系図上からみた尾張国 尾張氏の婚籍関係と「別名」体制への移行 

           1.はじめに
              国史大系 巻60 上・下の尊卑分脈における「尾張目代 藤原季兼」系図や、張州雑志 巻4 「熱田
             大宮司系譜」 P、480〜496という家系図でありますから1級史料とは言い得ませんが、それでも、当
             時の事柄を何らか言いえていようと思います。

              まず、平安末期 尾張国目代となった藤原季兼は、三河国在住で、参川四郎大夫と号している。季兼
             の母は、真光寺本 藤原氏系図では、藤原成季の娘であると。季兼の父は、伝 藤原能通とか。
      
                                *  藤原能通は、長元年間 但馬国司カ その頃起こった事件
                  関白頼通邸放言事件 長元元年(1028) (『小右記』の記事による)
                   ・7月24 日夜、関白藤原頼通第門外で雑人10 人余が但馬国司の苛政を大声で訴えた。尋問
                   しようとするとみな逃げてしまったという。
                   →藤原実資の感想・・諸国の百姓が公門で国事を訴えることは古今の例だが、夜間に放言して
                    訴えた例はない。但馬国の苛政についても耳にしたことがなく、敵対するものが夜陰に紛れて
                    うってでた行為で、とりあう必要はない。
                   ・その後も放言は続いた。
                   ・7 月26 日、放言は橘俊孝だったことが判明する。
                    但馬国司の在京中に、俊孝が但馬に下向し、「不善」を行い「濫吹」した。但馬国司が国にも
                   どって関係者を譴責した。これに対して憤慨した俊孝が今回の行為にうってでたという。*

              季兼の嫁は、尾張国 熱田大宮司 尾張員職の娘 松御前と言う。三河国に在住時、子 季範を出産。
              季範は、熱田大宮司となっている。尾張氏と尾張国目代家 藤原氏とは、繋がった関係となる。
              11世紀末〜12世紀初頭頃カの事かと。
           
           2、10世紀代末頃の尾張国
              永延2(988)年の尾張国郡司百姓等解文の出された頃は、坂本賞三著「日本王朝国家体制論」によれば、
             前期王朝国家体制下(10世紀〜11世紀40年頃)であったでありましょう。
              この時期は、尾張国では、まだまだ旧来の国造系の郡司が、幅をきかせていた頃でしょう。熱田社に関わる
             尾張氏が、尾張国の各郡の郡司として君臨していたでありましょう。
              尾張国の郡司百姓等は、国司(受領)による収奪に苦しめられるようになっていったようです。中央では、太
             政官による班田の為の検田指示が行われなくなり、中央は、最終の国図の公田面積を基にした収取量を決め、
             その確保の為、国司による検田権を含め、在地の実質支配を任せるようになったという。太政官による国司の
             縛りは残した上で。

              それが、負名体制でありましょう。そうした負名体制を見事に表現している箇所を見い出した。前掲 坂本氏の
             「日本王朝国家体制論」中に。P184〜187を参照されたい。
              敢えて重要な箇所を引用すれば、{国司が、国内で賦課する為の徴税単位である「名」は、前述したように狭
             義の公田(基準国図上で確定された狭義の口分田に他ならない。)を中核としてその外に治田(開墾等により新
             たに公田とされた地子田等の事)や畠等を包含したものとして構成されていた。そして、その治田は、それなり
             の賦課が課せられていたのだが、前期王朝国家体制下では、治田率法を明確に示した史料が全く存在しない。

              それは、「名」内の狭義の公田面積に課せられてきたものを「名」内部で全体として負担した為に、一般的に治
             田は、治田なりの低率の率法だけを負担するだけでは済まされないのが普通であったからだと考えられる。

              「名」とは、このような徴税単位であったから、現実としては「名」内の狭義の公田が荒廃していようと、かなりの
             損が生じていようと、国司は、かまわず例損すら認めることなく、「本数=狭義の公田面積」に公田反別率法によ
             って賦課したのである。} この「名」の事を、尾張国郡司百姓解文では、「負名」と記述している。

              更に付け加えて記述すれば、{「名」に対する賦課で狭義の公田の「本数」に対する公田反別率法の賦課が基本
             とされたのは、もともと国司が国内から一定量の収取を確保する為のものであったと考えられる。敢えていうなら
             ば、低率の治田率法による治田分賦課は、第二義的なものに過ぎず、治田は、「名」内で狭義の公田の「本数」分
             の基本的賦課を完納する為のプール(蓄え)としての役割を負わされていたのであった。尾張国郡司百姓等解の
             反別率法は、国内全田地に課せられたものではなく、狭義の公田の反別率法であった。このことをあらためて注意
             しておきたい。

