尾張連氏と熱田さん(現 熱田神宮)の歴史的変遷についての考察

               1.はじめに
                  私が、熱田さんへ始めて足を踏み入れたのは、職業人最終年であった。大学生の時も
                 最初の二年間は、学びやは、名古屋であり、ちょくちょく近くまで来ていましたが、参拝した
                 事はありませんでした。

                  熱田さんは、有名ではありましたが、私にとっては、行った事のない神社ではありました。
                 
                  東海三県では、この熱田の森は、伊勢神宮に次ぐ、皇室ゆかりの神社ではあったのでし
                 ょう。それも、霊験あらたかな神剣、草薙の剣の所以でありましょうか。

                                       この草薙の剣については、{江戸時代の中ごろ、岡田正利によってあらわされた「玉せん集
                 裏書」という書物に、松岡正直よりの聞書として次のように伝えている。「八十年ほど以前、
                 熱田大宮司や社家のものがひそかに御神体を窺ったところ、剣は長さ二尺七〜八寸(約八
                 十数cm)、刃先は菖蒲の葉のかたちをしており、なかほどはムクリと厚みがある。その本の
                 方は六寸(約18cm)ばかりが節立っていて、魚の背骨のようなかたちをしていた。そして色は、
                 白っぽかったという。」
                  この記述が正しければ、北九州の弥生中期から後期にかけての三雲遺跡から出土した有
                 木丙(ゆうへい)細型銅剣と良く似た物ということになる。だが、三雲遺跡の銅剣は、一尺七寸
                 (約51、5cm)であり、草薙の剣は、それより一尺ほど長い。相当大きな剣ということになり、
                 最初から宝器としてつくられ、まつられてきたのであろうか。}( 歴史シリーズ23 愛知県の
                 歴史 塚本学、新井喜久夫著 山川出版社 昭和45年発行  P.27〜28 参照 )という
                 記述もあります。

                  「 昭和天皇の侍従長であった入江相政の著書によると、太平洋戦争当時に空襲を避ける
                 ために木曾山中に疎開させようとするも、櫃が大きすぎて運ぶのに難儀したため、入江が長
                 剣用と短剣用の2種類の箱を用意し、昭和天皇の勅封を携えて熱田神宮に赴き唐櫃を開け
                 たところ、明治時代の侍従長山岡鉄舟の侍従封があり、それを解いたところで明治天皇の勅
                 封があったという。実物は検分していないが、短剣用の櫃に納めたという。」と記述されている
                 とか。これは、ウイキペデイア 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、あまのむらくものつるぎ)
                 に記載されておりました。別名 草薙の剣とも言うようであります。
                  ( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%A2%E9%9B%B2%E5%89%A3 参照 )

                                       また、時々東谷山フルーツパークへ行きますが、この東谷山山頂には神が宿る岩があり、古
                                      来より信仰を集めた霊山とも言われ、山頂には延喜式記載の古社である尾張戸神社がありま
                                      す。
                  そのいわれは、「東谷大明神草創本基」によると成務天皇5年(135年)、宮簀媛命による勧請
                 と伝わる古社で、尾張国造・尾張氏の祖神を祀ったものであるといういわれもあり、東谷山西麓
                 には多数の古墳が所在し、尾張戸神社も古墳の上に作られています。
                  その尾張戸(おわりべ)神社の建っている下の古墳は、尾張戸神社古墳といい、築造は、名
                 古屋市教育委員会文化財保護室による発掘調査により、4世紀後半と報告されておりました。

                  現在の尾張戸神社は、尾張藩主により再建された建物であり、元の神社は、大永元(1521)年
                 7月17日に起きた火災によって神宮寺(尾張戸神社の世話をする寺)と共に焼失したようでありま
                 す。かつては熱田神宮に次ぐ大社であったということであり、どうも熱田神宮の奥の院といういわ
                 れもあるとか。事実は、どうでしょうか。
                 
               2、大和朝王権成立期の尾張地域について
                                        春日井市史によれば、尾張一帯は、物部氏系の土着豪族が、支配していたのではないかと考
                 えられており、この尾張東部には、春日氏が古くから支配していたという。

                  「日本書紀には、宣化天皇(継体天皇の息子であります。)元(535)年 皇室直轄領(屯倉)管
                 理の為、各国にある直轄領へ豪族を派遣する事となり、尾張地域にあった間敷屯倉(後の安食郷
                 であろうと言われております。現 春日井南西部、西春日井郡南東部、名古屋市北区辺り)へ、蘇
                 我稲目の命により、尾張連(古事記伝によれば、本拠は大和国葛城地方の豪族)が派遣された。」
                 ( 春日井市史 参照 )と記述されているようですが、「宣化元年は、536年であったかもしれませ
                 んし、また、日本書紀の原文を読めば、上記、春日井市史に記述されている事とは、弱冠ニュアン
                 スが異なるのではという印象を持ちました。それによると、朝鮮半島より来朝する使節の饗応と飢饉
                 に対処する為、九州は、那津(なのつと読み、福岡市博多港の古名)に官家(みやけと読み、大宰府
                 の前身か)を造り、一部の皇室直轄領(屯倉)の穀(もみ)を大臣、大連らは、連等に命じて運び込ま
                 せよ。と命じられた。という詔しか記述されておらず、ここで、関係する文言は、蘇我大臣稲目は、尾
                 張連を遣わして、尾張国の屯倉の穀を運ばしむべし。という一文のみで充分でありましょう。」(筆者
                 注)故に、宣化天皇元年に、管理の為に派遣されたのではなく、既に土着していて、皇室直轄領(屯
                 倉)の穀を運ぶように命じられたと解釈すべきでありましょう。

                  < この日本書紀の記述は、5世紀以前に、既に尾張連氏は、尾張国に居たのであり、536年に、
                 尾張国にある屯倉の穀(もみ)を尾張連によって現 博多港へ運ぶように蘇我稲目を通して命じさせ
                                     たという事で有った筈。>

