鎌倉期末期以降か? 篠木荘内に於ける在地市場(いちば)開催について

           1.はじめに
             現 内津川は、現在 春日井市出川町で、二股に別れ、一つは、現 春日井市大留町を真南に流下し、庄内川へ
           合流し、もう一方は、現 春日井市下市場町南側を庄内川に平行して流れ、中央線神領駅と南城中学校の間を抜け、
           金ケ口池から流れ出す沢水の流れが、下市場町( この地名は、鎌倉時代の市場開催場所であろうという。この辺りに
           は、曽根、中曽根、宮曽という古い地名もあり、こうした地名は、川原とか山場に多いという。こうした川原は、市<イチ>
           を開催するには、格好の場所であったという。川運を使った商品の運搬に便利であり、積み下ろしによいからであろう。          
            詳しくは、JA尾張中央 広報誌 2011.12月号 「下市場にぎわう」 入谷哲夫氏の記述を参照頂きたい。 
               http://www.ja-owari-chuoh.or.jp/about/pdf/fureai-201112.pdf  参照 ) を通り、現 春日井市篠原小学校の
           北西域に沿って流れ、この金ヶ口の沢水は、この辺りで、内津川に合流し、中央線を横切り、その後中央線春日井駅南
           の上条町5丁目辺りで、庄内川に合流しています。この金ヶ口池からの沢水は、また、地蔵川へも流れており、過去の流
           れは、どのようであったのでしょうか。

            更に、入谷氏のこの記述の元になったのは、春日井市遺跡発掘調査報告書 第9集 1994年(網野氏が関わってみ
           える発掘)であるようで、この下市場の遺跡等は、鎌倉時代と記述されていた。この下市場の発掘は、区画整理後、住宅
           に生まれ変わる為の発掘で学術調査であったし、昭和61・62年度の2回行われたようであります。

            そこには、敷石遺構と二つの掘立柱遺構があり、ここに、市場神を迎え、安全と繁盛を祈る屋根つき神屋跡と商品を並
           べる市屋(いちや)か宿泊所跡ではないかと入谷氏は推測されたのでありましょう。この敷石を取り除くと、古い土坑の一
           面に、灰、炭化物が検出されている。ここは、当初から石が敷かれていたのではなく、一定期間の掘り込み面で、火を用
           いた何等かの行為が、行われ、その後、石が敷かれた事が確認された。

            この第9集の下市場中世遺跡の結びでは、「今回検出された鎌倉時代の敷石遺構は、非日常的な要素が強く、集落に
           伴う祭祀的な場であった可能性も考えられ、当遺跡において日常生活で、一般の人々が余り使用しなかった青・白磁が
           多く出土している点から、近くを流れる内津川を利用して物を運び、市(いち)が開かれ、又祭事と市が結ばれた遺跡では
           ないかとの指摘も網野善彦氏よりなされている。」 と記述され結ばれていた。この遺跡の報告は、最終報告であり、第1
           次の発掘後にも、報告書が出された可能性が高いのでありますが、私は、まだ拝読しておりません。

                          中世の交易については、勝俣鎮夫著「日本の社会史」第4巻 岩波書店 1987年 の『売買・質入と所有観念』 にお
           いて勝俣氏は、市(イチ)を「他界との境界領域としての神の示現する聖地」ととらえ、「そこに立てられた市での売買などの
           交換行為そのものが神々を喜ばせ、祀ることに通ずる」という観念のあった事を指摘している。こうしたことから、下市場          
           の市場には、市場神が祀られていたのでしょうか。後に市庭(いちば)税・交易税が徴収されるようになるのも、こうした観
           念を背景に、最初の交易を初穂料として、神に捧げる習俗の延長の結果であるという事のようであるという。故に、交易の
           初発は、神や仏の直属民しか関われなかったという経緯があるという。まるで、ヨーロッパのプロテスタント教徒の初発の
           交易とよく似た状況であると思えます。                    