              では、国司は、基準国図に固定された狭義の公田面積に対する賦課を基本としたのだから、国内から一定量以
             上の収取をあげることができなかったであろうか。ここで、先述したところの、前期王朝国家体制下の国司が国内の
             反別賦課率法を浮動させていたという事が決定的な意味をもって登場してくる。狭義の公田面積は、もはや基準国図
             に固定されて増大する事はなかったのであるが、反別賦課率法を国司が、自由に変動させる事ができたのであった。
              このことによって、国司は、国内の現状に応じて収奪できるかぎりは収奪し得る条件を確保していたのである。
              尚、この「名」全体から「本数」分賦課をさせて、反別率法を国司が現状に応じて変動させると言う事は、耕地の不安
             定な当時の状況に適合的な収取方式として採用されたものであったという事も考慮しておかなければならないと思う。」
              以上であります。

              (何だか現代の近代国家においても、国の予算が足りないと言って、さて消費税増税だとか言って国民から絞れるだ
             け絞るその方式と似通っては、いまいか。中央官庁には、目に見えないプール金が、あるように思う。公明党の塩爺で
             あったか、以前母屋(国会で審議される国の予算カ)が粥を啜っているのに、別宅では、豪華な食事をしていると揶揄
             されてた事があった。
              かって、元東京都知事の石原氏は、中央官庁を含めて国の予算等も会計士のする会計法を用いて会社並みにすれ
             ば、事ははっきりすると述べてみえた事があった事を思い出す。)

              以上のような「負名」体制は、人民の抵抗等に合い、11世紀40年代からは、立ち行かなくなり、中央は、その対応と
             して、「負名」に代わる「別名」体制へと変換する現実に対応し、「後期王朝国家体制」へと移行して行くことになるという。
              まさに、尾張国へ目代として赴任してきた藤原季兼の頃は、その移行期であったと言えましょうか。俗に言う院政期に
             相当するのでしょう。

              その11世紀代は、尾張国でも旧来の郡司層(国造系の系譜を持つ郡司)から在地領主制を内包した新しい郡司が
             台頭して、取って代わる時期と前掲 坂本氏は、「日本王朝国家論」で述べてみえる。
              私も拙稿にて、平安中・末期以降の丹羽郡 良峯家々系図を通して で同様な事柄を記述しています。参照されたい。

            3.尾張熱田社領の形成
               上村喜久子著「尾張の荘園・国衙領と熱田社」の中、「尾張三宮熱田領の形成と構造」には、「土地集積に2.3の系
              統があった事が推測され、熱田大宮司は、神官等の任命権を有し、祝師の家産的神領は、独立性の強いものであり、
              また、検校は、熱田神宮寺に関わる存在ではなかったろうか。検校家もまた家産的な神領を維持していたと思われま
              す。」

               「熱田神宮寺は、熱田社の南門(海蔵門とも海上門とも言う。)のある南西にあった寺であるという。」(新修名古屋市
              史 第1巻 平成9年版 P.680〜681 参照) 「熱田神宮寺は、寛弘元(1004)年 前後頃には成立していた可
              能性が高い。」(前掲書 P.679〜680 参照)と。11世紀初頭には、熱田神宮寺は、存在していたのでありましょう。

               こうした熱田社と熱田神宮寺という2つの有力な神社・社寺による土地集積が、11世紀末頃以降進んでいった可能
              性があろうか。
               新修名古屋市史 第2巻 P.714〜718に、「安食荘の事柄で、天喜元(1053)年以後 一旦安食荘は、公領と
              された時期があり、11世紀後半から始まる公領時代に、在庁官人や在地領主らが、未開地の開墾を請負い中央の有
              力者や国衙と関わりのある有力神社に寄進した事によって散所所領が成立したとみてよいであろう。」とも記述されて
              いることから、熱田社の領有は、左程古い時代からではなく、11世紀末以降に集中したのではなかろうか。

               尾張国司 元命朝臣解任後の尾張国司として赴任した大江匡ひらは、長保4(1002)年には、熱田社へ願文で、「旱
              魃洪水・飢饉疫痢・失火盗賊」について述べていますし、寛弘元(1004)年にも熱田社へ願文をし、「洪水・大旱にあう」
              とも記している。本来尾張国司であれば、願文は、尾張国一宮にすべきではなかろうか。別格的な存在として熱田社が、
              存在していたからともとれましょう。
          
