幕領笠松陣屋の代官及び郡代と出張(でばり)陣屋についての覚書
1.はじめに
元文以降の美濃における幕領の支配は、一陣屋二出張(でばり)陣屋体制であると「
幕領陣屋と代官支配 」 ( 西沢淳男著 P,38〜39 参照 )では記述されている。
一陣屋は、言わずもがなの 笠松陣屋であり、二出張(でばり)陣屋とは、一つは、本田
ともう一つは飛騨高山の出張(でばり)陣屋である 下川辺であった。しかし、明和7(177
0)年に本田出張(でばり)陣屋は廃止され、これ以後は、美濃の幕領は、一陣屋一出張
(でばり)陣屋体制が幕末まで続いたようである。
では、元文以前の美濃幕領の支配は、どのようになっていたのであろうか。総括的な研
究については不明であり、在地史料からどうやら幕領代官所名ではないかと知りえるので
ある。
2.美濃の幕領を支配した奉行、郡代、代官等の歴代変遷
美濃の幕領は、関ヶ原以降に出来るのであり、美濃で西軍に参加した大名、小領主等の
所領の再分配を兼ねた幕藩体制の構築にあったことは確かなことであろう。事実、慶長5(
1600)年9月15日の関ヶ原の戦の前哨戦である同年8月21,22日の笠松近く 木曽川沿
いの米野の戦いがそれであり、木曽川右岸沿い、長良川、揖斐川沿いの大名、小領主は
西軍の岐阜を居城としていた織田秀信側に立ち、東軍との戦いの火蓋がきられたのであっ
た。結果は、木曽川を知り尽くしている土豪 野々垣源兵衛久晴の水先案内により清洲城
より駆けつけた東軍側にあり、その木曽川を渡河し、勝ち得たのであった。
その為、戦後処理が優先され、初期では、職制としては陣屋郡代とか、代官ではなく、国奉
行としての美濃奉行という位置づけであった。それも家康の信任の厚い代官頭 大久保石見
守長安 であった。在任期間は、慶長5(1600)年〜慶長18(1613)年であり、岐阜山下靭
屋町に陣屋を置いた。(岐阜陣屋と称した。)
まず、幕府直轄領として、木曾山林、飛騨川上流域山林を抑え、その運搬の水運に関する
川湊である加茂郡兼山(現 可児市)、錦織(現 八百津町)、土田(どた)村(現 美濃加茂市)、
葉栗郡円城寺村(現 笠松町)を抑えたようであった。そして、東軍に参加した在地性の高い小
領主の旧領を安堵しつつ旗本として召し抱え、小大名をかの地に分散配置し、分割支配した。
また、中世以降発達した美濃紙の産地やら、長良川川湊であった下有知(現 美濃市)、揖斐
川の三湊(多芸郡栗笠、舟付、島江)、美濃の中心地 岐阜を抑え直轄領とし、支配体制を整え
ていったようである。
その後、直ちに検地(石見検地)を行い、石高制の基礎を整えていくのである。長安死後、長
安家の財力は、幕閣内の権力争いの過程で、長安のかの地での不正等が発覚し、一族郎党
処断されてしまったという。
二代目の国奉行としての美濃奉行は、かの有名な 岡田将監善同(よしあつ) であり、この
善同(よしあつ)は、長安の後継者的存在であった。
在任期間は、慶長18(1613)年〜寛永8(1631)年であり、この頃、幕府機構も整い、幕領
は、幕府勘定所ー美濃奉行ー郡代ー代官の仕組みとして出来てきたようであった。
岐阜の米屋町に陣屋を置いたが、元和5(1619)年、岐阜が、尾張藩領となり、元々の居住地
可児郡姫郷に陣屋を移したという。
三代目 美濃奉行として岡田将監善同(よしあつ)の子 岡田将監善政が就いた。陣屋は、父が
居住していた大野郡揖斐陣屋とした。その後、承応2(1653)年からは可児郡徳野村に陣屋を移した。
在任期間は、寛永8(1631)年〜万治3(1660)年で、その間には、木曾、長良、揖斐の三河川
の洪水対策に取り組み、「 濃州国法 」、「 将監定法 」という美濃独自の治水制度を確立させた。
