秋葉信仰についての覚書

         1.はじめに
            旧 脇之島(現 多治見市平和町)に存在する 灯明台(常夜灯)は、私が幼少の頃より存在し、現在でもその位置
           は動いていません。刻印された字句を読めば、江戸時代 文化年間に建立されたようで、秋葉の文字がしっかり刻印
           されています。

            現在の位置は、確かに、私が知る限りに於いては、移動をしていないと推察できますが、江戸時代からの旧道から
           考えれば、二福寺より下りし、郷道、乃至は上人山へと続く郷道の分岐点より分かれた郷道沿いに建立されたのかも
           知れません。

            宝暦年間の堤防修理の村絵図には、確かに旧 脇之島(江戸時代では、脇郷と呼ばれておりました・・筆者注)には、
           現 愛岐道路に当たる所に村道が記載されているやに推測できうる。そこへつながっていたのでしょうか。

            現在の秋葉信仰は、江戸時代以降に盛んになったようです。
            いったい、秋葉信仰は、どのように成立していったのでありましょうか。

         2.秋葉信仰とは
            「江戸時代以前は、三尺坊大権現(さんしゃくぼうだいごんげん)を祀(まつ)る秋葉社(あきはしゃ)と、観世音菩薩
            を本尊とする秋葉寺(あきはでら、しゅうようじ)とが同じ境内にある神仏混淆(しんふつこんこう)で、人々はこれらを
            事実上ひとつの神として秋葉大権現(あきはだいごんげん)や秋葉山(あきはさん)などと呼んだ。」
            (右記HPより抜粋  http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/sizuoka/hamamatsu_tenryuu/akiha_jinjya/akiha.html 参照)

             更に掘り下げて検討されている方もあります。
             民衆宗教史叢書 第31巻 田村貞雄監修 「秋葉信仰」(雄山閣出版 2007年発行)によれば、「秋葉信仰につい
            ては、明治維新の神仏分離政策によって大打撃を受け、文書資料のほとんどが失われ、調べる手がかりが極めて少
            ない事。そして、秋葉信仰は、他宗派のような本末関係がなく、各地に拠点があり、教義の体系化もされず、民間信仰
            に終始してきたことであるという。」点に特徴があるという。

             そうした少ない資料等を駆使し、静岡の秋葉山に何時伝来したかは、次のように述べられていた。それによると、「戦
            国期 武田氏と断交した徳川家康が、越後の上杉謙信に密使 叶坊を送り、その叶坊が、長岡の蔵王堂三尺坊の院
            主を連れ帰り、秋葉山に住まわせたという。」( 坪井俊三 「秋葉信仰について」 静岡県地域史研究会第108回例会
            発表要旨 静岡県地域史研究会会報 65号 1992年 参照)これが、秋葉信仰の遠州への伝来時期のようであると
            指摘をされているという。

             また、「この秋葉信仰は、飯綱信仰から派生したとも。その飯綱信仰は、ダキニ天信仰を基盤にし、室町時代に流行
            した秘法であり、一部の大名から熱心に信仰されたようで、その代表が、上杉謙信であり、謙信の兜には、火炎を背負
            い、白狐に乗った烏天狗の飯綱権現が飾られていた。」という。
             或いは、「謙信支配下の越後長岡の蔵王堂三尺坊の院主 周国は、信濃の戸隠宝光院出身で、飯綱信仰を堅持し
            ていた行者である。」と。山岳修験者であったという。
             そして、「家康の密使 叶坊が、連れ帰ったその人物とは、周国であり、遠州秋葉山に住し、死後かれが信仰していた
            飯綱権現が、三尺坊像として信仰の対象となった。」(民衆宗教史叢書 第31巻 序論ー秋葉信仰研究史素描 田村
            貞雄 P.5 参照)と把握されているようです。

             飯綱信仰の基盤は、ダキニ天信仰であることは、先述の通りでありますが、そのダキニ天については、外来の神で
            あり、{そのダキニ天の修法を外法(ゲホウ)と呼んだ例は中世文学に見られ、『平家物語』には「かの外法行ひける聖
            を追ひ出さんとす」、『源平盛衰記』には「実や外法成就の者は」、『太平記』には「外法成就の人の有けるに」との記
            述がある。}(ウイキペデイア 荼枳尼天(だきにてん)最終更新 2014年4月18日 (金) 13:45 引用)とも。           

