駿河の山奥 江戸時代初期 周智郡領家村の村落構造の一考察
− 周智郡 領家村 奥山家の一部文書を通して −
1.はじめに
江戸時代の周智郡領家村は、静岡県西部地区の北部(北遠)に位置する山深い山村であります。
現在は、天竜川の支流水窪川に沿った形で人家が存在し、中央構造線に沿う盆地になっている所であり、
JR東海 飯田線水窪駅と向市場駅付近の水窪・奥領家集落が、町の中心地であるようです。
水窪川に沿った形で国道152号が敷設されており、北遠から伊那地方へ通り抜けることができるようです
が、特に水窪以北の伊那地方への道は、中央構造線付近の軟弱な地盤もあって、特に県境の国道は青
崩峠によって分断されているようで、車での通行は、?でしょう。歩行での通過は、可能かどうかは、私自
身通った事がありませんので分かりかねますが、事実かどうかは、確かでない、かの武田信玄が、上洛の
おり、この青崩峠を信州側から越えて、三方ヶ原へと進軍したという。案内役は、遠山の領主であったとか。
しかし、現在は、実際、この地域(青崩峠以南の地)は、太平洋側への繋がりが強いように思います。
かっては、伊那地方へ、この青崩峠を越えて、太平洋の塩が、届けられていたとか。詳しい事は不詳です
が、 領家村の中に、向市場と呼ばれる地域もあるようでありますから。中世には、市(いち)が立っていた
のではないかとさえ推測できえます。
また、この地域は、中世の下地中分を髣髴とさせる名称(領家村、地頭方村という名称)も残り、江戸時代
初期でも、その名称を残しており、村境は、水窪川であったと推察できます。
参考までに、荘園志料 下巻 (清水正健編 昭和40年発行 角川書店) P、1369には、山香荘なる名
称で、建久2(1191)年10月の島田文書の内容として記載されていた。
「山香荘の領域は、領家・地頭方・相月・豊田郡大井・佐久間・中部(細字注釈として 以上六村を奥山郷五
村と云う、中部は、佐久間村の分村なり)
浦川・川合・半場・瀬尻・大峯(細字にて、和名抄山香郡大岑郷)雲奈・横山・月・伊須賀・日明(ヒヤリ)渡口(
以上十一村を号して西手と云う)以下略 後白河院長講堂領であったようで、又、奥山荘とも云うようであります。
その長講堂領目六(目録カ)には、遠江国山香荘 年貢糸 240両、綿 2300両、上紙 50両、小紙 7千
帖と記載されている。」という。
江戸時代には、地頭方村・相月村は、水窪川左岸側で、天竜川と水窪川の間に存在する村々であるようで、
幕領であったかと、領家村の奥にある奥領家村も、幕領として位置付けられているようです。しかし、「水窪川右
岸寄りの領家村は、遠州掛川藩領であった。」(本多隆成『近世初期社会の基礎構造』参照)かと。掛川藩は、領
主が、江戸時代を通して何度も度々代わり、安定しなかったようでありますと。
しかし、最新の水窪町史 通史編では、「江戸時代の領家村は、天領であった。」(前掲書 P.234 参照)と
されている。私の記憶している奥山家由緒書きには、名字帯刀御免の家康花押の文書を添えて役所に届けるも
返却が無い事を申し述べていた文面であった。
水窪町史 通史 P.212〜213の奥山家由緒書きは、そうした点の申し述べではなく、免除地 永1貫文
地が下されたとか、戦いに用いた騎旗を所持しているという申し上げ書であった。郷士という肩書きで申し述べ
ているようです。申し上げ書の時期は、寛政11年11月 飯島代官所宛であった。
この領家村の在地には、江戸時代以前より大庄屋として代々君臨していた奥山家が存在し、現在でも存続し、
今なお貴重な資料を数多く残してみえる事と存じます。
今から40数年前、町の歴史編纂事業の一環で、貴重な奥山家の文書を整理する作業に従事させて頂きま
したが、その当時は、しっかりした記録を残せずこの年になり、遣り残した事の穴埋めになろうかと筆をおこし
ました次第です。
その奥山家文書を残す奥山家は、現 浜松市天竜区水窪町小畑地区の山裾にあり、地元では、奥山屋敷
と言われています。その屋敷の上側には、奥山観音堂があり、そこの別当も奥山氏は、その昔、兼ねてみえた
という。その観音堂には、天正14((1586)年の文字が書かれている珍しい面があるようです。この面は、「西
浦の田楽」で使用する面とよく似ているとか。
