馬之塔(おまんと、或いはおまんとう)と小牧市野口・大山地区の関わりについて

           1.はじめに
              「守山区吉根にある龍泉寺(天台宗)は熱田神宮の奥の院ともいわれ、馬頭観音を本尊としています。
              伝教(でんぎょう)大師が池から出現した馬頭観音を祀ったという伝承があり、尾張四観音に数えられます。
             明治初期まで、棒の手奉納が盛んでしたが、現在は行われていません。
              もとは5月18日に馬の塔が行われていましたが、明治以降10月18日になりました。
              篠木庄33箇村(現春日井市)からなる篠木合宿はもともと熱田神宮に献馬していましたが、永禄年中(1560頃)
             以降龍泉寺へ変更しました。」 (「おまんと」と「棒の手」より抜粋致しました。)詳しくは下記 URLを参照下さい。                   
                  ( http://www.geocities.jp/shimizuke1955/313omantobounote.html )

              上記の記述からは、おまんとは、初発は、熱田神宮への献馬であったようです。自然発生的にこのような事が、
             行われてきたとも聞く。

              おまんとが行われてきた、こうした地域は、平安期 篠木荘と呼ばれ、篠木33ヶ村であったようでありますが、
             <張州府志によれば> 、 野口、大山、大草、下原、関田、城内、名栗、下市場、神領、下大富、足振、久木、
             神明、出川、松本、外原、玉野、高蔵寺、白山、庄名、上野、和泉、一色、神尾、明知、西尾、迫間、内津、桜佐、
             牛毛、野田村の計 34ヶ村であるとも。
              小牧市野口・大山等は、平安時代は、篠木荘であったようで、更に奈良時代には、春日部郡に繰み込まれて
             いたと推察出来ます。この小牧市の野口・大山近辺は、北側のお隣丹羽郡と接していたようで、小牧市林地区
             には、丹羽郡の大縣神社の祭神が、三明神社に分神され、祭られており、二ノ宮領であったとも言う。春日部
             郡司が、二ノ宮へ寄進されたのでありましょう。詳しいことは、入谷哲夫氏によるJA尾張中央広報誌 ふれあ
             い 2012.11月号 林村と三明神社と を参照下さい。下記のURLに記述があるようです。
              (  http://www.ja-owari-chuoh.or.jp/about/pdf/fureai-201211.pdf )

              「林地区・その隣の地区(おそらく池ノ内地区でありましょうか。)の名田主が、連名で地頭 鎌倉円覚寺への請
             文(誓約書)として、鎌倉時代末期、元享2(1322)年6月27日付で出されたようであります。」( 春日井市史・小
             牧市史 参照 )

              また、その請文には、「当村は、春日部郡司 範俊開発の内たる条異議なく候、但し、彼の跡篠木・野口野田以
             下は、関東御領として円覚寺御管領候といえとも、当村においては別相伝の地として、宴源・浄円等面々累代相
             承し、今に相異なく候」と記述されていたようであります。

              こうして見てくると、篠木33ヶ村が、何故熱田神宮(その当時は、熱田社、或いは熱田神社と呼称されていたの
             でありましょうが・・。)へ献馬するようになったのか、その精神的な支柱が、初発の開発領主たる春日部郡司にあ
             ったのではという類推も可能ではないかと思えます。いわゆる春日部郡司の系譜は、継体天皇の頃、尾張一円を
             支配した尾張連氏に繋がっているからに他ならないからでありましょう。尾張連氏の氏神神社が、熱田神宮に他な
             らないのですから

              参考までにおまんとが実施された愛知県内の分布を示した地図を見てください。 
              (   http://www.geocities.jp/shimizuke1955/313omantobounote.html 所収の地図を借用いたしました。)

                 

              よくよくみれば、愛知県内の尾張地域に集中し、尾張連氏の支配領域内と重なる傾向があるように推察できると
             言えましょうか。或いは、白山神に由来するのかも知れませんが・・。

              その後、篠木33ヶ村のおまんとは、熱田神宮から庄内川右岸、龍泉寺(天台宗)へと永禄年中(1560頃)以降変
             更されたようですが、何故変更になったのかは、不明であります。

