文献上に現れた 東海三県に関わる地震と将来の地震発生確率について

          1. はじめに

             「 天災は忘れた頃に来る。」 或いは、「天災は忘れられた頃に来る。」とは、防災に関する文章によく用いられる有名
            な警句です。寺田寅彦東京帝国大学教授が言い出したと言われていますが、この言葉は、氏の手紙や手帳等を含めて       
            本人が書かれたものの中には見当たらないそうです。が、寺田寅彦であると言われるようになったのは、今村明亘著「地
            震の国」(1929年発行)のなかに、「天災は忘れた時分に来る。故寺田寅彦博士が大正の関東大震災後、何かの雑誌
            に書いた警句であったと記憶している。」と記述されたことによるようである。今村と寺田は共に東京帝国大学の教授で
            あり、共に関東大震災の調査に連れ立って出かけることもあった間柄であったことも関係しているのであろう。

             平成23(2011)年3月11日東北、関東の太平洋沿岸を襲った地震と大津波は、太平洋沿岸の都市を壊滅的な状態
            にし、併せて、福島県太平洋沿岸の原子力発電所を壊し、未曾有の放射能汚染を引き起こし、未だ沈静化の糸口さえ見
            えないまま時間だけ過ぎていっています。この未曾有の地震と大津波は、貞観地震と大津波の再来とも言われ、1000年
            に一度の再来とも言われています。
             このような長期間の間隔を置く震災は、この間にいくつもの世代が埋没してしまい、体験者がいなくなってしまう。また、伝
            承も記録も埋もれてしまいがちになり易いもののようである。
             また、防災を常日頃考えていても、平穏が続くとふと防災観念が無くなってしまう。忘れてしまった頃そのころ突然大災害
            がおこることを例(たと)えているのであり、言いえて妙の言葉ではあろう。

             私達が住む、東海三県に於いてもこの現状を他山の石としないで、過去の文献上に現れたこの地域の直下型内陸大地
            震やら、海溝型大地震について知り、学び、今後の心構えの糧にしょうと思い筆をとりました。

          2.文献上から分かる美濃の大地震 抜粋 {岐阜県災異誌(岐阜県気象台監修)、新編日本被害地震総覧より加筆修正 }
                         *  印は、  東南海、南海地震或いは東海地震が連動した地震の記述年
                              西暦      (和暦)            規模  被害などの概況
            745.6.5   (天平17.4.27)     M7.9 美濃、摂津大いに震う。美濃国殊に甚だしく、人家を壊す。余震月を越え
                                            て止まず。この日より三日三晩にかかりて震動し、仏寺、堂塔等を壊す。
                                               ( 出典 続日本紀 )

            762.6.9   (天平宝宇6.5.9)    M7.0 美濃、飛騨、信濃など地震  ( 出典 続日本紀 )

            *  887.7.24  (仁和3.6.30)      不明   美濃大地震   ( 出典 三代実録 )

                          < 高蔵寺町誌 P.8には、応永32(1425)年5月17日、同年7月1日、同年7月13日、同年7月26日 強震と記載
                            されていた。おそらく、最大の地震は、最終の7月26日であったのでしょうか。>

            1586.1.18 (天正13.11.29)    M7、8 天正地震 飛騨白川谷で山崩れ、帰雲城埋没、死者300。近江長浜
                                            美濃、大垣震火。 ( 出典 大日本地震史料 )
                                    < 高蔵寺町誌 P.8には、天正13年10月29日、同年11月26日、同年11月28日、同年11月29日 強震と記載
                                     されていた。と謂うことは、一度だけでなく、数回の地震を繰り返しながら、最後に巨大な地震を起こして収束してい
                                     ったのでありましょうか。>

                           < 慶長元(1596)年閏7月5日 強震と高蔵寺町誌 P.9に記載。>
                           < 慶安元(1648)年4月22日、同年6月20日 強震と高蔵寺町誌P.9に記載。>

            1662.6.16 (寛文2.5.1)       M7,1 美濃諸国の地大いに震い、人畜屋舎被害多し。(出典 大日本地震史
                   < 高蔵寺町誌 P.9には、同年5月2日 強震と記載 されていた。>

            1681.3.28 (天和1.2.9)       不明  東濃地震   ( 出典 大日本地震史料 )

