鎌倉時代末期より室町期の虎渓山永保寺創建とその後の寺領推移並びに南北朝動乱期の東濃、尾張東部の在地情勢
1、虎渓山 永保寺創建
「鎌倉時代末期の正和2(1313)年、夢窓疎石が、行雲流水の道すがらこの長瀬山に来て、土岐川
のほとりの深山渓谷の美しさにひかれ、法弟元翁本元(仏徳禅師)以下7,8名とこの地に庵(いおり)を
建てたのが永保寺の草創であると言われております。
疎石は、この地が、禅宗の名刹として有名な中国江西省のろ山にある虎渓にあやかって虎渓山と名
づけ、その庵を古渓庵、巨景寺等と言ったという。はじめは、「古虎渓」のあたりに庵を定めようとしたと
いうが、狭小の感じがしたので、現在の地が選ばれたとも言う。( 「禅と庭園」 川瀬一馬著 )
「国師念譜」によれば、正和3(1314)年には、観音堂(水月場)が建てられたと記述されていますが、
現在のような形の観音堂とは考えられないのであり、推測ではありますが、永保寺伝説にある疎石一行
がこの地で迷った時、馬上に現れた女性とのやり取り等があり、その地は、小名田川が土岐川に合流す
る辺りの巌(いわお)<補陀巌(ほだがん)と呼ばれた所ではないかと推察されている。>ではないかと、
その巌上に、身の丈1寸八分(約6cm)の黄金の霊像がさん然と現れたという逸話が、伝説として伝わっ
ているようであり、そのご本尊を水月場に安置し修行に励まれたとも言われているようであります。その水
月場の建立年ではないかと推察するのであります。
疎石は、この古渓庵への来訪者の多さに煩わされ、正和5(1316)年春弟子二人と古渓庵を去り、西
濃揖斐の清水寺へ移り一夏を過ごしたと言う。ここへも来訪者が多く訪れ、煩わされるので、再度古渓庵
へ帰ったと言う。が、古渓庵には、法弟元翁本元(仏徳禅師)が住んでいたので、新たに大包庵を構えて
住んだようである。
鎌倉の地では、高峰顕日(仏国禅師)亡き後、幕府首脳は、臨済宗(禅宗)の指導者として夢窓疎石
を請い、鎌倉に迎えようと動いていた。夢窓疎石にとっては、大いに迷惑な事でもあり、文保元(1317)
年の秋には虎渓山を出、上洛し、北山に居住していましたが、ほどなく土佐に赴いた。しかし、執権北条
高時の母である覚海夫人の頼みを入れ、鎌倉へ赴き、数年間は居住したと言われる。疎石が去ってから
8年間、本元は、虎渓にあって巨景寺(永保寺)を守ってきたと言われております。
その後、本元亡き後、文和元(1352)年 開山堂が建立されたようであるが、この堂は、開山と名がつ
いているように、永保寺開山の祖を祀る堂であった。この堂の建立は、一説には、足利尊氏であるとも言
われています(それは、この地で帰依し永保寺のよき理解者たる土岐本流の頼貞と、尊氏は、同じ源氏で
あり、鎌倉幕府を共に倒した戦友でもあったからでしょう。)が、定かではないようです。本来は、開山は、
疎石である筈が、京都嵯峨野の臨川寺の開基は、本元であったのですが、本元は、正慶元(1332)年で
あり、元弘2(1332)年とも記述される年に示寂(死去)され、その後空席の臨川寺の寺務を疎石が、建武
の中興をなした後醍醐天皇の詔命を受けて管領した為、天皇は、開基を本元から疎石に変更したという。
その為、多治見での虎渓山 永保寺の開基を疎石から本元に切り替えたというようであり、それ故、疎石
は、永保寺の開基ではなく、開祖という位置付けに変更されたのだという。」(多治見市史 通史 上 参照)
近年 永保寺境内にある国宝である観音堂・開山堂を除いて、火災になり庫裏等を消失。そうした火災場
所等の発掘調査・現存文書等の調査があり、過去の事象等が明らかになったようであります。多治見市教
育委員会を中心にしてその活動が行われ、多治見市教育委員会からの報告書が出ています。参照された
