桃花台及びその周辺の亜炭廃坑跡についての覚書

          1.はじめに

             桃花台に住み着いてはや二十数年。ここに住み始めた頃は、篠岡には亜炭鉱があって、廃坑
            跡があるけど大丈夫とよく友人・知人に言われていた。

                            このように言われるには、理由がありました。一つは、小牧市史 通史での亜炭の項目の記載
            であり、同様な事を平成17年でも小牧市教育委員会発行の小牧市の文化財 第19集 「小牧の
            地名 U」 P.56の桃花台ニュータウンの項目内に「 篠岡丘陵は、戦前、戦後を通じ亜炭の採掘
            や採土が行われ、戦時の伐採もあって、自然破壊が繰り返されてきた地域でもある。」という記述
            があり、この当時でも、風聞として桃花台地域は、亜炭採掘地ということを追認するような準公式文
            書とでも言えそうな小牧市教育委員会の見解は、こうした風聞を助長する以外の何物でもないと
            思えました。結論から言えば、江戸時代末期から戦後期にかけて篠岡丘陵本体部は、地表部分を
            除けば、何ら地下部分に関しては、開発の手は、加えられていない。開発の手が、加えられたのは、
            桃花台ニュータウンと呼ばれし部分ではなく、その丘陵から弱冠離れた江戸時代より開発された部
            分の周辺地表部分と地下部分であったと言えましょう。

             岐阜県御嵩町では、亜炭鉱が多く、廃坑跡は、そのままになっていて、よく地盤沈下を起こして
            いると、新聞記事で読んでもいた。
             桃花台ニュータウン内の国道155号線沿いの住宅地の一部で地盤沈下が起こり、地下の構造
            を調べると王子製紙の工場廃棄物等がそこに埋め立てられたようで、土壌汚染が問題化。亜炭
            廃坑跡ではなかった。案の定、住民は、上記記述もあり、なかなか廃坑跡ではないと言う事に納得
            が、できない状況が続いたと思われます。

             いったい、このあたりでは、どこが亜炭鉱であったのか、市でも、実情は把握されていない?よう
            であり、既に、亜炭鉱の会社は、倒産しているのであり、亜炭鉱の坑道図面は、遺棄されてしまっ
            ているのであろう。

             あとは、このあたりの地下構造を知ろうとすれば、ボーリングをして調べるしかない。多額の費
            用もかさみ難しいことではある。
             もう一つは、過去にその亜炭鉱で働いていた従業員の方々への聞き取り調査しかないのではと
            思う。今ならまだ、生存者が見えると思われるので、この期を逃すともはや闇の中に消えていくし
            かないであろう。小牧市で大々的に情報収集をと願うしかない。しかし、それも、廃坑跡を承知で、
            住んでみえるのであれば、非協力となり、闇の中へと消えていく運命なのだろうか。

          2.小牧、春日井、高蔵寺の地質状況

             春日井市の教員集団による研究報告雑誌、郷土誌かすがいの8号に「 春日井の地質 地史と地下
            資源 」という小論がある。
             名古屋地学会会員 大橋 博氏が執筆されたものである。
             それによると、尾張丘陵(海抜300〜400m地帯)は、古生代、中世代の地層であり、砂岩、頁岩
            チャートからなり、100〜200m地帯の丘陵( 高蔵寺ニュータウン、西尾(さいお)町、坂下町付近 )
            は、鮮新世の礫、砂、粘土層が分布しており、100m以下の地帯(大泉寺町以西)は、洪積世の段丘面
            であるとか。
  
             東春日井郡誌 綴じ込みの尾張太古図によれば、今からおよそ2億数千万年前(古生代末から中生代
            初め)は、伊勢湾がかなり奥深く入り込み、小牧山、岩崎山、瀬戸赤津、熱田、岐阜金華山は陸地であっ
            たが、そこまで海水が入り込んでいたといわれている。故に、小牧の大部分が、海岸か海底であり、春日
            井は、全て海底であったであろうといわれている。その海底であった所に砂、泥が堆積し、砂岩、頁岩、チ
            ャートに変貌したようである。尾張丘陵は、海底であったのが、断層面で隆起し、今の尾張丘陵となってい
            るようである。

             今から1400万年前(新生代、第3紀、中新世)にも、さらに海が入り込み、岐阜県瑞浪市の土岐川河
            川敷には、海の化石が採れる石灰岩の層が露出している所があることはよく知られた事実である。
              
             今から500万年から200万年前までは、海が入り込んでいた所で、太平洋側の所が閉ざされ、大きな
            湖ができたようである。「東海湖」と呼ばれ、東海湖の範囲は、南は、知多半島、東は、豊田市、北は春
            日井、小牧市、西は、鈴鹿山脈の東麓にいたる地域であったようである。

             この東海湖の湖底に堆積した層を「瀬戸層群」と呼び、この層群の上部を「矢田川累層」、下部を「瀬戸陶
            土層」と呼び、矢田川累層には、更に「尾張夾炭層」が含まれている。この尾張夾炭層は、高蔵寺ニュータウ
            ンから坂下町にかけては、地表に露出しているが、伊勢湾に向かっては、少しずつ地下深くに埋まり広範囲
            に分布しているとのことである。

             この尾張夾炭層が、所謂「亜炭層」であり、これらは、当時陸地に繁っていたメタセコイア、フウ、シマモミ、
            ヌマミスギ、イヌカラマツ、カリヤクルミという木々で、洪水等で流れてきて湖底に沈んで堆積したのではない
            かと考えられている。亜炭は、石炭ほど炭化されていない埋木である。この地域では、井戸を掘っていると
            黒い物が出て、「井屑(いくず)」と呼ばれたり、山からは、土を掘り起こすと黒い物が出てきて、「岩木(いわ
            き)」とも呼ばれ、川底からは、時として黒い物が出てきて、「川木(かわき)」とも呼ばれ、どれも燃える物で
            あり、古くから燃料として利用されていたという。

             この亜炭層は、場所により、層の厚み、層の数が違い、尾張丘陵地に近い所では、地表に亜炭層は露出
            しているようであるが、大留町付近では、地表から12m下に、鳥居松町1丁目(海抜21m)では、地下30m
            付近と152m、184m付近に埋木(亜炭層)があることが確認されている。(ボーリング調査による。)

             亜炭の採掘は、昭和23年頃が最盛期であったとか。しかし、昭和38年頃には、ほとんどの亜炭鉱は、閉
            山したといわれているのである。昭和23年といえば、私が生まれた年であり、確かに小学生高学年の頃にな
            って、突然我が家でも風呂焚き、工場のストーブに亜炭を使用するようになった記憶がある。それまでは薪を
            使っていた筈。薪割りも小学生の高学年の頃には、手伝っていた記憶があります。家の中に「かまど」もあり、
            煙突も立っていた。家のなかから「かまど」が消えたのは、プロパンガスが普及してからだったと思います。