            話を元に戻しまして、「出土品では、九州長崎県西彼杵郡(にしそのきぐん)の窯で焼かれた石鍋が出土したようで、網
           野氏によれば、非常に珍しく、東海地域では、ここだけから現在出土しているという。」(この記述も、第9集の報告書には、
           ありませんでした。どこから入谷氏は、入手されたのでしょうか。・・筆者注) これが、事実であれば、遠隔地商業が、既
           に成立している頃の市場ではありましょうか。とすれば、特産品がこの当時には、出来つつあった頃の製品でありましょう。

                          更に、出土日用品の陶器は、瀬戸や美濃の陶器ではなく、知多・常滑系の陶器であったという。とすれば、この陶器の
           作製された時期は、「尾北古窯祉群が最盛期を迎えたのは、8世紀〜10世紀にかけてであり、発生は、6世紀まで遡る
           事ができるとも記述されております。しかし、11世紀末からは、原料、陶土と燃料の不足により、大物の焼き物、次に小
           物の焼き物生産は、渥美半島や知多半島へ移り、篠岡窯の使命は終焉したと言えます。」( 小牧市史 参照 )という事
           から、11世紀末以降の製品である筈。やはり、鎌倉期以降であり、特産品・遠隔地商業であれば、鎌倉期の初めではな
           いようにも感じます。やはり末以降の市場でありましょうか。

          2.下市場は、篠木荘内の荘内市場か
            篠木荘は、江戸時代の篠木33ヶ村であり、<張州府志によれば>  野口、大山、大草、下原、関田、城内、名栗、下市
           場、神領、下大富、足振、久木、神明、出川、松本、外原、玉野、高蔵寺、白山、庄名、上野、和泉、一色、神尾、明知、西
           尾、迫間、内津、桜佐、牛毛、野田村の計 34ヶ村であるとも記述されています。

            現在の春日井市東部地域と小牧市東部地域の範囲のようでありましょうか。河川で言えば、大部分は、庄内川へ流入
           する内津川流域であり、庄内川右岸流域であり、僅かに八田川・大山川源流域を含む地域であると言えましょう。

            領家は、皇室であり、鎌倉期には、既に本補地頭が任命されていた(吾妻鏡 参照)ようで、この市場が開催されてい
           た頃の地頭は、鎌倉 円覚寺であったでありましょうか。円覚寺が、正式に地頭請を鎌倉幕府より認可されたのは、永仁
           5(1297)年3月7日であった筈。その際の契約は、「地頭方は、10月中に年貢190貫文を京都まで、進済する事」であり、
           やはり定額請けであり、銭納であった。領家は、1285年からは、後深草院妃 東二条院(藤原公子)領であったでありま
           しょうか。地頭は、尾張富田荘と同様であり、上部構造は、ほぼ同様であろうと推察されます。

            「荘園の商業」 佐々木銀弥著では、「著者によれば、手工業の段階は、給免田制手工業ー>庄内需要に応じた小商品
           生産の手工業ー>広域・遠隔地市場を対象とした特産地手工業の段階であろうとされている。」そして、二段階目は、13・
           14世紀頃を想定され、広域・遠隔地市場を対象とした特産地手工業は、最終段階であり、少なくとも14世紀以降の出来事
           ではありましょうか。下市場からの出土品には、豪華な青磁(中国からの貿易品か)もあり、一般農民以外の在地領主層(
           地頭・荘官・有力名主)を主に、日常品の交換等に一般農民も参加していたと推測出来ましょう。この下市場から篠木荘内
           は大よそ直線距離にして 5Km圏であり、日帰り出来る所であり、下市場から、大曽根までは、直線距離で約10Km位で
           しょうか。

                           こうした出土品から類推するに、青磁(日明貿易での品)・九州地域の石鍋からは、遠隔地商業に関わる商人や水陸運送
           に従事する者の姿を、日用品としての知多半島産の陶器からは、荘外からの在地商人の姿を連想する。庄内川下流の現 
           大曽根も、庄内川の川原を連想し、市場が開かれた所であったのでしょうか。そして、荘内の地頭・荘官・一般農民等が、こ
           の下市場へ、参加し交換していたのでありましょう。その後、何らかの理由で、この篠木荘内の下市場という在地市場の存
           在理由が無くなり、消滅したのか、洪水等により突然消滅したのかは、分かりませんが、これ以後、名称のみ残して忘れ去
           られてしまったと言えましょう。