これ以後は、代官、郡代と呼ばれ、笠松に陣屋を置くこととなる。この笠松陣屋に就く代官は、年配
者が多く、勘定方からか、或いは最後の適任地として昇進の花道として抜擢されることが多かったよう
であるという。( 幕領陣屋と代官支配 P.92,93 参照 )
以下 代官名 在任期間、主な仕事等を列挙するに留める。
代官・郡代名 在任期間 特記事項
名取半左衛門長知 万治3(1660)年〜寛文7(1667)年 美濃代官 寛文3年布衣(ほい、ほうい)
を許された。
杉田九郎兵衛直昌 寛文8(1668)年〜天和3(1683)年 美濃代官 延宝検地条目に従い、延宝
7(1679)年 笠松、田代村等々の検地
を行い、120石余を打ち出し、後、勘定
奉行へ栄転。
甲斐庄四郎右衛門正之 天和3(1683)年〜貞享2(1685)年 最初は美濃代官、同年10月布衣を許され
た。
岩手藤左衛門信吉 貞享2(1685)年〜元禄12(1699)年 特記事項なし。
辻六郎左衛門守参 元禄12(1699)年〜享保3(1718)年 初代美濃郡代 享保3(1718)年吉宗に請
われ勘定吟味役に抜擢される。
辻甚太郎守雄 享保3(1718)年〜享保20(1735)年 辻六郎左衛門守参の養子 美濃代官後 郡代
諸代官の官地を美濃郡代に統合。
井沢弥惣兵衛為永 享保20(1735)年〜元文2(1737)年 勘定吟味役兼帯の美濃郡代。木曾三川分流
工事の計画を完成させる。
滝川小右衛門貞寧 元文2(1737)年〜延享3(1746)年 美濃郡代でありながら布衣許されず。
青木次郎九郎安清 延享3(1746)年〜宝暦8(1758)年 薩摩藩の宝暦治水の見回り監査。郡上藩 金
森騒動で、藩主側に立ち、幕府の意向に背き失
脚。
千種清右衛門直豊 宝暦8(1758)年〜明和3(1766)年 美濃郡代
千種六郎右衛門惟忠
明和3(1766)年〜天明5(1785)年 父清右衛門直豊の家督を相続し、美濃郡代
千種鉄十郎 天明6(1786)年〜天明8(1788)年 天明8年千種家3代目の多額の借財(2千両
事件)が発覚、連座した代官配下もほとんど処
分、代官は罷免された。
辻六郎左衛門富守 天明8(1788)年〜寛政3(1791)年 80歳の時関東代官より美濃郡代に転任 暴
政の後始末をする。
鈴木門三郎正勝 寛政3(1791)年〜寛政11(1799)年 勘定組頭より美濃郡代。築堤工事等に郡代
自ら土嚢を運び竣工。勘定吟味役に栄転。
辻六郎左衛門守貞
寛政11(1799)年〜文化3(1806)年 飛騨郡代支配地お預かり、水害普請見回り
笠松市日掛銭仕法を施行し、困窮者を支援。
三河口太忠 文化3(1806)年〜文化7(1810)年 特に何もしないまま、西国郡代に栄転。
滝川小右衛門惟一
文化7(1810)年〜文化11(1814)年 滝川家の養子。美濃、伊勢10万石を支配。
松下内匠堅徳 文化11(1814)年〜文政11(1828)年
飛騨郡代支配地お預かり。
野田斧吉 文政12(1829)年〜天保6(1835)年 笠松陣屋類焼により全焼。火災が原因で
騒動となり、郡代は辛うじて逃げるが、後自刃
柴田善之丞 天保7(1836)年〜嘉永4(1851)年 天保の改革の方針を受け仰渡書を出す。
岩田鍬三郎 嘉永4(1851)年〜慶応3(1867)年 皇女和宮御下向の警備、水戸藩士の上洛
阻止。
屋代増之助 慶応3(1867)年〜慶応4、明治元(1868)年 東山道鎮撫先鋒 竹沢寛十郎により美
濃陣屋接収。
この代官・郡代の経歴は、笠松町生誕120年記念、笠松町歴史民俗資料館開館15周年記念
「 笠松のたからもの 」 記念誌より抜粋しました。
3.幕府の方針と美濃陣屋
