謎の多い南北朝期以前の 二宮宮司 原大夫系統についての覚書

         1.はじめに
            郷土誌かすがい 第6号(昭和55年3月15日発行) 重松明久氏(当時 広島大教授)による「中世武士と
           農民の社会」の記述に、「尾張二宮(大縣神社)宮司である 平安時代以来の春日部郡司 良峯氏の子孫 
           原大夫高春は、南北朝の頃 熱田大宮司 千秋(ちあき)一族と共に、南朝側に属した。」とありました。こ
           れが、私にとっての、二宮宮司に関する最初の出会いでありました。( この記述のもとになった史料につ
           いては、その当時、確認してはいませんでした。・・筆者注)

            この春日部郡司 良峯氏の出自は、如何様であったのかは、判りかねますが、尾張連氏に関わっていた
           かどうかは、不明であります。
                          次のような記述もあります。「信長公記」や現 春日井市柏井の当時地侍 柏井衆や前野氏{ この前野氏
           は、(平安期の春日部郡司に関わる系譜を持った氏族であるとか。・・「姓氏家系辞書」(太田亮著)による。)}
           という事もありますから。前野氏は、木曽川左岸沿いの土豪であったようで、水運等で、財を成した一族である
           という。( この前野家の系図をたどると、良峯家に繋がる。とすれば、大田亮氏は、どこから良峯家は、春日
           部郡司に関わる系譜という判断をされたのでありましょうか。・・・筆者注)

         2.郡司 良峯氏家系図 ( 春日井市史 昭和48年復刻版 参照 )
            春日井市史 P.133には、この郡司 良峯氏の家系の一端が分かる記述があります。それによれば、下記
           のようでありました。{ 春日井市史のこの部分の記述も、先述の重松明久氏(当時 広島大教授)によるもので
           はありますが、趣旨には、先述の郷土誌かすがい紙上の論述とは、弱冠差異があるように思えます。・・・筆者注 }

             郡司 良峯氏家系図                                       
              良峯惟光(ヨシミネ コレミツ)−○−孫の 季高ーー高成( 東国 上総権介 ーー高春                           
             (平安時代以来の郡司級豪族    (郡司)   平 広常の妹を妻にし、   二宮大宮司であり、
              である。)                        大縣神社 大宮司となる。    原大夫と名乗った。
                                           生まれた娘は、平 忠盛                                                
                                           の妻となり、平家と親戚関係  寿永2(1183)年平家は、木曾義仲に
                                           を築いていた。)          追われ、京都から撤退。平家筋ではあ
                                                               りましたが、源氏に加勢。鎌倉将軍より
                                                               所領は安堵された。(高春の所領)

                 * 郡司 季高は、自らの所領を後三条天皇の生母 陽明門院に寄進して、陽明門院勅旨田とし、
                  更に後三条上皇にも寄進し、後三条院勅旨田と称し、これらの領主職は、自らに保留し、この領
                  主職は、子孫が知行したという。

                  「 この子孫である原大夫 高春(の末裔・・筆者加筆)は、南朝方に属したようで、南北朝動乱期
                  まで存続したようであります。」( 郷土誌かすがい 第6号 重松明久氏(当時 広島大教授)によ
                  る「中世武士と農民の社会」 参照 )

                   「文和2(1352)年 北朝方 尾張守護代土岐氏家人が、南朝方の原氏・蜂屋氏と尾張で戦い、
                  賊首20ばかり持参したという。この原氏は、二宮神官として武士化した者のようである。」( 春日
                  井市史 通史 P.133 参照 )という記述もあります。

                   (もし、そうであれば、大胆な推測ではありますが、二宮領たる尾張国林・阿賀良村の在地名田
                  耕作者たる余一左近等の末裔が、まだ在地に居住していたと仮定すれば、在地武士化した可能
                  性は無きにしもあらずであろうかと思われますが、いかがであろうか。更に推測が許されるならば、
                  こうした末裔達は、南北朝以降も生き残り、その後、余語姓を名乗ったとは、考えられないのだろ
                  うか。・・・あくまで筆者推測であります。)

                   なにぶん、室町幕府初期、この林・阿賀良村を含む篠木荘へは、美濃守護兼尾張守護となった土
                  岐頼康の一族郎党が、押領している事。兵糧米等の徴収を名目に乱暴・狼藉をしていたようでありま
                  す。そうした事を領家側は訴え、室町幕府将軍は、これを停止せしめているし、押領した土地を元の
                  持ち主に返付せしめているようです。詳しくは、下記 拙稿を参照されたい。
             鎌倉時代末期より室町期の虎渓山永保寺創建とその後の寺領推移並びに南北朝動乱期の東濃、尾張東部の在地情勢