                  それに、、春日井市史では、派遣されたのは、垂仁朝(3世紀後半以降の王朝・・筆者注)前後と
                 推察され、尾張連氏は、春日部郡辺りに居住したとされておりました。春日部郡の名称は、「雄略天
                 皇の皇女春日大娘の所領としての御名代部があった事に由来していよう。」(春日井市史 P.107
                  参照)と記述されています。

                  初めてこの地に尾張連氏がやってきた頃は、春日部郡とは言われていなかったかも知れません。
                 何故、この地に、尾張連氏が土着するようになったのかは、不明であります。が、尾張氏は、古事記
                 伝によれば、大和の葛城地域にいた豪族とか。垂仁朝の前後に、何らかの事情で、故郷を棄て、まだ、
                 大和政権の支配の及ばない尾張の地へと、先(さき)物部氏と同様の道を歩んで行っていたのかも
                 知れません。

                  こうした尾張氏移住説に対して、小牧市史には、尾張氏は、在地にいた豪族ではないかという説を
                 も内在させているやに読み取れますが、どちらが事実でありましょうか。筆者には、判定できかねる
                 難問かと。

                                       新修 名古屋市史により、私は、春日井市史の呪縛から解放されたように思います。

                  <  かくて、大和一国に覇権を築いた崇神も、先進的な文化・技術をもった丹波王国{古墳時代に
                 丹後地方(今の京都府京丹後市辺り)を中心に、ヤマト王権などと並び独立性をもって存在したとさ
                 れる勢力・・筆者注}の王統を背負う垂仁(イクメイリヒコイサチ)に後嗣を譲らざるを得なかった。そ
                 れは、簒奪とか革命とか云う程の血生臭いものでもないが、さりとて禅譲と云う程の綺麗事でもない。

                  後世の継体天皇のように越前・近江から大軍を率いて急速に大和に進出して、王権を簒奪した
                 と云う革命的な形ではなく、豊臣政権から徳川政権へと移行したような形、前政権の内部にあって
                 次第に膨らませていって、最後には熟れた果実の自然に落ちるのを受け取るような形であったと
                 思われる。
 
                  このようにして、大和の王権は崇神から垂仁に引き継がれたが、その結果、大和の王権の版図
                 は、大和一国のみならず北近畿にも及び、少なくとも近畿一円を覆うものにまで拡大したのであっ
                 た。 > ( http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/other/suinin.htm 参照 )とネット上のHPにはこのよ
                 うに記述されており、垂仁朝(3世紀後半以降の王朝)は、各のごとき性格の王朝であったのでし                  
                 ょうか。
                  その頃に尾張連氏は、尾張にやってきたと考えられているようです。(春日井市史 P104〜10
                 9参照 春日井市史の著者は、古事記伝 本居宣長著に準拠されているのでしょう。)

                  そして、尾張連氏は、「尾張土着直後に、式内社である内々神社を祀ったという。そして、濃尾平
                 野中央部に進出し、支配を広げて行ったのではないかと、その後、熱田神社を奉祀するに至ったと
                 いい、尾張国造へと地位を高めていったようであります。」( 春日井市史参照 )という記述となって
                 おります。庄内川を下降し、尾張平野の中央部へ進出したという見解でありましょうか。

                  愛知県の歴史 塚本学、新井喜久夫著 昭和45年発行 P.31〜32には、「大和朝廷に服属し
                 た豪族は、大和朝廷を背景に民衆への支配力を強め、服属していない地域に対しても、その支配
                 をしだいに広めていった。一方大和朝廷の側も地方豪族の貢納だけで満足せず、大陸に対する政
                 策が頓挫した5世紀前半ごろからはげしく東へむかって進出しはじめる。この段階では、”部”を設
                 定し、部民として人民を把握する方法も取られはじめ(服部、海部、など)天皇家の部民にならって、
                 大和朝廷を構成する畿内地方の大豪族の部民(大伴部、物部、和邇部など)もおかれた。
 
                  尾張地域で、設置年代の分かる”部”は、天皇家の名代、子代の民で、刑部(允恭天皇妃の名代)・
                 長谷部(雄略天皇の名代)・日下部(同妃の名代)などが、5世紀に置かれている。

                  このほか、皇室直轄領としての屯倉もたくさん設置されるようになった。尾張では、入鹿池辺りに
                 入鹿屯倉(犬山市)と間敷屯倉(所在地不明)の名がしられており、この屯倉は、三宅連などにひき
                 いられた三家人部(みやけひとべ)などの特定部民によって耕作された。大和朝廷の支配は、国造
                 などの地方豪族を把握する方式から、次第に直接人民や土地を支配する方向へ進んでいったので
                 ある。」(前掲書 愛知県の歴史 参照) とも記述されています。

                  あの勝川の近く、現 春日井市味美地区での二子山古墳{ 墳長94mの前方後円墳であり、
                 築造年代は、出土する埴輪や須恵器などから6世紀前葉(継体天皇の時代)であると考えられて
                 いるようであります。 }に埋葬された支配者は、尾張連氏に関わりがあった者でありましょうか。
                  小牧市史でも、味美古墳群は、尾張氏と何らかの関わりのある豪族の墓であろうと推定されて
                 いるやに理解できます。

                  が、この墓は、名古屋市瀬古から勝川・味美一体にある物部氏系の式内社の存在していた事か
                 ら類推すれば、物部氏系の一族が、支配していた地域ではないかと。それ故、物部氏にゆかりの
                 ある者の古墳ではないかという説もあります。
               
                  また、{ 一説では、この古墳の埋葬者は、尾張氏(尾張連)、海部氏の祖神。愛知県には「海部
                 郡」というそのままの地名もあり、愛知県春日井市にある味美二子山古墳は継体天皇に嫁いだ凡
                 連(オホシノムラジ)、これが(尾張連草香(オワリムラジノクサカ)のことか、娘の目子媛(メノコヒメ)
                 墓とする説もある。}( http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2006/10/post_04e2.html 参照 )と
                 紹介されております。が、名古屋市内には、断夫山古墳(だんぷさんこふん)という東海地方最大
                 の前方後円墳があり、こちらの方が、尾張連草香(オワリムラジノクサカ)の墓なのかも知れません。
                 この古墳も、埴輪等から築造されたのは、6世紀始めであろうと考えられるからであります。