江戸時代初期においては、幕藩体制の確立が第一義であり、西軍の所領の没収、再配分を兼ね、美濃の
地においては、直轄地を置いて、木曾の木材、その水運の把握、中世以来の既存の経済上にある豪商の取
り込み、検地により年貢徴収の確立が急務であり、そして、政治的には、江戸幕府の安定化のための大名、
小領主の配置の考案であったろう。
江戸幕府が確立し、安定期に入ると、幕府財政が危うくなってくる。それに対応する為、幕府内で改革をして
いくことになる。そこで、登場するのが、犬公方と呼ばれる綱吉である。通俗的には、情けない将軍として記憶
されるのであるが、この生類哀れみの令は、今日的には、動物愛護運動に通じるものであり、尚且つこれは、
武士一般に言われている切捨て御免への厳しい対応が問われた事柄( 人であろうと動物であろうと命にか
わりがなく、無闇に命を絶つことを戒める目的があったようである。)と銘記すべきであろう。
当時の町奉行所の記録にも、犬のことで町人が、罪人に問われたことは皆無ではなかろうか。むしろ、上級
武士間に流行した現代と似通ったワンちゃんのお散歩と変わった犬の愛玩傾向に歯止めをかけんとした対応
ではあったろう。それ故、その当時、江戸の町には、武士の屋敷から逃げ出した犬も多くあり、野犬化していた
と思われる。その犬を、武士は、一刀両断にすることが多かったとも言われる。猫も杓子も犬、犬と武士階級
は望み、犬の供給、廃犬と悪循環を断ち切らねばと綱吉公は願いをこめて出したというのが真相という。
町人への切捨て御免も、制度としてはあっても、ちょっとした粗相で切り捨てたとすれば、吟味の上、切り捨
てた武士が、責任を取らされる厳しい制度であり、やむに止まれぬ武士としての対面を傷つけられない限りは、
重き罪に処せられたのが本制度の存在理由でもあったという。華美、間違った動物愛護の戒めでもあった筈。
あまりにも、我々は、テレビ等の時代劇に毒されていることを知ることとなる。
そして、吉宗。幕府の御金蔵は底をつき、財政の建て直しをしない限り、立ち行かなくなっていた頃である。幕
府の収入は、幕府直轄領(天領)の年貢以外には無く。この財政危機には、かっての豪商も、幕府の衰退と同様
であった。また、陣屋の経費も増大するばかりで、それに対して年貢米総量は減少するばかり。そこに、陣屋代
官をはじめ配下の者共による不正(賄賂、個人的蓄財等々)が重なり、綱紀粛清の嵐が吹くことになるのである。
( 何かしら現代の官僚機構に似通っていることを感じるのは、私だけだろうか。)
美濃の地においても、出張陣屋の廃止等々の嵐が吹いたのもこの享保の改革時以降であった。それ以前は、
無理な新田開発により村々の山の裾野が荒廃し、河川の氾濫にあい、古からの耕地であったところの再開発に
留められていたのであるが、新田開発を新規に奨励したり、陣屋の役人の不正防止の意味合いと、年貢米の増
加を目論見、検見から定免法に年貢徴収を改正したり、貨幣の改鋳を実施したり、物価高の対応策を取るなど、
積極的に動いた。
そして、極めつけは、勘定所の仕事を区分けし、年貢徴収業務方を勝手方とし、裁判、訴訟関係を公事方に
分け、それぞれに専門の、実務に優れた役人を下級武士からも重用できるよう、役職には、それに準ずる禄高
が必要であったが、下級武士には禄高が伴わず役に付けられなかった弊害を除くべく、禄高の足りない分を支
給する足高の制を創設するのである。差額分を支給するための策として、各大名の参勤交代での江戸滞在期
間を短くする(通常1ヶ年を半年にする。)代わりに高1万石につき、100石の上米(あげまい)として差し出させ、
それを役に就いた者に、役割に応じて支給したという。しかし、この上米の制度は、実施8年後の享保14年に
は廃止されたという。