                   また、春日井市史 P.132には、「暦応3(1340)年頃 上条在村の上条太郎左衛門尉が、土豪
                  的存在として支配権を確立していた事が察せられる文書(円覚寺文書)もあり、貞治2(1363)年に
                  は、猿子頼蔭が、東寺八幡宮尾張大成荘(東寺文書 佐織町史 史料編 2 参照)に押し入り、侵
                  略した為、室町幕府は、尾張守護 土岐頼康に命じて乱暴を止めさせようとしたようであります。
                   土岐頼康は、その命を受け、直ちに現地支配者たる上条左衛門大夫入道(上条在村の上条太郎
                  左衛門尉カ、その系統の者・・筆者注)と乙面左近将監入道(オツメン サコンショウゲン ニュウドウ)の二人に
                  猿子氏の違乱を止め、下地を東寺雑掌に渡すように命じたという。」記述もありました。

                   (ここに出てくる乙面左近将監とは、どこの土豪的在地武士であったのか、詳しい事は、分かりませ
                  んが、小牧市林地区の 余語右近将監の碑の右近将監とは、何らかの繋がりは・・・不明。二ノ宮領
                  の者は、14世紀中頃には、南朝方に味方しているのであり、幕府方は、北朝方である筈。とすれば、
                  乙面左近将監入道は、北朝方の国人と理解出来るのでは・・筆者つぶやき)

                   あの尾張国林・阿賀良村を二ノ宮領として寄進したのも春日井市史では、郡司系統の者であった
                  筈でありましょうから。

                   拙稿 「春日部郡 郡司 範俊なる人物についての覚書」にも記述しましたが、藤原範俊なる人物
                  と、篠木地域の再開発の事象が、時代的に辻褄が合わない点を明快に答えて頂けた論文がありまし
                  た。

                   {藤原範俊とは
                     尾張氏の外孫として熱田大宮司職を世襲した一族の末裔であり、4代前の尾張国目代の権
                    勢を在地経営にも働かせたのでしょうか。自身は、尾張氏が、永代引き継いできた春日部郡司
                    の立場を継承し、小牧市東北部から春日井市にかけての広範な地域を開発。山野の多いこう
                    した地域において、荒廃公田の再開発、山野の占有を含むにせよ、多大な労力と財力を駆使し
                    て開発したのでありましょうか。確証はありません。只単に、名主 浄円らに名前を使われただけ
                    なのかも知れ無いと言う事も考慮しなければならないでしょう。}(筆者の推測)

                                             { 範俊の父は、藤原憲朝(千秋憲朝とも号す。)であり、源頼朝挙兵時、はせ参じ、奮戦、その
                    功により、「海東地頭職」を、建久8(1197)年に得ている。が、承久の乱(1221年)前後に、
                    地頭職を改易されていた。おそらく京方加担の科によるものであろう。}と記述されております。
                     ( 小牧市史 通史 P.92 参照 )「この改易された海東郡地頭は、藤原憲朝(千秋憲朝とも号
                    す。)ではなく、もう一人の海東郡地頭 中条信綱の子 範俊にあてる見解もあり、混同しているの
                    ではないかと・・・。」( 筆者注 )

                                               しかし、尊卑分脈(国史大系 巻60 上 下)の系図には、藤原憲朝(千秋憲朝とも号す。)の
                    父 範信の欄に、尾張国海東郡地頭職を建久8年に補されたようにも記述されていました。

                     とすれば、春日部郡 郡司というのは、尾張氏が持ちえた永久職であり、尾張氏の外孫として、
                    それを引き継いだのでありましょうか。範俊が、開発地の活動をしたとすれば、時期的には、承久
                    の乱前後からと推察されます。
                     範俊が、開発地の活動をしたとすれば、鎌倉三代目将軍以降の頃の出来事かと推察いたしま
                    す。が、円覚寺文書の内容とは、辻褄と言う点で、合点がいかないのも事実であります。この林・
                    阿賀良両村は、平安末期〜鎌倉初期には、二宮に寄進されていたでありましょうから。この地
                    域の開発が、それ以前に行われていなければならない筈でありましょう。

                     故に、この円覚寺文書に出てくる郡司 某は、尾張氏と婚籍関係になった目代藤原氏が、その
                    後目代としての権勢から春日部郡内の広範な地域を再開発等して私領化した頃の古き謂れを、
                    この当時の名主層が、利用したのではないかと・・・。春日部郡 郡司 範俊なる人物とやや曖昧
                    な書き方であったことも辻褄が合わない事と認識しての書き方でありましょうか。

