泥鰌(ドジョウ)についての雑感
1.泥鰌屋について
泥鰌は、高たんぱく、低脂肪で夏は産卵期で、味が格別に良いとか。日本各地の田や沼にすみ、庶民にとって
は、簡単に捕れ、安くてうまい食材であったようです。
昭和生まれの当方は、食した事はありませんが、平成の御世でも、私の住む愛知県内でも、時として柳川鍋とい
う名で商売をしている店屋さんがあります。
2.どぜう鍋の起源
詳しい事は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A9%E3%81%9C%E3%81%86%E9%8D%8B 最終更新
2014
年7月3日 (木)
08:40 を参照下さい。
それによれば、江戸では、駒形どぜうとして享和元(1801)年に創業とか。初代当主は、越後屋助七が定説に
なっているようで、どぜう という記述で「どじょう」と読むようで、この「どぜう」という表記は、文化3(1806)年か
ら使用とか。現在でも東京には、どぜう有名店は、数軒あるようです。
店としては、19世紀初め頃のようですが、各地の在では、田舎料理として「泥鰌」は、料理され、食されていたと
思われます。祭りの日の特別料理として、泥鰌の蒲焼(うなぎに似た味でありましょうが、ややあっさりとしていたと
か。)・どじょう汁として。簡単に手に入る身近な蛋白源として。
私のおじいさんからは、泥鰌の泥を吐かせて、鍋に豆腐を入れ、生きたまま泥鰌を鍋に放り込み、ぐつぐつ煮た
ててから食したという事を聞いた事がありました。泥鰌は、鍋の水がぬるい時は、普通にしているが、水が熱くなる
と冷たい豆腐の奥へ頭から突っ込み、息絶えるとか。それを、ふうふう冷ましながら豆腐と一緒に泥鰌を食したと
か聞いた。
そして、江戸期から明治期にかけては、最盛期であり、泥鰌は、どぜう鍋として庶民にとっては、安価な淡白源と
してまた、夏を乗り切る今で言うどようの丑的な感覚の食べ物であったでありましょう。
今では、高価な珍味として生きながらえているのでしょう。どこぞの店では、定食(ご飯とどじょう汁お新香付きで
600円)で出しているとか。
3.昭和30年代の泥鰌
私の幼少の頃の思い出であります。私の生まれは、現 多治見市平和町(その当時は、多治見市脇之島)。その
当時の地域は、一面水田ばかり。平地には、現 多治見市立昭和小学校近辺までは民家が建てこんでいましたが、
残りの平地は、田でありました。
悪水(アクスイ)と呼ばれる多治見市街地の今で言う下水の通り道が水田を東西に延び、土岐川へと岐阜県立病院
の対岸で、流れ込んでいました。田植え時期になりますと、昭和小学校から西へ1・2Km辺りにある水門が閉じられ
悪水(実は、多治見市街地から出た下水)の水が脇之島の水田へ供給されていた。
その毛細血管のように伸びている水路には、泥鰌が生息しており、まだ農薬が使用されはじめたばかりであり、たく
さんの泥鰌を捕まえる事ができました。
私の小学校高学年の頃の夏休みは、この泥鰌捕りが、楽しみの一つでありました。
おじいさんに作ってもらった竹を細かく割いた竹編みのタモのような道具と竹の棒二本と空き缶(缶詰)を持って、い
そいそと水路へ出かけ、愛岐道路脇の水路で、竹編みのタモを水路の中に置き、やや上流から竹の棒二本を使って
コンクリートで固められた水路のコンクリート底を棒で突きながら音を出し、泥鰌を竹編みのタモへ追い込んでいき、
直ぐにタモをすくい上げると、一度に数匹から十数匹が入っていました。それを空き缶に入れて移動をし、数回してい
ると、道路を走る車が止まり、乗用車から身なりのいいおっさんが降りてきて、「坊主何している。」「ほう泥鰌か。」
と声をかけて来るではありませんか。捕ったばかりの泥鰌の入った缶を見せると、「どうだ、おじさんに売ってくれんか。」
「二百円でどうだ。」すぐ売りました。
そうした事がない場合は、おじいさんに頼んで、家の井戸水で数日間泥鰌の泥を吐かせ、それを多治見市長瀬にそ
の頃はあった市場へ持っていって貰い換金した事を覚えている。子供なりに、金を稼ぐ方法をしていた。
我が家では、まったく泥鰌は、食べませんでしたが、まだこの頃でも、泥鰌は、広く食されていたようです。
しかし、1.2年も経つと、水路の泥鰌は、まったく捕れなくなりました。農薬のせいか、はたまた捕りすぎによる種の
絶滅であったのだろうか。