諸本集成 倭名類聚抄 外篇 (別名 日本地理志料)からみた春日部・山田・丹羽郡について

            1.はじめに
               私も拙稿に、よく春日部郡という言葉を使いますが、十分にはその郡の事を知らない場合があります。
               幸い、日本地理志料という書籍の事を知り、たいそう郡郷等について詳しく記述されている事を聞き、
              原文に当たりながら、記述されている事柄を記載していこうと思い立ちました。

               今回使用する書籍は、昭和56年再版第2刷発行の臨川書店から出版されましたもので、定価その
              当時で、15000円でありました。副題に 日本地理志料 −倭名類聚抄國郡里部箋注ーと書かれて
              おりました。20巻本にしか國郡里部は存在していない。巻名で言えば、5・6・7・8・9巻が、國郡部に
              相当している。

               この書籍の元は、和名抄(源順所撰)で、10巻本と20巻本があるようですが、源順所撰の原形を伝
              えるのは、10巻本とか。この和名抄は、平安末期より下らない頃に記録されたようで、古代の地名考
              証には、無くてはならない記録であると言う。

               そして、最初にこの箋注(箋注倭名類聚抄・・・10巻本を基)を書かれたのが、狩谷棭斎(えきさい)
              と言う方である事も知りえた。私がみている箋注は、この方の次に書かれたようで、邨岡良弼{木楽(こ
              れで一字)斎と号される方}という方であるかと。20巻本を基に箋注を記述されたようです。前者の欠を
              補うものとして重宝されているという。20巻本は、江戸期にもてはやされた書物のようですが、狩谷棭斎
              著「箋注倭名類聚抄」が発刊されると下火になったとか。

               「10巻本に無いところは、顕昭・仙覚・卜部兼永・源善成等の中世の諸学者の増補であろうと。(中略)
              20巻本は、元和3(1617)年 那波道圓によって翻刻せられたものが広くおこなわれ、江戸時代の学者
              に利用せられた。」とか。(京都帝国大学文学部・国語学国文学研究室編 狩谷棭斎箋注倭名類聚抄 
              全国書房版 明治16年刊行本を原版にして刊行した書籍 P.7〜9 より引用)

             2.春日部郡の記録
                春日部(加須我部)
                 池田・柏井・安食・山村・高苑・食余(これで一字)戸・春部以上7ヶ郷。
                                    (倭名類聚抄 20巻本でも、春日部郡の記述の有り無しが存在するようで、増補中に付記されたのか、
                写本中の転記ミスであるのかは、不明。永禄9年書写本 名古屋市博物館所蔵 和名類聚抄には、春
                部郷は無い。)

                 ・ 池田郷
                    訓欠(カ) 按ずるに美濃の池田郷の例に依り、読みは、伊介多と云うに當る。河内 和泉 下
                   総 上野 讃岐 伊予 筑前に池田郷有り。姓氏録に、池田の首、大碓命の後。大碓封して美濃
                   に受く。其の池田郡、即ち其の本居、而して後裔処す此より分かつ。因りて名、尾張志に云う、池
                   田、未だ今の何の地か審らかにせず。愚かに謂う、郡北に池内村有り、其の転開、本荘、林 小
                   松寺 久保一色 岩崎 村中 間間 河内屋の諸邑に亘る。味岡ノ荘と称する、蓋し其の地也、」
                   朝野群載康和三年の符、味岡の荘司平時範、康正二年造内裏段銭引付、西京萬壽寺領、尾州
                   味岡の新荘、祀典謂う所丹羽郡 田縣の神社、久保一色の縣の森に在り、本国神名帳實實(ママ)
                   天神載る、間間村に在り、白山社と称す、尊卑分脈眞(ママ)の郷を作り、片山の神社、亦片山の地
                   に在り、乎江の神社、本国神名帳魚江天神作る、本荘村の宇江山に在り、本荘は、即ち荘司の宅
                   の所、非多の神社、林村卑田の地に在り、林村元亨中鎌倉円覚寺領と為る、其の田数済物目録に
                   見る、小松寺蓮光院と号す、天平中、僧行基の建てる所(以上が、原文を読み下した文であります。)

