秀真伝(ホツマノツタエ)に書かれている事柄の概要
1.はじめに
秀真伝(ホツマノツタエ)は、古史古伝の類の書物であります。
「 秀真伝(ほつまでんとも云うようです。) 」・・神代文字で綴られた全文57調の短歌と長歌からなる一大叙事詩。
四国宇和島市小笠原家で完本が発見されたという。
(記紀の原典とも言われているようです。)
「
秀真伝(ホツマノツタエ)は、オオナムチノ命(大国主命カ)の子孫のクシミカタマノ命が、1〜28紋(章)を編纂し、その子
孫のオオタタネコノ命が、29〜40紋(章)を加え、完成したと言われているようです。そして、この全40紋(章)を景行
天皇に捧げたという。」 ( 秀真伝が明かす超古代の秘密 鳥居 礼著 参照 )
この秀真伝(ホツマノツタエ)が、危機に陥る最初は、漢字と儒教が伝来した頃、2回目は、仏教が伝来し、律令の基礎が
出来つつあった頃、三回目は、律令体制が完成する7・8世紀頃、最後は、西洋文明が入ってきた明治維新頃だという。
1回目の時は、超古代の伝承が失われる事を恐れ、近江の水尾御所で、皇子が自ら学んだという。2回目は、古代の
伝承を伝える多くの国書が焼かれ、失われるという事が起こったとか。秀真伝(ホツマノツタエ)は、かろうじて潜伏したという。
以後、近江の地で、密かに伝承されたという。
この書物は、神代文字(ホツマ文字)で書かれており、難解な書物でありますが、解読されたようです。
現在、存在する書物は、既に大和朝廷の藤原不比等等により、検閲され、原本が、改定されたかもという事を、記
述される方々もあるように聞き及んでおります。
その旧 原本ではないと思われます写本(完本)に書かれている内容について大まかに記述しようと思います。
2.秀真伝(ホツマノツタエ)に記述されている内容の概略
A 高天の原について
・ 高天の原は、民間伝承の霊魂観であるようで、天上と地上の両方にあったと秀真伝は、伝えているという。
古事記では、そうした記述はあるものの、天上系の天つ神と地上系の国つ神が対立し、記述が矛盾していたり、
日本書紀では、高天の原観念が、希薄であるという事を言われ、記紀の記述の元となった秀真伝には、その点
アメノミナマカヌシ神以降は、全ての神々は、人体で地上に暮らしていると書かれ、地理的記述は、秀真国(畿内
カ)からみて東方はるかかなたに高波が寄せるその上に ”日高見(ひたかみ)”国(東北地方)があったようで、秀
真国は、クニサッチノ尊が、日高見国は、タカミムスビノ尊が治める二権並立国家の様相を呈していたという。
そして、この日高見には、クニトコタチノ尊が造ったとされる”常世の国”の伝承が多く残り、「垂仁天皇在位の時
タジマモリは、詔を受け、常世の国へ行き、帰ってきた時には、既に垂仁天皇は、この世にいなかったようで、タジ
マモリは、その天皇の古墳上で、息絶えたという逸話も残っているとか。」(日本書紀 参照)
このことから常世の国とは、日高見と同義語であった事が分かる。また、現在地名として残っている「北上」は、「
ヒタカミ」から転じたものではないかと説かれる事もあるようです。
秀真伝には、暦の事も記述されており、鈴木暦と干支があったという。鈴木暦は、「天の真栄木(アメノマサカキ 鈴木)
」という信じられない大木を元にした暦であるという。クニトコタチノ尊が、この木の種を、日高見の葉木国宮(ハゴクニ
ミヤ)に植えたのが始まりとか。
秀真伝 2紋(章)には、「常世神(クニトコタチ) 木の実東に 植えて生む ハゴクニノ神 日高見(東北)や 高天原(
多賀)に祭る ミナカヌシ 橘植えて 生む御子の タカミムスビを 諸讃ゆ キノトコタチや」
この意味は、「初代タミムスビの父であるハゴクニノ神が、日高見の高天の原の地にアメノミナカヌシ神祭ったとい
う。クニトコタチノ尊は、タカミムスビ神を生み、又この神の別名をキノコトカミノ尊とも言うようであります。」
同じく秀真伝 4紋(章)には、「治む五代(いつよ)の ミムスビの いみなタマキネ 元明けを 遷す高天原に アメ
ミヲヤ 元々・天並(あなみ) 三十二神(ミソフカミ) 祭れば民の トヨケ神」
この意味は、「五代目 タカミムスビ(トヨケ神)が、天地開闢の時活躍した四十九の神(言霊神)を日高見の高天原
に遷座し祭ったという。
とすれば、トヨケ神は、地上に四十九の神の御魂を遷座したのであるから、当然そこには天界の鎮座図である「フト
マニ図」と同様の構造を持った祭祀場があったと考えられるという。