             其の頃は、かまどのお釜でご飯を炊いていましたが、ガスで炊くようになり、そして、電気釜でご飯が炊かれ
            るようになると、昔のご飯の方がうまかったと言う声をちょくちょく、家のおじいさんから聞いたように記憶してい
            る。

          3.文献に表されている小牧、春日井の亜炭鉱

             小牧市史 通史 P504〜505 に亜炭として記述されている部分には、確かに以下のように述べられてい
            た。
             { 東春日井郡から知多半島北部にかけて、尾張丘陵の尾張夾炭層が分布し、小牧市では、篠岡村がその
            (亜炭採掘・・・筆者注)中心であった。(中略) なかでも、明治45年の合資会社「尾北炭鉱鉱業所」によって開
            発された「尾北鉱山」、さらに大正期に入って芝鉱業株式会社によって開発された「芝池ノ内鉱山」・「芝鉱山」な
            どは、愛知県内でも有数の亜炭鉱山であった。そして、大正13年末には篠岡村で炭坑数は12を数え、なかでも
            ”芝鉱山が年間2万2600トン”、野口鉱山が、1400トン、池ノ内鉱山が1200トンを生産するに及んだ。}と記さ
            れているのである。             

             「春日井の歴史ウオッチング」 伊藤 浩著にも 亜炭の記述がある。
             「 大正6年から最盛期を迎え、当時、尾濃炭鉱と尾張炭鉱を合併した芝炭鉱は、旧坂下町、高蔵寺町、篠木
            町にわたって、採掘場が12抗もある大会社でした。その産額は、全国年産の半分以上にも及び、昭和7年4月
            24日の新愛知新聞の記事によると、運炭鉄道を名古屋に向けて敷設する計画があったと報じている。」のである。             
             伊藤氏の記述には、出川の亜炭鉱が述べられていないようであるが、別会社の亜炭鉱であるのだろうか?

            年間生産量の特に多い芝鉱山(小牧市史 参照)とは、いったい、どこにあった亜炭鉱であったのか?篠岡村に
           あったのか? とすれば、篠岡一帯は、亜炭鉱の巣窟であり、廃坑跡が無数に存在する稀に見る危険地帯(岐阜県
           の御嵩町と同様)と言わなければならない。が、上記文献に述べられている芝鉱山と芝炭鉱とは、同一の存在なので
           あるのか、違うのかにより、篠岡一帯の危険度が違ってくるのではなかろうか。
            
            それを解決する資料が、春日井市史 P 453 に記載されていた。
            昭和36年12月現在の春日井市の亜炭鉱山一覧表にである。

            「 鉱山名   鉱山所在地 鉱業権者名   住所      労働者数   生産高(月産)  着手年月日    
            ・  芝     春日井市   芝鉱業(株) 春日井市出川町  37       380トン   明治44年12月10日」
            と記載されている記述をみつけた。
            また、春日井市史には、「高蔵寺が最初で、春日井市内では、篠木(その当時は、大泉寺新田あたりまで篠木と言
           われていたようである・・筆者注)、芝が前後して開設され、大正年間に出川炭鉱が開かれた。」とある。おりしも第二
           次世界大戦が勃発し、亜炭は急速に燃料としての地位を確立し、軍の支援もあって、増産に努めたとある。

            「 戦後、亜炭の需要は、燃料不足から戦時中をしのぎ、亜炭産業は黄金時代を迎えた。当時の亜炭鉱は、高蔵寺、
           篠木、芝、出川のほか、下原、平松、春日、白山など、12の鉱山が開かれ、月産5500トン(昭和23年)の生産高を
           あげ、主に名古屋、一宮、瀬戸方面に送られた。」( 春日井市史 通史 P.453 参照 )とある。

                          別の資料では、「特に亜炭は芝炭鉱や出川炭鉱から多量に掘り出され、高蔵寺駅から桑名や一宮方面へ、また直接
           瀬戸や近在の町村、更には名古屋へ運ばれた。名古屋の帰り荷は材木、薪炭、味噌溜、塩等が多かった。坂下では、
           20軒くらいあり、大野角次郎氏は主に菓子を新道(しんみち)の問屋から仕入れ、多治見、駄知、中津川の菓子屋に卸
           していた外、明知では多治見−瀬戸間の窯業原料の石粉を専属に運ぶ人が3人いた。」と既述される近世の村2 農業
           農民 安藤慶一郎 金城学院大学教授(郷土誌かすがい 13号 HP版 参照)
            
            小牧市史に記述されている芝鉱山(芝鉱業株式会社)は、紛れも無く春日井市にあり、明治44年創業であり、出川
           町に本社を構えていた。小牧市史から推測される篠岡地区に存在する亜炭鉱山ではなかったことが、はっきりするの
           であります。春日井市内には、12の亜炭鉱山が存在していたことも知りえた。
 
            芝鉱山(いわゆる芝炭鉱のなかで、最古の一鉱山の名前であろうか。・・筆者注)は、小牧市史に記述されていた芝
           池之内鉱山(芝が付いている所から芝氏の系列の炭鉱であったのでしょうか。・・筆者注)も、芝炭鉱(社長の芝氏が
           経営する鉱山の総称ではなかろうか。・・筆者注)に包含されるのではなかろうか。いずれにしても多くの鉱山は、春日
           井市内に存在していたといえよう。

             それにしても、人騒がせな小牧市史の記述ではある。この記述を書かれた方は、事実をきちんと確認された上で記述
           されたのでありましょうか。今までの、論拠から、桃花台にお住みの方々少しは安心できましたでしょうか。

            篠岡という地名は、江戸時代にはなく、江戸時代には、大草村と野口村、林村、池ノ内村、大山村があったのみ、「明治
           39(1906)年、大草村、池林村(池ノ内村と林村が合併してできた村・・筆者注)、大野村(大山村と野口村が合併してで
           きた村・・筆者注)、陶村が大合併して東春日井郡篠岡村ができたのであった。」 ( 篠岡百話 第二集 参照 )
            それ故、小牧市内での亜炭鉱の中心は、篠岡村であると小牧市史では述べられたのであろう。

                          余談ではあるが、現 小牧市立篠岡小学校は、「明治39年の大合併で、篠岡村ができた時、大草、池林、陶の旧3村が、
           互いに旧わが村に学校をと主張したため、旧3村の境に学校を建てることになったという。そこは、狸や貉(むじな)の住む
           ような荒れ果てた丘陵地であり、道もなく、ただ獣道のみがあった所であったという。学校が建った頃は、学校の東側に江
           戸時代からあった村道があったのみ。学校へ通う子等は、雨でも降ると草露に濡れながら細い山道に難儀したという。」 
           ( 篠岡百話 第二集 参照 ) 古老からの聞き取りにより、知りえたことではある。         
            
