日本に於ける 「稲作」 のはじまりについての覚書

            1.はじめに
               この覚書は、「日本人の起源」というHPに掲載されている事柄を私なりにまとめた記述であること
              をお断りしておきます。詳しくは、http://www.geocities.jp/ikoh12/index.html を参照されますように。
               
                                 このHPを立ち上げられた 伊藤 俊幸氏の労作でありますことを明記しておきます。

            2.日本での稲作追求の画期的な分析法
               日本での稲作追求は、農学者である藤原宏志氏の功績が、大でありましょう。いわゆるプラントオ
              パール分析法を開発されたことに尽きるのではないでしょうか。

               私も幼少時、ススキの葉で、よく皮膚を切った経験がありますが、これは、葉に珪酸が蓄積され、ガ
              ラス状になった結晶が出来ることによるという。こうした珪酸は、葉が腐っても珪酸そのものは地中に
              そのまま残り、存在しているという。それぞれの種により、珪酸の結晶は、一定の形をなし、類別出来
              るようであります。こうした珪酸の結晶をプラントオパールと言うようであります。

               氏は、このプラントオパールの分析法を稲の追求に応用されたという。
              2005年2月、岡山県灘崎町にある彦崎貝塚より、縄文前期(約6000年前)の地層より土 1gあたりプ
              ラントオパール2000〜3000個のイチョウ葉状の形のジャポニカ米の系統ではないかという物を発見
              されたという。

               他にも雑穀類(ヒエ、アワ類)のプラントオパールも同時に検出されたという。この貝塚は、地形的に
              は沖積低地(30%弱)、台地及び台地周辺(60%弱)、山間山麓(10%程度)であり、このジャポニカ
              米は、水稲種ではなく、焼畑乃至焼畑農耕の可能性が大であると推察されたようであります。

               こうした農法は、低湿地の灌漑を伴わない粗放稲作かやや高い台地での焼畑的な稲作であり、当然
              畔(あぜ)のような遺構とか鍬(クワ)などのような諸道具も出土する可能性の低い農法であり、こうした
              農法には、棒杭1本で、種籾を入れる穴掘り道具さえあれば、事足りる農法ではないかと推察された。

               この発見の前、1986年 北京農業大学 正在徳氏により長江(揚子江)下流域 余女兆(よよう)県
              河姆渡 (かぼと)村からおびただしい量の籾が出土した。7000年前の地層であったという。
                                その遺跡は、国立科学博物館バーチャル展示室で閲覧できるようになっております。詳しくは、下記UR
              L  http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-24.html で参照下さい。

               佐藤洋一郎氏は、著書「日本人はるかな旅 4」( P.120 参照 ) で、長江中・下流域から出土した
              炭化米のDNAを取り出し、分析に用いた20粒のすべてがジャポニカ米に属している事を見出し、更に分
              析をしていくと、その20粒中の2粒{ 河姆渡(かぼと)遺跡より出土米 }は、熱帯ジャポニカ米であったこ
              とが、判明。残りは、熱帯とも温帯ジャポニカ米とも判別できなかったという。

               これにより、日本に最初に伝わった縄文時代の稲作は、熱帯ジャポニカ米であり、水稲用の籾ではなく、
              水陸両用の熱帯ジャポニカ米であった事が、確認出来たといえましょう。。

               伊藤 俊幸氏の長年による研究にて、この縄文時代に伝わった焼畑農耕及び低湿地での粗放農耕は、
              範囲が北九州及び中国地方の一部であり、特に岡山と有明海の二ヶ所で特に多いという特徴を有してい
              る事を突き止められたようであります。
               この縄文期に西日本と中国江南地域は、海上交通で互いに交流していたのではと考えられ、この長江
              江南地域の長江文明は、稲作農耕と漁撈をベースにした中国周時代以降春秋戦国時代にかけて、活動
              していた 越人 によるものであろう事も付記されております。

               最近の研究では、歴史民族博物館による 2003年7月25日の特別講演会 「稲作の弥生時代の開始年代
              ーAMS年代測定法の現状と可能性」という講演にて、次のように述べられております。
               ( AMS年代測定法とは、加速器を用いた質量分析法のようであります。) 