              その後、おまんとは、熱田神社系列、猿投神社系列、龍泉寺系列等々へと分化し、収束していったようです。

              {馬の塔(おまんと)とは、「馬の頭」「御馬の塔」とも書き、江戸時代から五穀豊穣・雨乞いなどのお礼として、標具
             (だし)と呼ばれる札・御幣などの造り物を立て、美しい馬具で飾られた馬を1日だけ寺社に奉納するもので、尾張・
             西三河・東美濃地方の代表的な祭礼習俗の1つである。広義には、馬の塔・棒の手・鉄砲隊を合わせてオマントと呼
             ぶ。かつては、村内の神社に献馬する「郷祭」と、村々が連合し大きな社寺に献馬する「合宿」の2種類があり、合宿
             は5〜10年に一度、豊作の年に行われ、熱田・大須観音・尾張四観音(荒子・竜泉寺・笠寺・甚目寺)・猿投神社が
             有名だったが、現在はほとんど行われておらず、馬が山車に替えられたり、飾り物をつけた馬が走る馬駆け神事に
             変わるなど、地域により変容している。室町時代の1493年に行われた猿投山(豊田市宮口)の献馬の記録が史実上
             最古と考えられているから、500年もの間、連綿と受け継がれた歴史を持つ神事であるといえましょう。
              そして、馬の塔神事の時、献馬の護衛に当たったのが「棒の手」という警護隊だった。}とも記述されておるようです。
             (詳しくは、http://www.nihonjiten.com/monogatari/data_13.html を参照されたい。)

              とすれば、それ程古くから行われていた神事ではないようです。事の起こりは、村内の神社に献馬する「郷祭」が発
             端で、その後大掛かりな「合宿」へと変化したのかも知れません。

              私は、春日井市の東部 外之原から岐阜県よりの多治見市諏訪町(通称 小木)で、この棒の手を最初から最後ま
             で通して見学した事がありますが、すっかり諏訪神社の神事となっており、諏訪町在住の大人・こどもが出演して演技
             をしていました。諏訪神社も、何やら白山神とは、繋がりがあるのではないかと推測いたします。
              「美濃国小木村には木曽義仲の重臣今井兼平の墓がある。今井一党は白山神を信仰していたといわれているよう
             であります。」 という記述もありますから。

                     < かって奉納された寺社一覧 >
                       ・  熱田神宮 ( 尾張連氏の氏神 草薙の剣がご神体。)
                       ・  大須観音 ( 元亨4年(1324年)に後醍醐天皇が大須郷(現岐阜県羽島市桑原町大須)に北野
                                 天満宮を創建。元弘3年(1333年)に同社の別当寺として僧能信が創建した真福寺
                                 が当寺の始まりであるという。)
                       ・  荒子観音 ( 宗派  天台宗系、創建 天平元年(729)、開基 泰澄大師 )
                       ・  竜泉寺  ( 延暦年間に伝教大師最澄が熱田神宮参籠中に龍神のお告げを受け、多々羅池
                                 畔で経文を唱えると、池から龍が昇天すると同時に馬頭観音が出現したので、これ
                                 を本尊として祀ったのが開基とされている。
                                  一方、弘法大師空海も、熱田神宮参籠中に熱田の八剣のうち三剣をこの龍泉寺
                                 に埋納したといわれ、これより龍泉寺は熱田の奥の院とされてきたという。天台宗
                                 系の観音寺であるようです。)
                       ・  笠寺   ( 天平5年(733年、一部の文書には天平8年-736年)、僧・善光(または禅光)が浜辺
                                に打ち上げられた流木を以て十一面観音像を彫り、現在の南区粕畠町にその像を祀
                                る天林山小松寺を建立したのが始まりであるという。)
                       ・  甚目寺  ( 愛知県あま市にある真言宗智山派の寺院である。山号は鳳凰山。鎮守として、式
                                 内社の漆部神社(ぬりべじんじゃ、元、八大明神社)があったという。)
                       ・  猿投神社 ( 西暦3〜5世紀には、猿投神社は、創建されていたのでは。神社は、猿投山南麓
                                 にある本宮と山上東峰の東宮、西峰の西宮の3社があり、併せて猿投三社大明神と
                                 呼んでいたそうです。また、猿投神社は、新羅系の須恵器の技術を持った工人とも、
                                 関わりがあると推測され、濃尾の地には奈良朝から平安朝へかけて須恵器古窯の
                                 大群がある事は周知の事でありましょう。これは私が昭和29年、猿投西南麓古窯址
                                 群の存在を指摘したのであるが、続いてその須恵器の工人は、白山信仰を持って
                                 来たのではないかと推論をしたことがある。とも記述する方もあるようです。)