                   *池田郷は、尾張志では、何処の地であるか審らかではないという。この箋注の著者は、味岡荘が、
                  池田郷であり、林・池之内・小松寺・久保一色・岩崎・村中・間間・河内屋の村々という。
                   
                 ・ 柏井郷
                                            訓欠(カ) 按ずるに読んで加之波と為して云うに當る、草木部に唐韻(カ)を引いて柏、木の名也、
                   和名加之波、本居氏曰、可之波、本は飲食を盛る樹葉の総称、一木の名に非ず、仁徳紀に、葉、
                   此れ箇始婆と云う、是也、古事記に御綱柏、造酒司式に長目柏、万葉集に保寶我之波、催馬楽に
                   太萬加之波、皆飲食用、柏葉亦飲食に必用之物、故に其の名を専とす也、凡そ上世の飲食具、多
                   く葉を用い、其の飯を炊く甑も或いは葉を敷き、或いは葉を以って蔽う、故に炊(カシキ)葉と名す、省
                   いて加之波と呼ぶ也、播磨に柏野郷有り、駿河 上総 近江 肥後に柏原郷有り、皆土宜しく以って
                   名と為す者、」後宇多院御領目録延政門院領、尾張國柏井ノ荘、寛仁二年ノ小山文書、康平二年ノ
                   東寺文書同じ、永亨二年ノ足利文書、尾張ノ柏井ノ荘 市邊、井戸田、織田信雄分限帳、柏井郷田
                   三千貫、小坂孫九郎、尾張志に云う、柏井郷廃れ、柏井ノ荘在り、図を按ずるに 松河戸、中ノ切、
                   下條、上條、上條入鹿、八田、和爾良、鳥居松ノ諸邑に亘る、蓋し其の地也、」祀典ノ秩の所 和爾
                   良ノ神社、和爾良村に在り、本國神名帳は和爾ノ天神を作る、姓氏録を按ずるに和爾部氏、葉栗・知
                   多2氏より興り、同宗と為す、雄略紀春日の和(王耳 これで一字)ノ臣深目有り、郡を春日部と名す、
                   或いは由有る耶、(以上が、原文を読み下した文であります。)

                    *尾張志曰 柏井郷を廃し、柏井荘在り、その郷域は、松川戸・中切・下條・上條・上條入鹿・八田・
                   和爾良・鳥居松の村々。雄略紀春日の和(王耳 これで一字)ノ臣深目有り、郡を春日部と名すカ。
                                           

                 ・ 安食郷
                    訓欠(カ)按ずるに読みは阿之岐と云うに當る、近江に安食郷有り、常陸に安飾郷有り、竹器部に
                    方言を引く■、和名阿自賀、又は(竹偏に貴で一字 アジカと読み 意味は 土・草・野菜などを運ぶ
                    竹・葦・藁で編んだザルに似た道具)を用いる、狩谷氏曰、アジカ 草を織りて器と為し、以って土を
                    盛る者、或いは土物に取る耶、醍醐雑事記、尾張國安食ノ荘、醍醐三寶院文安六年ノ文書に同じ、
                    今勝川村と呼て、醍醐ノ荘と云う、是其の寺田也、味マ護國院暦応五年写経の跋(アトガキの意味)、
                    安食西荘常観寺、東鑑(吾妻鏡)、尊卑分脈に、葦敷重義、葦敷重頼有り、平家物語、源平盛衰記、
                    安食太郎、安食二郎を作る、重頼晩年祝髪常観坊と号すと云う、尾張志、安食郷廃れ、安食ノ荘存
                    し、図を按ずるに福徳、中ノ切、成願寺ノ三邑と称し、安食ノ荘と称す、味マ、如意、大蒲、大野木、稲
                    生、安井、光音寺の諸邑と曰ひ、山田ノ荘と曰く、蓋し其の地也、」祀典の秩の所 味マ神社、味マ村
                    に在り、可美眞手ノ命を祀る、器皿部日本霊異記を引きて云うに、金偏に宛(で一字)は俗に加奈萬
                    利と云う、金偏に宛(で一字)ノ字は未だ詳ならず、古語に椀を謂い末利と為す、宜しく金 椀の二字
                    を用いる、此れに拠りて、味マ、古は宇麻志萬利と訓す、即ち可美眞手也、沙石集、康正段銭引き付
                    け味鏡を作るは誤り、邑に二子山有り、池溝を以って土人伝えて可美眞手ノ墓と為す、大乃伎ノ神社、
                    国内神名帳大■ノ天神を作り、大野木に在る、伊奴ノ神社、稲生村に在り、小江ノ神社、安井村に在り、
                    大井ノ神社、如意村の大井の地に在る、光音寺村、旧名 森綱郷、同寺天文十六年ノ文書に見る、
                                             (以上が、原文を読み下した文であります。)
                     ( ■は、当方の漢和辞典に無い文字であるか、字が潰れて読めない為、伏せ字扱いと致しました。
                    ご了解あれ。)