経費節減のため、各地の代官所は統廃合させられたというが、本陣屋の減少は、皮肉にも出張陣屋の増加
として現われ、結果的には、経費の増加となってしまったようである。享保期以前は、商行為から起こる訴訟に
も対応していたが、訴訟が多く役所の機能が滞るようになり、商行為での争いは、相対済ましとし、受け付けな
くしたようである。
農業関係に関わる争いは、年貢に関係する幕府の根幹であるので対処したのは、自明の理であろう。
余談であるが、多治見村脇郷は、美濃の天領であるから本来 笠松陣屋の地方役所に訴えを出す筈である
が、なんと、三河の赤坂陣屋の代官 岩室新五左衛門に享保15(1730)年注進しているのである。この陣屋は、
明和7(1770)年には、本陣屋から出張陣屋へと変更されるのであるが、この当時は、本陣屋という立場では
あった。
また、享保の同時期、笠松陣屋の代官は、吉宗に請われ勘定吟味役に抜擢され、享保の改革の実施に寄与
した父の養子である 辻甚太郎守雄が美濃郡代として まさに享保の改革の実施を陣屋内で執り行っていた最
中でもあった。
そのような関係で、もしかすると美濃の天領の村々へ、代官名で訴訟方を指示していたのかも知れない。この
代官は、諸代官所の官地を笠松陣屋に統合するという業務の真っ最中ではあったようである。そうしたこともあ
ったのであろうか、多治見村脇郷庄屋は、わざわざ所轄違いの三河の天領を差配する赤坂陣屋へと赴いたの
かも知れないのである。
また、「脇郷庄屋は、寛保元(1741)年にも、北野代官所(現 岐阜市)にも訴えている。」 ( 多治見市史
通史 上 参照 )というが、この役所は、元文期の陣屋名( 幕領陣屋と代官支配 参照 )には出てこないの
である。もしかすると、この代官所は、幕領ではなく、尾張藩の代官所とでもいうのだろうか。確認事項にはな
りそうであるし、仮に尾張藩とすると、何故所轄の違う代官所へ提訴するのであろうか。訴える相手方も同じ幕
領の多治見村本郷方であった。府に落ちないことではある。
揖斐郡に置かれた本田出張陣屋は、明和7(1770)年以降廃止されたことは、確認できているのである。
更に多治見村脇郷庄屋は、明和7(1770)年にも、高山陣屋の出張陣屋である下川辺に注進しているのであ
る。この下川辺出張陣屋も、笠松陣屋も同地からは、距離的にはどちらでも同じなのであるが、この当時、笠
松の代官は、千種家の二代目が、父の後を受けて再度美濃代官に就いた時期でもあり、この後三代目も再度
美濃代官に任用され、結局多額の借財事件を起こし、罷免されたという。脇郷では、何らかの情報を知りえて
いて、公正な判断が、笠松では、期待できないと悟っていたのかも知れないとも考えるのであるが、これとても
今後の確認課題ではあろう。笠松陣屋には、この当時公事方が置かれていないというのなら辻褄は合うのだ
が・・・。こうしたことは、庄屋文書の触れ留め控えでも残存していれば確認も出来る事例ではあろう。
笠松陣屋内の古文書は、明治維新の際に紛失してしまったのであろう、この地の陣屋の代官は、代々の幕
臣の家が歴代続いて役に就いていたわけではなく、多良役所の高木家のように代々続いていたわけではなか
ったようであり、関係古文書も引き継がれなかったのであろうか。残念と言うしかない。
付記
布衣(ほい、もしくは、ほういと読む。)とは、官位に付随する江戸城内での着衣のことであり、これを許され
ることは、官位が上がることであり、名誉なことであった。陣屋の代官が、布衣を許されることは、代官から
郡代と名称が代わることを意味していたのである。
参考文献
・ 多治見市史 通史 上
・ 「笠松のたからもの」 記念誌 笠松町歴史民俗資料館監修
・ 幕領陣屋と代官支配 西沢淳男著 岩田書院