                  新修 名古屋市史では、はっきりとは明言されてはいませんが、ニ子山古墳は、尾張氏ではない別
                 の豪族という記述の仕方で終始してみえます。
                            
               3.古事記、日本書紀の実在天皇論について
                  ネット上に大変興味をそそられる記述があり、そのURLを明記して、そこに書かれている記
                 述を概略して再提示したいと思います。
                   (  http://www2.wbs.ne.jp/~jrjr/nihonsi-1-5-2.htm 参照 「大和朝廷の動揺」 その1と
                 いう表題がついております。 )

                  この大和朝廷の動揺には、中国史書だけに名前を残す、讃・珍・済・興・武の倭王たちは、日
                 本の誰に相当するのだろうかとして武は、雄略天皇と確定されてみえます。この雄略天皇(在位
                 456〜479年)の成した事柄が、実は、歴史上の架空の人物、日本武尊のモデルではないかと
                 想定されているのであります。

                  その部分を再録しますと、このようになります。
                  「ヤマトタケルは、『古事記』では倭建命、『日本書紀』では日本武尊と表記されていて、どちらも
                 ヤマトタケルノミコトと読ませる。
                  一方、雄略天皇は『古事記』で大泊瀬幼武、『日本書紀』では大長谷若建命となっていて、オオ
                ハツセワカタケル
と読む。
                  また、熊本の江田船山古墳から出土した鉄刀や、埼玉の稲荷山古墳から出土した鉄剣には、
                 雄略天皇のことを表す獲加多支鹵大王(ワカタケル)という銘文がある。ヤマトタケルとワカタケル
                 という名前は確かに似ている。
                  でも、これだけだと「タケルという名前が共通しているだけじゃないか」と言う人もいるだろう。
                  そこで、『宋書』と『常陸国風土記』に注目してみる。
                  まず、『宋書』に記述されている「倭王武」という表記なんだけど、ここから「王」の字を除くと「倭武」
                 となり、ヤマトタケルと読むことが出来る。
                  一方の『常陸国風土記』、この書物の中ではヤマトタケルのことを「倭武天皇」と表記している。
                  また名前だけでなく、『古事記』『日本書紀』に書かれているヤマトタケルの逸話が、雄略天皇の行
                 動と似ている部分が多いのも注目していいだろう。
                  人を簡単に殺してしまう残虐非道な部分も2人は共通している。
                  これらのことから考えると、ヤマトタケルという人物を創造する時に、雄略天皇をモデルにした可能
                 性は非常に高いと思う。」以上でした。
                
                  また、別のHP上では、日本武尊の神話は、天皇家に伝わる「三種の神器」の一つ、草薙の剣が、何
                 故天皇家を離れ、愛知県の熱田神宮に存在するのかという疑問に答える、いわゆる由緒の解答を出す
                 為に考え出された神話ではなかろうかという興味深い説もあります。
                   ( http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2006/10/post_3817.html  参照 ) 
        
               4.尾張連氏について
                  そして、この大和朝廷の動揺には、尾張氏の事も記述されており、下記のようでありました。その
                 部分のURLを明記し、概略を記述いたします。詳しい事は、下記のURLにて参照方お願いいたします。
                  ( http://www2.wbs.ne.jp/~jrjr/nihonsi-1-5-3.htm 参照 「大和朝廷の動揺」その2として表題が
                 付けられております。 )
                  やや長い転記となりますが、この記述を書かれた方には、了承をして頂いてはおりませんが、URL
                 も明記しておりますことから、お許し頂けるものと解釈して、記載させて頂きました。

                                                               「 継体天皇

                                     河内王朝の最後の大王だった第25代の武烈天皇(ぶれつてんのう)には後継ぎがなかった。
                                      その後、継体天皇(けいたいてんのう)が第26代天皇として登場したわけだけど、この登場には謎が多い。
                                      継体天皇の誕生について、『日本書紀』には、だいたい次のような事が書かれている。

                                    武烈天皇の死後、朝廷内の最高実力者だった大伴金村(おおとものかなむら)は、まず丹波に行った。
                                     その地で、仲哀天皇の五世の孫・倭彦王(やまとひこのおおきみ)を天皇候補として迎えようとしたが、倭彦
                                   王は、王を迎えに来た時のその軍勢に恐れをなして逃げてしまった。
                                     そこで越前の三国に行き、彦主人王(ひこぬしのみこ)の子で、応神天皇の五世の孫にあたる男大迹王(お
                             おとのみこ)
を迎えて、王位につけた。
                                     男大迹王は、507年に樟葉宮(大阪府枚方市)で即位して継体天皇となる。
                                     その後、511年に山背国の筒城宮(京都府綴喜)、518年には弟国(京都府向日市)に移り、526年に大和
                                   の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや/奈良県桜井市)に遷都した。

                                     この文章だけを読むと、「どこが謎なんだ?平和的に皇位継承されているじゃないか」と思う人もいるかもしれ
                                    ない。
                                      しかし、文章をよく読んでみると、妙な部分に気が付きます。
                                      もし平和的に皇位継承されたのならば、即位後すぐに大和入りして良いはず。
                                      それなのに継体天皇が大和入りしたのは、507年に即位してから19年も後のことだ。
                                      継体天皇は、何故すぐに大和入りすることが出来なかったのか?
                                     考えられる理由は一つしかない。継体天皇に反対する勢力が大和に存在していたからだ。
                                     そこで、まず最初に継体天皇の勢力基盤を見てみようと思う。