い。( http://www.city.tajimi.lg.jp/bunkazai/kikakuten/pamph/eihouji-pamph.pdf
であります。)
2.虎渓山 永保寺創建時の社会情勢とその寺領の推移並びに南北朝動乱期の在地情勢
さて、夢窓疎石が、長瀬山を尋ねた正和2(1313)年頃は、各地の守護、地頭が、盛んに平安期に栄
えた寺社の荘園を横領し、在地領主としての道をたどりつつあった時代であり、未知の地で新しい禅寺を
興そうとすれば、在地の領主に寺院の建立や寺領の獲得に協力を願わなければならないのであり、事実
「永保寺文書」には、在地領主が先祖伝来の所領を寄進したり、譲渡したりして寺の創建に協力している
ことが知られる文書が多数残されているのであります。
その様子を時代をおって整理すれば、
元享3(1323)年 源茂氏が、舎弟又五郎の知行分 田1町、畠2反を永保寺に売り渡していた。
正中3(1326)年 源貞茂が、山河を永保寺に寄進。
正徳2(1330)年 源頼氏が、池田御厨内長瀬郷の山地を銭 10貫文で売り渡していた。
暦応2(1339)年 室町准后尊融(後醍醐天皇皇女祥子内親王カ)が、南宮社領家得分の半分を
寄進。これは、南宮領家
室原郷のことでありましょう。参考までに、「南宮社領
は、後醍醐天皇の第二皇子 世良親王が、領家職を領有しており、本家職は、
南宮社にあり、地頭は、宇津宮(地頭請所)とか。」(中世公家領の研究 金井
静香著 P、219 参照) 若くしてこの世を去り、その遺領は、内親王に伝領
された由。前述 中世公家領の研究 P.196には、この内親王を後醍醐天皇
の皇女 祥子内親王と推測されていた。そして、室町准后尊融は、最後の斎王
となった祥子内親王の出家後の姿であり、建武3(1336)年に准后となってい
ると。
貞和5(1349)年 源頼秀が、川向胡(虎)渓御寺山境の山地を寄進。
観応2(1351)年 源貞衡が、池田御厨長瀬郷内の浮免田(免田も当初は特定の耕地を指定せ
ず一定の地域(郡・郷・荘)の中に一定の面積が指定されるだけで、下地が固定
していない浮免(うきめん)だった。浮免田は、一般的に雑徭免除の場合の田と
して指定される場合が多い。当然、一つの地域にまとまって免田が存在している
わけではなく、各地に散在している状態だった。給主側では、散在している免田
を一箇所に集め、浮免を固定して定免田(じょうめんでん)化することで、土地と
耕作権者の一体的な把握を目指すようになる。)の3反歩と山地を寄進。
となり、室町准后尊融以外は、全て源氏姓であり、在地領主とかかわりのある者達であろうし、源頼氏は、
長瀬郷の在地領主であり、源氏姓を名乗っていますが、土岐一族の系図には出てこないのであり、土岐一
族ではないのかも知れません。この源頼氏一族の出自は、よく分かってはいないようであります。
とすれば、現 多治見市保健所の道を挟んだ反対側にあります本土神社を創建した者は、不詳であります
が、社伝によれば、「往古この地を開墾した住民が、伊勢五十鈴川の川上に鎮座する猿田彦大神の分霊を
迎えて、この土地の守護神として祀った。」といういわれもあり、長瀬郷は、古代から池田御厨の内にあり、当
然伊勢神宮と関係があったのであろうと思われるのであり、猿田彦大神は、道開きの神であり、その土地の
神でもあったのであり、勧請もうなずける事でありましょう。
また、正徳2(1330)年に源頼氏が、永保寺に「要用あるによって、山野を銭 10貫文に永代を限り永保寺
に売り渡し」た年であり、その年に、本土神社修復一宇に源頼氏の裏書がある棟札が存在していることは、興