                          < 元禄16(1703)年11月22日 強震と高蔵寺町誌 P.9に記載されていた。> 

           *  1707.10.28(宝永4.10.4)      M8,4 宝永地震 五畿、南海道、三河、遠江より駿河、伊豆、美濃、播磨、日向
                                            等大地震、神社、仏閣、城郭、民家の転破するもの無数。美濃国にては
                                            垣破損6900余間、潰家400軒、破損家473軒あり。
                                                    ( 出典 大日本地震史料 )
                    < 高蔵寺町誌 P.9には、宝永4年10月4日、同年10月5日 強震と記載。とすれば、最後は余震ということか。>

            1819.8.2  (文政2.6.12)      M7,2 美濃にては近江、伊勢に接する地方甚だしく、家屋の倒壊、人畜の死傷
                                            あり。高須輪中の堤防破壊せるもの多し。
                                               ( 出典 大日本地震史料  濃飛両国通史 )

            1833.5.27 (天保4.4.9)       M6,2 美濃、大垣、9日より13日迄大地震、山崩れ、人畜多く死す。
                                               ( 出典 小関三栄書論 )

             1854.7.7〜9 (安政1.6.13〜15) M7,2 美濃にては14日特に強く、可児、土岐郡にても弘化4年善光寺地震よ
                                            り強烈にして、余震頻発し、同郡及び本巣郡地方にては、人民小屋を
                                            建て避難せること一週間余に及べり。
                                               ( 出典 美濃気候編 続々泰平年表 )

          * 1854.12.23 (安政1.11.4)     M8,4 安政東海地震 五つ時、美濃国にては、高須、大垣、加納、不破郡
                                            土岐郡、恵那郡にて倒壊家屋少なからず。堤防道路の割裂あり。且つ
                                            家屋の小破、壁の剥落等甚だ多し。( 出典 美濃気候編 )

            1891(明治24)、10,28          M8.0 濃尾大震災 午前6時35分の激震は、最近60年間に於けるわが国
                                            最大の地震にして、激震区域は、美濃西部、尾張国北部にして、震源
                                            は、本巣郡根尾村水鳥に現われたる大断層。人畜の死傷、家屋の倒壊
                                            、堤防道路の崩壊、割裂等算なく、その惨状実に言語に絶せり。
                                             美濃にては、死者4984人(内土岐郡2人)負傷者13762人(内土岐
                                            郡17人)家屋全壊5万1戸(内土岐郡79戸)家屋半壊33459戸(内土 
                                            岐郡203戸)家屋焼失4455戸(内土岐郡0戸)しかし、飛騨、郡上郡、
                                            恵那郡にては、殆ど被害と称すべき程のものなかりし。
                                                                  ( 出典 美濃気候編 )
                                             岐阜では、余震が10年も続いた。 ( 出典 大震報告 )

            1892(明治25)、1,3             不明  濃尾国境に強震あり。うち最も甚だしかりしは、尾張国東春日井郡及び
                                            土岐郡にして、粗造なる家屋及び土蔵は多少傾斜し、障壁に裂け目を
                                            生じ、棚上の器物を倒落し、振り子時計は、往々停止し、陶器窯は倒壊
                                            して、陶土坑を崩塞するに至れり。   ( 出典 美濃気候編 )
                     < 高蔵寺町誌 P.9には、明治25年1月3日午後4時頃強震あり、多少の損害及び地変を生ず。 P.10には、同年9月
                                     7日 烈震あり、多少の被害あり。と記載されていた。高蔵寺町誌は、昭和7年版であります。>

            1944(昭和19)、12,7            M7,9 東南海地震 岐阜で、震度5.西、南濃地方を中心に死者13、倒壊家                 
                                             屋 30余あり。    ( 出典 気象年報 )

            1946(昭和21)、12,21           M8,0 南海地震 岐阜で、震度5.死者14、負傷61、家屋全壊586、家屋半              
                                                                                          壊952、家屋焼失1。  ( 出典 気象要覧 )