                                          継体天皇の勢力基盤

                                    継体天皇の父・彦主人王は近江の王で、母は垂仁天皇七世の孫といわれる振姫(ふるひめ)だ。
                                     振姫は越前の三国で生まれ、彦主人王と結婚後は近江に住み、その地で継体を生んでいる。
                                     ところが継体が幼少のころに彦主人王が死去したため、彼は母に伴われて越前の高向に行き、そこで成長し
                                  ている。
                                   父・彦主人王の本拠地は近江の息長(おきなが)で、この地の豪族だった息長氏の出身だと言われている。
                                    息長氏なんて聞きなれない豪族名だけど、現在の滋賀県坂田郡近江町や米原町あたりを本拠地とし、琵琶湖
                                 の湖上交通を掌握した大豪族だ。
                                    継体には皇后以外の配偶者が8人いて、8人のうち息長氏の息長真手王坂田大跨王の娘をはじめとして、
                                  近江出身者が5人もいる。
                                   つまり、継体は母方の越前だけではなく、父方の近江にも勢力基盤があったわけなんだけど、近江にはもう一つ
                                 注目すべき点がある。
                                   実は、近江の北部は古代日本を代表する鉄の山地だ。
                                   おそらく継体は、近江の鉄と息長氏の交通基盤を武器として勢力を拡大していったのだろう。

                                  残りの配偶者を見てみると、河内出身者が1人、大和出身者が1人、尾張出身者が1人となっている。
                                   このうちの尾張出身者は、尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘・目子郎女(めこのいらつめ)だ。
                                   尾張氏は、草薙の剣が奉納されていることで有名な熱田神宮の周辺を本拠地とし、伊勢湾岸の海女集団を支配
                                していた大豪族だ。
                                   当時、伊勢湾は東海地方への拠点とされており、伊勢湾の海路を掌握していた尾張氏は、古くから大和朝廷と結
                                びついていた。
                                  名古屋には断夫山古墳(だんぷさんこふん)という東海地方最大の前方後円墳がある。
                                  その大きさから判断して、尾張地方で強大な支配力を誇っていた尾張氏の古墳であるのは間違いないだろう。
                                  そもそも前方後円墳という古墳の形は、大和朝廷の有力者たちを埋葬するために考え出された墳形だ。
                                  地方の豪族の尾張氏が前方後円墳に埋葬されたのは、継体天皇(即位507年)と目子郎女が婚姻関係にあった
              からにほかならない。
                                  しかも、目子郎女は継体とのあいだに、第27代の安閑天皇(あんかんてんのう)と第28代の宣化天皇(せんか
                         てんのう)
をもうけている。
                                 継体にしてみれば、自分の勢力基盤拡大のための政略結婚だったのだろう。
                                 でも、尾張氏としても、継体と結ぶことは自分たちの勢力アップに繋がるわけだから、喜んで継体をバックアップした
                              んだろう。

                                   皇位継承のカラクリ

                                 今見たように、男大迹王は越前を本拠地とし、近江や尾張まで勢力を拡大していた大豪族だ。
                                  そんな男が継体天皇として即位する事に、大和朝廷の連中が素直に納得したとはとても思えない。
                                  たとえ朝廷内の最高実力者だった大伴金村が選んだ人物であったとしても、断固として阻止したのではないだろうか。
                                  それに、武烈天皇に後継ぎがいなかったとしても、彼の血筋に近い人物が他にもいたはず。
                                  それなのに、結果的には継体天皇が誕生したのは何故か?

                                   結論から言えば、継体が武力によって皇位を奪ったのではないかと考えている。
                                   おそらく大和朝廷は新天皇擁立に向けて動いていたが、後継者がなかなか決まらず混乱していたと思う。
                                  そんな状況下において、継体は大伴金村をも利用し、越前や近江から兵を率いて大和に侵攻したのではないだろ
                                うか。
                                  そして、526年に大和入りするまでの約20年間は、旧王朝派と継体王朝の武力抗争の期間だったと思う。」以上
                                であります。

               なかなか興味深い記述ではありましょう。それに、この記述では、尾張氏は、この地域の豪族であり、伊勢湾岸の海
              女集団を支配していたとされている。また、伊勢湾の海路を掌握していた尾張氏は、古くから大和朝廷と結びついてい
              たという。おそらく、尾張平野に進出して勢力を持った絶頂期を記述したのかと。この辺りの記述と春日井市史との整
              合性は、私の目からは、あるように感じますが、初発の尾張氏の本貫地は、どこであったのでしょうか。陸路か、水路
              か。

               さらに、この尾張連氏が、尾張に土着するようになった前より、「この尾張地域の支配者として、春日氏、及びその一
              族であります和邇部(わにべ)氏が、君臨しており、その本貫は、和邇良の地であったらしいとも記述されておりました。」
              (春日井市史 参照)(この地は、庄内川と内津川が、合流する辺りかと推定されます。・・筆者注)

                                 参考までに、次のような記述もあります。「昭和23年に成立した町のうち、町としては消滅したのは和爾良町である。昭
              和28年(1953)に王子町の成立で大部分はこの町域となり一部が上条町、弥生町へ編入された。和爾良の名は、古代尾
              張氏より以前に大和からこの地にやってきて開拓と経営に当たった和爾(わに)氏にちなむもので、上条町の和爾良神社  
              (白山神社)に名を残している。明治9年(1876)には上条村、八田新田、大光寺子新田が合併して和爾良村が成立、同39
              年(1906)には小野村と合併して鳥居松村となり和爾良は大字となった。昭和23年の町制施行で、この地域は十数個の新
              町になった。その後、和爾良町はなくなったが、大字 和爾良の領域は「幟り」(上条町南部)と「土井ノ口」(桜佐町寄りの
              内津川河川敷)に残存している。」(これを書かれた方は、櫻井芳昭氏であります。郷土誌かすがい 第71号 郷土探訪
               町名の履歴書から春日井を探る の一節であります。)

