美濃・尾張に豊富な鉄製農具や武器を伴って新規開拓をして勢力を拡大し、一大強国を創り出していたのでは。と。
継体天皇が、大和以外から進出出来えた大きなバックボーンであったかのように推測されていた。*
**上記同氏の推測された事柄に対し、私自身農耕地の新規開発を尾張氏は、古代突き進んで経済的富裕となる経済システムを
創ったから壬申の乱時、大海人皇子への軍資金等を出す事ができたのかと。大隅は、そのシステムの遺産を受け継いでいた可能
性を推測いたしますが、5・6世紀頃の尾張国に於ける鉄滓出土地は、「尾張の鉄の匂い」 小木曽正明氏の論述からみれば、僅
か4ヶ所しか見つかっていない点疑念があるのですが・・・・。まだ見つかっていない所もあり可能性はあるのかも知れませんが。
むしろ、美濃国野上は、かっての推古天皇の摂政 聖徳太子の祭地であり、太子の嫡子に引き継がれていた可能性が高い。蘇我
氏により太子一族は滅ぼされましたが、この祭地は、大海人皇子の壬生期の祭地に宛がわれ、壬生期の皇子は、尾張氏傘下の大
海氏の許にいたという日本書紀の記述もあり、馬身の父代の出来事であろう。その頃から既に尾張氏は、この辺りの鍛冶集団と繋が
りを持ちえていた事は推測出来うる事ではあります。**
愛知県の歴史 塚本学、新井喜久夫著 昭和45年発行 P.31〜32には、「大和朝廷に服属した豪族は、大和朝廷を背景に民衆
への支配力を強め、服属していない地域に対しても、その支配をしだいに広めていった。一方大和朝廷の側も地方豪族の貢納だけで
満足せず、大陸に対する政策が頓挫した5世紀前半ごろからはげしく畿内から東へむかって進出しはじめる。
この段階では、”部”を設定し、部民として人民を把握する方法も取られはじめ(服部、海部、など)天皇家の部民にならって、大和朝
廷を構成する畿内地方の大豪族の部民(大伴部、物部、和邇部など)もおかれた。」と。この時期は、雄略朝の事でありましょう。
春日井市史には、「尾張氏より以前に現 春日井市朝宮辺り、八田川中流域に春日氏・和邇部氏等が居住していた。」という記載が
ある。
この「八田川が庄内川に合流する辺りに味美古墳群がある事は、周知のことがらであり、この八田川上流域には、5世紀末以降 須
恵器窯が稼動しており、あの二子山古墳での尾張式円筒埴輪が、焼成せられ、用いられています。」と。また、「熱田の断夫山古墳に
も、一部八田川上流域での須恵器窯で焼成せられた円筒埴輪が使用されてもいた。」(詳しくは、日本の古代遺跡 48 愛知 保育社
平成6年発行 参照)とも記述されている。
愛知県の歴史の著者は、味美古墳群(最大の古墳は、二子山古墳)の豪族と熱田瑞穂台地、熱田神宮近くの断夫山古墳(愛知県
下では、最大の前方後円墳)を区別し、尾張氏の宮ず姫の墓と神宮では、伝承しているようであり、この墓が、尾張連氏に関係のあ
る墓であり、味美古墳群は、この尾張氏が抑えていった豪族であるという理解のようであり、尾張氏は、伊勢湾を支配した、海からの
移住者であるかのようであり、後、尾北地域に進出したのではという理解なのではと推察いたします。新修名古屋市史でも、上記の
見解を述べてみえます。
書かれた時期は、違いますが、同一著者であるからでしょう。尾張氏は、尾張国の国造として君臨していった事は、史実でありまし
ょう。
以上の概観から、律令制草創期の尾張地区 桃花台周辺での製鉄址の稼動は、果たして一郡家の力だけでなし得た事であろうか。
そこには、朝鮮半島での敗北という対外的な事と同時に、友国 百済国という一国の消滅。そこに住む王族をはじめ、そこに連なる
豪族、また、有用な技術を持ち得た工人等々が、一挙に安住の地を求めて亡命したのでしょう。それが、666年 百済人2000余人
を東国に置くという史実であり、尾張国・美濃国等々へも配置されたという事ではありましょう。
そうした事柄に携わったのは、尾張では、中央から派遣された尾張国守 小子部さひちの可能性が高いのでありましょう。また、さひ
ちは、製鉄氏族という事を述べてみえる方もありますから、天智朝の要請に答え、666年に配置された百済人の渡来工人を差配した
でありましょうが、中央への必要量の鉄の貢納以外は、中央政府は、それ程強い関わりではないという事を最新の研究論述でも述べら
れている事から、実質は、郡司が関わっているのではないか。渡来工人も、かなりの自立度があった可能性は高いと思われます。