                          参考として、近世初頭戦国期末頃の美濃国美濃茶碗等を作る陶工等は、自ら製品を運び、販売していたようで、商人と呼
           ぶ小売商を利用していなかった。「この当時は、野武士等もいて略奪の危険がともすれば伴っていた。自ら武器等を所持し、
           正規の武士集団とも互角以上に戦う力を有していた。」(可児市史 参照)という特殊な時代でありました。とすれば、日用品
           としての知多半島産の陶器からは、荘外からの在地商人の姿をと、記述しましたが、この商人は、或いは、陶工等とも解す
           る事ができるのかも知れません。

            「もしかして、小牧市大山地区の山中での平安期 11世紀末から12世紀にかけての金属溶鉱炉跡、そして残滓の存在。こ
           れらは、佐々木銀弥著「荘園の商業」で述べてみえる庄内需要に応じた小商品生産の手工業の跡と位置づけられるのでは
           ないかと。
            そして、小牧市大草地区に残っているであろう政所名や古い給田名の地名の存在。これらは、給免田制手工業の跡とも解
           釈できうるのでは、とすれば、すべて結びつけられる事柄ではありましょう。

            春日部郡の郷として存在し、大草辺りに郷衙の役所の存在を想定しうるのではないかとも推測いたしますが、どうであろうか。
            そして、鎌倉期以降においては、この大草の給免田制手工業者は、商品流通市場の展開と共に自立の道か、消滅の道を歩
           んでいったのでは。」( 大胆な推測以外の何物でもありません事をお断りいたしておきます。)
         
            さて、この篠木荘の地頭請の円覚寺の初見は、13世紀末からであり、やはりこの下市場が開催されていた頃は、地頭は、
           円覚寺であったのでしょう。

                          * 史学雑誌 第61巻 第3・4号に、「出土銭蓄銭と中世後期の銭貨流通」 鈴木公雄氏の論述がありますが、流通貨幣の
            編年私案が記載されている。それによると氏は、流通過程を8期に編年され、その指標に初期鋳造の南宋やら元・明国の
            貨幣から編年され、文献史学の事実を当てはめ、下記のようにされていた。

                第1期 13世紀第4四半期を中心に南宋の”咸淳元宝”乃至”皇栄元宝”が流通。
                第2期 14世紀第2四半期を中心に元の”至大通宝”(1310年初鋳)を指標に
                第3期 14世紀第4四半期を中心に明の”洪武通宝”(1368年初鋳)を指標に
                第4期 15世紀第2四半期を中心に明の”永楽通宝”(1408年初鋳)を指標に

                  以下略 詳しい事柄をお知りになりたい方は、インターネット上にも、「出土銭蓄銭と中世後期の銭貨流通」 
                 鈴木公雄氏の論述がアップされています。参照されたい。

              更に、インターネット上には貨幣史研究会(東日本部会)第10回 平成14年7月19日(金)13:30〜17:00の要綱と
             座談会記録がアップされている。( 詳しくは http://www.imes.boj.or.jp/japanese/kaheikenkyukai/giji10.pdf 参照)
              古代の貨幣と中世の貨幣の断絶らしき事柄が知られ、皇朝12銭(奈良時代以降平安期まで)の流通は、畿内経済圏止
             まりか。全国的ではなかったかのようで、平安末期以降南宋貿易頃から銅銭の輸入により、全国的に広まったかのようで
             す。
              また、座談会では、古代は、米1石=銭1貫文であったようです。

