稲荷寿司の起源についての覚書
1.はじめに
食べ物の起源は、と問うとたいてい地域地域により、ここだ。という説が出てきます。
いなりすしに於いても、同じなようです。
稲荷寿司は、別名 おいなりさん、いなり、篠田寿司等々と呼ばれます。が、稲荷と付
けば、神社(稲荷)関係かなとは思います。とすれば、京都伏見の稲荷神社(この神社が
日本国中の稲荷神社の総本山です。)辺りが、発祥地かと想像するのですが、今一、そ
のような発言もないようです。
案の定、愛知県では、豊川市の豊川稲荷が、発祥地であると 市をあげて説明されて
いるとか。それは、いなり寿司の発祥は、愛知県豊川市にある豊川稲荷の門前町で、天
保の大飢饉の頃{1833年(天保4年)に始まり
、1835年から1837年にかけて最大規模化し
た飢饉である。}に考え出されたといわれるところからでしょうか。
すると、いや違う。それはおかしいという意見も出てきておるようです。本家本元争いは
我田引水の様相を呈していると言えましょうか。
2.現存する稲荷寿司起源を記す 喜多川守貞の著「守貞謾稿」
ア、喜多川守貞の著「守貞謾稿」とは
近世後期の風俗誌。喜多川守貞著。30巻,後篇5巻。絵入。別名《近世風俗志》。刊行さ
れることなく原稿で伝わったが,原稿には〈漫〉ではなく〈謾〉の字が用いられている。1837年
(天保8)起稿,1853年(嘉永6)脱稿,1867年(慶応3)加筆。約30年間書き続けて全35巻(「前
集」30巻、「後集」5巻)をなした。1600点にも及ぶ付図と詳細な解説によって、近世風俗史
の基本文献とされているという。 直筆は、国立国会図書館にて所蔵されている由。
生業(巻之五〜六):種々の商業の解説、京坂と江戸との相違、看板・暖簾や諸道具の図
解、食関連では料理の詳細な解説もあるという。この5乃至6巻に稲荷鮨についての
記述があるのでしょう。
( 詳しくは http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%AF%BF%E5%8F%B8
ウイキペデイア百科事典 最終更新
2012年7月30日 (月) 09:44
参照 )
その書物に記載された稲荷鮨についての内容は、以下のようであるという。
「天保(1830〜44)末年、江戸に油揚豆腐、一方を裂きて袋形にし、木耳、干瓢等を刻み交
ヘタル飯を納めて鮨として売る。
日夜売之ドモ夜ヲ専らトシ、行灯(あんどん)に華表(とりい)
ヲ画(えが)き号(なずけ)テ稲荷鮨、アルイハ篠田鮨ト言い、トモニ狐に因(ちなみ)アル名ニ
テ野干(やかん 狐の異名)、油揚ヲ好ム者故に名とす。
最も賎価鮨也。 尾張ノ名古屋等従
来有之。
江戸も天保前より、店売ニハ有之與(か)。蓋(けだし)両国等田舎人ノミト専ラトスル
鮨店ニ、従来有之與(か)也」
守貞謾稿によれば、天保頃には、稲荷すしを売る者があったと言う。名古屋等では、もとも
と以前からあったという。江戸でも天保以前から売る者がいたかもと記されております。
稲荷
鮨の発祥は江戸が先か、名古屋が先か、豊川が先かは、特に記述はされてはいないようで
す。
しかし、守貞謾稿に書かれた稲荷寿司の事柄、そして、豊川稲荷の天保の大飢饉の頃の年
代をみれば、豊川の稲荷寿司は、いくら早くても1833年より前にはならないでしょう。
所が、江戸では、天保期以前にも稲荷寿司が、売られていたかもという記述。また、江戸の稲
荷寿司以前から名古屋では、稲荷寿司が、あったという記述である以上、やはり、稲荷寿司の起
源は、名古屋に軍配があがるのではないでしょうか。
補足ではありますが、
篠田鮨=信太寿司のことらしく、信太の森は、大阪府の地名らしいとい
う記述もあります。
( 詳しくは http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1350848508 参照 )