                     こうした辻褄が合わない事に対し、講座 日本荘園史 5 P.359で、 上村喜久子氏は、明快
                    な答えを述べてみえます。「篠木荘は、春日部郡司 範俊開発内であって、その後、関東御領とな
                    ったといわれている。関東御領を北条氏領と解して、範俊を承久の乱で京方に与した海東郡地頭 
                    中条信綱の子 範俊にあてる見解もある。しかし、野田郷(春日井市)、林村(小牧市)、阿賀良村
                    をも合わせた 範俊開発 地域の広がりとその地理的状況、国司 平忠盛と郡司との主導のもと
                    に一円立荘された篠木荘の経緯を勘案するならば、春日部郡東北部一帯の開発領主とは、天養
                    元(1144)年当時の郡司 橘氏一族とみるのが自然であろう。」 と。

                     ところで、橘氏は、春日部郡か丹羽郡 どちらの郡司であったのであろうか。上村氏は、この点に
                    ついては、明快ではない。
                     丹羽郡郡司 良峯氏も一族の者が、橘姓を名乗った時があったという伝承もありましょうから。
                    
                     また、同書 P.344には、「散在型荘園から一円型荘園への移行(例えば、篠木荘等)の背景に
                    は、郡司・郷司ら一族と国司との結託が推察される。」 とも記述されている。

                     更に、同書 P、346には、「平氏は、11世紀末以降、伊勢湾に面した諸郡に荘官として現れる事
                    から、この頃(院政期頃)に進出していた事が知られ、12世紀に入ると、尾張の荘園の中には、平氏
                    一門が、領家職・預所職を持つに至っており、こうした荘園については、開発領主としてでなく、寄進
                    の仲介者として、荘園の成立に関わった事から、こうした職を得たのでありましょう。」とか。「12世紀
                    後半頃 平忠盛・その子 頼盛が、尾張守に任ぜられ、以後平氏滅亡までの間、尾張はほぼ一貫し
                    て彼等の知行国となっていたが、こうした背景が、一門の領家職への進出を可能とした。」とも記述
                    されている。

                                              上記記述から、源平の戦いは、京の上皇の権益がらみではありますが、裏には、この当時の水運
                    に関わる経済的な利益の争奪戦が内包されていたのではないか。「源平の戦いでは、やや平氏の方
                    が、水上戦が強い傾向にあったのは、平氏政権化でその権益を確保していたから。」( 平氏政権の
                    研究 田中文英著 思文閣出版 1994年版 参照 )でありましょう。
                  

                     「吾妻鏡には、建久5(1194)年 志濃義(しのぎ)地頭職は、将軍より故 鎌田正清の娘に、恩
                    補されているようですが、これは、平氏没官領とされた平氏の仲介業務により手に入れた開発領主
                    的な跡と解される。」とも。前掲書 P.359に記述されていました。

                     只、[尾張国の平氏(平忠盛・その子 頼盛)は、平氏ではありましたが、源氏に加担した節があり、
                    処罰後、源頼朝は、その行為を悔いたという逸話もあり、その為、良峯家の原 大夫 二宮大宮司
                    高春の所領は、寿永2(1183)年 平家筋ではありましたが、頼朝により安堵されていた。」( 春日
                    井市史 参照)という記述もあります。
       
                     「春日部郡司であった尾張氏は、その後、熱田大宮司職を、婚籍関係にある尾張国目代の子で、
                    藤原季範に12世紀半ば頃譲り、尾張一族は、なお権宮司以下の神職や国衙在庁などとして、社
                    領・国衙領に一定の基盤を保持していたであろう。」とも記述されています。( 前掲書 P.346 参
                    照 )

                     推測ではありますが、「篠木荘は、春日部郡司 範俊開発内であって、その後、関東御領となった
                    といわれている。」関東御領を北条氏領と解すれば、”篠木荘を春日部郡司 範俊開発(これを範俊
                    以前の者と仮定・・筆者推測)とし、後の篠木荘の権益は、保元・平治の乱(1156・1160年)で、最
                    終的には平清盛に負け、殺された源義朝(源頼朝の父)、その負けた源義朝に一族郎党を挙げて加
                    勢した熱田大宮司家の開発地(後の篠木荘を含む)は、結果、権益を失くしていった可能性は否定で
                    きないのではないかと・・・・。思われます。