                               * 参考ですが、室町中期頃の米相場についての記述があります。{「荘園の商業」 ( 佐々木銀弥著 吉川弘文館 昭
              和39年版 )のP.231に、「矢野庄 那波浦市(いち)における米和市(こめわし)=相場は、東寺の下行桝(京桝とも
              違う、商品流通専用の桝カ)一石当たり600文前後で停滞していたという。一方京都の米和市は、次第に上昇し、永享
              10(1438)年には、最高値 一石当たり1貫429文に達したという。」( この事例は、史学雑誌 66−1 百瀬今朝雄
              氏の研究成果から引用されたという。)事のようであります。
                                 この当時でも、田舎は物価は安く、都会ほど物価は、高いようであります。*
                            
              現在までに全国から出土した上記蓄銭の分類等により、鈴木氏は、全国に通用する編年案を私案として提起されたよう
             です。

              とすれば、鎌倉末?の尾張国篠木荘園内での市場では、鈴木氏の編年私案を参考にすれば、第2・3期頃でありましょう
             か。南宋・元の銅銭が、この地でも使用された可能性が高いのでは・・・。円覚寺が、篠木荘分として京へ送った銅銭は、1
             貫文の束190束であったのでしょう。この下市場でも、現物貨幣(米・糸・絹等)で、必需品とを交換したのでありましょうが、
             その交換には、仮想銅銭での換算が、行われ、等価交換方式が取られていた可能性は高いのでは・・。必需品がなければ、
             銅銭にて支払いを受けた場合もあったのでは・・・。主は、番衆・名主が、篠木荘内にいたとすれば、銭納の必要から、現物
             を出し、銅銭にて受け取っていたかも。*

            この篠木荘ではありませんが、同じ鎌倉 円覚寺が地頭請けの荘園であります、尾張の富田荘( 現名古屋市中川区と海
           部郡大治町とその周辺 )は、鎌倉市史に史料編があり、内部構造が知れるという。
            ( 富田荘の絵図を基に考古学的研究報告もあります。詳しくは、愛知県埋蔵文化センターによる発掘調査報告書を参照
           されたい。http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo05/0505chuk.pdf   )
               
            まず、富田荘の地頭職は、北条時宗により円覚寺に13世紀末頃寄進されたようで、既に弘安6(1283)年には、富田荘
           から収益があがっていたようです。
             「 年貢米 1428石8斗 年貢銭 1506貫868文 」 ( 鎌倉市史 史料編 2の13・14号文書 参照 )
            ちなみに、円覚寺の創建は、弘安5(1282)年であり、「円覚寺が1年間に用いる米は、1374石7斗 寺用銭は、17
           45貫文」( 鎌倉市史 史料編 2の13号 円覚寺年中寺用米・銭注進状 参照 )であったという。

            円覚寺は、ほぼこの富田荘の収益のみで、遣り繰りが出来ていたようです。そして、再度45年後、嘉暦2(1327)年5月
           18日 地頭円覚寺と領家雑掌 有宗との間で地頭請所の契約が結ばれたようです。
            契約の内容は、「地頭方が、毎年11月中に請料 110貫文を京進する事」であった。(定額請けであり、全てが、銭納に
           なっているようです。以前の契約は、不明。)
          
            {「 円覚寺米銭納下帳」(鎌倉市史 史料編 2の14号文書 弘安6年9月27日 )にても、知る事ができる。
            地頭方では、そこに政所(まんどころ)なる役所を置いていたようであります。政所とは、地頭職の保持者たる円覚寺が、
           代官を現地に下向させ、駐留させておく所のようで、この政所は、鎌倉 円覚寺の現地での伝達機関に過ぎなかったよう
           で、実質の荘務権を伴わない代官であったと思われるという。荘務は、鎌倉円覚寺の都聞・行事が取り仕切り、現地代官
           は、伝達機関であったのでしょう。政所は、富田荘内 元横江郷名主跡屋敷を利用し、田 1町が給付されていたと思われ
           ます。僧の身分であったのでしょうか。

            そして、実際の実務は、田所(兼 公文)と呼ぶ機関の担当者が行っていたようであります。在庁官人の成れの果て的
           存在やも知れません。また、11世紀中頃以降にできた国衙の新しい行政機関も同様の名称(田所)であったようでした。
           また、国衙には、庶務にあたる所を政所とも言う事があったようであります。