そうした物として、日本の本州の北半分に主に存在する”ストーンサークル”の組み石が想起され、日高見の地域と
重なる。秋田県大湯遺跡の組み石は、上から見るとほぼ東西南北に丸石が置かれ、中央には、太い長い立ち石が聳
え立つ。いわゆる「フトマニ図」を思わせるという。
B 伊勢神宮について
五十鈴川のほとりにあります伊勢神宮 内宮は、一体いつ頃創建されたのであろうか。外宮の社伝を読むと、雄略天
皇が、近江におわす豊受大神を、伊勢大神(アマテラス)の食事の司として遷座したという事になっておるようです。
ところが、秀真伝では、アマテルと皇后は、最初は、磯部町の伊雑宮におわして、晩年 この現在の伊勢神宮に移られ
たと記述されております。しかも、この宮に、植えもしない鈴木暦の木が芽生え、この時、アマテルは、神上がり(死去)が
近いと悟られ、近江のトヨケ神(豊受大神)が神上がりされた場所に、洞を掘り、そこで亡くなられたという。
崇神天皇の頃には、このアマテルが、晩年を過ごされた現 伊勢神宮が、忘れ去られつつあり、次の垂仁天皇の頃に
は、すっかり忘れ去られていたという。雄略天皇は、何故にトヨケ神を現 伊勢神宮の近くへ遷座されたのであろうか。
考えられる事は、一つ、雄略天皇は、近江出身者であり、早くからこの秀真伝に目を通されていたのではあるまいかと
いう事。
アマテルに最後の「道の奥(ミチノク 道の奥義)を授けた方であり、おじいさんにあたる方である事を知りえていたのでは
ないかと。そうであれば、辻褄は合うと言えましょうか。
C 二紋(二章)に記述される ひな祭りの起源について
ホツマ文字は、私の辞書には、ありませんので読み下し文で、記載いたします。
越国の 日成るの岳の 神宮に
木の実を持ちて 生まれせば
庭に植えをく 三年のち 弥生の三日に
花も実も 百(もも)なる故に 桃の花
二神の名も 桃雛木 桃雛実なり
雛は未だ 人成る前よ
君はその 木の実によりて
男神は木 女神は実とぞ
名つきます 人なる後に
弥生三日 神酒造り初め 奉る
桃下(ももと)に酌める 御酒に月 映り勧むる
女神まづ 飲み勧むる
後男神 飲みて交わる 床の御酒
そして、上記文の解説をしますと
越の国の陽光がよく降り注ぐ丘に建つ或るお宮に御子が、お生まれになった。
不思議な事に御子は、木の実を手にしてお生まれになったので、その木の実を植えたところ、三年たった三月
三日に生長した木には、花と実が、それぞれ百づつ成った。その木は、「百(もも)」に因んで、桃の木(花)と呼ん
だ。
男の御子の名をモモヒナキノ命、姫の名をモモヒナミノ命とおつけしてお二人を慶祝申し上げたのである。そして、その
時から、「木(き)」と「実(み)」に因んで男神の名には、名前の後に「キ」を、女神の名には、「ミ」をつける習わしと
なったのである。
「キ」と「ミ」が合わさった「キミ」は、男神女神・一対という意味があるという。
お二人は、立派に成人され、やがて婚礼の儀がとり行われる事になった。婚礼の儀は、成長した桃の木に因み
三月三日に行われた。ちょうどその日に、御酒を造って献上した神がいたので、その御酒をお二人は、桃の木の
下で勧め合い、また夜には、盃のなかに月の姿が映し出され御酒を勧め合ったのだった。
「御酒(ミキ)に因み、先にミの女神が飲まれ、次にキの男神が飲まれた。そして、夫婦和合をされたのである。と
また、桃の木の三年と三月三日の婚礼の日に合わせたので、婚礼の祝賀のお酒は、三・三・九度に飲むしきた
りが生まれたのである。また、この御酒は、神聖な床酒でもあった。
以上が、本来のひな祭りの起源であり、それは、婚礼の儀のしきたりに通じているという。」(この部分は、明らか
に清川理一郎氏の憶測が、濃厚に入っている記述かと思われます。和歌森太郎氏は、三・三・九度というしきたりは
武士の世になってから出来た事柄であろうと考えられており、古代では、酒は飲んでいたと思われますが、このよう
な形は無かったと言われております。)
* ひな祭りについての雑記
何だか辻褄合わせというか、語呂合わせというかそのような気がしないでもありませんが、ホツマ文字が、読めな
いだけ、疑念が・・・・・。ひな祭りについては、「猿田彦と秦氏の謎」 清川理一郎著 P.135〜136の記述のままに
記載させて頂きました。
現代では、桃の節句といって女の子の祝い日であるかのようですが、古代では、婚礼の儀に関わる事柄であった
かのようであり、男にも関係があった日でもあるようです。どこで、どう歪められたのか?、違ってきたのでしょうか。