                           前掲 「春日井の地質 地史と地下資源」のなかでも、「 小牧市の大草町でも亜炭が採掘されていた。」と記述されてい
                        る。

            また、前掲 篠岡百話 第二集 P.73には、大正期の炭鉱数も記述されていた。
            それによると 野口 四坑  池ノ内、大草、大山、林は、各二坑で、計 12坑(小牧市史の大正13年の篠岡の炭鉱
           数12と重なるのである。)となっており、大正12年に於けるこれらの年間産出量は、1050、5トンとも記されていた。
            大正期の地名は、おそらく大字でありましょうか。江戸時代より開発され、住民が住居している地域か、その近くの地
           域ではありましょう。
          
                           大草の亜炭鉱については、未確認の情報ではありますが、併記しておきます。
            まず、大草にあったのは、春日井の歴史ウオッチングでも記述されている尾張炭鉱(尾張炭田ともいう)ではないか
           ということ。坑道があった地上部の土地は、その炭鉱で働く人々に給料の一部として、無償で払い下げられていたという。
           長く働けば、それに応じて広い土地が払い下げられたとも聞く。
            当然、その土地の下には、亜炭鉱の坑道があることは、承知の上で自ら家を建て、住んでいるという。
            あるいは、果樹園として存在しているやに聞き及んでいる。
            あくまで、また聞きであるので、真偽のほどは確かめようがありませんが・・・。かなり信憑性のある話ではありましょう。

            「 昭和44年当時、ほとんどの亜炭鉱は閉山したようであるが、わずかに大草の亜炭鉱が一つ操業をしていたようで
           ある。が、まもなく廃坑となる運命とか・・・。」( 篠岡百話 第二集 P、74 参照 )と記述されていたことから、今から
           40有余年前までは、小牧地区に、最後の亜炭鉱である操業現場が大草にあったという。いったいどのあたりであった
           のであろうか?昭和44年当時、大草という所での操業であれば、桃花台地域は、古くは、広い意味では篠岡であり、桃
           花台ニュータウンの地域は、大草・野口・池ノ内・陶等により、分割されていた筈。しかし、昭和44年当時は、大草という
           場合、狭い意味でありましょう。とすれば、この最後の亜炭操業地は、間違いなく桃花台ニュータウン内では無いことに
           なりましょう。
                                    
                         未確認情報ではありますが、大草炭鉱の一つではないかと思われる書き込み 「うえこみ 春日井 小牧 の旧掲示
           板過去ログ 春日井小牧の疑問質問 掲示板 069に 桃花台について という項目があります。」( そのHPアドレス
           は、 http://www.kasugai-komaki.jp/modules/xfsection/article.php?articleid=127  であり、その中に以下のような
           内容を見つけた。( これを書かれた人に了解を得ていないが、投稿元を明記し、原文のまま転記させていただいた。)
              「 尾張の風 さん   2003/02/28 (金) 03:51

               亜炭を掘っていたそうです。

               大草にもかなり坑道後(跡か・・筆者注)が残っています。
              「ぼだい樹」の前の屋土池にも坑道から流れ出している色のついた涌き水が少し流れこんでいました。

              それとは別に水源の乏しかった昔に結構溜池を作っていたそうです。

              野口・大山・大草にも結構残っていますよ。 」

      早速、菩提樹(料理店)の近くの「屋土池」なる存在を確認しました。そこは、現 大草信号機のある所よりやや南東より
     で、坂下から桃花台に向かう江戸時代からある村道で、大草東より二股に別れもう一つは、吉原に行く道になる。その吉
     原に向かう道沿いに東鉄観光バスセンターがあり、そのセンターの北西側に屋土池はある。やや丘陵地になっているが、
     この辺りの地下に亜炭鉱があったのであろうか。大草の亜炭鉱は、大正期 2抗あったようで、これが、その一つであった
     のであれば、もう一つの亜炭鉱は、どこであったのであろうか。その箇所は、今もって不明であります。が、屋土池の近くに、
     二つ目の大草炭鉱もあった可能性は高い。この屋土池から大山炭鉱、野口炭鉱、林炭鉱、池ノ内炭鉱は、桃花台ニュー
     タウンの外周或いは外周道路に沿ってやや距離を置いた所に位置していることに気づかされるのであります。

      また、つい最近、私が、通院しているバスの中で知り合った野口在住のご高齢の方と話す機会があり、その時に、
     野口でも土地が陥没したことがあったとも聞いた。これは、おそらく野口炭鉱の廃坑による陥没であろうと推察する。          

               野口炭鉱については、小牧市史 P、253 にも部分的な解説がされている。
      「 文化年間(1809〜1818年)、野口村の井上弥兵衛が、丸根新田を開墾したとき、地中から 川木(かわき)
     という物をみつけ、乾かして燃料としてから盛んに採掘したという。明治15年から企業化し、明治32年、日本鉱業法
     の改正により亜炭として採掘することが認められた。大正の頃には、野口地内に4抗あり、なかでも、野口鉱山は、年
     間1400トン余りを産出したこともある。」云々と記されている。

      ところで、丸根新田とは、どこにあったのであろうか? 小牧市史 資料編2 近世村絵図編 P,101の野口村絵
     図の解読図に丸根留池を見つけることができる。そこは、現 野口と現 大山の境で、大山川左岸の丘陵地よりの所
     で野口地内にある。この村絵図は、弘化2(1845)年の村絵図であり、丸根留池の右隣には3枚の田が図示されてい
     て、おそらくこの田が、丸根新田ではなかろうかと推察する。また、川木(かわき)と称していることから、開墾付近には、
     沢水が流れており、その沢水の流れている辺りで川木(かわき)を見つけ、掘り出して乾燥させてから燃やした所よく燃
     えたので、その後も掘り出したのであろう。この地中からみつけたのは亜炭であったと推察いたします。とすれば、野口
     炭鉱は、大山川左岸よりの野口と大山の境近辺あたりにあった(ここは、桃花台ニュータウン外周道路よりかなり外れ
     の北東部分に当たる)と推察できました。

      このあたりは、既に江戸時代の文化以降には、燃料として掘り出されていたようで、以下の史料で、もう少し詳しく述
     べてみようと思う。
               多治見市史 窯業史料編 P.206〜207 「 乍恐以書付御達奉申上候 」は、多治見村庄屋 円治より(現岐阜
     県笠松町にあった)幕領笠松御役所宛の嘉永7寅年3月の古文書であり、、そして同年の二通の覚 古文書と合わせ
     て、御府内(名古屋城下か江戸城下か、どちらかであろうが、おそらく、名古屋城下ではありましょう。・・筆者注)宛亜炭
     の掘り出し場所と値段調べの報告をしているのであります。