                          とすれば、大草には、国衙の出先機関である郷衙が存在していたか、地頭方の政所が存在していたのかも知れません。

            下部構造は、名主16名。併せて12町8段40歩、番衆20名には、雑免田20町と記述され、この雑免田{日本の古代末
           期から中世にかけて、国が規定の課税を徴収する のを免除する田地。国衙に納める官物・雑役のうち、雑役を免除され
           て官物だけを 納める田地を雑役免田(ぞうえきめんでん)}には、町別2貫400文外無別役と記載されている。名主につい
           ては、特に別注もなく、全ての役が付いていたのであろうか。番衆には、これ以外には特に役無しとされ、名主とは、差異
           があるようであり、番衆は、何らかの耕作に中心的な役割があったのだろうか。
            名主は、単独で耕作をする農民であったのかも知れません。

            * 参考までに、番衆20名の納める銭は、町別2400文ですから、一人当たり雑免田1町が宛がわれている筈。とすれば、
            2400文×20(町 番衆分)=48000文(番衆 20名分の役分に相当。これ以外別役無しであるようですから。)同様に
            田所分は、2400文×10町分=24000文 合わせて72000文を出せば、雑徭に相当する役は、無いという事でしょう。
             富田荘からは、年貢銭 1506868文 (この分は、糸・絹に掛かる年貢銭。古代では調<諸国の産物>分であろうか。)
                           実質は、加増分(291貫662文分)がありますから1215貫206文であったかと。

                      年貢米 1428石8斗(但し除く賃米 賃米分は、石に付き3升分とか。)実質年貢米は、X(1−0.03)=
                            1428.8になりましょうか。計算すれば、1472石9斗8升9合5勺になりましょう。賃米(加古
                            米=運送賃)は、44石1斗8升9合6勺でしょう。計算方法が正しければですが・・・。

                         但し 番衆一人当たりの雑免田は、1町。名主は、一人当たり約0.8町カ。田所(兼公文)は、雑免
                           田 10町。ここからの年貢米が、1472石9斗8升9合5勺となるのでしょう。総田面積は、約49
                           町とすれば、単純計算で一町当たり 1472.9895(石)÷49(町)≒30.061石(約30石相当
                           でしょうか。)

                            いったい、13世紀末頃の田 1町当たりの生産量は、どの位であったのでありましょうか。30石
                           をどれ位越えていたのでしょう。江戸時代では、成人一人当たり1石で、1年分相当であったようで
                           すから、雑穀類が主の食事であったとすれば、この当時の名主と言えども、米を食す事はまれであ
                           ったかも。田地の麦には、税は掛からなかったようですから、二毛作が可能であれば、畑以外でも
                           作っていた可能性がありましょうか。・・私が独自に資料にあたり解釈した部分です。*

            {この富田荘では、建武の新政時、国衙領は、地頭請の裁可が下りなかったという。足利政権になり、鎌倉期のような地頭
           請の裁定が下されたという事であり、国衙領を含む荘園であったのでしょう。
            とすると、12ヶ所の里(新しい国衙機構の郷の区分カ)の部分は、元国衙領であったのでしょうか。・・・筆者注}
                
            地頭方の田所の担当者には、給田が、3町(領家雑掌が、荘務請負契約の際、下地進止を認めた分であろうか。)と、
           更に雑免田 10町(町別 2貫400文を弁済すれば、その外の別役なしという田)が与えられていたようです。}( 以上の内
           容は、「尾張国内 円覚寺領について」 大三輪龍彦著 学習院大学所収 からの抜粋内容であります。詳しくは、下記 UR
           Lにて参照ください。   http://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/902/1/shigaku_5_39_55.pdf   )

            ところで、この荘園の田所(兼 公文)の役割は、「荘園内の用水の整備、田の割り振り・勧農等の雑務・年貢米・年貢銭の
           徴収等。・・・筆者注 」 であっただろうか。