                    *尾張志曰 安食郷は、安食荘であり、福徳・中ノ切・成願寺の三邑とも、味(金偏に宛で一字 マと読
                   む。)・如意・大蒲・大野木・稲生・安井・光音寺の村々(現在は、名古屋市北区に当たる)その当時の庄
                   内川の流路はどのようであったのかもっと現在より南側カ。
                    「小江ノ神社、安井村に在り」は、別小江神社カ、本国神名帳には、別小江神社 1ニ(入カ大カ)江ニ作ル
                   とある。大江であれば、庄内川の事カ。更に「按旧事紀物部印葉連之弟大別連カ」とも記述され、多分に
                   物部氏系とも推測されているかのようです。邑に二子山有り、池溝を以って土人伝えて可美眞手ノ墓と為
                   すと。言い伝えでありましょう。
                                          

                 ・ 山村郷
                    訓欠(カ)按ずるに大和ノ山村郷ノ例に依り、読むに也末無良と云うに當る、蓋し山村ノ忌寸ノ居る所、
                    詳らかに其の疎証を見る、尾張志云う、山村方(マサ)に廃す、津田正生曰く、今外山 牛山ノ二村有
                    り、、牛 内 興(ト)通じ、是内山村、外山村也、」図を按ずるに北外山、南外山、外山入鹿、牛山、小
                    牧、小牧原、船津、小水、西ノ島、三淵ノ諸邑亘る、熊野ノ荘称する、蓋し其の地也、」祀典謂う所 外
                    山神社、北外山在り、梅花無儘蔵 砥山ノ郷作る、小牧山ノ城有り、安土創業録に云う、織田信長清
                    洲自(ヨ)り■て此に居る、天正中、徳川家康 織田信雄援け豊臣秀吉此於いて困る、(以上が、原文
                                            を読み下した文であります。)

                    *尾張志には、山村郷は、熊野ノ荘であり、領域は、北外山・南外山・外山入鹿・牛山・小牧・小牧原・船
                   津・小水・西ノ島・三淵の村々。
                                            蓋し山村ノ忌寸ノ居る所、詳らかに其の疎証を見るとか。渡来人系カ。どのような証拠であったのだろうか。

                  <以下の二郷については、原文の読み下しを省略し、郷域について述べてみえる部分のみ抜粋> 
                                     ・ 高苑郷
                    高田寺・熊ノ荘・鹿田・井■・二子・比良・片場・久地野・薬師寺・徳重・法成寺・北野・石橋・宗福寺
                   の村々。

                 ・ 食余(これで一字)戸郷
                    清洲・須賀口・西堀江・土器野・寺野・田中・阿原・平田・上小田井・中小田井・下小田井・沖・朝野
                   の村々。