               本国神名帳集説には、尾張には、古くから物部氏系が多く、従って春日井、愛知両郡には、物部祠が多く祀られてい
              たという指摘もありますから。

               この尾張氏の祖を古事記等から辿り、記述された文がありました。「 『古事記』:尾張連(むらじ)考 」               
              ( http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2006/10/post_04e2.html 参照 )でありますが、詳しい説明は、そちらを読
              んで頂きたく、ここでは、概略のみ記述いたします。

                 古事記の一節に下記の文があるという。

                      生尾人、自井出來
                      其井有光 爾問 汝誰也 答曰僕者國神 
                      名謂井氷鹿 此者吉野首等祖也
                      即入其山之 亦遇生尾人 此人押分巖而出來 
                      爾問 汝者誰也 
                      答曰僕者國神 名謂石押分之子 今聞天神御子幸行故 參向耳 
                      此者吉野國巣之祖 
                      自其地蹈穿越幸宇陀故 曰宇陀之穿也

               神武天皇の東征の時、天皇が「尾生る人(おはうるひと)」と出会う記述でありますが、古事記では、「生尾人」と記載さ
              れているようであります。
               この生尾人は、名が「井氷鹿(いひか)」=「井」がひかる。という意味で、この部族は「丹(水銀)」を扱っていたのでは
              ないかということになっていると記述されております。

                                 別の見方では、{この銅(金属)の事を、朝鮮語の音では、軽(カル)、刈(カリ)、鹿児(カゴ)、香具(カグ)と発音し、ま
              た、曲(マガリ)、井光(イヒカリ)、(イカリ)という名が付くのも銅文化と結び付くと言われているようです。( この点は、
              畑井氏だけでなく、大分大学 富久 隆氏は、自著「卑弥呼 朱と蛇神をめぐる古代日本人たち」の中で、同様な事を述
              べてみえるのであり、こうした点は、豊前、吉備、大和等の銅器出土遺跡、銅採掘遺跡の地名に付く場合が多い事を挙
              げてみえます。)この記述は、「物部氏の伝承」(畑井 弘著)より抜粋したものです。}があります。

               朝鮮語で 井氷鹿(イヒカリ)とは、固有名詞ではなく、普通名詞であって、意味は、金属の銅を意味しているという。
              「尾生る人(おはうるひと)」とは、土蜘蛛族でありましょうか。ナガスネ族が居た所へ早期に渡来した朝鮮半島経由の渡
              来人でありましょうか。このように畑井 弘氏は、位置付けられているようです。         

               また、神武天皇が山に入って現れた「生尾人」も「此人押分巖而出來 」となっているので、岩窟のような採掘場から出
              てきたと考えるのが正しいだろうと記述されている。

               古代の墳墓は「朱丹」を塗り防菌効果があったとされている。また「朱色」を出す原料として珍重されていたのだろう。
              その元となる「辰砂鉱」( 名前の由来は、中国の辰州で産出したことによる。 辰砂を空気中で加熱すると水銀単体 が
              遊離する。 辰砂は赤色で、赤の顔料の原料として古くから利用されてきた。 「丹」とは 古代中国では辰砂鉱の事であ
              るようです。・・筆者注 )を採掘していたと考えられるという説を記述されていますが、別の見方では、ここは、銅を産出
              する銅山であろうという説(畑井 弘氏)を言われる方もあります。このHPの著者は、尾生る人(おはうるひと)を、おはり
              −>おわりと読めるのでは、書記に言う「高尾張」が、ここではないかと暗に類推されているのでしょう。

                                 また、別の説では、郷土誌かすがい 第54号内の「尾張氏の祖神 天火明命」を書かれた いのぐち泰子 郷土誌
             かすがい編集委員
によれば、、「先代(せんだい)旧事(くじ)本紀(ほんぎ)」という書物がある。この中の「天神本紀」お
              よび「天孫本紀」という項を見ると、アメノホアカリの本名は、「天照国(あまてるくに)照彦天火明櫛玉饒速日尊」という
              恐ろしく長い名前で、略して「天火明命」「天照国照彦天火明命」「邇藝速日命」というとある。両親は記紀と同じアマテ
              ラスの子のオシホミミとタクハタチヂヒメ。即ち天孫である。
               ここにおいて、ホアカリとニギハヤヒが同一人物であることが解明されるという。(新修 名古屋市史では、この辺り
              を明快に答えてみえます。詳しくは、市史を参照下さい。結論のみを記述すれば、尾張氏の系図には、オトヨ(11世)                      
              タケイナダネ(12世)は、実在。それ以前の天皇家との繋がりは、尾張連氏が、継体天皇の外戚となって以降の内廷
              経験から創り出された出自であると。当然 タケイナダネには、妹はいない。ミヤズヒメも創り出された人物であると。
              物部氏の系図も、途中から尾張氏の系図を借用しており、物部氏は、当然 尾張氏と物部氏は、同族関係にしてしま
              ったという。物部氏は、没落し、尾張氏は、日の出の勢いで有った為でしょう。)

               また、いのぐち泰子氏は、「アメノホアカリはアマテラスの2人の孫のうち長孫で、彼には2人の男子があった。天上
              時代に生まれた長子がカゴヤマであり、「旧事紀」によると、尾張氏はカゴヤマの子孫で、カゴヤマを第1世と数えて
              ヲトヨは11世に、タケイナダネは12世に当たる、ということになる。

               しかし、ホアカリは本当にアマテラスの孫なのだろうか。後から天降ったニニギ系の神武に屈服、臣従することになる
              ホアカリ系は、もしかするとアマテラス系とは全く異なる氏族であったかもしれず・・」云々と記述されておりました。
               ( 詳しくは、http://www.city.kasugai.lg.jp/bunka/bunkazai/kyodoshikasugai/kyodoshi54.html を参照下さい。)

