7・8世紀に於ける尾張国内の尾張連氏の動向と春日部郡等の成立についての一試論
1.はじめに
5・6世紀のことでありましょうか。古代の製鉄遺跡(製鉄と鍛冶シンポジウム、於広島大学)土佐雅彦、1995、12月によるのでしょう。
詳しくは、右記 URLにて確認されたい。http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp0202.htm 古代のたたら 参照。
「それによると、山陽地域と山陰地域では、製鉄原料に違いがあるようです。山陽地域は、鉄鉱石を、山陰地域は、砂鉄であるようで
す。このことは製鉄技術の伝来ルートに違いがあることを暗示しているのかもしれません。」と結ばれていました。この論者も、百済系・
新羅系とは、具体的には述べてはみえませんが、文献的には、「古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬ
ち)卓素が来朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受け
たと記されています。」と補足されています。詳しくは、http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020103.htm を参照されたい。
しかし、伝授の記載は、あくまで鍛冶技術における事柄ではありましょう。製鉄炉ではないようです。
*
後日 東京工業大学製鉄研究会から出された「古代日本の鉄と社会」 平凡社 1982年版をみると、下記のような記述もある。
・ 播磨国風土記・日本霊異記・扶桑略記等に出てくる鉄穴は、砂鉄採集というより鉄鉱石採集であり、我国の初期鉄資源採集方
式は、露天の竪穴採掘ではなく、横穴を持つ鉱山採掘であろうと記述されている。
また、初期の製鉄を全て鉄鉱石と主張するつもりはないが、文献的には、むしろ鉄鉱石と思われる物が古いのであって、これ
は、自然科学の側の、チタンを含まぬ鉄鉱石やチタンをわずかにしか含まない砂鉄を原料とした方が技術的には容易いという
見解である。(同書 P.180 参照)と。
技術的事柄を知れば、製鉄は、チタンを含まない物であれば、それ程難しい作業ではないように取れました。が、朝鮮半島から舶来
鉄が入手出来る場合は、その鉄を利用した鍛冶技術が先行したのでありましょう。*
只、山陽地域では、蘇我氏が関わった鉄鉱石採掘事例(蘇我氏は、吉備に置かれた屯倉の管理に直接携わり、吉備の鉄に関わる集
団の食糧の確保に努めたとも指摘されているかと。・・拙稿 「渡来人 秦氏についての覚書」 参照 或いは、「日本書紀」 欽明朝に
かけて蘇我稲目とその子 馬子等が、白猪・児島屯倉の設置と経営の為吉備五郡・吉備国に派遣された記述もある。)もあり、やはり百
済系であろうか。
山陰地域は、スサノウとの関わりで、新羅からの伝来を伝える日本書紀の記述もあるようですから伝来ルートの違いはあった可能性は、
高いと推測いたします。
中央に於ける製鉄技術は、以上のようであったことが推測されます。
尾張国での7・8世紀に於ける製鉄原料は、岩鉄(鉄鉱石)であったことは発掘から証明されてもいます。
2.7.8世紀に於ける尾張国内の動向
断夫山古墳は、尾張連氏の最盛期を示す尾張連草香 6世紀初頭頃の物ではないかと思っていましたが、神宮内の掲示板には、みやず
姫の墓ではないかと記載されていました。神社としては、古代のロマンは消しがたいのでありましょう。
その尾張連草香の系譜を引く尾張連馬身(マミ)と大隅については、諸説あり、新修名古屋市史 第1巻では、市史の論者は、尾張馬身を尾
張大隅(尾張家本家)の傍系という捉え方であるようですが、その根拠は説明されてはいません。続日本記をつぶさにみれば、所々で、記述の
食い違いはありますが、下記のような記述をされる論者に遭遇する。
{『続日本紀』の大宝2(702)年11月に持統女帝が東国に行幸します。(続日本紀 11月13日条 参照)このとき11月13日に、尾治若子