                     その間隙をついて、丹羽郡 郡司 良峯氏が進出し、東条の地(篠木荘カ)、及び西条の地(味岡
                    荘カ)等々を押さえていったと推測できるのでは。そうした事柄は、{新編一宮市史 資料編 補遺2 
                    「良峯氏系図」に於いて、11.12世紀には、丹羽郡司 良峯氏は、「北は鳥倉山より南は河口河、
                    東条(篠木荘カ・・筆者注)・西条合わせて23条に及ぶ<此一郡内、敢無他所領>と豪語している。
                    」}(網野善彦著 日本中世土地制度史の研究 P.183 参照)という表現に繋がるのではないか
                    と。

                     繰り返しなりますが、「当然、良峯家は、平氏と婚籍関係であり、頼朝軍と対立したのではないかと
                    思いましたが、何と尾張国の平忠盛家は、源氏に組したようで、平氏政権を壇ノ浦にて駆逐した後、
                    頼朝は、尾張国の平氏一族をも処断したようで、悔やんだとある。丹羽郡の良峯家へは、頼朝は、
                    下文を与え、二宮領の開発主として安堵したという顛末が知られる。」(春日井市史 参照)

                     以上の事柄を勘案すれば、結論として「春日部郡東北部一帯の開発領主とは、天養元(1144)年
                    当時の郡司 橘氏一族とみるのが自然であろう。」 となるのでしょう。上村氏の言う郡司 橘氏一族
                    とは、一体 誰であったのか。

                     「姓氏家系辞書」の著者 太田亮氏は、この橘氏一族は、尾張連氏一族の分派とも、姓を替えた
                    熱田大宮司職であった藤原氏一族であった可能性が高いと推論されているようですが、果たして春
                    日部郡内の者で橘姓を名乗った者がいたのでしょうか。熱田大宮司家の系図には、橘姓を名乗った
                    者は、いないようであります。

                     そして、丹羽郡の良峯氏へと続くのでありましょうか。或いは、木曽川左岸の前野氏(戦国時代頃に
                    財をなした水運王の一族)にも尾張氏の系譜を認めるてみえるようですから。 春日井市史を記述され
                    た元広島大学教授の某氏も尾張氏の系譜からかって春日部郡郡司と良峯氏を把握されていたと推測
                    いたしますが、春日井市史の記述では、そのようには把握されていないようにも思いました。

                     この良峯氏は、犬山市史に記述されているように、新たに丹羽郡へ移住してきた者のようで、前野家
                    は、「上祖を桓武天皇の皇子、大納言良峯安世と伝えたり。安世の子は右少將宗貞、後に出家して僧
                    正遍照という。その子は素性法師なるも、伝系には素性の弟を玄理とし、姓を椋橋に改めて尾張國丹
                    羽郡に住し、其の郡司となる旨を記載しあり。」と記載された後の良峯氏であるようです。そして、その
                    末裔が、前野家に繋がるようで、こうした点は、下記URLより知られる事ではあります。

                                              参考までに、良峯系図を記載した http://www.maeno3.com/m-ichizoku/m-yosimine.htm URLを
                    載せておきます。参照下さい。( この系図は、群書類従に記載された系図であるのでしょう。・・筆
                    者注 )

         2.犬山市史から理解できる良峯氏について
             原大夫 高春については、犬山市史 通史編 上 にも記述があり、概略を載せておきます。
             { 原大夫 高春(家カ)は、良峯氏系図に出てくる南北朝頃(春日井市史では、寿永2年頃の人物かと。・・筆者
            注)の二宮大宮司であった。犬山市史では、良峯氏一族は、丹羽郡郡司と記述され、春日部郡司とは記されて
            はいないようです。

             12世紀半ばには、季高が、丹羽郡司職の地位を確立したという。「良峯氏系図は、鎌倉末期から南北朝初期
            にかけて成立したと推定されているようです。」(犬山市史 史料編 3 参照)その為、それ以前の系図は、その
            後の子孫による、いくつかの作為が加えられている可能性が、高いとされるという。

             春日井市史で述べられている良峯惟光は、兄である季光の弟とし、違勅者の子孫からの寄進をはばかり、良
            峯姓から橘姓に改姓したとの逸話も伝えられている。また、「惟光には、系図上不審な点が多く、後に、丹羽郡
            の荘園を知行している良峯季光の子孫が、その正当性を主張する為に配置された人物の可能性を指摘される
            研究者もあるようです。} ( 犬山市史 通史編 上 P、199 参照 )