      それによると、亜炭掘り出し場所は、尾張国春日井郡 野口村、林村、池ノ内村、高蔵寺村。そして、幕領土岐郡
     高山村、土岐口村、多治見村。尾張国愛知郡岩作村の以上8ヶ村であったという。
      亜炭の値段は、掘り出したばかりの生亜炭、36貫目(1貫を3.75Kgとすると、135Kg)一駄あたり、銀6匁(平成
     元年の米価比較から、元文小判一両=約4万円相当として、一両=銀60匁換算で、現代の値段にして約4千円相当
     ・・筆者注)であったことが分かる。その当時の生亜炭1Kg当たり約30円相当(その当時の値段で約3文)であったであ
     ろうか。 
      これらは、ほとんど露天掘り、もしくはごく浅い所で掘り出されたものであろうと推察する。

      この当時、土岐郡産出の亜炭は、多治見から今渡街道を木曽川の野市場( 現 今渡 )川岸まで運び、川運にて桑
     名まで、そして、海上輸送にて御府内まで運ばれたとある。
      高蔵寺の亜炭は、大曽根まで運び、同所より車(大八車であろうか・・筆者注)を使って川まで運んだとある。とすれば、
     野口、林、池ノ内の亜炭は、どのようにして御府内まで運んだのだろうか?それらの文書には、何も書かれていなかった。
     が、下街道にも近く、木曾街道にも近い故、そのどちらかのルートで運ばれたのであろうか。とすれば、近世末には、篠
     岡では、亜炭採掘稼ぎが、運送駄賃稼ぎが、常態化していたとも考えられる。が、何も記述が無い故、推測でしかない。
      
      只、御府内宛亜炭の掘り出し場所と値段の報告である故、現 小牧市市内の各村々も御府内宛に送り出していた可能
     性は高い。付け加えておきますが、この文書を作成した多治見村庄屋 円治は、加藤円治という人物であり、江戸末期に
     於いて、尾張藩の御用商人へと出世していく多治見村の在郷商人であり、多治見村の庄屋でありました。
     ( 詳しくは、拙稿 江戸時代における多治見村本郷 西浦家の経営とその躍進の歴史的前提についての覚書 を参照
     下さい。)
     
            最近、小牧市の図書館で小牧市教育委員会の委託をうけて、小牧市内の亜炭鉱について聞き取りをしてみえた教員
     集団の研究報告書に偶然であった。小牧叢書14 「小牧の産業史話」 平成8年刊 小牧市教育委員会の小冊子であ
     ります。
    
      それによると、平成5年頃、当時58歳であろう野々川和明さん(野口地区で区長さんをしてみえた方のようです。・・筆
     者注)からの聞き取りとして次のように記述されていた。

      「 野口の亜炭鉱は、太平洋戦争前から、大山川の北側に数ヶ所、南側に十数ヶ所あったという。大きな炭鉱は、(現
     野口の信号機があり、巡回バスの野口橋北バス停のある道路と交わっていて大山川沿いに平行に走る旧道の・・筆者
     付けたし文)野口の信号機付近の旧道の北側に亜炭坑(定道1221)があったという。そして、もう一つは玉川電気工事
     近く。(ここは、野口柿花の交差点より西側で、鷲が池の南西寄り、昭和12年発行の東春日井郡篠岡村土地宝典でいえ
     ば、旧字 法尺寺地内の旧道沿いにある。・・筆者注)
      更に、鷲が池の北側と、鷹が池の東側等にも亜炭坑があったという。この辺りからは、良質な亜炭がたくさん掘り出さ
     れていて、野口の信号機の近くを流れる大山川に架かる現 野口橋から東へ二番目の・・筆者付けたし文)昭和橋から
     鷲が池の横を通り、現 光ヶ丘三丁目の入り口までの道路を地元の人は、昔からあった道で、炭鉱道路と呼んでいたそ
     うである。その周辺には、大きな炭鉱がいくつもあったからであり、平成5年頃でもそう呼んでいたという。」

      これらの大きな亜炭鉱は、江戸時代に川木(亜炭)を見つけたと言う丸根新田であろう所から西へ約数百m程離れた
     辺りであったことも知りえる。蛇足であるが、丸根新田であろう所から東寄りに1Km弱ほどの所に四季の森公園はある。

      鷲が池の南側2〜300mには、井戸田さんの菖蒲池がありましたが、今は、その菖蒲池を分断するように桃花台の外
     周道路から鷲が池に通じる道ができて、古い道路と接している。が、この古い道路が炭鉱道路であるかは、定かではな
     い。もう一本、北側の道路が、炭鉱道路であったかもしれないのである。(野口柿花の信号機を東西に走る道路が、炭
     鉱道路であったかもしれないということである。)
            
      この記述をみて、野口地内にあった亜炭層は、大山川を境にして北に少なく、南に多くの亜炭層が横たわっていたの
     ではないかと推察する。南北の亜炭層の広がりは不明であるが、東西には、間違いなく亜炭層は伸びていたと考えられ
     るのである。
     
      さて、この野口の大きな炭鉱のある地下の亜炭層はどうなっていたかというと、二層あり、上層部は、浅い所にあり、
     露天掘りができたようで、早い時期に掘りつくされたのであろう。上層部の下には、サバ土という粘土層があり、それを
     取り除くと下層部の亜炭層にあたり、上質な亜炭が採れたという。この下層部の亜炭層は、地表から凡そ30数m〜約
     60m(原文では、20〜30間)の深さにあり、この亜炭層の厚さは、どこも50〜60cm位でしかなかったという。この辺
     りの亜炭層の広がりは、残念ながらはっきりとはつかめません。が、鷲が池を中心にして、北は、旧道よりやや神社方
     向へまで、南は、池ノ内亜炭層の南北幅と同じくらいの広がりとすれば、鷲が池より弱冠南よりくらいかと、推測してい
     ます。とすれば、光が丘、篠岡の鷲が池に近い外周道路までは至っていないのではなかろうか。廃坑跡は、地下約40
     〜約60mの所に空洞(高さ50〜60cm程度)があると思わなければならないでありましょう。

      あくまで想像ではありますが、この廃坑跡のある地上部は、現在、おおむね水田か畑地、溜池若しくは、雑木林や竹
     薮、果樹園である。また、最近火災を起こしたメイトウ自動車の敷地、東部浄水場になっているところであろうかと思う。
     鷲が池から大山川と平行して走る旧道よりやや北側の間の地域一帯の地下に鉱脈があったのでありましょう。多少建
     物もあるようではありますが・・・。

      小牧における4つの鉱山名(大草、野口、池ノ内、下原)の存在は確認できたのである。が、残り一つは、大正期の大山
     炭鉱である。この大山炭鉱は、野口炭鉱の聞き取りに答えてみえた野々川さんからの教示があり、現 大山を通る愛知
     用水辺りに亜炭坑(安戸1374)があったという。四季の森公園の近くである。そして、江戸時代や、大正期に出てくる林
     地内の林炭鉱(ここは、偶然ではありますが、林の詳雲寺を訪れた時、先の住職さんからお話を聞いている時、この境内
     近くでも陥没があり、対処して頂いたという事を知りました。亜炭廃鉱跡であったのでしょう。・・筆者注)を合わせて6鉱山
     名が桃花台ニュータウン外周から離れた古くから集落を形成している付近に存在していたのである。