味深いことでありましょう。いったい永保寺は、これらの土地、或いは山地を購入する代金をどのように工面し
ていたのであろうか。寄進であれば、それなりに理解もできもしましょうが、売買となれば、どこぞにスポンサー
が存在しない限り難しいことではありましょう。そこには、土岐一族が関与していたと推量してよいのかも知れま
せん。
虎渓山 永保寺の寺領 永徳3(1383)年11月の寺領目録( 多治見市史 在地史料編 中世24 参照 )
によれば、
長瀬村 田畠 14町4段60歩と山野等 中村郷内 田 7段
野中村 〃
17町7段30歩と屋敷、山野
大原郷内 田 1町 *大針郷内 田 1町3段
池田郷内 田 1町3段
*大塚内 田 3段
高田郷内 田 4町4段半と山野 *尾州河口郷内 1町3段202歩
多治見郷内田 1町4段と山野 木森木舟 畠
於奈田村内 2町1段
*石太郷内 田 8段
(小名田) (現 揖斐郡)
南宮領家室原郷 *・・この年以降に手放なされた寺領分
田 畠 合計 46町7段余それに山野を入れれば、相当な寺領となっている事がわかりました。
余談になりますが、正中の変(1324年)で戦死した多治見国長は、土岐本流の土岐頼貞に請われ頼貞の十
男 頼兼を名代とし、その副将として参戦したのであり、土岐惣領たる土岐頼貞自身は、動いていないのであり、
この判断は、正しいものであったと言えよう。明治16年 各県令を歴任した関口隆吉が議官として地方を巡察し
その復命書の故事・旧跡の中に「多治見四郎次郎国長館址」を取り上げ、記している文章があり、「国長没後、
建武の頃土岐左近蔵人頼貞多治見館に居住し、後多治見修理亮同五郎兵衛等ここに住めりと云々(中略)慶
応元年5月水野龍其文を録す」とある。この頼貞なる人物は、土岐本流の頼貞なのであろうか。
土岐本流の頼貞は、早くから禅宗に帰依し、北条時宗に招かれて、鎌倉 円覚寺を建てた宋僧 無学祖元(
仏光国師)の高弟高峰顕日(仏国国師)を迎えて、定林寺(現 土岐市)、土岐郡中島郷(現 瑞浪市)に興禅寺
(光善寺)を創建したというが、現在は廃寺となり、両寺とも現存していない。また、仏国国師の高弟である疎石、
元翁本元(仏徳禅師)らが仏縁により訪れており、正和2(1313)年 虎渓山 永保寺が創建されているのであ
ります。頼貞が、何らかの財政的援助をしたであろうと推察できるのであります。
この頼貞の7男 頼遠は、頼貞より土岐の総領職を譲り請けた者であり、名代の武将であり、婆沙羅(ばさらと
読み、意味は、既成の権威・道徳をものともせず、平気で好き勝手な振る舞いをする連中の事を指す言葉。)の
典型であり、其の為、院の御幸に対し無礼な振る舞いをしたとして、幕府より、討手が下され、臨川寺の無窓疎
石に助命を頼むも、口添え虚しく、六条河原にて斬首されたが、土岐の所領は安堵されたようであります。
この頼貞の7男 頼遠に関する記述として、多治見市史P.288〜290に二つの事例が記述されていました。
其の一つは、「足利将軍御教書」であり、暦応3(1340)年3月4日 将軍家執事 上杉氏から土岐頼遠宛であり、
内容は、南宮神社領の地頭代が、社領の年貢を横領したので、雑掌(ざっしょうと読み、荘園の荘官)の玄澄が、書
類を添えて室町幕府に訴え、其の為、3月4日付けで、将軍家執事 上杉氏より美濃国守護 土岐頼遠にその遵行
を命じた御教書である。
二つ目は、名古屋市の大須観音に所蔵されている「宝生院文書」であり、暦応4(1341)年10月25日付けの頼
遠からの差出文書であり、内容は、宝生院に関係する寺へ、祈祷を申し付ける。また、美濃国地頭・御家人、一族
が、宝生院に関係する寺への乱暴狼藉は致さぬ事を約定した内容であった。尾張国まで土岐頼遠の威光が届いて