                             参考として、繰り返しになりますが、{新編一宮市史 資料編 補遺2 「良峯氏系図」に於いて、11.12世紀
            には、丹羽郡司 良峯氏は、「北は鳥倉山より南は河口河{もしかすると堺河(現 庄内川カ)を指しているのでは
            ないかと・・筆者推測)、東条(篠木荘カ・・筆者注)・西条合わせて23条に及ぶ”此一郡内、敢無他人所領”と豪語
            していると記載されているようです。}(網野善彦著 日本中世土地制度史の研究 P.183 参照) 

             ここに記述された東条の地とは、篠木荘の地域かと推測致しましたが、「荘園志料 上巻 清水正健編」 P、
            575に、醍醐寺雑事記曰として、「字安食荘事、在管春部郡東條、四至、(小文字にて)東限薦生里西畔 南限
            山田郡堺河 西限子稲里東畔 北限作縄横路」と記述されており、東條の地は、安食荘の地域も含んでいるの
            ではとも知りえるのであります。

             そして、この南限山田郡堺河とは、{荘の南界を「山田郡堺河」に相当する河流(現庄内川)が蛇行し、}と郷土
            誌かすがい 第23号内 平安末期の安食庄 その当時南山大学経済学部教授の須磨氏の論考中に記述され
            ていた。堺河とは、現 庄内川の古名であったかのようです。
 
             犬山市史にみる 良峯氏 系図
              良峯季光(兄)
                 惟光(弟)ー・・○・・−孫 立木田季高{丹羽郡郡司 保安4(1123)年〜保延3(1137)年}・・  
             ( 惟光(弟)・・丹羽郡郡司 季高の子孫が、創作した人物カ )

              ・・ |  季高の子 高成(二宮大宮司)ーーーーーーーー高春(原大夫 二宮大宮司)
                 |    〃    立木田高義−−ーーーーーーーーー立木田高光{丹羽郡郡司 承安元(1171)年〜   }
                { 丹羽郡郡司 保延3(1137)年〜承安元(1171)年}

                                  参考までに、拙稿 尾張国 二宮社(大縣神社)領 領有者の変遷について の二宮社領の領有者の変
              遷の一部記述を転記致しました。
              ・ 二ノ宮社領の領有者について
                この当時においても、王権は、天皇が保持しているのであり、在地においては、律令的遺制の枠を破りつつあ
               ったようですが、中央政権は、律令制的な王権は、存続しているのであり、有力神社・寺院等の権門は、律令制
               的な王権があって、はじめてその権威を認められるのでありましょう。

                武士と言えども、武力以外は、政権の根拠はなく、王権からの権威の一部を利用しての権力行使でしか、鎌倉
               初期頃は、成り立ち得ない状況であったのでしょう。武士による本格的な中央政権制度は、承久の乱以降であり
               ましょうか。
 
                *  早くも、二宮社の領有権は、この12世紀末頃には、原 家と九条家の間に存在していた事になりましょう。

                大縣神社の領有が分かるのは、平安時代の院政期 鳥羽上皇頃からであります。
                 康治3(1144 或いは天養元年ともいう。)年正月24日の鳥羽院庁下文の内容からであります。
                 読み下し文にすれば、「藤原実行{ふじわらのさねゆき 承暦四〜応保二(1080-1162) 号:八条太政大
                臣・八条 入道相国. 三条家の祖。権大納言公実の二男。母は藤原基貞の娘。待賢門院璋子( 鳥羽天
                皇中宮)の兄。顕季の娘を妻とする。子の公教(後三条内大臣)・・筆者注}家をして、二宮社務を知行
                せしむ。在庁官人等は、承知しておく事。」という内容でありましょうか。

                その後、<九条兼実(平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、
               後法性寺殿とも呼ばれる。 五摂家の一つ、九条家の祖。1149年に出生。・・筆者注)が領有し、子 良経カ
               に伝領されたかと。> 建長2(1250)年11月 九条道家初度惣処分状に記載されていた。

                平氏政権の研究 田中文英著には、「摂関家の藤原兼実は、平清盛が、後白河法皇を駆逐して、中央政
               権に摂関家・院政と似た武家による擬似摂関的政治を行う時の摂関家代表であり、平氏政権に対し日和見
               的に対処していたが為に利用されたという。本人も自著の玉葉において、その悔しい胸の内を吐露している
               ようであります。
               { 上記の領有者の事柄は、建保3(1215)年8月 後鳥羽院庁下文の内容から知る事が出来ました。犬山
               市史 史料編3 参照 }