            篠木荘も鎌倉 円覚寺の地頭請けの荘園であり、内容は、ほぼ同様であったのでしょう。年貢米・年貢銭等については、       
           分かりませんが、円覚寺の冨田荘からの収支に不足があれば、この篠木荘から補充をしたでありましょう。

                          では、篠木荘の地頭方の政所は、どこにあったと考えればいいのでしょうか。

            入谷氏は、「下市場にぎわう」に於いて、春日井市関田にあったのでは、と推測されておられますが、私は、小牧市大草
           にあったのではとも考えるのであります。

            それには、次の記述が、そうではないかと推察いたします。
            JA尾張中央 広報誌 ふれあい 2010.5月号に掲載された入谷哲夫氏の「大草に小国家あり」と題する小論に現 
           小牧市一之久田の小針には、小字名であろうか、地名に、政所・土器田(かわらけだ)・鏡田(かがみだ)・一色田(いっし
           きだ)というのがあるという。政所は、政治を司る所。土器田は、祭器を焼く者に与えられた田でしょうか。鏡田は、神に捧
           げる鏡を造る者に与えられた田でありましょうか。一色田は、刀剣を造る者に与えられた田と理解すればいいのでしょうか。
            こうした給免田は、郷衙に奉仕する手工業者に宛がわれていたのではないかと推測いたしますが、どうであろうか。

            同様な所が、大草にもあったと大草在住の落合さんという方が、言われたようであります。(詳しくは、JAの広報誌を参
           照下さい。 http://www.ja-owari-chuoh.or.jp/about/pdf/fureai-201005.pdf であります。)

            とすれば、かなり古い時代のイメージのようでありましょうか。入谷氏は、小国家の頃、後期古墳の時期と推測されて
           いるように思える。しかし、この小針から約1.5Km東方向に南外山東浦遺跡等が存在している事も知られるのでありま
           す。

               「南外山東浦遺跡
               縄文時代中期(約5000年前)から中世(鎌倉・室町時代)にかけての遺構・遺物多数が発掘確認されました。
                    平成13年に、弥生時代中・後期(紀元1〜3世紀頃)の土器が出ており、黒曜石、下呂石も溝から出ている。
                    古墳時代初頭(紀元4〜5世紀)の溝の埋土からは多数の土師器が出土しました。出土した小型壺の底に孔が開けてあるものがあり、
                   これは、お墓に供えたり、祭祀を行う際に使用される土器の特徴であることから、この溝が墓(周溝墓)の一部である可能性が高く、古
                   墳時代初頭には、この周辺が墓域であった可能性があります。平成14年(第2次調査)に、方形周溝墓が3基みつかっています。
                                             平安時代の柱穴、溝、井戸などの遺構と須恵器や灰釉陶器などの遺物も多数発見され、掘立柱建物と塀または柵列が確認され
                                           ました。特に注目されるのは、堀形のある柱跡が見つかったことです。これは、寺院や官衛(古代の役所)を建てる際の建築技術で、
                                           この遺跡は、単なる集落とは異なる性格・役割のもので寺院や役所が存在した可能性もあります。
                   ( この遺跡は、名鉄小牧線 間内駅南西寄りにあります。)

                   .内方前遺跡                   
                    弥生時代末から古墳時代後期に属する竪穴住居14軒が確認されました。詳細は、弥生時代末期から古墳時代中期(3世紀前半
                   〜4世紀後半)のもの10軒、古墳時代後期(7世紀)のもの2軒、時期不明のもの2軒です。また、土坑36基も確認されています。こ
                   のことにより、古墳時代には、途中空白期間があるものの、この地において集落が営まれていたことが分かりました。 」

            この辺りの遺跡は、古墳時代の初頭・中期・後期と存在している事が知られる。小国家が存在していたのでしょうか。
            しかし、古墳は、築造されてはいなかったとも言えましょう。発掘されていないだけであるかも知れませんが・・。小針
           には、大山川に流れ込んでいた中江川が流下している。とすれば、弥生期の遺跡が存在する条件は満たしてはいると
           言えましょう。
            その当時、この辺りは、氾濫源であったのでしょう。平成の区画整理の際、当時の遺跡等々が、発掘され、現代に蘇
           ってきたようです。そして、洪水の為か、埋没したり、壊滅状態になったようでもあります。