いたことを示す資料ではありましょうか。そのはるか後、土岐一族の在地武士であろう猿子(ましこ)氏と思われる者
が、篠木荘の寺領を横領したという資料も存在しているようであります。
また濃飛両国通史には、「土岐頼遠、(中略)美濃国において、所々の領を悉く横領、奇怪至極の者なり、云々」と
あり、頼遠が、美濃国内の荘園を悉く横領して、荘園領主である京都の貴族達の怒りにふれていた事が知られ、そ
こであの狼藉事件(院の御幸での乱暴狼藉事件)であり、成敗するよき口実になったのであろう。
これで、世の中が穏やかになると言われるほどの傍若無人ぶりで、多くの荘園領主からは恐れられていたようで
あったことが知られるのであります。
南北朝の内乱期は、古代より鎌倉時代末まで連綿と続いていた天皇や貴族に代表される古代的な権威が、根底
から切り崩されてしまう時期であり、こうした守護・地頭の横領等に対し、何らの力も持ち得ない旧権力者層は、只
手をこまねいているしかなったのであろうか。
頼遠刑死後、土岐惣領となった頼康(頼貞の5男の子)とその一族は、美濃国内に散在する寺社の荘園の年貢を
横領し、寺社の訴えにより幕府は、たびたび妨害停止の命令を出していますが、その効果は疑わしく、土岐氏による
領国支配は、着々と進行していったものと推察いたします。
3.尾張へ進出していた土岐氏と一族
現 小牧、春日井両市の事でありますが、建武3(1336)年、尾張国 篠木荘では、現 小牧市野口にあったという
大山寺の住僧と、現 春日井市庄名町にある円福寺の住僧等が共謀し、鎌倉 円覚寺が地頭請けをしている田の苅
田狼藉をしたと円覚寺より建武の新政で作られた雑訴決断所に訴えたようであり、尾張国衙に対し両寺の住僧を出頭
させるよう命じている記述が、春日井市史P.126にあります。
この建武3(1336)年の大山寺・円福寺の苅田狼藉の一件は、鎌倉市史 資料編にあります史料を使った「尾張領内
円覚寺領について」 ( 大三輪龍彦 )で、次のように推察が加えられていました。
「寺の創建者であり、外護者である北条得宗家からの寄進であり、篠木荘の円覚寺の地頭職は、本補地頭職であっ
たという。こうした円覚寺のような地頭職は、在地領主化へは進まず、バックの権威でもって執行できる力があったので
あり、その権威が失墜すれば、不安定になり易い力であったという。
建武の新政(建武元年)により、鎌倉幕府は、崩壊し、円覚寺の地頭職は、風前の灯となりかけるのでありますが、
円覚寺は、そうした時期には、生き残りをかけて立ち居振る舞いをしたようであります。
建武の新政は、後醍醐天皇による旧来の政治に戻そうと、国衙機構を重視した政策をとり、篠木荘内の「石丸保とも
野口保」は、国衙の権限がある所であり、荘内一円において円覚寺に請負をさせるようにしていったという。円覚寺は、
建武年中は、国衙側に付き、建武2年以降は、領家方が巻き返し、北朝方の光厳上皇に国衙の乱妨を止めるよう訴え
その訴えが認められてからは、国衙の力は弱まっていったと思われ、円覚寺は、領家側に立ち、国衙と争論に及んだと
いう。円覚寺より建武の新政で作られた雑訴決断所に訴えたのは、この事でありましょう。その後、建武3年には、足利
尊氏から円覚寺は、地頭職の安堵を受けているようであります。しかし、その後の篠木荘での地頭職の執行は、以前
のようには、行かなくなっていったようであります。
春日井市史では、P.126〜127にその後の篠木荘の乱暴狼藉が記述されていた。「それは、暦応4(1341)年の
事例であり、長講堂領16ヶ所に伊勢神宮の役夫工米が課せられたのであるが、篠木荘は、この16ヶ所以外の地と
