近世初期 武田・徳川氏に仕えた大久保長安(ながやす)の業績と出自についての覚書
1.はじめの
私が、はじめて大久保長安について記述したのは、美濃地方の幕領 笠松陣屋を調べていた時で
あります。
関ヶ原の戦いで、東軍が勝利し、徳川の天下へと大きく流れが確定しつつある時、戦後処理の一環
で、家康子飼いの信任の厚い大久保石見守長安が、笠松陣屋の先駆けとなる国奉行として辣腕を振
るった事が知られます。
「戦後処理が優先され、初期では、職制としては陣屋郡代とか、代官ではなく、国奉行としての美濃
奉行という位置づけであった。それも家康の信任の厚い代官頭 大久保石見守長安 であった。在任
期間は、慶長5(1600)年〜慶長18(1613)年であり、岐阜山下屋町に陣屋を置いた。(岐阜陣屋
と称したようであります。)
まず、幕府直轄領として、木曾山林、飛騨川上流域山林を抑え、その運搬の水運に関する川湊であ
る加茂郡兼山(現 可児市)、錦織(現 八百津町)、土田(どた)村(現 美濃加茂市)、葉栗郡円城寺
村(現 笠松町)を抑えたようであった。そして、東軍に参加した在地性の高い小領主の旧領を安堵し
つつ旗本として召し抱え、小大名をかの地に分散配置し、分割支配した。
また、中世以降発達した美濃紙の産地やら、長良川川湊であった下有知(現 美濃市)、揖斐川の三
湊(多芸郡栗笠、舟付、島江)、美濃の中心地 岐阜を抑え直轄領とし、支配体制を整えていったようで
ある。
その後、直ちに検地(石見検地)を行い、石高制の基礎を整えていくのである。
しかし、長安死後、長安家の財力は、幕閣内の権力争いの過程で、長安のかの地での不正等が発覚
し、一族郎党処断されてしまったという。」 ( 幕領陣屋と代官支配 西沢淳男著 参照 )
別の書籍では、「大久保長安は、日本の金山・銀山(石見銀山・佐渡金・銀山)の採掘から鉱山経営の
施策に関わり、日本全国の街道・海道整備を行い、交通網を確立したとも書かれ、近世の流通革命とも
いいうる大変革の先駆けとなったという。」 ( 渡来の原郷 −白山・巫女(ムダン)・秦氏の謎を追ってー
前田速夫・前田憲二・川上隆志共著 参照 )とも記述されていた。
2、大久保長安の出自と仕官について
長安は、天文14(1545)年 猿楽師大蔵太夫の次男として生まれたようであります。幼名は、藤次郎、
後に十兵衛と改名したという。
『当代記』には、「石見守ト云フハ、甲斐国武田ニ住シタル大蔵大夫道入子末子也」とあるように、軽蔑
されていた猿楽師の生まれというのが、通説であるようです。
金春宗家蔵『大蔵太夫家系図』、『大蔵太夫相伝次第』によれば、大久保長安には、兄がおり、能楽の
後継者であったが、兄の死後に長安が金春傍系である大蔵太夫の正統な後継者となったようであります。
『金春正統並大蔵系図』にも、秦長安と記載されており、秦氏に繋がる狂言方猿楽師の出自であったよ
うであります。
参考までに、かの世阿弥も秦姓で、本名は秦氏安であるというようでありました。
1564年頃、父に伴われ猿楽師として甲斐の武田家に赴く。のち武田信玄に認められ、士分に取り立て
られたようで、武田家の譜代家老土屋直村から土屋姓を授けられ、土屋姓を名乗ったという。
その後、長篠の戦で、兄が戦死し、長安自身が蔵前衆として武田家の民政に携わり、有能な行政能力を
発揮したという。特に、甲斐の黒川金山の開発に関わった事が、後の長安の金山・銀山開発に生かされた
ようであります。
武田家滅亡後は、どのような事情で、徳川家康に仕える事になったのかは、謎に包まれていますが、仕官
がかない、徳川譜代の重臣 大久保忠隣(ただちか)の庇護を受け、大久保姓に代わり、以後は、大久保長
安と名乗ることになったようであります。
家康の関東入国に伴い、長安は、代官頭となって、八王子へ赴任し、そこで、代官頭として財政・交通・産
業などの創業期の地方支配に活躍。特に石見検地(大久保長安実施)は、非常に正確なもので、一気に財
政は、豊かになったという。
街道の整備、東海道や中仙道に一里塚をつくり、宿駅制を設ける。また、海運ルートの構築をもしたという。
例えば、紀州・新宮から佐渡の小木湊まで、船で木材を運ぶというルートを作った事は、その一例であるとい
う。
時期は前後しますが、慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いののち、大和の代官となり、翌年石見の銀山奉行
となり、甲州流の採掘法をこの地にもたらし、積極的な銀山経営をしたという。この功績を認められ、慶長8年
に従五位下石見守に叙せられたようであります。
この石見銀山で盛んとなった銀の灰吹法(朝鮮渡来の技術で、銀鉱石と鉛を溶融して鉛と銀の合金をつくり、
それを、灰を敷き詰めた床の上で熱し、鉛を灰に吸収させ、銀を分離する精錬法)でありますが、最初は、銀
鉱石を朝鮮まで運び、朝鮮で精錬して日本へ持ち帰っていたようですが、博多の商人の暗躍で、その精錬法
を盗み、持ち込んだようであり、こうした鉱山へ博多の商人が関わりを持つようになったのもこうした事情が、
あったのでしょう。
また、政略結婚を巧みに行い、自らの地位を確固たるものにもしたという。
長安の特筆すべき事柄は、その豪奢で派手な生活ぶりであるという。例えば、佐渡の金山奉行として任地
へ赴くとき、その道中はとんでもなく派手なものであったという。慶長9(1604)年の記録によると、130人と
も250人ともいわれる遊女や猿楽師、芸能民を引きつれ、宿駅ごとに乱舞酒宴をしながら佐渡までやって来
たという逸話まであるようです。
また、こうした鉱山は、治外法権的な自由さがあり、こうした土地には、キリシタンやら無法者が隠れ住む地
ともなっていたようで、そうした記録が各鉱山には残っているようであるという。
家康の信任の厚かった長安も、晩年、病気を患って亡くなると、事態は一変、亡くなった数日後、突如として
生前の金銀の隠匿、幕府転覆の陰謀露見を理由に子ども7名が死罪、百万石とも云われた多額の蓄財もす
べて没収。何とも不可解な裁きを受けたようでありますが、こうした裁きの真因は不明であり、長安の奔放な
性格、巨大な在地支配と財力、西国大名への接近を危惧した家康の政治的な措置ともみなされるようでもあ
ります。
まことに興味深い事ではありますが、佐渡には長安の逆修塔(生前につくる墓)があり、この塔は、長安死後
幕末まで、荒縄で縛られていたという事であります。
この覚書の大筋は、「渡来の原郷 −白山・巫女(ムダン)・秦氏の謎を追ってー」 前田速夫・前田憲二・川上
隆志共著に負う所大でありますことをお断りしておきます。