6世紀頃の仏教伝来に関わる知られざる秘話

          1.はじめに
             私が、初めて仏教伝来について知ったのは、中学生の時の歴史の授業であり、538年、552年の二説
            があるという事でした。
             覚えやすいように「仏の住む国”ここに”あり。」とか。「仏ほっとけ”ごみや”さん。」と教えて頂いた記憶
            があります。

             そして、物部氏と蘇我氏の崇仏派対俳仏派の抗争となり、崇仏派の勝利となり、以後日本では、伽藍
            配置の寺院の創建へと進んでいった事は、周知の事実であります。

             しかし、既に北九州、飛鳥には、この538年より以前に私的に仏教は、伝来していたとも言われるようで
            あります。

          2.北九州 「秦王国」に伝来した仏教
             この秦王国の民は、朝鮮半島の4世紀末〜5世紀初頭頃の住民であり、百済、加羅、新羅では、この当
            時日照りが続き、稲は枯れ、新羅では、蝗(いなご)が大発生し、農作物は全滅したともいう。また、紀元4
            00年には、加羅国内では、大きな戦が起こってもいた。

             百済は、百済の民に兵役等の為徴用しようとしていた。為に百済の民は、新羅へと逃亡した。加羅の
            民は、朝鮮半島内での従来の生活は不可能と判断したのでしょうか、海を渡って、はるか日本へと渡来
            してきたのでしょう。5世紀前後頃の事と推察できます。

             この加羅国の民は、中国秦の時代に、苦役を逃れてきた秦の民も含まれていたという。特殊な技術を
            持ちえた(この当時、進んだ文化を持った民)民であったようです。鉱物から金属を取り出す技術等、蚕
            から絹糸を取り出し、絹織物を織る職人でもあったのでしょう。また、土木技術にも優れた民もいたと思
            われます。

             この5世紀前後に渡来した加羅国の秦の民は、北九州の博多港{その当時は、那津(なのつ)と呼ばれ
            ていた}から上陸し、現福岡県、大分県の海岸沿いに居住したと考えられます。

             既に4世紀頃には、北九州に存在した邪馬台国王朝と、畿内の崇神王朝(三輪王朝)の二つの王朝が、
            日本の中にはあったのではないかと。そして、この頃、畿内の王朝が、北九州の一部をまで侵攻していた
            とも推察でき、従来中国との交流の日本の港は、魏志倭人伝では、唐津港であったのが、4世紀頃には、
            博多港になっていたようであるという。そして、これを追認する事柄として、4世紀頃の朝鮮半島現 釜山
            辺りの遺跡からは、畿内の遺物が多量に出土し、北九州の遺物は、出てこないという事からも指摘できる
            という。

             本題に入りますが、その後の朝鮮半島の新羅には、中国より伝わった仏教が、民間信仰と結びつき私
            宅仏教として信仰されていったという。その仏教は、山の洞窟内を祠とし、その中で、仏像の基となる木物
            を祭り、信仰したという。その後、国王も認める宗教として追認されたようです。

             渡来した秦の民へは、その後、朝鮮半島より渡来した新羅の道士から秦王国へ伝わった可能性が高い。
            公式的な仏教伝来より10年位前になるという。
             ( 以上の内容は、秦氏の研究 大和岩雄著 参照 )

             この秦王国の仏教は、私宅仏教(新羅仏教)であり、蘇我氏が取り入れようとしたのは、伽藍仏教(百済
            仏教)であったという。

          3.仏教に付随する医療について
             6世紀・7世紀頃の高度な医療は、仏教とも深い関わりがあったようであります。
             雄略天皇在位時、天皇が病の床につかれた事があった。その時飛鳥にも、私宅仏教がはいってきてい
            たようで、巫( 第1義は、みこ。 その次の意味は、医者という。)部が、その任に当たり、物部氏が統率し
            ていたようであります。薬で治す治療を施す集団であったようであり、今風に言えば、漢方薬を使った治療
            集団とでも言えばいいのでしょうか。

             秦王国にも、こうした医療集団が存在し、畿内では、正規の巫部ではない故 奇巫と呼ばれたようでありま
            す。秦王国の聖山 香春岳から取り出される「竜骨」( 石灰質の骨でしょうか。)と祈りを用いて、病気を治す
            事をしていた。

             時の用明天皇が、病になり、自ら詔を出し、巫部(物部氏管轄)ではなく、奇巫系の豊国法師(秦王国在住)
            を京に呼び、治療しようとした時、天皇の命にも拘らず、物部氏は、従わなかったという。蘇我氏は、天皇の詔
            を守り、奇巫系の豊国法師(秦王国)に治療をさせ、直させたという。畿内にも、こうした秦王国の病気治療の
            評判は、伝わっていたようであるという。