して従来は賦課されていなかったにもかかわらず、この年伊勢神宮より大使が、入部し、乱暴狼藉を致したので、光
巌上皇に訴えている。上皇は院宣を発し、幕府に命じ、役夫工米の停止をさせているという。その後、将軍足利義詮
は、貞治4(1365)年に、尾張守護土岐頼康にあて、篠木荘は、造営外宮料役夫工米のかかる長講堂領16ヶ所外
の地であるので、催促を停止するよう伊勢神宮の造営大使に相触れるよう命じているようであります。
さらに、将軍義満は、永和2(1376)年に御教書をもって、篠木庄に大嘗会米の課税を停止するように命じている。
また、永和3(1377)年には、円覚寺に官宣旨を与え、寺領の篠木荘以下に対し、様々な課税を停止するように申し
送っているようであります。その停止された課税とは、「伊勢大神宮役夫工米、勅役(日食米、御禊、大嘗会、御即位
料)、院役、諸寺社役、国役(国中段米、棟別)、関料、津料であり、官家俗家臨時公役、関東早打役、鎮西早打役を
免除し、守護使入勘、官使、検非違使、院宮諸司の入部や甲乙人乱入を停止するように申し送った」( 春日井市史
通史 P.127 参照 ) と記述されておりました。
参考までに、役夫工米(やくぶくまい/やくぶたくまい)とは、中世日本において、20
年に1度行われた伊勢神宮の式
年遷宮の造営費用として諸国の公領・荘園に課された
臨時課税。正式には造大神宮役夫工米・伊勢神宮役夫工米
と呼ばれていた。
勅役とは、臨時雑役の事であり、賦課を行う主体によって、勅事(勅役)・院事(院役)・国事(国役)・神事(神役)・仏
事(仏役)・天役・本所役・本家役・預所役・下司役・武家役・地頭役・守護役などがあるという。
津料(つりょう)とは、中世日本の津(港)において停泊する船あるいは積荷に対して賦課・徴収される通行税であった
ようです。
元来は津(港)の施設の管理・維持のための費用を調達するために賦課されたが、後には寺社の修繕費などに充当
するなどの様々な名目をつけて賦課されるようになった。船の大きさや積荷の種類・積載量を基準に賦課された。例え
ば、米1石に対して1/100(=1升)を徴収することを升米(しょうまい)と称した。他にも賦課方法によって艘別銭(そうべ
つせん)・帆別銭(ほべつせん)・置石(おきいし)・勝載料(しょうさいりょう)・目銭(もくせん)など様々な呼称がありこれ
らを総称して「津料」と呼ばれるようになった。(ただし、こうした中世日本の通行税の呼び名は関所における「関銭」とと
もに名称が混淆されて用いられるケースが多いことに注意する必要がある)。以上の記述は、ウィキペデイア フリー百
科辞典 によりました。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E6%96%99 最終更新
2010年6月25日 (金) 08:24
参照
南北朝動乱期から室町時代にかけて在地武士層の成長もみられ、荘園は、内部的に崩壊に瀕していたのであり、
篠木荘も其の例に洩れなかった。嘉慶2(1388)年には、将軍義満は、(尾張守護であろう)土岐伊予守にあて、在
地の武士層(例えば、猿子弥四郎<これは、土岐一族の傍流であり、東濃地域の在地武士の末裔カ。・・筆者注>、
神戸新右衛門等12氏等による)の篠木、富田両荘への乱暴を鎮めるよう命じているし、去々年両荘の土地全て寺家
(円覚寺・・筆者注)に返付したが、国中物騒の間隙をぬって、またこれらの武士達が、立ち帰り乱暴していたという。」
(以上 前掲 春日井市史 参照)記述もあります。
円覚寺は、応永3(1396)年6月19日 「伊勢氏貞信奉行人某書状」に於いて、尾張国富田荘と上総国(山武郡)
掘代・上郷・(君津郡)大崎三ヶ郷の交換を望み、支障なければ、1ヵ年分に限って之を行うべき事を決定せしむ。と