           
おまんとを奉納された社寺には、共通する事柄は、出てきませんが、観音信仰と関わりがあるのでしょうか。それと、篠
            木33ヶ村には、春日部郡の郡司の開発地という共通項があり、熱田神社とも繋がりがあるように思えます。更に小牧市
            野口・大山地域は、天台宗系であり、白山社系とは、天台宗は、何らかの繋がりの可能性があるやに。所で、「郷祭」とし
            てのおまんとが奉納されたのは、15世紀末が最初とすれば、大山寺乃至は尾張白山社のどちらへの奉納であったであ
            りましょうか。
             「尾張白山社は、大永2年(1522)春日井郡所属となり、篠木庄33ヶ村の総社として、祭礼には各村々より献馬が行わ
            れた。」とも記述されています。が、総社という位置付けが尾張白山社であったとしても、献馬が、全て尾張白山社へ奉
            納されたとは、記述されてはいない。
             この頃には、西の延暦寺、東の大山寺と言われた大山寺は、かっての権勢は、無くなり、春日井市熊野町の密蔵院
           (天台宗延暦寺派の中本山)に、その信仰は移っていったようです。開基は、嘉永3(1328)年であったかと。

             とすれば、室町期には、小牧市の尾張白山社が、篠木33ヶ村の総社となり、近世のどこかから5〜10年に一度、熱
            田神社への「篠木合宿」という形での献馬となったのであろうか。通常は、尾張白山社へも献馬が、行われていたと解す
            ればいいのであろうか。そうした大掛かりな献馬は、江戸期の天保13年9月馬順に付き論争を生じ、献馬(大掛かりなカ)
            がやんだと尾張白山社の宮司さんは、記述されているようです。
             しかし、野口・大山のみは、これ以後も献馬を尾張白山社へ五穀豊穣・雨乞いなどのお礼として続けたと言うことであろ
            うか。それとも、龍泉寺への献馬を独自に続けたと言うことなのでしょうか。

             しかしであります、もし、仮に尾張白山社へ33ヶ村よりの献馬がなされたとして、その境内は、狭い。篠木33ヶ村の
            おまんとを受け入れる事は、まず、無理でありましょう。

             むしろ、野口・大山等近隣の村々でのおまんとが、郷祭として尾張白山社へ。33ヶ村の場合は、初期の頃は、熱田
            社へ。こう理解した方が、辻褄が合いそうに思えるのですが・・・。付け足しではありますが、野口・大山のすぐ近く、小牧
            市大草地区に大久佐神社が、現在でもありますが、かっては、この境内で流鏑馬が盛大に行われていたという。馬の塔
            の最終段階の結果ではないかと筆者は、推測しているのですが・・・。また、現在地の大久佐神社は、かっては、桃花台
            よりの斜面近くにあったかと・・。大草の方が書かれた大久佐神社についての書物で読んだことがあるやに・・・。

             また、春日井市内には、白山神社が5社と摂社として白山社を合祀している神社は、境内社としては伊多波刀神社、
            熊野神社等に祀られている。
             また、合祀された白山神としては、菊理姫命が勝川天神社、朝宮社、牛山天神社、五社大明神社等に白山比女命
            が鳥居松の神明社に、白山大権現が神領の三明神社にそれぞれ合祀されている。こうした神社へおまんとが、郷祭
            として行われていたのではないかという事を調べ、確認する事が必要でありましょうか。

             小牧市内にもやはり白山社は存在していたでありましょうから、奉納されていたのかも知れません。調べてみる事
            が必要でしょうか。

             小牧市野口・大山地域の白山山頂にあります尾張白山社の由緒書きに触発されて、雑感としてまとめてみました。