                 ・ 春部郷
                    原無く、今補す、訓義上に見る、即ち春部郡家此に在り、郡名因て起こる、図を按ずるに今ノ春日井
                    村に有る、小針、小針入鹿、一ノ久田、藤島、多氣、青山、豊場、稲口、如意中、田樂、大手、大手西、
                    大手池の諸邑に亘る、祀典謂う所尾張ノ神社、本國神名帳尾張田ノ天神作る、小針村在り、尾張宿
                    禰ノ祖天香語山ノ命を祀る、蓋し此■日偏に方(一字で)る、多氣ノ神社、多氣村に在る、熊野権現と
                    称し、荘名因て起こる、伊多波刀神社、田楽村に在り、本國神名帳板鳩天神を作る、青山ノ荘、正
                    應二年ノ西大寺田園目録に見る、(以上が、原文を読み下した文であります。)

                    (倭名類聚抄には、この郷名はなく、藤原京から出土した木簡類で確認?できたのでは。・・筆者注)
                    春日部郡名は、この春日部郷より起こりたるとか。又、郡家が、ここに存在したとか。領域は、小針・小
                   針入鹿・一ノ久田・藤島・多氣・青山・豊場・稲口・如意中・田樂・大手・大手西・大手池の村々。

                  以上が、春部郡内の郷でありますが、私が住んでおります旧 篠木荘域が、ありません。すると、山田
                 郡のなかの船木郷と呼ばれる地域に含まれている事が知られました。

               3.山田郡の記録 
                                       山田郡域
                   船木・主恵・石作・志談・山口・山田・加世・両村(フタムラ)・食余(これで一字)戸・神戸郷の10ヶ郷

                 ・ 船木郷
                    訓欠(カ)遠江ノ船木郷ノ例に依りて、読みて布奈岐と云うに當る、下総 近江 美濃 又船木郷有り、
                    崇神十七年紀、詔曰、船者天下之要具也、其れ諸國に令し、船舶を造り人偏に卑(で一字)、本居氏
                    曰、凡ての地船木と名る者、古の船材を採る之所、舟車部方言を引いて云う、関東之を舟と謂う、関
                    西之を船と謂う、和名布禰、説文、舟、船也、古者共鼓貨荻(トモカク カ)木をえぐりて舟と為す、木をけ
                    ずりて(カ)櫂(木偏に口 耳で一字 カイ(カ)と読むのか)と為し、以って不通に済ます、釈名、船は盾也
                    水に盾て而して行く也、又云う、舟は周流を言う也、谷川氏曰、布禰羽興通ず、続日本紀船名速鳥有り、
                    文選船を謂うに三翼為す、是也、」古事記垂仁段、尾張ノ相津之二股■伐て舟作る、之を倭ノ市師池に
                    浮ぶ、記伝えて云う、文津(アヤツ)村在り、文相一声通る、弼謂う、文津(アヤツ)今布美都と呼び、主恵ノ
                    郷属す、別赤津村有り、邑之萬徳寺寛正五年金偏に少(で一字 抄と同じカ)本太子伝ノ跋(アトガキ カ)、                
                    山田郡鮑津ノ保を作る、白坂雲興寺古文書亦同じ、出羽ノ秋田郷、出雲ノ秋鹿郷、並びに秋字安伊と
                    訓す、鮑津は蓋し相津也、山口郷に属す、上古相津之名、主恵山口船木ノ地に亘(ワタ)る也、古事記
                    神武段、神八井耳ノ命、船木ノ直、丹羽直ノ祖也、蓋し此に於いて居る、続日本紀、船木ノ直馬養、類聚
                    国史船木ノ安麻呂、り(役人の意)部王記に船木氏有り、小野宮年中行事に船木ノ利用、徐目大成抄に
                    船木ノ種守、皆其の裔也、塚本氏曰、船木方に廃れ、篠木荘有り、内津、西尾、明知、神屋、外ノ原、迫
                    間、白山、大山、野口ノ諸邑に亘りて、蓋し其の地也、志濃畿ノ荘、東鑑建久五年の條に見る、三國伝記
                    篠木荘を作る、祀典秩の所内内(ウツツ)神社、内津村に在り、尾張連ノ祖建稲種ノ命祀る、熱田縁起を按
                    ずるに、建稲種日本武尊東征に従い、武尊還て尾張ノ篠城に至り、稲種海に於いて没すと聞いて、悲 り
                    っとう偏に宛(で一字)読みてヒエン カ 意味は悲しみ驚いて曰、現邪(ウツツナルカナ)現邪、遂に社を建て祀る、
                    現読みて内内興同じ、今尚内津街道を称して、信濃國まで通ず、(以上が、原文を読み下した文でありま
                                            す。)