記紀に記載されている 神代の昔話は、全てこの秀真伝にあり、記紀の原典であるという記述は、本当であろうし、
よくぞ現代まで残りえたものと思います。
D ソサノヲノ尊の乱行の真意とその処罰
記紀に述べられているスサノオノ尊とアマテルの関係は、姉と弟であるようです。紀によれば、アマテルの岩戸隠
れに関するスサノオの乱行は、4つ。
アマテラスの岩戸隠れ 4話
・ スサノオの水田への乱暴と機織の邪魔。
・ スサノオの機織の邪魔。
・ スサノオの水田への乱暴と機織の邪魔と新嘗祭の神聖さを汚した事。
・ アマテラスは、良田。スサノオは、悪田。これを妬み良田への乱暴をした事。
であった。
しかし、秀真伝でも、確かに乱行は、あったようです。呼び名もスサノオではなく、ソサノヲであるという。
尊は、根の国(北陸)の行政を整えた後、真奈井のトヨケ神を祭る朝日宮へ詣でた。そこで、アカツチノノ命の娘
のハヤスウ姫を見初め、求婚する。ところが、尊は、まだ自分の宮がなく、姫は、嫁いでくる事ができず、縁談はそ
のままとなっていたという。
尊は、アマテル神と共に伊雑宮に帰ると、時折北(ね)の局(つぼね)で、休むことがあった。自分の宮がなかった
からだという。
アマテル神には、12人の皇后と妃がいた。北の局には、妃のモチコ・ハヤコ姉妹がおり、ある日、アマテルは、西
の局のトヨ姫を召し、北の局に暇を出したという。
北の局に帰った姉妹は、尊に嘆きながら事の真相を打ち明けた。日ごろ親しくしていた二人に同情し、剣を持ち、
トヨ姫を討ちに行こうとしたという。
しかし、モチコの子 ホヒノ尊に皇位を継がせようと考えていた妹ハヤコは、ソサノヲを引きとめ、「どうせなら、天
下を治めたら。」と君位略奪を唆そうとしたが、尊には、その意味は理解できなかったという。
皇后であるセオリツ姫は、姉妹の野望を見通しており、温情を持って、発覚すれば、死罪はまぬがれないと、筑紫
の宇佐宮 蟄居を命じたという。
そうとは知らない尊は、姉妹 蟄居を知り、性急短慮の性格から乱行に及んだという。
蟄居させられた姉妹は、秀真伝 16紋(章)に、「女(め)は一途(ひとみち)に 思えども 妬みわづらふ 胸の炎(ほ
)ぞ オロチとなりて 子種噛む。」と表されている。オロチとは、女の怨念であり、子孫繁栄を阻む最大の敵である事
が分かる。モナコは。「九頭のオロチ」、ハヤコは、「八頭のオロチ」に変じたという。
そんな事とは、つゆ知らず、尊は、出雲で、ヤマタノオロチを退治(実は、ハヤコを殺害)。そして、超古代の刑法に
より高天の原で尊の審議がされていた。(秀真伝では、何故に尊は、出雲へ出向いたのか。書かれているのでしょう
か。)
それによると、「千位(ちくら)の置戸」、「千座(ちくら)の置座」とか言われるこの記述の「ちくら」とは、実は、千暗(ち
くら 1000暗)であり、暗(くら)とは、刑罰の量を表す単位の暗(くら)であり、ソサノヲの刑罰の量が、千暗(1000暗)
に相当するという。内訳は、新嘗祭用の苗代を荒らした罪・神御衣(かんみほ)の殿を汚した罪の合計600暗。そして、
ハヤコを殺害した罪 400暗で、合わせて 1000暗。
この量に相当する処罰は、死刑。しかし、アマテル神の皇后 セオリツ姫は、死んでしまったハヤコ姫を蘇らせ、合
わせて審議中の所へ使者を送り、和歌を添え、穏便な配慮をと申し添えたという。
審議中の諸神は、セオリツ姫の和歌に感動し、ハヤコ姫を蘇生させた事により400暗を減じ、更に600暗を半減し、
300暗にし、これに相当する処罰は、髪・爪を抜き、宮中から下民(シタダミ 最下層の民)の位に落として、交流を断っ
たという。これが、真相であるというが、この秀真伝は、既に藤原不比等により検閲がされているとも言われ、はたして、
原本も同様な記述であったかは、定かではないと思われます。とすれば、藤原不比等は、秀真文字が読め、記述も出
来えた事になりましょうか。
< 秀真伝にみる系図 >
トヨケ神ーイザナミ
||ー ワカ姫
|イザナキ | アマテル
| | ツキヨミ
| | ソサノヲ
|
クラキネーモチコ・ハヤコ
||ークラコ姫
|サシミメ(妹)||
| 白人
|胡久美(兄)
*
この白人・胡久美は、邪悪な心を持ち、タブーとされた罪を犯したとされる人物であるようです。特に胡久美
は、益人(地方長官の役職名カ)も勤めた人であるが、妹(実は、父とも取れる方の妻・母)・その子供までも犯
した(タブー視される事をした罪)といういわく付きの人物であります。