しかし、この領家村の田楽についての詳細は、明治期に火事と共に消えうせたという事のようでありました。「
西浦(にしうれ)の田楽」は、現在にも受け継がれ、祭日には、催されていることでしょう。私も学生時代の最後に
は、この田楽を徹夜で見ていましたが、不覚にもうたた寝をしてしまい、その様子が、某写真集に出ていると、学
生時代の最後の頃、教えてもらった事もありました。
この地域の近世に於ける最初の検地は、「北遠地方の西手領・奥山領(ほぼ現在の龍山村・佐久間町・水窪
町)の総検地として元和9(1623)年に行われた。慶長9(1604)年には実施されなかった。」(本多隆成『近世
初期社会の基礎構造』参照)というが、私の記憶では、奥山家には、元和の検地帳は、現存していなかった。
現存していたのは、延宝5(1677)年、伊奈備前守による延宝検地帳であった。
2.奥山家と関ヶ原の戦い
関が原の戦いは、1600年の出来事であり、豊臣方と徳川方の天下分け目の大戦であった事は、周知の事
でありましょう。
ご多分に漏れず、この領家村からも、奥山氏を中心に鉄砲を携行した兵士が、徳川方に味方し、出撃した
ようであります。( 奥山家由緒書き 参照 )この当時、家康自身、関ヶ原では、勝利を確信しつつも、万が一
も想定していたのでは・・。それ故、こうした山間僻地の援軍にも、目を配り、戦後、花押の入った書付を渡した
のでしょう。
徳川方の大勝利となり、総大将 徳川家康よりその論功により、家康花押入りの苗字帯刀御免という書付の
お墨付きを貰った奥山家であったようです。
この家康花押の書付は、代官所の申し出により、奥山家から家康死後江戸幕府が安定期に入った頃役所に
届けられましたが、本物という判断がされないまま、そのままお墨付きは、召し上げられてしまったようでありま
す。
おそらく、この書付は、本物であったでありましょうが、江戸幕府の方針とはいえ、認める訳にはいかない時代
の流れであった事が関わっていた筈。このお墨付きを召し上げられて以後、何度となく、代官所へ奥山家より返
却依頼がされていたようですが、代官所からの返答は、無しのつぶてであったかと・・・。
こうした由緒書きから類推すれば、江戸時代初期頃までは、この領家村には、農業に従事しながら、譜代と呼ぶ
戦時下には、兵士として従軍する農民が、この奥山家には、存在していた事が、類推できます。それが、関ヶ原の
戦いに参加できえた事に繋がりましょうか。いわゆる兵農分離が、近世に至ってもこの地域では、未分化であり、在
地には、郷士的な存在として存続していたのでありましょう。
得てして、生産力が低位な山間部においては、私が生まれた多治見市平和町(旧 脇之島)地区に於いても同様
で、近世初頭頃には、兵農未分離のまま、近世検地において、農民として位置付けられますが、在地では、実質は、
苗字帯刀が、許される郷士身分として残っていったと推察できましょうか。安定期にはいった江戸幕府としては、そ
うした郷士的農民は、認めたくはない事であったのでしょう。取りも直さず、幕府創設の家康自らのお墨付きであれ
ば、代官所格の身分では、如何ともしがたい関わりがあり得る事となる可能性がある筈でありましょうから。そうした
確執が、一時期は、あったかも知れません。
*
中世的要素の大庄屋職
江戸期以降存続していく奥山家ではありますが、いつ頃この地域に君臨すようになったのでありましょうか。
それを示す「公文(大庄屋)に関わる証文」が存在していた。
奥山家は、中世のいつ頃か、公文(大庄屋)職であったのでしょう。おそらくこの公文(大庄屋)職は、中世的な
職ではなかったかと。また、それに付随する職田等が、もともと含まれていたのではと、推察します。
こうした既得権益は、引継がれていたのではないかと推察できます。
参考までに、「公文(くもん)」とは、「1
律令時代の公文書(こうぶんしょ)の総称。諸国から中央政府に出した大
計帳・正税帳・朝集帳・調庸帳を特に四度(しど)の公文という。
2
中世、荘園の文書の取り扱い、年貢の徴収な
どをつかさどった荘」のようで、ここでは、おそらく中世、荘園関係に絡む役務の名残りであろうと思えます。この
領家村の近くには、政所なる地名もあったので、荘官から派生した職ではないかと推察いたします。.
