入鹿池開発 顛末記

              
                 我が家から車で僅か20分弱の所に入鹿池は、存在している。丁度5月中旬に
                「ヒトツバタゴ(別名なんじゃもんじゃ)」の自生地へその開花を見に行きました
                が、入鹿池は、その直ぐ近くであります。

                 「その入鹿池は、江戸時代初め頃に、入鹿六人衆により造られた人工のため
                池であります。
                 この池には、山々から流れ込む沢がいくつかあり、その内でもおおきな沢は、
                北東から小木川(荒田川とも呼ばれ、これは奥入鹿村の近くを流れる沢であり、
                源流域の、一つは、岐阜県多治見市の高社山417mの麓であり、後一つは、
                八曽山327m辺りでありましょうか。・・筆者注)、今井川(江戸時代の今井村近
                くを流れる沢であり、成沢川とも言われたようです。源流域は、愛知県犬山市内
                であり、現 リトルワールドのある近くでありましょう。・・筆者注)は、北西より流
                れ来る川でありました。両川の間には、瀧ヶ洞川、高洞川等も流れ込んでおりま
                した。」( 入鹿御池開発記 小牧市立図書館 蔵書 参照 )
             
                 池が出来る前までは、そこには、入鹿村が存在しており、これらの川水は入鹿
                村で合流し、現在の五条川(江戸時代、この川が、青木川と合流する辺りまでは、
                幼川と呼称されていたのでは・・筆者注)へと流れていた。その入鹿村で合流した
                水は、現 入鹿池の南側東から流れ出て(銚子の口と呼称されていた。)いた。
                 この銚子の口は、小牧方面から入鹿池に向かって車を走らせると、左右に分
                かれる交差点にでる。その交差点の突き当たりにある神社近辺が、その当時は、
                山々の沢水が合流して、幼川へと流れ込んでいた銚子の口であったと言う。
                 
                 この入鹿村は、その昔大和王権が成立した頃、皇室直轄領(屯倉)であり、入
                鹿屯倉と呼ばれていた所ではないかと。尾張には、同様の直轄領があり、書紀
                には、下記のような記述も見られると言う。
                 「朝鮮半島より来朝する使節の饗応と飢饉に対処する為、九州は、那津(なの
                つと読み、福岡市博多港の古名)に官家(みやけと読み、大宰府の前身か)を造
                り、一部の皇室直轄領(屯倉)の穀(もみ)を大臣、大連らは、連等に命じて運び
                込ませよ。と命じられた。という詔があり、これに関連する文言は、蘇我大臣稲目
                は、尾張連を遣わして、尾張国の屯倉の穀を運ばしむべし。」 であります。すで
                に、尾張連氏は、尾張の地に土着しており、国造であった筈。
                 屯倉には、稲城(県主とは違い、租税関係の統括者)が存在し、稲城の上に国
                造が存在していたのでしょう。

                                     また、「入鹿村の歴史は古く、縄文時代後期の物とみられる入鹿池遺跡がある。
                その昔、この地には、安閑天皇2年(535年)に、入鹿屯倉(みやけ)が設置されたが、
                大化2年(646年)に廃止となった。」というHP上のウィキペデイア フリー百科事典で
                の記述もあり、入鹿という名称は、古からあったのでありましょう。
                   ( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E9%B9%BF%E6%B1%A0 参照 )

               
                 この地域の高台は、雨池を造って、灌漑用としていましたが、旱魃がひどく、高台
                地域の開発は、思うように行かない有様であったという。

                 其の為、大きな灌漑用の溜め池が必要とされるようになった。尾張富士、羽黒山
                奥入鹿山、大山等に囲まれた入鹿村にため池を造る構想が生まれ、入鹿六人衆(
                上末村浪人 落合新八、同村 鈴木久兵衛、小牧村 江崎善左衛門、村中村 丹
                羽又助、田楽村 鈴木作右衛門、外坪村 舟橋七兵衛)が、立ち上がったと言う。

                 このような由緒のある地域を用水の為とは言え、水没させる事は、莫大な費用
                もかかり、尾張藩の援助が無ければ到底かなわぬ事ではありました。犬山城主
                成瀬氏の進言により尾張藩の事業とされたようであります。

                 尾張藩は入鹿村の村民に対し、家長(間口)一間につき金一両づつを払い、転居さ
                せ、立ち退き先として、まだ開発されていない荒地や、池の畔を充てがったという。
                 彼らが移転した先は、入鹿出新田と言われたようであるが、別称で言われる地域も
                あったやに聞き及んでおります。 