             仏教を取り入れる、取り入れないという問題は、仏教に付随する現世利益的な病気治療に関わる日本古来
            の巫部と、外国産の巫の確執であったとも取れるのであります。

             ともすれば、時の天皇の判断次第で、俳仏ともなり、崇仏ともなったようで、蘇我氏に暗殺された崇俊天皇は、
            俳仏派であったのでしょうか。その下には、物部守屋がいて、守屋は、天皇の詔をもって、蘇我氏が進めようとし
            ていた僧、尼僧を悉く辱めたという。歴史的には、蘇我氏が物部氏を破り、伽藍仏教(百済仏教)を、日本の地
            に根づかせていった事は、周知の事であります。「この物部守屋一族は、物部氏を名乗っていますが、雄略朝の
            頃の物部アラ鹿火(信州諏訪の豪族であり、北九州の磐井の乱を1年ががりで鎮めた実在の人物)一族とは、繋
            がりがないようであります。」{ 「物部氏の伝承」(畑井 弘著) 参照 }

             参考までに、「この欽明天皇に付いたのが、物部尾輿でありますが、どうも物部アラ鹿火系統ではないと畑井氏
            は、考えておられるようで、尾輿とは、朝鮮語の意味で、窯、炉という意味の普通名詞のようで、固有名詞ではな
            いと。架空の人物であろうという。それ故、朝鮮語の音読みで解釈すると、兵器生産に携わる「物」の「部」を率い
            る鍛冶王という意味になるようであると言われる。ここに、藤原比不等の謀略が込められているように感じられる
            と畑井氏は言う。

             また、その子である物部守屋も架空の人物と捉えられるという。氏は、この新物部氏として、日本書紀に登場し
            たのは、畿内にいた地方豪族 弓削氏ではないかと比定し、推測されています。

             そして、この物部守屋(実は、弓削氏カ)の姪を蘇我馬子は后として迎え、蘇我氏が、物部氏を名乗る場面があっ
            たとも言われており、言い換えれば、守屋を仏教騒動に乗じて、攻め滅ぼし、蘇我氏は、新物部氏の財力等を継承
            したのでありましょうか。(因みに弓削の道鏡は、この出自であったのでありましょうか。・・筆者注)」

             <孝謙上皇(後の称徳天皇) と道鏡の関係は、畿内の豪族の中で良く思われていなかったのでしょう。こうした事情
                          から道鏡と同じ出自の弓削氏を書記に記載する事が躊躇(ためら)われ、弓削氏としないで、新物部氏として登場させ
                          たやも知れません。・・・筆者注 >

             福井県史 通史には、「継体朝には、碧玉石製品(実用品ではなく、首長権の継承儀礼に用いられる石)は、大和
            王権の管掌のもとに製作され、各地の首長に配布されたという。
             その製作地は、北陸に10ヶ所、関東地方に4遺跡、長野県で1ヶ所、島根県で1ヶ所が知られ、北陸地方では、越
            前の北部から加賀一帯に限られていたという。(4世紀中頃)

             塩の生産も、弥生中期頃、台脚を伴う製塩土器が、大阪沿岸を経て、若狭に伝わり、大阪の塩は、若狭が一翼を担
            ったとも記述されていた。

             農具も弥生時代は、木製であり、やわらかい湿地状の土地でつかわれていたようでありますが、古墳時代になると、     
            木製農具の鍬の先にU字型の鉄製物が、付けられ、より固い土地の開墾、耕作が出来るようになり、生産力が上がっ
            たであろうと記述され、鎌も、5世紀中頃より、直刃鎌から曲刃鎌へと変化したという。」

             付記
              推古天皇以降、目まぐるしい動乱を経ているように推測できますが、弓削氏にしろ、物部尾輿・守屋一族にしろ、
             同一氏族とするならば、この一族は、{朝鮮語の音読みで解釈すると、兵器生産に携わる「物」の「部」を率いる鍛冶
             王という意味になるようである。}という「物部氏の伝承」 畑井 弘著の説は、鉄に関わる事象の日本書紀編者によ
             る隠蔽工作であったのでしょうか。6世紀以降の事柄ではありましたでしょう。

。           参考文献
             ・ 秦氏の研究  大和岩雄著    大和書房  1994年
             ・ 物部氏の伝承  畑井 弘著   講談社    2008年
             ・ 福井県史  通史