               確かに、以下のように二つの見解が存在するようであります。
               「 物部氏の祖 ニギハヤヒは、『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから十種
                の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に
                移ったとされている。そして、天照が、使者を送って、国譲りをさせた話は、大国主命( 物部氏系 )であった。
                 また、『新撰姓氏録』ではニギハヤヒは、天神(高天原出身ではあるが、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)
                は、天孫(天照大神の系列)として両者を区別しているように思えます。とすれば、日本書紀と新撰姓氏録は、同
                一の見解でありましょうか。
                
                真清田神社 - 尾張国一の宮。(祭神の天火明命は本名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と社伝にいう。)
                また、 先代旧事本紀では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くし
                たま にぎはやひ の みこと)といい、ニギハヤヒは、アメノオシホミミの子でニニギの兄である天火明命(アメノ
                ホアカリ)と同一の神であるとしている。とすれば、両者の見解は、同一でありましょう。」以上の記述は、ウイキ
                ペデイア フリー百科事典 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AE%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%83%92 
                最終更新 2012年11月4日 (日) 13:41 によります。」

               物部氏と尾張氏が、どのような関係であったかは、ひとまず置いといて、下記のような見解もありました。
               こうした歴史把握がある一方、愛知県の歴史の著者は、味美古墳群(最大の古墳は、二子山古墳)の豪族と熱田瑞
              穂台地、熱田神宮近くの断夫山古墳(愛知県下では、最大の前方後円墳)を区別し、尾張氏の宮ず姫の墓と神宮では、
              伝承しているようであり、この墓が、尾張連氏に関係のある墓であり、味美古墳群は、この尾張氏が抑えていった豪族
              であるという理解のようであり、尾張氏は、伊勢湾を支配した、海からの移住者であるかのようであり、後、尾北地域に
              進出したのではという理解なのではと推察いたします。史実は、どちらであるのでしょうか。新修名古屋市史でも、上記
              の見解を述べてみえます。書かれた時期は、違いますが、同一著者であるからでしょう。

               継体天皇(507〜530年)やら、天武天皇(672〜686年)とは、何らかの深い繋がりが、尾張連氏との間にはあ
              ったように推測できます。でも、やはり、新修名古屋市史の記述の方が、説得力はあるように思えます。それは、最近
              までの古墳分析の積み重ねと、交通関連(水運にかかわる、交易までも視野に入れる。)の視点から、継体天皇と尾
              張氏を説明されているからでしょうか。

               尾張地域は、尾張国造たる尾張氏の本拠地であったが、その尾張氏の在地支配も、大化以降の律令時代に入ると
              共に一定の変質を余儀なくされたようです。尾張氏は、依然として民衆の上に君臨する在地豪族ではありましたが、一
              方では、律令政府の収奪機構の末端の位置を占める永代郡司(地方長官としての大領職)として、中央政府から派遣
              される国司の支配下に置かれる存在になっていったようであります。

               何故、大和朝廷は、このような方向を取るようになったかは、先述の愛知県の歴史が、見事にその核心をついてい
              るように思います。その記述は、「壬申の乱(672年)にあったという。余りに有名な事件でありますので、詳細は省き
              ます。天智天皇死後、天智の子 大友皇子と天智の弟 大海人皇子の間に起こった皇位継承を巡っての内乱で、伊
              勢・美濃へ逃れて反乱を起こした大海人皇子が、大勝利を収めて終結した、古代史上まれにみる大規模な事件であ
              ります。

               大海人皇子は、妃の鵜野皇女と、身辺を僅かに警護をする舎人等と東国へ向かったという。彼の心の中には、成功
              の成算があったわけではなく、美濃に彼の湯沐邑(ゆのむらと読み、封戸の一種)があり、ひとまずそこの人民を徴発
              して兵をあげようという計画であった。

               このすこぶる不安な大海人側に、二万人(もちろん実数ではあるまい)という大兵力を率いて尾張国守 小子部(わ
              かこべ)連さひち が加わったのである。さっそくその人数をいくつかに分けて、あちこちの道を塞ぐように配置した。

               その当時、陸路は、古東山道と後に言われる道と、古東海道と呼ばれる道があり、古東山道では、後 不破の関が
              設けられる辺りの道を塞ぎ、古東海道は、後 鈴鹿の関が設けられる辺りの道を塞いだのでありましょう。一大決戦
              場となったのは、不破の関(この当時は、ありませんでした。)辺りであったようです。
              
               その結果、一ヵ月後、美濃から攻め込まれて大津京は落ち、大友皇子は自害したという。

               ところで奇妙な事に、大海人側を勝利に導くのに力のあった筈の小子部連さひちは、まもなく山に隠れて自殺してしま
              ったという。大海人皇子も不思議に思ったらしく、< さひちは、いさおしき者なり。罪なくして何ぞ自ら死なむ。其れ陰謀
              有りしか。>と言ったと「日本書紀」は伝えている。

               小子部連さひちの兵は、近江側の命に応じて集められたものらしく、そこで伴信友などは、偽って大海人側に帰順し、
              すきをみて皇子を捕らえようと図ったが、軍を分割された為、機を失い、近江側の敗北をみて、ついに自殺したと推測
              している。
               しかし、この著者(前掲書 愛知県の歴史)である方は、自殺の原因を次のように解している。すなわち、さひちは、近
              江側に参加しようとしたのだが、この頃の軍隊を徴発できる本当の実力者は、まだ国司ではなく、ものと国造の伝統を
              引く郡司など、地方豪族であったと考えられ、従って、郡司層の地方豪族(この当時は、尾張連馬身、尾張宿禰大隈
              等)の意向を無視した行動は、国守といえども強行できず、さひちは、やむを得ず大海人側につき、はてはその罪のあ
              らわれることをおそれて自殺したのであろうと。天武天皇は、乱後、畿内の官人の武力強化とともに、郡司などの軍事
              力の削減に努力している。

               これは、勝利の原因を分析し、地方豪族の私的な軍事力のあなどりえない事を自覚したからに他ならない。」と記述
              されていました。こうした郡司達地方豪族は、天智朝の中央集権化により、かっての国造の権勢を剥奪されつつあり、
              不満が大きくなっていった頃かと推察され、こうした機運が、大海人側に味方したとも言えましょうか。