      まったく、どのあたりで採掘されていたのかさえ分からないのが、池ノ内鉱山と下原鉱山であった。が、最近、池ノ内鉱山
     ではないかと思われる未確認情報に接する機会を得た。その方もはっきりした確証はないようであるが、大草、池ノ内に知
     り合いがみえ、若い時池ノ内鉱山の話を聞かれたようで、その方によると、池ノ内鉱山は、現池ノ内の交差点あたりから、
     北西方向の犬山よりの辺りではなかったかと話してみえ、具体的には、池ノ内の交差点より犬山に向かう所の倉知仏壇店
     の名前をあげられ、その辺りから北西方向にかけて、果樹園になっているところだとも言われた。

      字 林地区と言ってみえるようで、方角が違うように思いましたが、よくよく江戸時代の池ノ内村と林村の村境を村絵図
     で確認しますと、確かに林村が、北側から回り込むように池ノ内村に入り込んでいたのである。確かに林地区に当たっ
     ているのであった。その池ノ内鉱山の亜炭を、山木(やまき)と当時の人は、呼んでいたそうで、川から離れた丘陵地(山)
     の鉱山であったと思われる話しぶりであった。

      この池ノ内鉱山についても、前掲 小牧の産業史話に高橋一さん(平成5年時 63歳)からの聞き取りの情報として記
     載されていた。
      それによると、「この方の父上が、川北炭鉱(後、興和炭鉱と名称をかえたとか)として昭和21(1946)年春から操業
     を始め昭和36(1961)年に閉山したという。」小牧市史に記載されている芝池ノ内鉱山は、大正期の操業であり、この
     川北炭鉱とは、別物と考えなければならないだろう。が、芝池ノ内鉱山は、池ノ内にある亜炭層の一番上の層乃至は、
     二番目の層を採掘したのではないか?と考えれば辻褄(つじつま)はあう。

      最近聞いた池ノ内鉱山の未確認情報は、この川北炭鉱の亜炭鉱のことなのであろうか。
     採掘していた場所もほぼ一致するのである。それは「、小牧の大泉寺のある丘陵地の南側で、大山川が流れる川筋に
     平行に走る旧道 明知味岡線に挟まれた範囲であった。この池ノ内の亜炭層は、野口の二層より多い、三層であったと
     いう、亜炭層の厚みは、東にいくにつれて薄く、西に行くにつれて厚くなっているという。池ノ内の亜炭層は、正確には、
     東南東から西北西に伸びているようで、亜炭層の南北幅は、池ノ内の大泉寺から旧道までの間位ではないかと推測して
     いる。しかし、野口の亜炭層とは、連続性はないように思われる。が、東西方向へ亜炭層は伸びているのであり、方向
     性は同じと考えていいように思われる。更に西へ亜炭層は伸び、旧 尾関学園(現 誉高校)の敷地の地下へと続いて
     いたという。その旧 尾関学園体育館の近くには、小泉炭鉱の亜炭坑が昔あった。」( 小牧の産業史話 参照 )ようで
     ある。「しかし、小松寺までは、尾張夾炭層は伸びてはいなかったようである。それは、小松寺でも亜炭が掘られたようで
     あったが、よい亜炭が取れず直ぐに閉山したからである。」 この情報も、高橋一さんからの聞き取りによる。(小牧の産
     業史話 参照) 
      この例のように、鉱業権の設定をしたが実際には採掘されなかったこともあるということである。

      「 亜炭層の一層目は、地表約6m(原文では、3間)位の土を取り除くと約1m(原文では、4尺)ぐらいの幅で分布して
     いたが、戦前の採掘で掘りつくされていたという。二番目の層は、約10m(原文では、5間)くらいの幅の粘土層(青土)の
     下にあり、幅約1.5m(原文では、5尺)くらいの厚みの亜炭層として分布していたという。これも、ほとんど戦前に掘りつく
     されたのであろう。この二層目の亜炭層の下に、およそ14m(原文では、7間くらい)の厚みを持つ磨き砂の層(御嶽山の
     火山灰が堆積した物という。)があり、その下に三層目の亜炭層が、約1.5m(原文では、5尺ほど)幅で分布していた。」  
     ( 前掲書 小牧の産業史話 参照 )という。

              「 戦後、川北炭鉱が採掘した亜炭層は、最初は二層目であり、その後三層目となり、地下30〜40m程度(初期の頃は
     、竪坑の深さは15m弱位の深さであったという。)であろうことが知られ、掘り方は、竪堀りと、横堀り、斜め堀りを採用し
     ていたともいう、。どの炭鉱でも、働き手は、ほとんどが地元の方で、農業の片手間に働く場合もあったという。もしくは、
     戦後復員された方々で、働くところがなかったので、炭鉱夫として、従事することが多かったという。稼ぎは、普通の働き
     口より倍よかったという。また、戦時中、炭鉱夫をしていた方は、乾燥バナナとか、米の特給があり、優遇されたという。」
     ( 前掲書 参照 ) 軍の後押しがあったからであろうか。「 戦後の川北炭鉱の採掘は、地上部に影響がでないよう搬出
     坑道は、亜炭層にかからないようギリギリの所に作られ、亜炭層を碁盤の目のように採掘し、四隅は、亜炭層を柱として
     残し、亜炭でない残土は、地上部に排出せず、碁盤の二辺に盛り土として固め、補強財とするとある。」 ( 篠岡百話 
     第二集  昭和45年刊 小牧市立篠岡中学校 参照 ) あくまで、採掘計画書であるので、実際はどうであったかは、よ
     く分かっていないという。

            鉱業施業案許可申請書  昭和27(1952)年によると、池ノ内での亜炭埋蔵量の推定が記載されていて、南北は、100             
    m、東西へ175mの長方形をなしているとされていた。中層しか採炭しないとか。鉱床の厚さは、平均0.9m程度であると推
    量されているようでありました。こうした書類が、高橋一氏の家に保管されていました。