            *外法(げほう)とは、仏教の法である仏法(内法)に対し、それ以外の法のこと。つまり、仏教以外の宗教、仏教から
            見た異教のことのようで、ただし、外法は、魔法、魔術、妖術といった意味あいも持つようです。
             それ故、平安期の仏教界からは、外法を行う聖は、排斥される場合が、鎌倉期まではあったのでしょうか。*

                            * ダキニ天については、興味深い事を記述されている方がみえます。飯綱信仰研究家 川福秀樹氏であり、その著書
            「日本の神仏」(彩流社 2010年発刊)で述べてみえます。詳しい事は、その著書に譲りますが、ダキニ天、現在の日
            本では、福神と捉えられていますが、その元は、インド発祥であり、その当時刑場であり、城外の葬場で働く低賤カース
            トの巫女(ダーキーニ)が、黒魔術的な秘儀を執り行っていたとか。この巫女が、ダキニ天の前身であると。人肉等を食
            らう暗黒の部分があるやに。その為 大日如来が、これを嫌い、屈服させ、ダーキーニは、人間の心臓を食せねば、無
            力化すると嘆き、故に、死ぬ直前の人の心臓ならと許されたとか。大日如来より、先を見通す予知能力を授けられたと
            も。云々。

             先を見通す予知能力の秘法が、ダキ二天法で、こうした秘法は、一代限りの栄華しかないと。「古今著聞集」巻第6・「
            源平盛衰記」等に実例を挙げて紹介されているとの事。平安末期頃の事柄でありましょうか。*

             話を元に戻します。
                             遠州を含む他国の秋葉信仰は、初発は、宿敵のいる大名に受け入れられたようであります。(例えば、武田氏と上杉氏、
            武田氏と徳川氏、武田氏と小田原北条氏共に国境に近い所にお堂は建てられたとか。)
             「その基盤は、”勝軍地蔵”であろう。」(民衆宗教史叢書 第31巻内 秋葉信仰の成立 吉田俊英 P.38〜39 参照)
            と。この地蔵信仰は、修験者により流布されたという。鎌倉末期 14世紀前半に成立し、足利尊氏が、帰依し、室町期に
            盛んになったという。既に秋葉信仰には、こうした民間に広く流布していた地蔵信仰をも内包していたのでしょう。

             *秋葉という名称も、遠州では、アオキ(樹木の名)の葉が、火傷に効能があり、民間に伝承されており、アオキの事を遠
            州では、アキバというようであるという。現在東京で有名になったAKBの秋葉原も、かっては、アキバハラと読んでいたとか。
 
             参考でありますが、江戸時代 喧嘩と火事は江戸の華とか。密集した木で出来た家々は、一度火がでれば、大きな火災
            となったという。それ故 江戸では、火除地をおいていたとか。この現在の秋葉原は、その当時 火除地であり、秋葉の原
            (火防ぐの神 秋葉神の祠の在る所)と呼ばれていたとか。初発は、アキバの原と呼称されていたのが、いつしか、アキハ
            バラと江戸言葉に変更され、今に至っていると。*

             火防の神という点も、本来遠州 秋葉山には、式内社であったのでありましょう小国神社があり、ご神体は、大己貴命(
            又の名を大国主命)とか。また、山上には、機織井(山上の聖水)があるという。かなり古くから一帯では、焼畑農業が行
            われていたという。
             こうした焼畑を行った集団は、木地師達でもあり、鉱山師達でもありましょうか。修験者とも繋がり、南北朝までは、南朝
            とも繋がっている一大勢力でもあったとか。(こうした修験者は、山岳地帯を結ぶ独自の通路を持ち、併せて鉱山師のよう
            な活動もしていたとか。)
                                                   
             こうした山間部の焼畑では、火の鎮火等が大事であり、そうした伝統の上に、修験者の霊場となり、日本古来の山岳信
            仰やら巷に流布している民間信仰を取り入れ、種々雑多な複雑な信仰へと進化していったのでありましょう。