いう内容であり、これ以後、円覚寺は、尾張国の所領を鎌倉に近い所領と交換し、尾張国より撤退していったと思わ
れます。これは、いわゆる円覚寺が、尾張国富田荘を室町幕府政所執事伊勢貞信奉行人沙弥道貞カより岡谷安芸
入道へ知らせ、上総の所領と交換したのでありましょう。篠木荘については、史料がなく、よく分かりません。おそらく
は、富田荘と同様な事と相成りましたでしょうか。
「
南北朝統一後の篠木庄の記録としては応永14年(1407)の長講堂領目録に、篠木庄の年貢として絹150疋糸500両
が見えるにとどまる。」( http://www.city.kasugai.lg.jp/bunka/bunkazai/kyodoshikasugai/kyodoshi05.html 内 久永春
男氏の春日井市域の庄園 参照 ) と。
この長講堂領目録の出展が分かりませんが、領家方へ、年貢として絹150疋糸500両が現物として貢納されていたと
すれば、それ以前の地頭職であった円覚寺は、銭納化されていた筈。この銭は、絹や糸を円覚寺は、徴収し、市(いち)
にて売却し、充当していたのでありましょうか。この応永14(1407)年頃の篠木荘の支配所領関係は、どのようになっ
ていたのでありましょうか。
「確かに、応永年間(1394年〜)頃以降、足利一族で三管領の一角を占めた斯波氏が、尾張守護を世襲するように
なった事は史実でありますし、斯波氏は、京都に在住し、尾張へは、守護代(代官)として越前より織田氏を入国させ、
治めさせたようです。
「当初は、織田氏は、二派に分かれ、岩倉を拠点とする伊勢守系で、春日部・丹羽・葉栗・中島郡の上4郷を諸将で
分割支配し、もう一派は、清洲を拠点とした出雲守(後の大和守)系で、海東・海西・愛知・知多郡の下4郷を統一支
配していたという。」(信長公記 参照)
応仁の乱(1467〜1477年)では、伊勢守 敏広×大和守 敏定が尾張一国をかけて争ったという。
結果的には、大和守 傍系の織田信長の父 信秀が、尾張一国を統一したようです。」 ( 郷土誌かすがい 第
6号に記載されております重松明久氏の「中世 武士と農民の社会」 参照 )
http://www.geocities.jp/buntoyou/f3-3/a-f-owari019.html の尾張の城019には、次のような記述もしてあります。
( どのような出展からかは不明。)
「延徳三年(1491年)に尾張守護職斯波武衛は、清洲城の織田敏定に近江の佐々木六角氏を攻めさせました。甲
賀山に陣を構えたところ、余語蔵人(佐々盛政)なる者が参陣しました。余語氏は敏定に従い尾張に入り、敏定が楽田
城に入り、余語氏は小坂氏とともに代官職を仰せ付けられ、余語氏は比良(名古屋市西区山田町)に屋敷を給わり居
住しました。」とあるようです。
その後、信長の時代になって、篠木(上・中・下)三郷カ 篠木(上・下)二郷であったかも知れませんが、確認出来るの
は。篠木下郷の記載のみであります。この篠木郷が、信長の直轄領(知行地)となり、古代から続いた職による権威は、
完膚なきまでに消滅していったのでありましょう。
参考文献
・ 春日井市史
・ 濃飛両国通史
・ 多治見市史 通史 上
・ 多治見市史 在地史料編
・ 小牧市史
・ 尾張国内 円覚寺について 大三輪龍彦
(http://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/902/1/shigaku_5_39_55.pdf
)
平成24(2012)年5月17日 加筆修正
平成25(2013)年5月4日 一部加筆修正
平成25(2013)年6月11日 一部加筆