                そして、{寿永3(1184)年の頼朝の下文にては、「原 高春(二宮大宮司)が、この地域の開発者として、二宮
               の領有を認められていったようです。」 「寿永2(1183)年には、平氏は、木曾義仲に京を追われ、撤退。原
                大夫は、平家筋ではありましたが、源氏に加勢し、所領は、源頼朝に安堵されたという。」}(春日井市史 参照) 
                                  12世紀末頃は、京・鎌倉2地域の主による二元政治が行われ始めていたのでしょう。鎌倉の主は、京の主に
               遠慮しつつ、大胆な施策を遂行していたと推測できます。

                < この二宮社領は、承久の乱(1221年)で、鎌倉幕府に一旦所収され、その後関東尼(平政子 尼将軍
                北条政子)より、九条家に賜った由。>建長2(1250)年11月 九条道家初度惣処分状に記載されていた。


                                    * 参考ではありますが、北条氏が執権職として政治的に動き出す事ができえたのは、頼朝の死後、重臣の
                武将達を追放(滅ぼし、粛清)し、結果的に形だけ名誉職(将軍職)を京側に渡し、実質的な支配形態をとり
                得るようになったが為であり、旧来の頼朝に重んじられたほとんどの重臣は、まんまと北条氏の挑発乃至
                は企てにしてやられた事が内紛の実情であったのでしょう。

                 その重臣の一人であった梶原景時は、北条氏に鎌倉を追われ、途中静岡辺りで殺害されたとか。出身
                が犬山の羽黒であったのでしょうか。その甥が、羽黒に館を構え、室町時代には、岩倉に居城した尾張守
                護代 織田氏に仕えたとか。*


                 こうした事柄により、頼朝による寿永3(1184)年の下文を所持している原 大夫家と尼将軍より下し置
                かれたであろう領有者である九条家の間で、二宮社の領有は、争われる事となったようですが、永仁3
                (1295)年9月12日 関東下地状により、二宮領の領有は、「九条家の領有と裁定され、原 大夫家は、
                二ノ宮社の社官として二宮社の命に従うべし。」とされたようであります。                 
                 そして永仁6(1298)年10月12日の関東御教書案にて、九条家の所領安堵が宣せられたようです。

                 中世では、一つの所領に、時を隔てた各種の下文・下知状が存在し、それぞれがそうした証拠書類を所
                持して、六波羅探題等へ訴訟を起こしていたようです。鎌倉時代のこうした最終訴訟機関は、鎌倉であり、
                二宮領の領有権問題は、そこで最終決着をみたのでしょう。
                 ( 北条氏による執権政治下では、当然の帰結と言えば言えるのでしょう。・・・筆者注 )

                  *  この永仁の領有権争い後は、領家(九条家)在地(原 大夫家 二宮社の社務を司る事)と色分け
                   されていったのでしょう。そして、続群書類従に記載されている「良峯家系図」を見ていくと、原 高春
                   の子は、3人{高重(左近大夫将監)・高直(原大夫)・奉高}であり、高直の子に、元享2(1322)年6
                   月27日付 春日部郡林・阿賀良村名主等連署状及び尾張国林・阿賀良両村名寄帳の名主として記
                   載されている沙弥 浄円と同名の人物と思われる名称(僧 浄円)で記載されており、沙弥 浄円は、
                   原一族の僧 浄円とは同一人物ではないかと推測いたしますがどうでしょうか。時の辻褄は、合うの
                   ではないかと推測いたします。また、系図上では、僧 浄円の家系は、浄円で、終わっているようです。

                    また、<永仁3(1295)年の関東下知状に記載されている原弥三郎高国(原 大夫家カ)なる人物は、
                   続群書類従にある「良峯家系図」には、見当たらない。別系統の原氏系統なのであろうか。
                    「 こうした点からも、二宮大宮司となった原 大夫家の系譜を疑問視する研究者は、多いようであ
                   ります。」 ( 犬山市史 通史 参照 )>


                 季高が、12世紀初め 丹羽郡司であった頃、季高の子 高成を二宮宮司となし、原大夫と名乗らせ、自身
               上総守にも任じられたようです。「その子 高春は、原 大夫と名乗り、二宮大宮司であり、原大夫 高春の末
               裔は、南北朝動乱期には、南朝方に属したようです。(春日井市史・小牧市史 参照)

               「文和2(1353)年 北朝方 尾張守護代土岐氏家人が、南朝方の原氏・蜂屋氏と尾張で戦い、賊首20ばかり
               持参したという。この原氏は、二宮神官として武士化した者のようであるという。」(春日井市史 参照 詳しくは、
               園太暦 巻4 参照)