               しかし、天武の晩年、天武13(684)年、伊賀・伊勢・美濃三国とともに、尾張国は、調を出す時には、労役が、免除
              され、労役を出す年には、調は、免除されるようになったという。しかし、この天武・持統両天皇の強い個人感情に基づ
              く優遇策は、その功績のあった個人一代のみであったという。その後、本人死亡と共に停止されたらしい。律令制の確
              立とともにこのような私的感情は、許されなくなっていったのであろう。愛知県の歴史 P.34に記述されている事が、事
              の核心であろうと推察いたします。
               それ故、その後は、郡司は、国司の下の位置におかれ、力を削がれていったのでありましょう。しかし、壬申の乱で、
              軍功があった尾張・美濃等の功臣の子息には、功田が三代限りで付与されていたようです。また、下層の氏族ではあ
              りましたが、本人は、位も拝領していたという。以上の記述は、新修 名古屋市史に、そのように記述されております。

               *参考までに、壬申の乱では、尾張連一族は、こぞって大海人側に付いたようです。特にめざましい活躍者は、尾張
              連大隅・尾張連馬身(マミ)でありましょうか。
               その後八色の姓制で、壬申の乱の活躍者には、宿禰姓が与えられ、大宝2(702)年 尾治(張)連子麻呂・牛麻呂
              に宿禰姓を持統太上天皇の最後の行幸の尾張国で与えている。しかし、大隅・馬身・子麻呂・牛麻呂等の尾張での
              本拠地は、明らかではないようです。
               大宝令制下以降での帯位授受から知られる尾張連氏一族の動向は、以下の通りであります。
                  和銅2(709)年     外(ゲ)従五位下 愛知(智)郡大領 尾張宿禰乎己志(オコシ)
                  天平2(730)年頃               春日部郡大領  尾張宿禰人足(ヒトタリ)
                  天平6(734)年頃               海部郡(アマグン)郡領(?)  尾張連氏一族
                  8世紀半ば頃(聖武天皇治下)        中嶋郡大領   尾張宿禰久玖利(ククリ) ・・日本霊異記の説話より
                     (以上の事柄は、「古代貴族と地方豪族」 野村忠夫著 吉川弘文館 平成元年刊 P.25 参照 )*
 
                                { こうした事例は、時代は、下りますが、仁和元(885)年12月、春日部郡大領であった 尾張宿禰 弟広が二人の
              息子の庸調等を前納する申請をし、許可されるという事にも現れている。
              
               この弟広は、「編戸の民、肩をやすむるの地なく、骨肉の情、涙を収むるにたえず。」と言う位過酷でありましたが、               
              負担が重いとはいえ、郡司ともなれば、それを前納できる財力は有していたようであります。

               神護景雲2(768)年に尾張国山田郡人 従六位下 小治田連薬等八人が、尾張宿禰 という姓(かばね)を得て
              おり、弟広は、その後裔かとも記述されておりました。} (小牧市史 通史 P.72 参照)

               このような記述を読むに付け、尾張氏の系統は、累代続いていたのではなく、氏族が代わりながら代々尾張氏を
              名乗っていくのではないかと推察いたしました。まるで、、「物部氏の伝承」(畑井 弘著)の、物部氏の系譜と類似
              しているように思えます。

               {元亨2(1322)年 荘園内に出来つつあった自然村落であろう林村(現小牧市林地区)、阿賀良村(現 田楽地
              区か、私は、池之内辺りを想定するのでありますが・・)両村の田一筆毎の名主が、鎌倉 円覚寺の地頭支配に対
              し、この両村は、春日部郡司 範俊なる人物の開発地であり、彼の開発領のうち、篠木、野口、野田以下の緒村は
              「関東御領」であり、北条氏一族の者の世襲の権利となり、正応6(1293)年執権北条貞時は、書状をもって、鎌
              倉 円覚寺にあて、当寺造営の際、料所とする旨申し送りをしたという。}( 円覚寺文書 参照 )一文もあります。

               確かに、北条氏一族らしい者が、地頭職を所有しているのであり、一時的にその権利を円覚寺に寄進したのであ
              りますが、円覚寺の強望により、この後、長く円覚寺がこの地位を存続せしめる事となっていったようであり、地頭
              請所の権利を行使しえる立場にたち続け、領家方へ一定の年貢を請負い、地頭は、手数料としての役得をえてい
              たのであろう。が、この林村(現小牧市林地区)、阿賀良村(現 小牧市池ノ内地区かその近くの地域か)両村は、
              「別相伝地」として、名主が、代々相伝してきた土地であり、もともと、地頭の支配の及ばない地域であった筈であ
              った。}( 春日井市史 P、124 参照 )という記述に注目して欲しい。

               この中に「春日部郡司 範俊なる人物の開発地」という部分の人物は、尾張氏と何らかの関連がありはしないだ
              ろうか。(大胆な憶測でしかありません事をお断りしておきます。・・・筆者注)後日、範俊なる人物に関する事柄を
              知りました。拙稿を参照下さい。(拙稿 春日部郡 郡司 範俊なる人物についての覚書) 
 
               この尾張国造への地位を築いていく尾張氏でありますが、濃尾平野へと進出し、その後、熱田神社へ朱鳥元
              (686)年あるいは、天武15(686)年とも言う年に草薙の剣を祀ったようであります。<それは、天武天皇の命令
              で、草薙の剣が、尾張に返却された年であるようです。・・筆者注>(春日井市史 参照)以後熱田の森は、それな
              りの神社として崇められ、織田信長が、今川義元上洛時、桶狭間での戦に出かける前、この熱田の森で、戦勝祈
              願をしたという。その時の逸話に、その当時足軽であった後の豊臣秀吉は、吉兆とされる馬のひずめの音を熱田
              の森の本殿奥に忍び込み、擬音として出したとも言われており、その結果とは言い難いのでありますが、弱小と言
              われた織田方の勝利となった事は、歴史的な事実であります。