            注目して頂きたいのは、「平安時代の柱穴、溝、井戸などの遺構と須恵器や灰釉陶器などの遺物も多数発見され、掘立柱建物と塀または
              柵列が確認されました。特に注目されるのは、堀形のある柱跡が見つかったことです。これは、寺院や官衛(古代の役所)を建てる際の建築技術
              で、 この遺跡は、単なる集落とは異なる性格・役割のもので寺院や役所が存在した可能性もあります。 」 という部分。
            この辺りは、かって、春日部郡山村郷と呼ばれ、天武朝(7世紀後半)頃の地域であった所であります。そして、平安時
           代の遺構である、寺院か役所の存在を想起させる遺構の出現。官衙であれば、郷衙でありましょうか。

            しかし、政所という地名については、小国家にそのような役所があったのであろうか。寧ろ平安期頃の荘園制下での
           地頭職の地頭側の役所名或いは国衙の庶務も同様な言い方で呼ばれていたとも聞く。また、こうした古い言い伝えの
           給免田の地名は、隷属的手工業者への給田であった可能性もあり、こうした土地は、国衙乃至は領家の直営田として
           後々まで残る可能性を秘めた土地であったと推測できるのであります。(あくまで、大胆な推測でしかありえませんが・。)
               
            そう考えれば、小針にも、郷衙乃至地頭の役所があったとも、かっての春日部郡山村郷辺りに郷衙の役所が、牛山
           にあったと解せるのでは。それならば、篠木荘の地頭である円覚寺の政所は、大草にあった。或いは、官衙の役所が
           あったとも言う事は可能性は、ゼロではない筈でありましょう。

            そうした推測は、大久佐神社には、かって言い伝えではありますが、平家と源氏の最後の戦い 「壇ノ浦の戦い」で、三
           種の神器と共に沈んだという安徳天皇とその乳母から譲り受けたという神器の一つが、奥深くしまわれていたという秘話
           もあるとかないとか。その実物を、篠木荘の領家方の所有者が、検分したとかいう事まで言い伝えられていると言う。

            この大久佐神社を再興したのも、源氏であるという由緒もあり、源氏ゆかりの地でもあり、鎌倉 円覚寺が、政所を置く
           にふさわしい場所では、なかっただろうか。

            この大草にある現 大久佐神社は、現 福厳寺がある所で創建されていたという。( 小牧市史 通史 P.610 参照 )
            戦国時代の頃、大草に移住した城主 西尾 某氏により、現在地に移され、その地に、西尾城と、現 福厳寺が、創建
           されたようです。

            参考までに 大久佐神社の創建は、貞観13(813)年であるとか。由緒のある神社でありましょう。神事等も盛んであっ
           たようですが、桃山時代(豊臣時代)に社領が没収され、神事も絶えたとか。田楽の伊多波刀神社もその可能性があり、
           牛山に於いても、{ 古老口碑として、「牛山村は、古くは宇多須村と称し、うち片山に大社が鎮座していた。元亀(1570
           〜1572)年間、この神社の守護人 玄殿がいたが、秀吉により放火され、社蔵の縁起書等や玄殿の家屋も焼失、彼の
           子孫の事も一切不明なってしまったとも尾張地名考には、付記されているという。}                  

            関田にしろ。大草にしろ、この広い篠木荘内を一つの役所のみで監督しえたとは思えません。本役所やら支所等があり、
           地頭方で言えば、田所(兼 公文 いわゆる荘官)の下に、意のままに動く所従のような輩が、各所に配置されていたので
           はないかと・・・。

            今一度、鎌倉市史 史料編の円覚寺関係文書の詳しい検討が必要であるのかも知れません。
            参考文献については、その都度文中に記載しておりますので、省略いたしました。

                                                       平成25年5月末頃 脱稿し、一部加筆
                                                       平成25(2013)年8月29日 一部加筆
                                                       平成26(2014)年9月21日 一部加筆