      この当時、亜炭の採掘をしょうとする者は、名古屋通商産業局々長宛に「亜炭採掘許可願」「鉱業施業案許可申請書」
     を提出し、許可されないと採掘できなかったようである。これらの申請書が、旧名古屋通商産業局に保存されているやも
     知れません。
            後日、旧名古屋通商産業局(現 中部経済産業局)に問い合わせましたが、そうした書類は、5〜10年の保存期間後
     処分するようで、現在は、存在しませんという返事でした。ただ、鉱業権設定の記録は、残っているとのことであり、5千分
     の一位の細かい地図で、場所を指定してファックスを中部産業局鉱業課宛に送ると二三日後には、指定した場所は、鉱
     業権設定の場所か、そうでないという回答をして頂けるとのことであり、何回でも無料とのことでした。鉱業権の設定とは、
     実際に操業した場所とは断定できず、亜炭を掘る権利を有する場所という意味ではあるという。
      亜炭鉱の鉱業権は、既に破棄され、消滅しているのであるから国の出先機関は、全てを公開し、公表してもよさそうに
     思えるが、その鉱業権の設定がされた地域の土地所有者への配慮からであろうか?全面公開までは至っていない。
      正式な手続きをすれば国の出先機関は答えるのであるから全面公開をしていると考えているのでありましょう。

      うがった見方をすれば、これらの亜炭鉱の中には、戦時中、軍(国)の後押しで採掘させられていた鉱山もあったやに聞
     く。そうした亜炭鉱の廃坑跡には、戦後、時限立法にて、埋め戻しがなされ、原状回復が図られたようである。(陥没等が
     実際に起こった地域については、現状回復やら埋め戻し等の処置がされたのでありましょう。・・筆者注)、
      危険な状態が起こっていない地域の廃坑跡とか軍の後押しのない鉱山の亜炭廃坑跡は、埋め戻しの対象とはならず、そ
     のまま放置されているのであろうか。あるいは、炭鉱跡が特定できず、そのままになっているやも知れないという。

      ところで、江戸時代の下原地区の範囲は、大草村に接していました。「下原鉱山の経営者は、春日井市坂下町の塩田
     淳逸氏で、創業開始は、昭和32年1月5日であった。鉱山の範囲が、春日井、小牧両市にまたがっていることは間違いな
     いことであり、月産340トンと昭和36年12月現在報告されていた。」( 春日井市史 P453 参照 ) この鉱山は、最盛
     期と比べれば、それほど大きな規模の鉱山ではなかったように思う。が、この時期としては、それなりの規模の鉱山ではあ
     ったのでしょう。

      以上のことから、野口鉱山は、可能性として桃花台ニュータウンの区域外の北側部分にあたり、その地下の浅い所に廃
     坑が存在していると考えなければならないでしょう。

      大草鉱山と下原鉱山は、まだこうだという姿は、みえないのであるが、少なくとも大草鉱山は、桃花台ニュータウンの区域
     外の可能性が高く、下原鉱山は、、もしかすると、桃花台の区域外ではないかと推測している。{その理由として、マイホー
     ムタウン 守山というHP http://www.geocities.jp/moriyamamyhometown/index.html の近代のページ  守山の亜炭  とい
     う項目に小牧、春日井に存在したであろう亜炭層の地図が添付してあり、出川、中部大学、坂下へと向かい(旧国道19号
     と国道155号 国道19号で囲まれ、小牧、春日井両市の市境行政区線に囲まれた大部分の場所であり・・筆者注)、その
     坂下の手前 東新明町の富士社辺りから北西方向に亜炭層は大きく曲がり、そして、塩見坂の平和公園、霊園、火葬場を
     含む、霊園を通過しながら現 東山町を含めJAの総合グランド、茨池あたりまで大きな亜炭層のかたまりとして表示されて
     いるように思われます。この亜炭層の地図の出典は、当HP担当の方よりご教示をいただき、 新修名古屋市史  第8巻 
     P151の地図とのことでありました。私も、閲覧したことを付け加えておきます。)}蛇足ながら、この地図を作成された方は、
     事業所関係の方で、その事業所の報告書を閲覧できませんかと名古屋市図書館(鶴舞駅近くの市の図書館)の方にかなり
     調べて頂きましたが、図書館には、蔵書がなく、閲覧できませんでした。

      この拙稿を改訂した後で、下原炭鉱のことではないかという未確認情報を聞くことができた。その方は、下原で幼少期を
     過ごされたのであろうか、知り合いも下原にみえるようで、下原炭鉱の操業を直接見ておられたような話しぶりであった。そ
     の下原炭鉱が操業をしていたのではないかと思われる所は、マイホーム守山 HP 守山の亜炭のところで添付された亜
     炭層の記入された地図の主に春日井にある亜炭層部分のJAの総合グランド辺りから小牧よりではないかと。確かに、JA
     の総合グランドは、下原に近く、その昔は、下原に含まれていたのかもしれないのである。ここがそうであるのであれば、下
     原炭鉱は、もしかしなくても桃花台の区域外ではあると言えよう。でも一つ疑問な点が残る。それは、春日井市史の昭和2
     3年時にも下原炭鉱があったという記述である。確かに昭和30年代初め頃、坂下在住の方が、下原炭鉱を始められたの
     であり、それより、10年位前にも下原で亜炭は、掘り出されていたのである。その点は、未解決のまま残るのである。が、
     昭和23年の炭鉱も下原と付けられている以上、下原地区でないと呼ばれないでありましょう。やはり、桃花台地区以外に
     存在したといえると推測できましょう。

      大山炭鉱は、現 四季の森公園近辺であろうか。林炭鉱は、推測ではあるが、池ノ内炭鉱のある池ノ内大泉寺北側に
     ある蓮池辺りではないかと想定している。(この辺りにも亜炭坑の存在を確認している。・・高橋一さんの情報による。 小
     牧の産業史話 参照 ),私が聞いた未確認情報の倉知仏壇店より犬山よりという炭鉱は、ここであったかも知れません。

      平成25年6月はじめ、林にある祥雲寺へ出かけた時、寺の敷地内の裏で、そこの前住職さんとばったりお会いする事
     が出来、お話を聞く事が出来ました。このお寺の由緒等も話して頂き、その話の折、偶然にもこのお寺の境内で、陥没が
     あった事を話して下さり、廃亜炭鉱の為であったとお聞きし、ああ、ここが、もう一つの林の亜炭鉱であったのかと確認出
     来ました。当然、陥没対策は、ばっちりされたと言う事であります。
      これで、林の当時2坑あったという鉱山の事柄と合致するのではないかと推察いたします。

      もう一つの池ノ内鉱山は、桃花台の区域外であることは確かである。大正期の芝池ノ内鉱山については、よく分かって
      いないのである。が、おそらくは、川北炭鉱と同じところであろうと考える方が、辻褄はあう。
                 
      このように桃花台の周辺にある亜炭廃坑跡の実像は、おぼろげではあるが、姿がみえてきている。が、未だ、はっきり
     していない部分も残っていることも確かである。そして、江戸時代の大草村は、範囲が広く、現 桃花台の篠岡3丁目、篠
     岡1丁目、古雅、高根辺りは、大草村であった。現 篠岡小、中、篠岡2丁目は、林村であったようです。とすれば、大草炭
     鉱の残り一つは、どこであったのだろうか。可能性としては、春日井市との境あたりには、確かに亜炭の鉱脈が、存在す
     るのであり、現 春日井市の火葬場近辺あたりの大草が、一番可能性が高い筈。あと考えられるのは、鷲が池を含めて、
     七重(ナナシゲ)交差点辺りは、江戸時代大草村であったやに。とすれば、池の東側が、最後まで操業していたあの亜炭鉱
     であった可能性が高い。先の小牧叢書14 「小牧の産業史話」 平成8年刊 小牧市教育委員会の小冊子での野々川さ
     んからは鷲ヶ池以南については、亜炭坑の言及がないようであり、その可能性は、薄いと言えましょう。