               *参考までに、園太暦 巻4 P.265 P.294には、次のように記載されていた。「文和2(1353)年4月10日 尾州
              合戦事」( P.265 参照 )或いは、文和2(1353)年4月10日「今日於尾州有合戦、賊首廿許持上、守護代土岐
              家人等合戦、件當類原・蜂屋等云々.」( P.294 参照 )と記述されていたのが、全文でありました。
               ( 果たして 原・蜂屋と記述された原を原大夫であるとどのように証明されたのであろうか。別段、原については、
                具体的な説明は、園太暦 巻4には、ありませんでした。・・・筆者注 )

               上記記述以外にも、文和2(1353)年6月10日の条にも、「楠木・和田在彼勢、又石塔・吉良・率原・蜂屋等同發向、
              件輩皆自八幡出カ、其勢彼是一萬余騎也、・・・」( P.308 参照 )或いは、文和2(1353)年7月9日条には、「濃
              州軍旅頗(スコブル)無其勢カ、自南方被發向輩原・蜂屋・宇都宮・三川三郎等勢六七百騎巳下、・・・」(P.327 参照)
              という記述もありました。

               文和2年前後数年は、北朝・南朝が、京都を占拠しては、交代し、流動的であった。そうした状況での、尾張軍(南
              朝方)の出動であったかと。尾張でも戦い、京都近辺でも戦い、幕府(北朝方)対南朝方に分かれて、主導権争いを
              していたのでしょう。確かに、原・蜂屋等は、尾張・美濃地域の者であるようです。*

             
                さて、二宮領の成立をいつとするのかですが、講座 日本荘園史 5 「尾張国衙領」 上村喜久子氏の論述
               では、先に同氏 「尾張三宮熱田領の形成と構造」(日本歴史 P、294)に触れつつ、「12世紀前半頃には、国
               衙領も、荘園化し、三宮領と同様、一宮・二宮領も12世紀前半(平安末期〜鎌倉初期)には、免田型社領の形
               成が進められていた事が知られる。」 と述べてみえました。こうした時期的な指摘は、小牧市史と同じでありまし
               ょう。

                「10世紀後半〜11世紀前半は、摂関政治最盛期であり、摂関家への寄進が多く為され、尾張地区では、犬山
               の小弓荘・上東門院勅旨田(いずれも 丹羽郡の良峯一族からの寄進・・筆者注)ができ、その後11世紀後半も
               富田荘ができ、後三条天皇が、親政を開始すると、尾張では、後三条院勅旨田・陽明門院勅旨田・味岡荘(いず
               れも丹羽郡 郡司一族が、寄進・・筆者注)ができ、12世紀になると、鳥羽院政期になり、鳥羽院・美福門院に関
               わる荘園が、春日井・小牧両市地域には、篠木荘・柏井荘として成立していく。こうして膨大な皇室領が、尾張の地
               で完成していったようです。」 ( 前掲書 尾張国衙領 上村喜久子氏 参照 )

                こうした荘園化のなかで、尾張地域では、一宮は、現 一宮市の真清田神社、二宮は、大県神社であるとされ、
               この決定は、平安末期頃 12世紀中頃{康治2(1143)年}であるかと。国衙との深い関係が推測できます。

                                   12世紀頃は、国衙に近い尾張国 現 一宮市の真清田神社は、国の祈祷所とされたのでしょう。「この当時、
               疫病等がはやったとき、国人等は、みな心を一にして、”国の一の法師”に社前にて、法会を行う国祈祷所という
               べき機構を常置し、供僧を置くようになっていった。」(網野善彦著 日本中世土地制度史の研究 塙書房 19
               96年版 P.41 参照)とも記載されています。こうした一宮は、国衙と切り離しがたい関係を持っていた所であ
               ったようです。

                そして、鎌倉幕府も、また、一宮・国分寺を特に重視し、「弘安7(1284)年には、その興行令を発した。」(佐
               藤進一・池内義資編「中世法制史料集」第1巻 鎌倉幕府法<岩波書店> 追加法 補7 参照)という。
                興行令とは、寺社興行法の一環で、国衙の管轄下にあった諸国の国分寺・ 一宮を守護の保護下に置く措置
               であるようです。

                只、「熱田社が、三宮と位置づけされたのは、熱田社が、平治の乱で源頼朝の父である義朝軍に家子郎党を
               挙げて加勢し、義朝が、平清盛に負けて殺されたからという記述をされている方もあります。」( 日本中世土地
               制度史の研究 網野善彦著 P.194 参照 それまでは、熱田社は、別格扱いであったようで、三宮の初見は、
               元久元年 1204年であるとか。)
               