               それによると、北九州の稲作は、紀元前9〜8世紀まで遡り、これは、中国殷(商)の滅亡、西周の成立期
              の時期と思われるという。

               日本での弥生前期は、紀元前800〜紀元前400年の間であり、中国では戦国時代に相当するという。 

               福岡空港南端、福岡平野を流れる御笠川と那珂川の間に挟まれ、やや御笠川に近い板付遺跡からは、4
              00u(20m×20m)の水田跡が発掘された。更に1980年 2600年前の日本最古の水田跡が玄界灘を臨む
              唐津 菜畑にて4×7mという小さな水田跡が発掘されましたが、土木技術は、高度なものであったという。

               こうした遺跡は、中国では周時代から春秋戦国時代に相当するという報告であることを付け加えておきます。

            3.渡来人の流入
              渡来人の第1波は、殷の滅亡・西周成立期の頃と推定されており、中国大陸での動乱により、朝鮮半島南端
             を経由し、稲作技術と研磨石器や支石墓の文化を持つ数百人規模の渡来人が、日本(玄界灘を臨む唐津 菜
             畑)に来たのではと考えられている。

              その200年後 板付(博多空港南端)辺り一帯を埋め尽くす程の大規模な渡来があったと思われます。
              これが、第1波 渡来人の日本への流入であったという。この第1波は、北九州、中国地域の一部しか伝播し
             なかったようであります。(これは、越に滅ぼされた呉の国の一族ではなかったかと推察いたします。・・筆者注)

              似たような解釈を、国立科学博物館のHPでも述べてみえるようです。稲の道という表題で既述されています。
             既述の佐藤洋一郎氏の「稲のきた道」を改編された図でしめされました。詳しくは、下記 URLにて参照下さい。
                                  (   http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-25.html  )

              渡来人の第2波は、今から2600年前〜2400年前の出来事であり、中国では春秋戦国時代の頃かと。この頃は
             気候変動を研究してみえる環境考古学者の安田喜憲氏によれば、3000年前は、厳しい寒冷化の時期であり、日
             本列島の東北部は、温暖な地帯から、寒冷化に適するブナやミズナラの林に変貌していったという。当然クリ・ドン
             グリの採れる温暖帯のクヌギ・コナラ・クリ等の樹木は、枯れていったようであります。

              そうした気候大変動の影響でしょうか満州北部にいた東胡民族の一部が、朝鮮半島西北部に南下し、流入した。
             その結果、朝鮮半島では闘争が激化し、先住民は、故郷を棄て、更に半島を南下し、一部は、海を渡って日本に
             渡来人として流入したという。

              更に200〜300年後 長江(揚子江)中・下流域の江南地域にいた 越人 は、戦国時代に力を付けて来た 秦
             等の強国に追われ、海を渡って日本へ、或いはベトナム等へと避難して行ったという。この長江からの渡来人は、
             水稲稲作を主体とする高床式倉庫、水をはった堀(環濠)集落を形成していたようで、有明海を中心とした地域に流
             入したようであります。そして、近畿へと進出したのではないかと考えられるのです。

                               この 越人 の特徴として、海に潜って漁をしていたようでフカ対策としてでしょうか体や顔に刺青のようなものをし
             ていたという記述もあります。( これは、魏志倭人伝中に記述されていた倭人にも同じような特徴を有している事が、
             知られていますので、海岸沿いの末ら国、不弥国?の辺りの農耕と漁撈をベースにした集団と何やら類似していると
             思われます。・・・筆者注)

              農学者であります 佐藤洋一郎氏は、自著「稲の日本史」にて日本のイネのDNAの分析結果より、日本のイネには
             朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲品種があることを突き止められた。詳しいことは、氏の著書「稲の日本史」
             を参照されたい。が、長江よりの流入を推察できる記述ではあります。

                              最近、米の移入ルートには、二つの道があったという事が、クローズアアップされてきています。{吉野ヶ里の東側に
             隣接した「瀬ノ尾遺跡」からこのほど「長粒系」の炭化米(弥生中期)が出土したことを佐賀大学農学部和佐野喜久生
             教授が発見した。 
              炭化米の研究を続けている和佐野教授の調査によると「長粒系の炭化米は吉野ヶ里出土のものが一番大きかった
             が、瀬ノ尾遺跡の炭化米はそれより更に大きく、徐福伝説で知られる−徐福のふるさと、中国江蘇省連雲港市の焦庄
             遺跡の長粒系炭化米に近づく大きさである」と言う。

              和佐野教授は朝鮮半島経由の短粒系の炭化米は佐賀県唐津市の菜畑遺跡、福岡市近郊の板付遺跡など玄界灘
             地域から出土しているが、長粒系の炭化米は有明海沿岸の吉野ヶ里、筑後川水系に集中している。今回の瀬ノ尾遺
             跡の炭化米は長粒系の分布図を更に補強する大きな意味をもっている。