                 「入鹿村の村民は移転を余儀なくされたが、彼らには土地が与えられた。移転先とし
                て、前原新田・奥入鹿村・菊川新田・神尾入鹿新田・北外山入鹿出新田があった。こ
                れらが入鹿出新田である。このうち、前原新田が一番移住した数の多かった所である
                と言う。

                 また、前原にある南野新田は、入鹿村の人が直接移住した所ではないが、神尾入鹿
                新田に移住した内の数人が、開墾の困難さに音をあげて、更に移住した地域でもあると
                言う。」 ( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E9%B9%BF%E6%B1%A0 参照 )

                 そして、水没した入鹿村には、かって虫鹿神社・天道宮白雲寺があった。虫鹿神社(む
                しかじんじゃ)は延喜式に丹羽郡虫鹿神社として名の載る古い社である。天道宮(てんと
                うぐう)は古くから信仰を集め、尾張北部の人々から、厚く敬われた。白雲寺(はくうんじ)
                は、その神宮寺(日本において神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教
                寺院や仏堂の事であり、別当寺神護寺宮寺ともいうようであります。)で、山号を入鹿
                山という。そして入鹿池造成のおり、白雲寺は虫鹿神社とともに前原新田へ移築された。
                 明治元年(1868年)に廃仏毀釈に遭い、その後天道宮神明社となり、現在に至っていま
                す。白雲寺は、現在は、残存していないようであります。

                 この前原新田は、現在「前原」と言われている所であり、犬山病院とか、さらさくらの湯で
                慕われております所より西よりの一帯であったのでしょう。                                

                 1632年(寛永9年)に、本格的に始まった工事は難航した。銚子の口は、急流であり、せき
                止める水量が多く、距離も長く、折角築いた堤も崩れてしまうからである。彼らは為す術なく、
                大野杁の工事の場合と同じく、河内国に技術を求めた。そして派遣されて来たのが甚九郎
                であったという。

                 甚九郎が、用いた技法が、棚築き(たなきづき)と呼ばれる技法である。堤を築きたい所に
                油の浸みた木の橋を渡し、その上に燃料の枯れ枝・松葉、土や石を載せる。そして木橋を
                燃やし土を落とすのである。

                 こうして寛永10年(1633年)2月、ついに甚九郎は96間(約175m)の大堤を完成させた。これ
                を百間堤(ひゃっけんづつみ)というが、彼の功績を称え河内屋堤(かわちやづつみ)とも呼ば
                れたようであります。築堤に使用した土の量は総じて49万立方メートルであったと言う。

                 甚九郎は褒美に土地を与えられた。その荒地は河内屋新田(かわちやしんでん)と名づけら
                れたが、甚九郎は見事開墾し、村高は114石となった。河内屋新田は現在でいうと、小牧市北
                西部の端に位置する地域であり、国道41号と155号線が交差する近く、現 村中小学校より
                やや北側に位置しているようです。

                 しかし、この百間堤は、明治元年(慶応4年、1868年)4月終わり頃からの大雨には耐えられな
                かった。5月13日百間堤が切れ、入鹿池一杯に貯まった水は下流に溢れ、多大な被害を出した
                のであります。これを明治元年の「入鹿切れ」(いるかぎれ)と地元の人々は、呼んでいるようで
                あります。水死した方も多数あったと聞き及んでおります。

                 このような大きな被害を出したのでありますが、やはり、灌漑用には入鹿の池の水は、必要と
                の事で、再度築堤され、現在に至っているやに聞き及んでおります。

                 その際、排出口は、最初に造られた銚子の口ではなく、現 入鹿池の南面の西側に変更され
                たようであります。

                 私が5月中旬頃 「ヒトツバタゴ(別名 なんじゃもんじゃ)」の木の花を見に行った池野地区は、
                江戸時代には、神尾入鹿新田と言われた所であったようで、ヒトツバタゴ自生地にも田がありま
                すが、現在は、休耕田となっている所もあるようで、ある田は、原野に戻りつつある状況ではあ
                りました。
                 確か、この神尾地区に移住した入鹿村の一部の人は、開墾に根を上げ、前原地域に再度移
                住したとも聞き及んでおり、開墾は、それなりに大変な事であったのでしょう。

                 参考文献
                  ・ 入鹿御池開発記 入鹿由記 古木津新木津併高付 合冊  小牧市立図書館蔵書
                  ・ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E9%B9%BF%E6%B1%A0 参照
                                        ・ 春日井市史 通史
                  ・ 入鹿池史(入鹿用水誌)  入鹿池史編纂委員会  平成6年