麻呂と牛麻呂に宿祢の姓を賜っています。天平宝字2(758)年4月19日条に、「尾張馬身、壬申の功で先朝、小錦下(のちの従五位下)に
叙すれど、姓を賜はず早く亡す。馬身が子孫に宿祢の姓を賜ふ。」と記している。
小錦下は天智3(664)年に制定され、天武の時代にも使われています。大隅の直広肆は天武14(685)年に制定した制度です。
つまり乱後(672年後)すぐに馬身が小錦下に叙され、馬身の死後、持統10(696)年5月に大隅が直広肆(臣下の16番目カ)を
賜ったのです。}と。詳しくは、https://ootuka2014.jimdo.com/T期/4話 参照。
上記論者は、馬身が、先に天武朝から位階を受け、その後大隅が、位階を授けられていると取られています。
この事から、上記論者は、馬身を尾張氏の長老、大隅は、壮年の実力者と読み取られたようですが、馬身と大隅の関係は、どうであったの
だろう。この論者の推論を取れば、草香以降の世紀間で尾張氏一族間で何らかの覇権争いがあったことになりましょうか。
5・6世紀頃の現 勝川一帯は、庄内川と並行して流れる地蔵川(庄内川支流)や八田川(庄内川支流)が流れている。
勝川遺跡は、地蔵川沿いに出来た集落であり、川を挟んで広範囲に遺跡が分布しているようです。現 春日井市勝川町・長塚町・町田町に
所在する遺跡であります。
庄内川右岸に位置し、庄内川によって形成された標高11mの沖積低地と、その北の鳥居松段丘面 標高13mの洪積台地の縁辺部に立地
しているという。
勝川遺跡は、弥生時代中期後葉に集落が形成され、弥生後期・古墳時代前期初頭へと継続されていたとか。その後一旦途絶え、5世紀後半
〜6世紀前半にかけて味美・勝川古墳群を形成し、6世紀後半以降は、再度断絶し、8世紀前半頃(現在では、7世紀後半という説が有力カ。) 勝川
廃寺が造営され、9世紀後半まで継続したようであります。尚、「勝川廃寺の周辺には春部郡衙が存在する可能性があり、62F
区NR01
から出土した
祭祀遺物群は一寺院にかかわるものではなく、郡衙における祭祀行為にかかわる蓋然性がより高くなったといえよう(樋上2001)。」なる記述は、注目
する必要がありましょう。
(勝川遺跡については、http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo04/0402higami.pdf
「春日井市勝川遺跡出土 木製品の再検討」 樋上
昇氏の論考を参照されたい。)
とすれば、勝川の二子山古墳(前方後円墳)は、古墳時代前期初頭一旦途絶えた後
5世紀後半から6世紀後半頃造営された古墳ではなかろう
か。支配者の代替わりがあったとも取れそうであります。これが、物部系氏族ではなかろうかと。しかし、この氏族も6世紀後半再度断絶した可能
性が高い。そして、7世紀後半頃 勝川廃寺が造営され、9世紀後半まで継続したかと。この勝川廃寺を造り氏族は、天智朝頃の評造クラスの氏
族ではなかろうかと推測致します。そして、勝川廃寺の近くには、春部郡衙の存在も指摘されるようでありますから。
それでは、西行堂川(大山川支流)沿いにある下末古墳(前方後円墳カ)は、どのような氏族であったかは、不明としか言いようがありません。
が、熱田や勝川の最盛期の古墳よりは、若干古いのではと推測致しております。
*
天野氏の本国神名帳 写本(愛知県図書館所蔵)を閲覧すると「従三位 別小江(ワケヲエ)天神 1ニ(入カ或いは大カ)江ニ作ル 神社考燈曰
乎江神社若子宿禰(
更に隣の行には、)按旧事紀物部印葉連之弟大別連カ」とある。実際、別小江(ワケヲエ)神社が、庄内川左岸側にあるよ
うです。その当時の神社かどうかは、確認しておりませんが・・・・。また、庄内川も流路が、今のようであったかは幾たびとなく氾濫していたと
も推測しうる点、定かではありません。
天野氏も、物部氏の存在を推測されているように読み取れます。(下末古墳上の宇江社なる社は、或いは乎江神社天神の系譜カ・・・私の
注)
若子宿禰とは、尾張馬身の子 若子麻呂の事ではなかろうか。とすれば、乎江神社と若子麻呂の間には、何らかの関わりがあったという