地域は、違いますが、尾張国富田荘(現 名古屋市中川区と海部郡大治町とその周辺)については、史料があ
り、それによれば、地頭方の現地役所の事を「政所」と言い、実務機関を「田所 兼公文」と称していたとか。或い
は、新たな国衙機構も、役所を「田所」とか、庶務を司る所を「政所」とも言ったという事のようでありますから、この
領家村に残る「公文」も、こうした機関の名称であったのでありましょう。
参考にはならないかもしれませんが、私が、住んでおります愛知県には、中世 富田荘(伊勢湾近隣の荘園)が
あり、その荘園の「円覚寺米銭納下帳」(鎌倉市史 史料編2の14号文書)の記述に政所・田所(兼 公文)という
文言があり、その文書を使われている論文内に、政所とは、地頭職を保持している者が、代官を現地に下向させ、
駐留させておくところと解説されており、この富田荘では、地頭職保持者は、鎌倉 円覚寺であり、この政所は、円
覚寺の決定を現地で伝達する機関に過ぎなかったとか。実質の荘務権を伴わない代官であったと思われると記述
されておりました。
田所(兼 公文)は、現地の実質在地雑務担当者でありましょうか。給田(3町)が与えられ、領家雑掌が、庄務請
負契約の際、下地進止を認めた分であろうかとも記されており、更に雑免田(10町)も与えられ、この分には、町別
2貫400文弁済し、その外 無別役也とされていたという。かなりな給付があったと推察できました。
「
この奥山郷には、城が存在し、南北朝期には、南朝方の親王様が、来られたという。この地域にある高根城は、
奥山氏が築城されたとも聞く。
当地では、戦国時代、今川氏・武田氏・徳川氏の支配地になる等不安定な要素があり、在地の土豪は、どのよ
うに生き延びるかと身内同士で、その事柄に対し、骨肉の争いになったともいう。」( 水窪町史 参照 )
参考までに、この領家村よりもう少し奥の地域では、「山住神社神主家の守屋氏の初代は守屋左京亮藤原茂
家、二代左衛門佐茂清が今川氏より出て 駿河浪人となり、奥山村門桁(水窪)に居住し名主役と神職を兼務す
る。十三代助大夫茂直の代より山住を姓とする。」 という事柄を記述するURLもありました。
( http://hokuryu.blog116.fc2.com/blog-entry-12.html からの記述転記であります事をお断りしておきます。)
話を領家村に戻し、当然、江戸期には、こうした職関係は、形骸化し、形だけになっていっていたようで、こうした
得分は、村人へ還元されるような形で残されたのでしょう。古文書で確認できた事としては、村にやって来る盲目の
芸人への報酬として使われていた。そうした古文書には、「タゼともゴゼとも読み取れる文言」がありました。おそら
くゴゼと読むのでしょう。
瞽女(ごぜ)とは、「盲御前(めくらごぜん)」という敬称に由来する女性の盲人芸能者であり、三味線の弾き語
りを生業にしている巡業者であり、この領家村へも江戸時代にやって来ていたと思われます。こうした山奥での
貴重な娯楽となっていた事への経費として使用されていたように推測できえました
「遊行芸人 瞽女の世界」 鈴木昭英 (安達浩写真集 瞽女 盲目の旅芸人 京都書院 平成4年4月刊 内)
氏は、直接、この水窪に来ていた瞽女(ごぜ)の言及はされていませんが、「信州の飯田・高遠・諏訪・松本辺りの
城下町の瞽女集団であろうか。一番信憑性があるのは、信州飯田瞽女集団であろうか。」(私の類推に過ぎませ
ん・・・。)
氏のP.104には、「信州飯田瞽女は、江戸末期に8組20人余の瞽女が飯田城下に借宅居住していたが、天保
2(1831)年に伊那谷郷の大勢の人たちに勧化して資金を集め、2棟の長屋を作って移り住み、明治時代にはこ
こに6軒の師弟家族の20数人が居て、瞽女稼業を営んでいた。」と記述されている事。
氏によれば、「人々は、瞽女を娯楽の提供者として迎えたが、その一方、幸いもたらす聖なる来訪者、威力のあ