             そこへ、徳川家康により、遠州へ三尺坊信仰が、伝来し、その後も権現の神宮寺となる秋葉寺も出現し、渾然一体と
            なって、江戸時代に大盛況となっていったようでありますが、明治維新では、廃仏毀釈で、大打撃を受け、現在に至って
            いるという。
   
             以上の経緯を良くご存知である方なのでしょうか、以下のように述べてみえるインターネットサイトの記述が目にとまり
            ました。
                             「開創より約1200年續いた山岳信仰から神佛習合・本地垂迹のシンボリックで庶民から厚い信仰を得ていました。 し
            かし、明治維新後新政府から發しられた神佛分離令・廢佛毀釋により、その1000年以上もの日本人宗教觀、歴史が大
            きく変えられてしまいました。今から僅か145年前の事です。          
             今や、明治維新前までこの秋葉山山頂に在った曹洞宗(開山時は法相宗。近世に真言宗から曹洞宗へ改宗)大登山
            霊雲院秋葉寺 山内に祀られた秋葉社、秋葉寺本尊である聖觀音菩薩の化佛 秋葉三尺坊大權現が火防之祭神の根本
            であったことは忘れ去られようとしています。」 と。詳しくは、下記URLを参照されたい。
             ( http://blogs.yahoo.co.jp/wo_de_qu_wei_zhi_lian_yuan/34789272.html?from=relatedCat )


           3.福厳寺と秋葉三尺坊
               民衆宗教史叢書 第31巻内 「尾張小牧・大叢山福厳寺」 住職 高瀬武三師の記述には、以下のように記載さ
              れている。
               「本尊秋葉三尺坊大士は、木像(全長25cm)で、頭に頭巾をかぶり、高下駄をはき、岩に腰をかけた旅姿をして
              おり、右手に杖を握っていて、旅の途中で一休みといった姿に造られている。」と。「この像は、文正元(1466)年3
              月に盛禅和尚が、小牧市野口にあった宝積寺の月泉和尚の室に入った時、自室に祀ったもので、盛禅和尚の生ま
              れ故郷遠州秋葉山より勧請したものである。」と。

               また、『張州雑志』(内藤東甫著)・『正事記』{寛文5(1665)年頃発刊カ}にも、次のような記述があるようです。
               「孤舟和尚は、西国より当国春日井郡大草村福厳寺へ来り、江湖をも付し僧なり。(中略)近年上方よりいづな仏を
              守下し、大草福厳寺に有りしが、則熱田円通寺の住職と成りて来る時、此いづな仏を円通寺に移し置き、祈念をする
              といふ程に、貴賎群集して、金銀銭糸綿等を持ちかけ、此僧を頼む事幾千万人といふ事をしらず。」と。
                                 幾千万人というのは、やや誇張でありましょうが、多くの者達が、此僧の所へおしかけていたのでしょう。

               或いは、「孤舟和尚は最初春日井郡大草村(現小牧市)の福厳寺におり、ついで円通寺に移って飯綱(飯縄
          )を使ったという。飯縄使いとは、狐を使う秘法である。もともと飯縄権現は秋葉三尺坊大権現とまったく
         同じ姿(白狐に乗り火炎を背負った烏天狗)をしており、前掲拙稿で紹介したように、三尺坊が生前信仰して
         いた飯縄権現をそのまま三尺坊大権現の像としたという説もある。」と。
           (詳しくは、http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/akibakakuchi.htm 各地の秋葉山 参照
                       併せまして、このURLの方は、静岡県地域史研究会の坪井俊三氏ではないかと推察いたしました。連絡先          
            等判りかねましたので連絡をしないままURLを記載して引用させて頂きました。ご無礼をお許し下さい。)

          孤舟和尚は、謎の人物でありますが、民衆を惑わすとかで、篠島へ流刑されたようです。
          初発の福厳寺は、その当時の流行神の飯綱信仰を内包している秋葉三尺坊権現と共に共存していたようです。
          三河の豊川市には、豊川稲荷がありますが、ここは、渡来人 秦氏に関わる京都発祥の伏見稲荷神社とは、
         少し趣が違い、ダキニ天が、稲荷になったようで、秋葉神社とは、腹違いの兄弟のような存在であるのでしょ
         うか。