                    志濃畿ノ荘は、東鑑(吾妻鏡の別名) 建久5(1194)年ノ條に見る。三国伝記篠木荘を作る。とある。
                    内津・西尾・明知・神屋・外ノ原・迫間・白山・大山・野口の各村々が、郷域か。(塚本氏曰く)

                  <以下の郷については、原文の読み下しを省略し、郷域について述べてみえる部分のみ抜粋>
                 ・ 主恵郡
                    須衛と云う。神鳳抄 尾張国末ノ御厨、織田信雄分限帳 上末郷・下末郷、尾張志曰 今 上末・下末
                   の二村は、春日井郡に属す。大原・下原・南下原・文津・東田中・二重堀の各村々を含む領域か。

                 ・ 石作郷
                    岩作(ヤサコ)・長久手・前熊・熊張村は、愛知郡に属し、稲葉・三郷・新居村は、春日井郡に属した。

                 ・ 志談郷
                    志段味・上中下水野・玉野・高蔵寺・神領・松本・上野・出川・掘内・櫻佐村は、山田ノ荘で、春日井郡
                   に属す。

                 ・ 山口郷
                    山口・菱野・本地村は、愛智郡に属し、美濃ノ池・瀬戸・赤津村は、春日井郡に属す。すべて山田ノ荘。

                 ・ 山田郷
                    山田・矢田・飯田・東志賀・西志賀・辻・安井・田幡・杉・大曽根の村々は、愛智郡。金屋坊・守山・幸心・
                   瀬古・大永寺・川村・吉根の各村々は、春日井郡へ編入。

                 ・ 加世郷
                    藤島・岩崎・岩藤・北村・三本木・米ノ木・藤枝・折戸・蟹甲・野方・浅田・平針・梅若の各村々 鳴海ノ荘。
                   愛智郡に属す。
                 ・ 両村(フタムラ)郷
                    沓掛・藍原・間米(ママイ)・部田・祐福寺・傍示本・諸輪・和合・阿野の各村々。鳴海ノ荘、愛智郡に属す。

                 ・ 食余(これで一字)戸郷
                    上中下品野・上下半田川・白岩の各村々は、志談郷を割りて食余(これで一字)戸を立てる。今は、春
                   日井郡に属す。

                 ・ 神戸郷
                    高針・藤森・猪子石の各村々は、愛智郡、猪子石原・印場・大森・大森垣外・小幡の各村々は、春日井
                   郡に属す。

               4.丹羽郡の記録
                 丹羽郡域
                  吾づら・稲木・上野・丹羽・穂積・新溝・大桑・下沼・上沼・前刀・小弓・小野・小口郷の13ヶ郷

                 ・ 吾づら郷
                    吾づら・馬見塚・外埼・平島・三井・重吉・北島・傳法寺・九日市場・五日市場・大地・野寄・森本・猿海道
                   の各村々。

                 ・ 稲木郷
                    寄木・安良・東大海道・西大海道・今市場・北野・尾埼・余野・山王・前野の各村々、稲木ノ荘・高雄ノ荘と
                   云う。

                 ・ 上野郷
                    上奈良・中奈良・下奈良・五明・賀茂・畿賀(キガ)・赤童子・瀬部・古智野・高屋・北高屋・宮後・東野の各
                   村々、高雄ノ荘と云う。