             現在、桃花台篠岡3丁目地域の北側には、桃花台ニュータウンの外周道路が走っておりますが、その外周道路のすぐ
     北側にこんもりとした林があります。計画当時、ここは農業公園の予定であったとか。この林と外周道路の境辺りから、奈
     良時代であろう窯業の穴窯が、偶然見つかり、工事最中でありましたが、急遽発掘調査がされたという。残念なことに、窯
     跡の半分は、重機によって壊され、残り半分(窯のたきぐち)しか調査できなかったという。「この辺りは、小牧市大字野口と
     発掘調査書には、記述されており、この窯跡は、野口にあった篠岡20号窯ではと推測されていますが、正式な発掘番号は、
     篠岡112号窯(発掘調査後 滅失)と命名されて発表されておりました。」( 愛知県小牧市大字野口地内 篠岡112号窯 発
     掘調査報告書  小牧市教育委員会 参照 )
      それ故、篠岡3丁目の外周道路辺りで、江戸時代の野口村と大草村の境があったのではないかと推量できそうでありまし
     ょう。(後日 篠岡村土地宝典 昭和12年発刊の土地宝典と江戸期末の野口・大草村絵図から篠岡3丁目北側の外周道路
     と農業公園予定地だった所は、旧字名 違井那(タガイナ)であり、大草村所属の地域ではなかろうかという結論に至りました。
     その違井那の北側は、旧字名 東洞であり、ここは、野口村であった筈。かって外周道路北側にあった菖蒲園(井戸田某氏
     所有地)に繋がっているのが東洞の東側であり、丘陵地間の洞と呼称される地域が、東西に平行して存在し、大草・野口村
     の村民は、交互に、開発していったようでありましょうか。互いに自村から農地に開発し、沢水の流れる地域を開発し、最頂
     部に池を造り、ため池とし、水田化し、開発していったと推測できます。・・・筆者注)
      
      だからである、今の所、桃花台ニュータウン内には、亜炭廃坑跡の存在が皆無であることは、疑いようがない事実でも
     あることを声を大にして、付け加えておきたい。

      今後も、桃花台周辺の大草、池ノ内、野口、大山、林、下原の各炭鉱の詳細情報を追い、亜炭廃坑跡の実態に迫って
     いきたいと考えている今日この頃である。
   
      そして、亜炭廃坑跡が存在するであろう地域では、いくら地下の廃坑までの距離があっても、雨水、地震等により長い
     年月の間には、亀裂が生じ、広範囲の陥没等の生ずる危険性を孕んでいる。いくら、採掘する時、碁盤の四隅の亜炭
     層を柱として残していたとしても、年月が経つ内に亜炭の柱の表面も劣化し割れ目もでき、柱としての耐久性は無くなっ
     ていくのではないか。早めに、廃坑跡の空洞を無くす対策を施す必要があろう。その対策は、時限立法で行われていた
     のであるが、今も、別の団体が、その作業を引き継いでいるやに聞いている。遅まきながらでも、対策に乗り出していく
     のも一つの方法ではあろう。崩落、陥没等が起きてからでは・・・・、遅いのである。

             地下空間の陥没等の詳しいことは、充填技術センター HP http://www.juten-tc.com/tokai-atan.html で、熟読され
     ることをお勧めします。

             この小牧市内にある亜炭廃抗跡については、市議会でも議題にあがるようです。平成24年6月14日 第2回定例会
     の議事録を掲示しておきます。

      それによると、亜炭鉱であろう陥没については、「小牧市における直近5年間の特定鉱害復旧、これは亜炭坑が原因と
      されます陥没応急工事でございますが、この申請件数は、平成19年は0件でありました。平成20年度は3件、平成21年
      度は1件、平成22年度は0件、平成23年度は5件ございました。」と小牧市の市民産業部長 舟橋 毅氏は、答弁されて
      おりました。まったく0(ぜろ)ではないようです。また、「亜炭廃坑に起因します陥没は、発生数やその規模は予測が困難
      でございます。したがいまして、予算の執行状況をかんがみまして、平成24年度、今年度の当初予算では、浅所陥没応
      急工事費といたしまして150万円を計上しております。仮に予算額を超えることとなれば、予備費等で対応してまいる所存
      でございます。
       なお、陥没が亜炭廃坑に起因するものであると認定された場合は、あいち産業振興機構より復旧工事費に対して全額
      の助成が受けられることになっております。」とも答えてみえました。

       あわせまして、現 山下小牧市長は、「 亜炭廃坑に起因する陥没につきましては、いつどこで発生するかわからないと
      いう状況の中で、また陥没規模等も予想が困難な中でありますけれども、今後とも、国の動向、情報収集等を進めながら、
      今まで同様に市民の安全を守るべく状況に応じて迅速に対応する、そういった体制を整えていくことに努力をさせていただ
      きたいと思っております。」と答えられておりました。

       廃抗跡の特定は、難しく、陥没が起こった時に迅速に対処する事が、第1義なのでしょう。どこまで、市として真剣に情報
      収集をされるのでしょうか。まだ今なら、そうした炭鉱で働いて見えた方も存命中でありましょう。そうした方々からの情報を
      収集されん事を願います。

       私の小牧市篠岡周辺に於ける亜炭廃坑跡の記述は、以上を以って終了させていただきます。
             
      付記
      以下に述べる事柄は、現 春日井市域の旧 亜炭鉱の事であります。       
      出川にある赤ちゃんデパート 水谷(平成7年創業)は、旧国道19号沿いにありますが、その昔、この水谷の北側
     に尾濃炭鉱と尾張炭鉱を合併した芝炭鉱(大正6年前後か・・筆者注)の社長である芝さんのご自宅があったようで、
     その近くに炭鉱労働者の長屋が建っていたという。、幼少時その近くに住んでみえた方の証言のまた聞きである。「そ
     の近辺を芝松本鉱とも呼んでいる方もあり、私は、芝鉱山と呼ばれた出川町の芝鉱業株式会社はここではないかと
     想定しているのである。」 ( あくまで筆者の大胆な想定ではあるが・・・。)

           これ以後の記述は、ヤフーブログ http://blogs.yahoo.co.jp/kawamiya19192009/12887638.html によることを明記し、
    詳しくは、そちらを参照されることを切に望みます。
             