る宗教者と考え、その利益にあずかろうとする側面があった。」のではと、「表看板は、唄であるが、瞽女の来訪は
縁起が良いとして、信仰の面からも歓迎するところがあった。」と結ばれている。
特に「信州の飯田瞽女にいたっては、人々の求めに応じ、こうした場合に、祓い詞を読んだり、祝詞を上げたり、
お経を唱えたり、真言を誦して、拝み・祓い・祈願などの宗教行為を行っていた。まさに、芸能者瞽女が宗教者で
もあったのである。」(同書 P.107 参照)と。
公文(大庄屋)職であった中世末の奥山氏は、おそらく、自立しえない小農民を職田として引き継いだ地の耕
作者として、そっくり引き継いだのではないでしょうか。被官として。領家村に於いては、そこそこの田は、延宝検
地帳には、記載されておりましたが、やはり、田は少なく、畑が主流であったようです。
更に、検地帳には、記載されなかったと推察いたしますが、中世頃の焼畑農耕が、依然健在であったのでは・・。
雑木林を焼いて、数年は、そこで稗、粟等を栽培し、食料としていたのではないか。年貢も、米等でこの地域は、納
めていたとは思われません。或いは、銭納であったかも知れません。中世的な形が色濃く残っていた可能性が高い。
しかし、この村より奥の方の村々は、遠山6ヶ村と呼び、おそらくは、延宝年間より数年間は、榑木役という屋根
板材という形で、支配者は、年貢を納めさせていたのではないかと。家康居城の駿府城築城の材料としていたので
はないかと推察いたします。
また、(公文)大庄屋として君臨した奥山氏は、中世末以降、多くの田と畑を所有し、多くの小農民を使い耕作させ、
何がしかの得分を得ていたのではなかろうか。そして、いざ戦いがあれば、足軽として従軍していったのではなかった
だろうか。
3.延宝検地に残る分付百姓
この領家村に残る検地帳は、延宝5年の伊奈備前守による検地であった事は、先述の通りであります。
江戸期の検地は、太閤検地の方針を踏襲していったようで、土地の広さ、土質、耕作者を決めていくものであり、
その検地帳に記載された農民が、年貢等を請け負う本百姓であった。
ところが、この検地帳には、一つの耕作地に、二人の名前が記載された部分が、部分的に出てくるのであります。
誰々分某という記載でありました。最初の部分の名前は、同一人名だけであります。後ろの某は、かなりいろいろな
名前がありました。
この先頭に記載されるのは、誰あろう奥山氏であります。それ故、こうした検地帳の後半の某と記載される農民を、
分付百姓と呼称されるのでありますが、私の知る限りでは、後進地に多く現れる形態かと考えております。
この分付百姓をどのように理解するかという事になりますが、二つの理解の仕方があるようです。
一つは、中世的な被官として理解する仕方ともう一方は、被官としてよりもむしろ金銭関係の契約による貸借関係
の農民と捉える仕方でしょうか。分付百姓の形態は、地域の進化具合により比重が、違っていたのではないか。
おそらく、この領家村に現れる分付百姓は、前近世的な関係を包含した形での検地帳記載の百姓身分であり、何
がしかの形で地代等を支払う関係であったのではと推察いたします。実質の年貢請負者であったかどうかは不明で
はありますが・・・。
この分付百姓の耕作面積では、とても生活が出来うる状況ではないと推察いたしております。では、いったいこう
した小農民・分付百姓は、どのようにして、自立化の道を求めていたのでしょうか。
4.幕藩制下の北遠の支配形態
さて、幕藩制下の年貢は、「石高に対して租率を乗じて年貢高を決める厘取(りんどり)法と、面積に租率を乗じて
決める反取(たんどり)法とがあった。」 という。
( http://tatsuo.gnk.cc/jk/rekishi/shizuoka/sh35_bakuhan_mura_seikatsu/sh35_bakuhan_mura_seikatsu.htm 参照 )