               その例証は、以下の記述からも伺えましょう。
                「熱田社の勢力も、平治元(1159)年以降急速に失くしていった可能性が高いと思われますし、熱田社は、それま
              では、尾張国内では、一宮・二宮とは、別格の扱いであったというが、平治の乱以降は、三宮という事になっていったと
              か。」(日本中世土地制度史の研究 網野善彦著 P.194 参照 それまでは、熱田社は、別格扱いであったようで、三
              宮の初見は、元久元年 1204年であるとか。)
 
               熱田社・神宮寺共に勢力が急速に落ちていく事に対し、以下のような対処をした可能性がありましょうか。
               新修名古屋市史 第2巻 P.727・8に、「熱田社大宮司は、後白河院政期に入ってから皇室に社領を寄進した可
              能姓が高いと。鎌倉期以降は、上西門院領として伝領された。」とも記述されていた。12世紀末以降の勢力の急速な
              下降に対処した事柄であろうか。         

            4、尾張国 目代として赴任
              藤原季兼は、系図には、季兼の母は、康和3(1101)年10月7日 尾張国目代の間に卒 58歳と。とすれば、12世
             紀初頭には、既に尾張国目代として赴任していた事になりましょう。
              しかし、着任年も不明ですし、没年も不明。息子 季範は、尾張氏系図から永久2(1114)年に熱田大宮司に補され、
             久寿2(1155)年 没カが知られる。

              上記 目代 藤原季兼は、平安遺文 巻6 P、2106〜2124に収められている「尾張国安食荘立券文 表題 康治二
             (1143)年七月十六日 尾張国 御庄領四至内田畠検注状案」の末尾に署名されている*人物*に該当する可能性は、
             微妙でありましょうが・・・・・。
              官人大目を目代ととればですが・・・。或いは律令制の国衙の守・介・じょう・目(サカン)と捉えれば、違ってきましょうが・・・。

              P、2123より
                 件御庄領、四至内田畠荒野等、任度〃御庁宣旨之旨、検注如件
                                   康治二年七月十六日  公文預僧 在判
                                             四度使散位橘朝臣在判
                                             書生大判官代散位朝臣在判
                                             本寺使勾当大法師在判
                 
                 件御庄四至内田畠荒野等立券文、在地郡司公文検注使等署名■然也、■在庁官人加署判之
                                               大判官代大法師師在判
                                               散 位大中臣朝臣在判
                                               散 位 源 朝 臣在判
                                               散 位 源 朝 臣
                                              惣大判官代散位源朝臣在判
                                               肥後権守源朝臣
                                               散 位 平朝臣在判
                                               散 位 源朝臣在判
                                               散 位 尾張宿禰
                                               散 位 尾張宿禰在判
                                             官人大目藤原
                                              *じょう散位藤原朝臣在判*
                                               権介散位清原朝臣
                                               介散位尾張宿禰在判

              確かに、12世紀中頃の尾張国在庁官人名には、尾張宿禰として3名が記載されているようです。

              その検注状案に記述された田地・畠地・荒野・原山等は、下記の通りであります。          
                田 大縣宮領 4町 熱田宮領 51町5段3以下欠損 伊勢大神宮領 7段小 皇后宮領朝日庄 1町1以下欠損
                  定田 104町6段小(醍醐寺領カ)

                畠 128町6段小 内訳
                   大縣宮領 9町3段60歩 熱田宮領 49町大 伊勢大神宮領 3町8段半 皇后宮御領 欠損 左大将家領 
                  6町5段大 中将家領 2町8段小 如意寺領  2段大 季貞私領 5段3歩  吉道私領   4町5段小 
                  秋元私領 6段小 郡司領  1町7段300歩 国領 43町60歩

                荒野 434町2段60歩 内訳
                    熱田宮領 178町以下欠損 當郷庄領 250以下欠損

                原山 108町
                 以下 略

              当然、安食荘園では、醍醐寺領が多いのですが、熱田宮領(熱田社領であるのか、熱田神宮寺領であるかは不明)が、そ
             の他の私領より、圧倒的に多い。時は、12世紀中頃。12世紀初頭には、尾張氏と婚籍関係を築いた尾張国目代家 藤原氏
             とが、タッグを組んでいたからではなかろうか。
              安食荘園に近い春日部郡の丘陵地の村は、鎌倉時代以降も存続していくようですが、この村々について、上村氏は、下記
             のように述べてみえました。
              「この林・阿賀良村両村の開発主は、熱田大宮司家であろう。」(尾張の荘園・国衙領と熱田社 P.378 参照。)と推測さ
             れている文面。他にも尾張国内での開発地域や、公田部分の寄進・買得による領有もあった事と推測する。