              いま稲作の伝番(でんぱん)ルートについては、
               ・ 中国の華北、山東地方から朝鮮半島を経て北部九州(玄界灘方面)に至る「朝鮮半島ルート」(炭化米は短粒
                系)
               ・ 中国の長江流域の江南地方から東シナ海を渡って、九州西岸や有明海へ入って来る「江南ルート」(炭化米は
                長粒系)

              この2つの渡来ルートをめぐって考古学者などの間で論争が続いているようでありますが、和佐野教授は炭化米の
             短粒、長粒系の中国、韓国、日本3ヵ国の対比調査、分析の結果、二つの「稲の道」が存在したことを炭化米が示し
             ていると指摘している。}( 詳しくは、http://www.asukanet.gr.jp/tataki/miracle.html を参照されたい。 )

                              九州・瀬戸内海日本海側・畿内より中国 「新」時代の貨泉(貨幣)が、遺跡より出土しているという。「 青谷上寺地遺跡
                 (あおやかみじちいせき)からは古代中国のお金が出土しています。中央に四角い穴が開いた青銅製の貨幣で、かつて時代劇で銭形平次が投
                 げていた一文銭にそっくり。大きさは径が約2cm、重さは2.9g程度あり、ちょうど10円硬貨くらいです。文字の鋳出されている面を見ると、右に「
                 貨」、左に「泉」の字があり、これが古代中国の「貨泉」といわれる通貨であることがわかります。貨泉は、漢王朝を前漢・後漢にわけた間に「新」
                 という国を立てた王莽が西暦14年に造り始めたもので、西暦40年に後漢の光武帝が廃止して五銖銭という貨幣が復活するまで、広く使われて
                 いました。朝鮮半島を経由して日本にも伝わり、弥生時代の遺跡からごくまれに出土します。青谷上寺地遺跡からは4枚も出土していますが、山
                 陰地方では、島根県出雲市の中野清水遺跡から1枚が出土しているだけです。貨泉は鋳造・使用した期間が短いため、弥生時代の年代を決め
                 る手がかりともなっています。遠く中国から青谷上寺地遺跡に伝わってくるまでどれだけの年月がかかったのかわかりませんが、貨泉が出土した
                 遺構や一緒に出土した遺物の年代の上限を知る手がかりになっています。ところで、日本に伝わった貨泉が実際に通貨として用いられたとは思
                 えません。青谷上寺地の弥生人たちは、この不思議な金属製品をどんな思いで見つめたのでしょうか? (鳥取県教育委員会 中原 斉)」という
                 記述もあります。( 出典は、http://www.pref.tottori.lg.jp/46449.htm によります。)
                  
                
同様な記述は、「古代丹後王国はあった」なる記述内にもあり、併記しておきます。( 詳しくは、下記 URL pdfファイル
            にて http://www.marinetopia.jp/ResortClub/PDF/Resort200804Vol226.pdf 参照下さい。 )

           4.まとめ
              こうした初期渡来人は、日本に先住していた縄文人と同化乃至は対立していったと推察され、原日本人としての原型
             になっていったのではないかと。もはや渡来人というより、倭人と称される存在になっていったのでしょう。

              以上の内容は、文献史学とも考古学とも趣は違いますが、日本での稲作という事柄には、接近できる有効な方法論か
             と考えます。

              また、縄文・弥生時代を通して、海は、障害ではなく、広く交易の通路であったように思えます。黒曜石の移動・貨泉(貨
             幣)の移動等々は、その確証となりえましょうか。物だけでなく、人物の移動を伴った事でありましょう。

              あとは、こうした史実と神話の内容を重ね合わせ、或いは神社関係の祭神の分析等を織り交ぜていくと何らかの真実
             がみえてくるのではないかと考えられますし、渡来人は、これ以後も中国大陸、朝鮮半島情勢により日本への流民として
             古墳時代以降も流入が続いていたと推察されます。今後は、こうした渡来人の中で、大和朝廷に用いられ活躍する秦氏
             等々の定住場所の推移、活動を探って行きたいと考えている今日この頃です。

                                                            平成24(2012)年7月13日 記述
                                                            平成24(2012)年12月6日 加筆
                                                            平成25(2013)年4月18日 加筆
藤伊藤 俊幸 俊幸