                参考までに、国府は、この当時現 稲沢市にあったのであり、参拝順は、単に距離的なもの、交通事情による
               のではなかったかというようにかっては、推察いたしました。が、この決定{ 春日井・小牧両市域においては、大
               縣神社の二宮の認定   康治2(1143)年以降 }により、また、当時の政治情勢と神社の関わり等が絡んでいた
               結果であるようです。

                そして、この当時、在庁官人等が私領化した土地を一宮・二宮・三宮へ寄進する事が多くなったともいう。
                また、同時に、同時期に顕在化してきた国衙領郷保の形成と表裏一体をなすものと捉えるべき現象であろうと
               上村氏は、指摘されておりました。

                やはり、11世紀中頃、寛徳荘園整理令(1045年)によってそれまでの輸祖荘園は荘園ではないとされ、代わり
               にそれら在地勢力が開墾してきた土地は別名(べつみょう 負名体制と呼称されているやに)として課役が有る程
               度免除され、かつそこを開墾してきた在地勢力はその別名としての郡、郷、保の郡司、郷司、保司(ほうじ)という
               事実上世襲可能な公権、「職(しき)」を手に入れる事ができるようになった為、その後は、そうした世襲可能な職
               を在地の有力者等は、手に入れるという方向性をも内在しつつ対応していったのでありましょう。

                こうした状況下で、在庁官人等は、自らの権勢で、私領化した分散地域を、神社(一宮・二ノ宮・三宮)に寄進す
               る道を取るか、皇族に寄進する道を取るか、引き続き、事実上世襲可能な公権である「職」を取るのかという選択
               をしながら、末代まで権利を保つ方策を考えていったのでありましょう。更に寄進を受ける上級の者は、濡れ手で
               粟の心境ではありましたでしょうか。

                在庁官人は、この当時でも、京の上皇から官位を授けられている存在であり、曲がりなりにも勅命者でもありま
               しょうから、官位を持った者としては、寄進したりすれば、違勅者の汚名を着させられる事になりましょうか。姓を
               替えて寄進をする傾向があったのではないか。そうして、実質的な在地での権益を確保していたと思われます。
            
                そして、尾張の三明社(二宮領の一部)は、引き続き社人等が、存在していたようでやっと戦国期末期になっ
               て、小牧市の三明社(二宮領)の社人は、身の危険を感じ、遁走したという。まだ、この南北朝以降の三明社
               社人は、戦国末期までは、完全には在地から離れず、根付いていたと思われます。

                尾張国林・阿賀良村の実質在地での名田主等は、円覚寺文書にみえる書類上の名主達6名とは、人物が違
               うのでしょうが、その下部の実質名田主(例えば、余一左近等)等の末裔が在地に君臨していたとすれば、武装
                                 化し、郷士的存在になっていた可能性は否定できないのではないかと推測いたします。
                                   また、三明社の社人も戦国期末期まで居ついていたとすれば、例え、北朝の天下となり得ても、在地で郷士化
                              した者達でも、居座り続ける事も出来えたともいえましょうか。

                拙稿 戦国期 尾張地域に於ける旧 篠木荘に存在した在地武士の系譜と所領 にも記述しましたが、尾張
               地域 特に旧 篠木荘地域の名田主の武士化した者は、確かに存在しておりますが、後々まで存在が知られる
               者達は、ほとんどなく、むしろ尾張地域外から移住してきた者の方が、後世まで残りえているように思えました。

                例としては、春日井市下市場の梶田氏、また明治期に活躍された鳥居松近くの林氏等は、そうした移住組の
               方達の系譜を引く存在でありましょう。在地では、代替わりが起こっていたとも考えられる状況でありましょうか。

                とすれば、現小牧市林地区に多い余語氏等も、移住組の方達でありましょうか。尾張国林・阿賀良村の名主6名
               の下に居る実質名田を耕作している者(例えば 余一左近等)は、開発当時は、田堵層とも取れます。田堵層であ
               れば、一つの田堵は、幾つかの家族を含む大家族であった筈。そうした大家族は、時代と共に分離独立していっ
               たとも考えれば、それ故、苗字を同じにする家々がりんりつし、林地区には、余語姓として残っていったとも推測で
               きそうでありましょうが・・・・。

                                                           平成25(2013)年7月15日    脱稿
                                                           平成25(2013)年8月24日  一部加筆
                                                           
                                   この拙論を書き上げてから、網野善彦著 「日本中世土地制度史の研究」(塙書房 1996年版)に接し、概ね
               内容が合致している事に、意を強くしました。
                                                           平成25(2013)年9月29日  記述
                                                            平成25(2013)年10月24日最終脱稿
                                                           平成25(2013)年11月10日一部加筆