この書籍によっても、発祥の地は、尾張名古屋である可能性が高いようです。しかし、豊川でも
可。江戸でも、天保前頃には売られていたようでもあります。とても廉価のようで、もっぱら江戸で
は田舎もん(庶民)の食べ物(鮨)であったかと。
江戸では、専ら夜売られていたようで、店の行灯(あんどん)に、とりいが描かれ、野干(やかん
狐の異名とか)に由来するとして、その食べ物を「稲荷鮨」或いは「篠田鮨」と言ったというようであ
ります。夜売られていた所は、両国等。相撲で有名な所ですが、江戸時代の元禄以降、この両国
は、江戸屈指の歓楽街として栄え、特に両国橋西詰の両国広小路は見世物などの小屋が立ち並
んで庶民にとっては、この上ない楽しみな場所になり、賑わったという。そうした場所で、天保期以
前 夜専ら売られていたのでしょうか。
そうそう、尾張名古屋にもこのような常設の見世物小屋は、存在しており、歓楽街となっていたよう
であります。そうした所で、小腹の空いた客相手に、稲荷鮨は、格好の食べ物(現代風に言えば、ファ
ーストフード)であったのかも。必要があって創作された食べ物の変り種であり、時勢にあったのでし
ょうか。
念のため、名古屋に於ける江戸時代、常設の芝居小屋があった所は、現 名古屋市中区橘町を
含む、本町通り筋 現 白川公園辺りまでの寺社境内であったようで、名古屋城から南へ2〜3Km筋
には、寺社が多い。これは、名古屋城下を築く時、徳川家康により、南の防御の為に寺社を多く置い
た事によるようであります。
こうした常設の芝居小屋の賑わいの様子は、尾張名所図会の東本願寺掛所西側図等より垣間見
る事が出来ます。(詳しくは http://network2010.org/article/1187 東南寺町南端
橘町周辺 参照)
名古屋に於ける常設の芝居小屋の許可は、尾張藩主 2代目 徳川光友によるという。紆余曲折は
あったようですが、寛政13(1801)年からは、常設となったようであるという。
ここは、現 東本願寺西別院のある所であり、栄国寺境内にあったのが、橘町の芝居小屋であります。
夏には、夜遅くまで興行が行われていて、賑わっていたことが、尾張名所図会で知ることができました。
また、篠田鮨は、別名 信太寿司というようで、生まれは、大阪府であるとか。とすれば、大阪も発祥
の地の候補に上げてもいいのかもとは推察いたします。
遅ればせながらと、平成の御代、京都伏見地区でも稲荷寿司おひろめ隊なる者の集団ができ、活躍
中とか。
しかし、その隊は、ここが元祖という事は一言も言われていないようであり、どうやら発祥の地では、
ないかのようであります。
イ、豆腐、あぶらあげ、天ぷら、酢の歴史
・ 豆腐について
豆腐の起源は、中国4千年の歴史にあるようで、唐代のようであります。日本へは、遣唐使が、
伝えたとか。
しかし、豆腐が記録として登場したのは、寿永2年(1183年)、奈良春日大社の神主の日記に、
お供え物として「春近唐符一種」の記載があり、この「唐符」が最初の記録といわれているとか。
本格的に、庶民の食べ物として取り入れられるようになったのは、江戸時代のようであり、天明
2(1782)年に刊行された豆腐料理の本「豆腐百珍」は、爆発的な人気を呼び、翌年「豆腐百珍続
編」、翌々年「豆腐百珍余禄」が出版され、当時ブームとなった料理本〈百珍物〉のさきがけとなっ
たといわれており、当時の豆腐の普及ぶりがうかがえます。
( 詳しくは http://tofu.or.jp/knowledge/file03.html を参照下さい。 )
では、いつ頃、あぶらあげは、創作されたのでありましょうか。
・ あぶらあげについて
あぶらあげ、或いはあぶらげという名称でよばれておりますが、江戸時代頃は、油揚豆腐と言
われていたようです。起源は、豆腐ほど古くは無く、はじまりは、江戸時代の初め頃であろうとさ