しかし、「寛文・延宝の総検地を契機に反取法に転換する村が多くなったといわれている。」(川鍋定男「近世前期関
東における検地と徽租法」『神奈川県史研究』四二号 参照)ようですが、「遠江・駿河では、基本的にそのような反収
法への転換というような事態はみられなかった。」という。この地域では、相変わらず石高に対して租率を乗じて年貢
高を決める厘取(りんどり)法が採られたようであるという。また、北遠では畑作が優位で、年貢は原則として金納の永
高制となっているようで、実際の年貢収取は鐚(びた)銭に換算して行われたため、永対鐚の換算比が問題となったと
か。 当初地域によっても変遷があったようですが、寛文・延宝の総検地以降は、すべて一対四に統一されたという。
更に、年貢として、茶・綿・紬(つむぎ)・桑・楮(こうぞ)など、部分的に現物納が認められることもあったという。
しかし、実際には換金上納を要求されることが多く、換金のための在方市として、二俣(天竜市)・森(森町)・山梨(
袋井市)・笠井(浜北市)などがあったようであるという。とすれば、この地域では、古くからの銭納化が、引き継がれて
いたともいえましょう。また、領家村内での市(いち)は、向市場であった可能性が、高いと言う事になりはすまいか。
「小物成は、山野の領有に関わるものであり、奥山領として賦課されたようで、奥山領の領家村には、鹿皮代(鉄砲
役)、熊皮代、立物(売物)2割出という賦課があった。」( 近世前期の幕領支配と村落 佐藤孝之著 参照 )という。
夫役としては、この領家村には、水窪川が流れ、天竜川に流れ込んでいます。こうした山村に住む百姓は、遠山6ヶ
村(和田・木沢・八重河内・上(門)村・満島・鶯巣)より流下される榑木用材が、一時に何十万挺も流されるため、川岸・
川瀬に懸かり流れないものもあるので、遠州舟明(ふなぎら)までは、両岸の村々から人足を出し鳶口等ではずして流
したという。これを川狩といい、川沿いの村から義務的に出ることを郷狩といったようであります。
天竜川流域の舟明村で、一旦留め、筏にして下流域へ流していたという。舟明村には、役所が置かれ、ここに、舟明
山(別名 榑山)が出来ていた。榑木用材がうず高く積まれた状態をそう呼称していたようであり、実際の山ではなかっ
たという。奥山家文書の中にも、こうした船明村に関する文書が見受けられました。
舟明村までは、三々五々流木として流す関係で、流域の村々は、川岸に自然滞留した榑木流木を舟明村まで流す人
足として狩り出されていたようです。失敬する者は、打ち首とも言われていたようであり、榑木の方が人の命より大切と
捉えられていた時代であったのでしょう。木曾谷筋と同様な仕法であったようです。
( この部分は、木曽川上流域 木曾山中の材木伐採、その後の流木流しと同様であり、木曾材は、木曽からは、小谷
狩、大川狩を経由し、山落としされ、現 岐阜県丸山ダム付近{錦織湊(にしごりみなと)}まで運ばれ、この湊の木場で、
筏に組んで、兼山から、一乗りを二人で操作したと言う。
木曾節で有名な木曾の中乗りさん、筏を組んで木曽川を流下する職業を生業とした人々が出てきたのもこの区間であ
り、徳川政権下であったと言う。この天竜川では、家康より、木曾衆の一人、千村平右衛門が、この地域の初代榑木役に
関わる役職に命じられたとも・・・。)
こうした事柄を記述した部分があり、転記いたします。
「 室町時代に入ると榑木は五、六尺となり、建築用材であるとともに屋根板材・桶材・曲木などのため
のものに変わった。(既に、この地域では、近世以前から榑木用材に関わる作業に従事していたようで、
この当時の建築用材の大きな流通機構に組み込まれていたと類推できえましょうか。)
江戸時代中期になると、短榑は二尺三寸。年貢榑や役榑には、この屋根板のための椹(さわら)の榑木
が指定された。
そのため榑木というと、椹・ヒノキ・鹽地(しおぢ)で割りたてた屋根板のことであり、屋根板でない
榑木は「雑榑」といわれた。(長さ三尺〜六尺五寸)