      松本町の旧家のご婦人の話では、出川から春日井ICに向かう国道155号不二 ヶ丘の信号機を越え、左手側に
     金ケロ池がある。この池の東側に芝松本鉱があったのではと言われる。(丁度旧国道19号沿いにある赤ちゃんデ
     パート水谷の北側にあたっているのであり、・・筆者注)現在は、ダイカネ技建という建設足場の会社がある所がそう
     であるという。

      ダイカネ技建がある所は、(その当時、やはり、芝炭鉱の社長である芝さんの自宅があったのであろうし、芝炭鉱で
     働く従業員の宿舎である長屋が建っていたのであろう。・・・筆者注)そこに芝松本鉱があったと言われているようであ
     る。
      「芝松本鉱(春日井市史 P、455 図2−2 芝松本鉱全景写真 参照)と呼ばれる鉱山の存在は知られ、昭和の初
     めには存在し、その当時の住所は、高蔵寺町大字松本(現松本町)であり、芝松本鉱以外に、その当時4ヶ所の鉱業
     所を芝炭鉱は所持していたことも知られるのである。」( 写真集明治、大正、昭和、春日井  創文出版社 平成元年
     刊行 参照 )ことも知りえた。

             春日井ICから国道19号を坂下方向に行かず、国道155号を高蔵寺方面に走ると、大泉寺の信号機の交差点に至る
     国道155号と交差するように江戸時代からある下街道が走っている。その下街道の道を右手はるか先に中部大学の学
     舎をみながら走ると右手側に八幡社の森がみえる。その鳥居の背後に杉並木があり、杉並木の終わる所に、尾張炭鉱
     株式会社奉納の石灯籠が建っているという。さらに、八幡社の手水舎の背後の森の中にひっそりと山神と大きく印刻され
     たノッポの尖がり帽子形の自然石が安置されている。その自然石の背面には、昭和7年10月建之 寄付 芝炭鉱と印刻
     されているという。

     ( おそらく、芝炭鉱の社長さんが、この八幡社のある丘陵地の地下にある亜炭の採掘の安全祈願と鎮守を祈願して建立
     されたのではないかと推察するのである。・・・筆者注 )
      また、現 上野町の神明社の南側の崖地に亜炭鉱の入り口があったともいう。その当時、そこの事務員をしてみえたご
     高齢のご婦人の話である。その坑道は、王子不動産、王子緑ヶ丘の住宅地まで延びていたともいう。
      ここまでが、ヤフーブログの内容の大まかな概略であることをお断りしておきます。

      (さらに、中部大学の現役学生が、この大学の敷地の下には、亜炭廃坑跡があると本学の教師から教えられたとも聞い
     たことを耳にした。・・筆者注)
      おそらく、この中部大学の敷地のある丘陵地の東、南、南東部に亜炭鉱の入り口があったのであろうか。
      「この丘陵地全体の地下に尾張夾炭層が広く分布していたのであろう。」。( マイタウン 守山 HP 参照 )芝炭鉱は、
     その亜炭層の採掘を大正から昭和30年代末まで営々と操業をし、閉山したのであろうと推量するのである。
 
     *  春日井市・小牧市の亜炭採掘地についての筆者のまとめ    
      不思議なことではあるが、亜炭廃坑跡が地下にありそうな場所には、小牧市では、四季の森公園とか旧尾関学園とか、
     春日井市では、中部大学、さらに、塩見坂の墓地公園、火葬場、JAの総合グランド後は、果樹園とかになっている場合が
     多いのであります。果樹園については、大草鉱山のような未確認情報ではあるが考えられそうなこととして理解できるのであ
     りますが、共に公共施設等が存在する事に対して両市は、亜炭廃坑跡について何らかの情報を得ているのではないかとさ
     え感じてしまうのである。私立の学園については、多分に地価が安い(亜炭廃坑跡の故ではあろうが・・筆者注)ことが大きか
     ったのであろう。

      それというのも地上権は、所有権として明治以降保護されてきているが、地下権については、それほど厳密に審議され
     てきていないことと関係するのであろう。大手建設会社と接する機会の多い、市役所の建築課などでは、各地の地下の
     ボーリング調査結果を非公式に聴取することも出来得たと言えよう。こうした大手ゼネコンのボーリング調査結果の公表
     を何らかの形の法律で義務付けることをも考慮していくことを考える時期にきていると言えるかもしれない。

      もっと言えば、亜炭鉱の存在を知っているのは、国の出先機関であり、こうした情報を国民に公開していない以上、住宅
     会社、不動産屋には、売主に対して真摯に地下空間の事を法律等で伝える義務を負わせる事が必要ではないでしょうか。

      更に言えば、地震時の宅地造成下よりの地下水の噴出(いわゆる 液状化現象)の有無等の周知徹底等も法律で義務
     付ける時期にきているのではないだろうか。売ってしまえば後は、自己責任ではあまりに無責任といえるのではないでしょう
     か。これでは、騙される方が悪いを地でいっているといえましょう。正直者が、馬鹿をみる社会であってはならないと思います
     が、いかがなものでしょうか。ある程度は、経済活動を縛るかもしれませんが、悪質不動産屋等々を締め出す事になり、一
     層経済活動に信頼感が生まれ、活発化するのでは・・・。とも思います。

     参考までに換算表を添付しておきます。
     1寸=約3cm  1尺=約30cm  1間=約1.95m (1間=6尺5寸とすれば)  1貫=3.75Kg  1石=180リットル  
                           あるいは1間=約1.8m(1間=6尺とすれば)      
                            とする場合もある。私は、1間=6尺5寸を採用した。                              
        <  参考文献  >
                
           ・ 小牧市史 通史
           ・ 小牧市史 資料編2 近世村絵図編
           ・ 春日井の歴史ウオッチング  伊藤 浩著 
           ・ 春日井の地質 地史と地下資源  大橋 博    郷土誌かすがい 8号
           ・ 春日井市史
           ・ 小牧叢書14   小牧の産業史話   小牧市教育委員会
           ・ 篠岡百話 第二集   小牧市立篠岡中学校  ( 昭和45年刊行 昭和44年度篠岡中卒業生による
                                            古老等への聞き取りをまとめた今で言えば記念
                                            卒業文集であり、大学であれば、卒論に当たるの
                                            ではないでしょうか。)
           ・ 多治見市史  窯業史料編
           ・ 新修名古屋市史  第8巻                          
           ・ 愛知県小牧市大字野口地内 篠岡112号窯 発掘調査報告書  小牧市教育委員会
           ・ 郷土誌かすがい 13号 HP版 
                                                        平成23(2011)年7月21日 脱稿
                                                        平成23(2011)年9月10日 改訂
                                                        平成23(2011)年9月21日 再改訂
                                                      平成24(2012)年10月14日 部分改訂
                                                      平成24(2012)年12月15日  加筆
                                                      平成25(2013)年6月1日    加筆