れております。
{ 油揚げは、江戸時代初期に既に文献に登場しますが、その頃より流行し始めた「天ぷら」な
どの揚げ物料理の一つとして考案されたものと思われます。}という全豆連の記述もあるようです。
( 詳しくは http://www.zentoren.jp/knowledge/kind_2.html を参照下さい。 )
・ 天ぷらについて
「天ぷら」とは当初、17世紀末頃、ポルトガルから九州・沖縄方面に入ってきた油料理の総称で
あったとされ、後には奈良・平安時代に伝来した技術を発展させた日本的油料理も含めた名称と
なったようであるという。
・ 酢について
日本へ米酢の醸造
技術が中国から入ってきたのは古墳時代もしくは、弥生時代頃であるとい
う。 しかし、
日本人も、酒を
ほっておくと変化して、
すっぱくなり酢になるという事は、早くから知っ
ていたようです。日本での酒は、中世の寺から始まったのでは、その頃の酒は、玄米と麹を使用し
ていたようで、今のような製造法ではなく、低温殺菌をもしなかったようで、直ぐに変化して酢になっ
ていたかと。また、出来た酒に木灰を入れて、中和して飲んでいたとか。
*
豆腐、天ぷらの歴史を眺めれば、天ぷらの技法は、現代の天ぷらの流儀は、18世紀には全国に
広まったかと。徳川家康の死去因には、天ぷらを食して云々と言われていますが、どうも素揚げであ
り、奈良・平安時代に伝わった技術での油料理ではなかったかと。それ故、豆腐を油で揚げる事を思
いつくのは、江戸時代よりも前かもしれません。ならば、天保年間以前に油揚げが出来ていても不思
議ではないでしょう。そして、その後油揚げを味付けし、ご飯を詰める事をも思い付いたかと。
とすれば、あぶらあげに酢飯を入れるこの食品は、副食がなくても味付けがされており、簡単に食する
ことが出来る食品ではありましょう。天保の大飢饉時に考案されたという事も一理あるかなとは思います
が、天保以前にもあったというのであれば、別の理由を考える必要がありましょう。
こう考えていくと、油を使った料理は、仏教関係の精進料理等に、古くから使われていたのであり、もと
もと豆腐の技術は、遣唐使として中国へ渡った僧侶が持ち帰ったものでしょうから、早くから豆腐を油で
揚げる料理を考案したとしても不思議ではないのかも。明治以前は、神仏混合であり、神社へも早くから
豆腐を油で揚げる技法は、伝わった可能性も無きにしも非ずでしょうか。
やはり、おいなりさんを最初に食したのは、、寺院、神社関係者だったかも・・・。それが、庶民に伝わり
江戸時代末頃、爆発的な広がりをみせたのでしょうか。
しかし、天保期 江戸では、稲荷鮨は、下賤の食べ物としての扱いであった事を類推するに、高貴な身
分の方からの伝播とは考えづらい事ではありましょう。やはり、下々の方からの創作料理ではなかったか
とは類推できましょうか。豊川市にも一理ありでしょう。おにぎりと同様、作られてしまえば、持ち運びも楽
で、簡単に食することが出来、食後の後片付けもいらないといった携行食の変り種という位置付けがされ
たのでしょう。そして、現在に至っているかと。
やはり、発祥は、名古屋でありましょうか。先述致しましたとおり、江戸時代中頃以降、見世物小屋とし
て栄えた歓楽街に、現代風で言えば、ファーストフード的なホットドック風の「稲荷鮨」として、店頭販売し
たのが、はじまりと考えれば、辻褄はあうといえましょう。また、「守貞謾稿」の記述にも合致いたしましょ
うから。
そうそう、昔は、狐狩りをする時、鼠の素揚げを使っていたとも聞く。殺生はいけないという風潮から、鼠
の素揚げに代えて、油揚げを使用すようになったという話もあるやに聞きます。それからでしょうか、稲荷
神社に「あぶらげ」を供えるようになったのは・・・云々と。いろいろあるようです。
平成24(2012)年 9月7日 最終脱稿