こうしてあの製鉄炉を稼動させたと考える方が辻褄はあう。推測以外の何ものでもありませんが・・・。製鉄炉の原料は、岩鉄であり、
砂鉄ではなかった事は、発掘にて確認されている事ではあります。
百済系の製鉄炉で、朝鮮半島で現在までに確認出来えるのは、砂鉄を用いた製鉄炉ではありますが、上記花田氏
同書 P、223
には、「4〜5世紀初頭の忠清北道(参考までに、当地は、古代の馬韓の地であり、三国時代前期には百済、高句麗、新羅の交界地と
なり、後に百済領となったとか。・・筆者注)石帳里遺跡では、砂鉄を原料とした精錬炉が検出され、4世紀に比定されている。」とか。
6世紀・7世紀の旧 百済領の製鉄炉の発掘事例は出ておりませんが、あの秦氏の研究の大和和人氏は、「長さ2m以上在る細長い
製鉄炉は、8世紀までに畿内周辺の律令国家の強い影響を受けた地域に導入された箱型炉である。」と指摘されているとか。
「こうした箱型炉は、7世紀前半〜8世紀後半までに採用された南近江において改良されたとして、この技術的な源流は、百済であろ
う。」と推定されているとか。666年の百済人2000余人を東国に置く。が論拠の根底にあってのことであろうか。
5・6世紀のことでありましょうか。古代の製鉄遺跡(製鉄と鍛冶シンポジウム、於広島大学)土佐雅彦、1995、12月によるのでしょう。
詳しくは、右記 URLにて確認されたい。http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp0202.htm 古代のたたら 参照。
「それによると、山陽地域と山陰地域では、製鉄原料に違いがあるようです。山陽地域は、鉄鉱石を、山陰地域は、砂鉄であるようで
す。このことは製鉄技術の伝来ルートに違いがあることを暗示しているのかもしれません。」と結ばれていました。この論者も、百済系・
新羅系とは、具体的には述べてはみえませんが、文献的には、「古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬ
ち)卓素が来朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受け
たと記されています。」と補足されています。詳しくは、http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020103.htm を参照されたい。
しかし、伝授の記載は、あくまで鍛冶技術における事柄ではありましょう。製鉄炉ではないようです。
*
後日 東京工業大学製鉄研究会から出された「古代日本の鉄と社会」 平凡社 1982年版をみると、下記のような記述もある。
・ 播磨国風土記・日本霊異記・扶桑略記等に出てくる鉄穴は、砂鉄採集というより鉄鉱石採集であり、我国の初期鉄資源採集方
式は、露天の竪穴採掘ではなく、横穴を持つ鉱山採掘であろうと記述されている。
また、初期の製鉄を全て鉄鉱石と主張するつもりはないが、文献的には、むしろ鉄鉱石と思われる物が古いのであって、これ
は、自然科学の側の、チタンを含まぬ鉄鉱石やチタンをわずかにしか含まない砂鉄を原料とした方が技術的には容易いという
見解である。(同書 P.180 参照)と。
技術的事柄を知れば、製鉄は、チタンを含まない物であれば、それ程難しい作業ではないように取れました。が、朝鮮半島から
舶来鉄が入手出来る場合は、その鉄を利用した鍛冶技術が先行したのでありましょう。*
只、山陽地域では、蘇我氏が関わった鉄鉱石採掘事例(蘇我氏は、吉備に置かれた屯倉の管理に直接携わり、吉備の鉄に関わる集
団の食糧の確保に努めたとも指摘されているかと。・・拙稿 「渡来人 秦氏についての覚書」 参照 或いは、「日本書紀」 欽明朝に
かけて蘇我稲目とその子 馬子等が、白猪・児島屯倉の設置と経営の為吉備五郡・吉備国に派遣された記述もある。)もあり、やはり百
済系であろうか。
山陰地域は、スサノウとの関わりで、新羅からの伝来を伝える日本書紀の記述もあるようですから伝来ルートの違いはあった可能性は、
高いと推測いたします。
尾張国における砂鉄を使った製鉄炉は、平安時代を待たねばならないかのように推測いたします。詳しくは、「東海鋳物史稿 財団法
人 総合鋳物センター刊 昭和42年カ」を参照されたい。
平成26年12月30日 脱稿
平成27年1月11日 一部加筆訂正
平成27年10月24日 加筆