          さて、臨済宗南禅寺派に属する福井県小浜市にある瑞雲院に関わりの在る方のHPが存在している事を知りま
         した。

          その中に”飯綱山”に関する記述がありました。どのような出展で以って書かれたのでしょうかと問い合
         わせいたしました所、ご丁寧な返信があり、その記述は、飯綱信仰研究家 川副秀樹氏の著書によるとご教
         示頂きました。
          興味深い事柄でありますので、略記いたします。
          (詳しくは、http://www3.ocn.ne.jp/~zuiun/001yama/026iiduna-yama.html を参照されたい。)

          「管狐(クダキツネ)」という狐についてです。これは、竹筒に入るような小さな動物の事のようで、秋葉信
         仰と関わるのではないかと推測いたしますが、疑義もあります。それは、このイイズナイタチは、本州の青森
         県のような北海道に近い地域にしか生存していないような絶滅危惧種に指定されているという事。戦国期では、
         もっと広範囲にイイズナイタチは、生息していたのかも・・・。川副氏は、この管狐については、同氏著書”
         日本の神仏”彩流社より2010年に出された初版本 P.24にて、「日本にいる狐は、ホンドキツネとキタ
         キツネの2種で、共にイヌ科である。いっぽう人に憑くといわれる『クダキツネ』『オトラギツネ』などの霊
         獣は、イイズナ、オコジョなどの霊獣を指す場合がある。」と記述されているようです。私だけでなく、既に、
         同氏もそのような推測ではないかと考えてみえるのかも知れません。

          狐と書かれていますが、実はイタチの仲間のようで、現在絶滅危惧種に指定されているとか。イイズナイタ
         チとかニホンイイズナとかいわれているようです。「体長はオスが約15 - 18cm、メスが11 - 22cm。尾長は約
         2 - 3cm。体重は25 - 250g。 毛色は、下顎から腹部にかけては1年を通して白色。尾の先端は黒色。それ以外
         の部位の毛色は夏毛と冬毛で異なり、夏毛は褐色、冬毛は白色。」(ウイキペデイアより抜粋)とか。

          飯綱信仰の僧は、飯綱を使うとか。この秘法は、この小動物ではないかと私は、推測するのですが、先の川
         福氏も、そのように考えてみえるかは明言されてはいませんので、不詳であります。
          また、狐類は、肉食でよく野ねずみを食す。それ故 稲荷神社では、野ねずみを退治してくれる狐は、神の
         使いという俗信が、蔓延したとも考えられましょうか。秋葉信仰の僧侶の中には、こうした飯綱使いをされる
         方もいるようです。寺の軒下に焼ねずみを置いて、狐を呼び寄せる事もしたようであります。

          三尺坊が、実際に実在した方であれば、その方が、信仰されていた飯綱信仰と、その後の孤舟和尚のような
         飯綱使いの方の信仰が、果たして同一の信仰であったかは、私は宗教家ではありませんから判別できませんが、
         純粋な信仰からやや俗化した信仰へと変質していったのではないかと・・・。

          一般民衆は、狐を自在に操る寺の僧を間近に観るに付け、その当時の人々にとって、狐憑きの話等、俗話の類
         は少なくはない。それを霊力と畏れ入っていた可能性もありましょうか。江戸幕府は、こうした民衆を惑わす僧
         を捨て置く事ができず、ついに、流刑措置に出たのでありましょう。
          そうした一人に愛知県熱田の円通寺住職 かって小牧市大草 福厳寺にも在籍された孤舟和尚であり、伊勢湾
         に浮ぶ篠島へ流刑処置にされたという。
         
          こうした僧は、いわゆる動物の習性を巧みに利用し、飼い慣らし、思うように操っていたのではないか。こ
         うした技を、当時の民衆は、特殊な事柄であり、秘法と言っていたのかも知れません。

          管狐の話に乗り、ついつい妄想めいた記述をしてしまいました。あくまで歴史ではなく、歴史に関わる雑文
         として私は、したためました。
                                   平成26(2014)年5月10日   最終脱稿

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