                 ・ 丹羽郷
                    時ノ島・大赤見・小赤見・柚木下風(ユキオロシ)・定水寺・北小淵・南小淵・浅野・浅野羽根の各村々、高雄・
                   浅野ノ荘。

                 ・ 穂積郷
                    勝栗・一色・浮野・布袋野・小折・加納馬場・曾本の各村々、高雄・井上荘。

                 ・ 新溝郷
                    岩倉・八剣・神野・石仏・小山・塩尻・曾根・曾野・大山寺・川井の各村々、稲置ノ荘。
                 
                 ・ 大桑郷
                    楽田・河北・二ノ宮・奥入鹿・富士の各村々、小弓・虫鹿・柳ノ荘。

                 ・ 下沼郷
                    下野・南山名・北山名・中般若・下般若・草井・鹿子島の各村々、高雄ノ荘。

                 ・ 上沼郷
                    上野・木津・犬山・継鹿尾(ツガオ)・栗栖・富岡・禅師野・犬山羽根の各村々、稲置・小弓ノ荘。

                 ・ 前刀(サキト)郷
                    斉藤・和田勝佐・高木・柏森・山尻・江森の各村々、稲置・高雄ノ荘。

                 ・ 小弓郷
                    安楽寺(アラクジ)・羽黒・五郎丸の各村々、小弓ノ荘。

                 ・ 小野郷
                    吾づら・穂積郷の間にあり、町屋・天摩(テンマ)・芝原・南小淵・北小淵の各村々、井ノ上・江城ノ荘。

                 ・ 小口郷
                    小口・大屋敷・外坪・秋田・豊田・力石・石枕・長櫻・御供所の各村々、高雄ノ荘。

               5.考察
                  不思議な事に、日本地理志料には、大草という村は、どこの郷にも出てきていません。蚊帳の外であった
                 のでありましょうか。
                  倭名類聚集 外篇(別名 日本地理志料)は、遅くとも平安末期までは下らない書籍を基にしたものとか。
                 とすれば、平安期中頃の様子を記した書物でありましょうか。しかし、記述されている事柄は、明治期にまで
                 も至る部分もあり、箋注ですので、書物に貼り付けるメモ程度の注釈のようであります。大草は、草田の里と
                 して出てきてもよさそうに思えますが・・。衰退していて人が住んで居ない時期が長かったのであろうか。
                  おそらく、草田の里が存在していたのであれば、日本地理志料には、山田郡船木郷に属していた村であり
                 ましょう。

                  小牧市史(P.68や70に記述されている春日部・山田郡域図)とは、やや違った図になりそうです。山田郡
                 は、ほぼ庄内川の左岸側沿いに存在し、庄内川を越えて、右岸側に広がっていたのが、旧 篠木ノ荘と言わ
                 れる荘園域で、平安期では、山田郡に編入されていたのでありましょうか。
                  そして、人を山田郡と仮定すれば、人が両腕で囲むように春日部郡を囲っているのが、山田郡であったの
                 かと。少なくとも日本地理志料の記述に従えば、そのように把握できえます。

                  私は、篠木は、もともと春部郡かと思っていましたが、山田郡域と記載されているようです。平安期までの
                 春部・山田郡域は、今に伝わる郡域とは、若干違っていたという認識が必要なのかも知れません。
                  そのように考えられるのは、日本地理志料の筆者ではなく、塚本氏という方のようで、どのような方である
                 かは不明。こうした点で、確実ではない、疑義があるからあまり論議の遡上に挙がらないのかも知れません。
                
                  郡境は、河川で区分けされるのが、常道とか。河川に氾濫は付きもの、流域がたびたび変わる事は、有り
                 得る事柄ではありましょうし、政治的な関わりもあったのだろうと推測致します。

                  この資料で見る限り、山田郡域は、かなり広大な郡域であったと推測できます。歴史学の上では、まだ未定
                 の領域ではありますが、こうした資料は、早くから知られていた事ではありましょうが、なかなか議論の対象に
                 挙がってこないのは、やはり、何らかの疑い、或いは根拠がないと推測されているからでありましょうか。