伝承の存在を推測いたします。また、本国神名帳には、従三位 乎江天神 魚江天神カと式内社として記載されています。
( 詳しくは、
https://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/pdf/1103267241-001.pdf
を参照されたい。 )
下末古墳については、拙稿 小牧市下末地区に存在する下末古墳を訪ねて を参照されたい。*
すぐ近くの伊多波刀神社の祭神が、大和系であるからです。高橋氏は、合祀された可能性を推測されている。(私は、もう少し古い時代に合祀
された可能性を推測致します。)
{大胆な推測ではありますが、小牧市史の「多楽里尾」「多楽里□張戸」の記載を信ずれば多楽里の尾張戸(部カ・・私の推測)氏を合祀後の氏
族カと想定するのですが・・・・。尾張戸氏は、或いは庄内川左岸、高蔵寺の対面で勢力を築いた一族であったのではなかろうか。}
律令制以前の行政区画は、どのようになっていたのだろうか。中央集権化は、一朝一夕には、確立したとは、考えられませんからかなり前から
順次着手されていったのでしょう。まさに継体朝以降から順次着手されていったと思われます。
継体朝を推し進めた尾張国々造 尾張連草香は、国造制が色濃く残る最終期であったのでしょう。
詳しくは、拙稿 律令制前の行政区分についての覚書 を参照されたい。
7世紀以降の尾張国の様子は、拙稿 壬申の乱時 在地の有力者 尾張馬身について ・ 壬申の乱で活躍した尾張連大隅について を参照
されたい。
8世紀以降については、8世紀初頭頃の尾張国内の各郡の郡司が記述された書籍があります。
大宝令制下以降での帯位授受から知られる尾張連氏一族の動向は、下記の通りであります。
「和銅2(709)年 外(ゲ)従五位下 愛知(智)郡大領 尾張宿禰乎己志(オコシ)・・・・(大隅直系 海部直祖カ 私の注)
天平2(730)年頃
春日部郡大領 尾張宿禰人足(ヒトタリ)
参考までに、郷土誌かすがい 第4号内に {「春日部郡の豪族と古
寺址」と題して久永春男氏の論述があり、「春部郡を本貫としたこと
の確実な豪族として、尾張連一族がある。『寧楽遺文』の歴名断簡
であります勘籍(カンジャク){中巻 平成9年版 P.539 下段 参照}
に、尾張連牛養年廿七 尾張国春部郡山村郷戸主 大初位下
尾張
連孫戸口
という記載が見られる。大初位下といえば、郡の主帳級の
位階である。という記述もある事を付け加えておきます。}上記。『寧楽
遺文』の歴名断簡であります勘籍(正倉院文書)は、何年かは不祥。
かなりの数(100名余分)が一括表記されている点、年代は新しい
と推測します。通常は、何年の戸籍参照と記述されますが、そうした
記述はなく、只 大初位下の尾張連孫と記載。位階としては、最下層
でありましょうが、天皇家へのかなりの勲功がなければ、無位の家柄
では与えられないのでは・・・・。
* 勘籍とは、「8世紀初めに大宝律令や養老律令が制定されたことで完成した律令体制下、戸籍をさか
のぼって身元を確認する行政手続き。官人の登用や僧侶になる場合に実施され、確認ができれば課役
負担を免除された。犯罪で刑罰を受ける際にも行われた。10世紀半ばまで制度として存続したとされて
いる。」とか。*
天平6(734)年頃 海部郡(アマグン)郡領(?) 尾張連氏一族」
(以上の事柄は、「古代貴族と地方豪族」 野村忠夫著 吉川弘文館 平成元年刊 P.25 参照 )
8世紀半ば頃(聖武天皇治下)
中嶋郡大領 尾張宿禰久玖利(ククリ) ・・日本霊異記の説話より
大宝律令制下には、尾張国内での4つの郡の郡司は、確認できるのですが、丹羽・山田郡においては明確ではない。
では、尾張国内での郡域は、どの時点からと言えばいいのであろうか。平城京の近くからでた木簡には、春部なる名称が書かれた
物が出土している点、奈良時代には既に存在していたのでしょう。郡域名の前は、評域名であった筈。いくつに分割されていたのかは
不明ながら、1つ乃至2つであったかも知れない。天智朝以降に地域評名は出てきた可能性を名古屋市史では想定されている。
私もそのあたりかと推測致します。