               さらに付け加えるとすれば、この熱田の宮は、実は源頼朝の母が尾張熱田神宮大宮司の娘であった。ということ
              であり、よく知られた事と記述されておりました。
              
               その後、草薙の剣の神剣あらたかな事により、明治元年に熱田神社から熱田神宮と名称が変更されたようであり、
              その格式は、伊勢神宮に次ぐ位置をしめるに至ったと言う。その格式は、最近の事であり、尾張連氏の創建でありま
              すし、その当時は、尾張氏の氏神様程度の認識の神社でしかなかったのではないでしょうか。甚だ、不遜な書き方で
              はありますが、歴史的にみても妥当な事ではないかと推察いたしております。

                                蛇足ではありますが、尾張一ノ宮は、現 愛知県一宮市にある真清田神社であり、熱田神宮は、三の宮という位置
             付けであるようです。一ノ宮は、真清田神社であると言うことは、何を意味しているのでありましょうか。参考までに、二
             ノ宮は、丹羽氏の氏神さまであった大縣神社であります。よくよく調べていきますと、この数字は、国衙(この当時は、現
              稲沢にあった。)からの参拝順であり、格式でも、創建順でもないようであります。単に、国衙からの距離順でないかと
             推測できます。国衙にしても、毎年、行う事でもあり、後には、国府宮神社に、この三つの神社の祭神を分祀し、一度に
             済ますようになったとも聞き及んでおります。

              大胆な推論をすれば、尾張氏の祖は、海部氏かもと考えられ、そこから派生した一族が、後の尾張氏となっていった
             とも考えられるのではと。(その点、新修 名古屋市史は、熱田台地、瑞穂台地、知多の台地の古墳と、熱田神宮の摂
             社の旧 社地関係等から、熱田の森の断夫山古墳の本家 尾張連氏は、最初からこの伊勢湾沿岸から上陸し、周囲
             の集団を統治しつつ、熱田台地へと進出し、水運と、海辺の漁民を支配下に置いて、貢納関係を結びつつ、大和王権
             と繋がっていったと記述されております。)そして、丹羽郡の丹羽氏は、尾張氏よりも早くから大和朝廷と関係を取り結
             び、県主として君臨し、祭祀関係での貢納義務を負う繋がりになっていったとか。その後、尾張氏の勢力が、強大にな
             り、丹羽氏は、尾張氏の支配下に納まっていったとも類推するのであります。婚籍関係を取り結びながらではあります
             が・・。

              それ故、現 小牧市大字大山辺りは、その当時、尾張氏と丹羽氏の接点地域ではなかったかと・・・。この大山古墳
             の主は、一体だれであったのか、不明ではありますが、尾張氏の一族か、丹羽氏の一族のどちらかではありましょう
             ことは、疑いようの無い事と思われますが、6世紀以降 この桃花台の外周、大草、篠岡3丁目北側、下末、陶一帯は、
             篠岡古窯址群であり、穴窯が造られ、瓦や陶器、硯等が焼かれた所であり、多くの陶工・陶土採掘に関わる者等が、
             近くで集落を形成し、集団で居住していたと思われます。
             
              この近辺で居住し、農業をしつつ、焼いていたのではないか。専業化までは、至っていないのではなかったか。かなり
             の規模の集団であった筈。燃料の伐採、陶土の採掘、窯造り、瓦造り、陶器造り、硯つくり。そして、同一窯で、同時に
             焼いていたのか、分けて焼いていたのか。製品の運搬は、一人や二人できる事ではなかった筈でありましょうから。
              近くに住居を構えて、通って来ていたのでは・・・。もしかすると、こうした工人達の住居として野口、大山辺り、或いは、
             大草、陶、下末等が考えられるのではないのかと・・。こうした工人達は、かなり長く居ついていたと推測でき、墓は、ど
             うしたのであろうか。
              そして、大山古墳築造時期と、穴窯焼成時期は、見事に重なっているのであり、横穴式石室でもあり、集団のお墓と
             考えれば、可能性は、ないとはいえないでしょう。石室は、剥き出しになっているとか。石の材質は、何だったのか。ど
             こから持ってきたのか等々が、分かれば、この辺りの交易範囲も分かろうというものではないでしょうか。
             
              「野口・大山地区の北にそびえる標高200メートルほどの山地には、点々と横穴式石室をもつ古墳が発見されています。
             いずれも下を流れる大山川沿いの土地を見渡せる高所に築かれています。
              また、篠岡小学校に所蔵されていた完全な形を残す須恵器の提瓶・短頸壷(現在は小牧市歴史館で展示中)は、これ
             ら野口・大山の古墳群からの出土品といわれています。石室の規模や形状から推定すると、6世紀後半から7世紀にかけ
             て築かれたものと考えられます。」( 詳しくは、下記、小牧市 HPのURLにて 参照方お願いいたします。  
              http://www.city.komaki.aichi.jp/bunkazai/bunkazai/etc/002830.html )という記述ではあります。



              参考文献
              ・ 春日井市史  昭和48年  重松明久(古代・中世担当)
              ・ 小牧市史
              ・ 日本書紀  小学館発行 新編 日本古典文学全集 2
              ・ 愛知県の歴史  塚本学、新井喜久夫著 昭和45年発行 山川出版社
              ・ 物部氏の伝承  畑井 弘著
              ・ 多くのHP 関連HTML文書
              ・ 新修 名古屋市史 第1巻 (古墳時代・・大塚康博、律令国家以前の名古屋地方・・新井喜久夫、
                                  律令国家の確立・・福岡猛志) 平成9年 
                                                       平成24(2012)年6月10日 脱稿
                                                       平成24(2012)年6月12日   加筆修正
                                                       平成24(2012)年10月11日加筆修正
                                                       平成24(2012)年12月23日修正し、加筆