          3.東南海(愛知、三重、和歌山県に関わる)、南海地震(近畿、四国、一部九州)と東海地震(静岡県、関東)の連動地震につ
           いて
              { 詳しくは 平成24(2012)年9月13日 朝日新聞 46997号(日刊)中部版 27面 「東海地震 7.9世紀にも」参照 }
             それによると、産業技術総合研究所の藤原治主任研究員等は、静岡県磐田市で発見された津波堆積物から、7世紀末と
            9世紀末に東海地震が、発生していた事を明らかにされたという。既に、同じ頃、三重県等では東南海地震によって出来たと
            思われる津波堆積物が見つかっているようで、東南海地震、南海地震とは、ほぼ同じ時期に発生していた可能性が高くなっ
            たようであります。この新聞記事には、その出展が明らかにされてはいませんが、朝日という大新聞の記事でありますから、
            確認されての事だろうと推察いたしました。が、昭和の東南海地震の起こった年は、1944年ではなかったか。
                          同様に、永長・康和年間の地震を1099年と記述されていますが、実際は、1096年11月18日8時頃の永長東海地震
            が主であり、この地震は、平成の御世に起こった東日本大震災のような震源時間の長い多重地震だったらしい宝永地震型
            であった事、南海地震も含んでいる可能性を推測している事だけであります。三連動とは認定されていないのが現状であり
            ましょう。詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E9%95%B7%E5%9C%B0%E9%9C%87 最終更新 2015年
            1月31日 (土) 01:39 を参照されたい。
             この記事を書かれた記者は、瀬川茂子氏でありました。

             かっては、684年(白鳳期)、887年(仁和期)に南海地震が起こった文献上の記録だけがあり、東南海地震、東海地震の記
            録がなく、謎であったとも記述されています。こうした謎の一部が解明されたといえましょう。

               記事には、連動した地震の起こった年の一覧表が掲載されておりました。(一部記事を私が、改定致しました。)
                        南海地震     東南海地震    東海地震
                  白鳳    684年      (684年)      (684年)               大文字年は、文献にて瀬川記者が確認済みカ
                                       仁和    887年             (887年)             (887年)  *    (  )は、津波堆積物にて確認された年代
                                                 (三代実録に記述)
                                永長・康和   1099年      1099年     1099年
                  実際は<1099年>    <1096年>   <1096年>     * 印は、連動した地震で、2と重複している地震。
                                           詳しくは、 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/108/4/108_4_399/_pdf  を参照されたい。
                  正平   1361年        ?          ?           
                  明応   1498年      1498年     1498年       南海地震は、さすが近畿圏であり、文献に残り
                  慶長   1605年      1605年        ?        やすかったのでしょうか。
                  宝永   1707年      1707年     1707年     *
                  安政   1854年      1854年     1854年     *    必ずしも三連動は起こるとは限らないとも言え
                  昭和   1946年      1946年      未発生       るのではないかと推察します。(筆者注)
                             ( 東南海地震は、1944年の筈。)                    以上であります。

              この発生年からみれば、近ければ、ほぼ100年、または、200年、やや遠き間隔では、250年と周期は、まちまちでありまし
             ょうか。こうしてみてくれば、近い将来起こりえる東南海地震は、早くても2030年より前には起こらないのではないかと類推
             いたします。(筆者注)まだ、18年後の事でしょうか。それまでに、減災の対策と死なない対策の両面で行政は、対策を取っ
             て頂きたく思います。

                              蛇足でありますが、H24.9月号のサンデー毎日(週刊誌)だったか週刊新潮だったか週間ポストだったか忘れてしまいま
            したが、上記とは別な視点より、連動する地震については、2030年台に起こるであろうという観測データに基づく予知?を某
            前大学教授で地震学の大家の方も述べてみえるとの記事が出ておりました事を付け加えておきます。

                      4.江戸時代に起こった安政東海地震と32時間後に起こった安政南海地震についての詳細  (  抜粋  ) 
                           
               <  安政東海地震  安政南海地震についての記述  >

            四日五つ時畿内、東海、東山二道の諸国地大いに震い五日七つ過ぎ又大いに震うこの二大震に海路膨脹して頻海の諸国
           は、はなはだしく災害を蒙れり。美濃国にては、三日夜明けより雪降り四日五つ頃高須、大垣、加納、不破郡、土岐郡、恵那郡
           (此の他美濃国一般なりしならん)にては、倒壊家屋少なからず。堤防道路の割裂あり、且つ家屋の小破、壁の剥落等甚だ多く
           余震引き続き一ヶ月に渡り数十回あり。鳴動聞こえて人心悩々し。雪中小屋を建て、避難せりと言う。而して山縣郡伊自良にて
           は、戸障子外づる云々とあるより見れば北濃に行くに従いて軽かりしならん。当時陣屋住居向其の他家中、町、郷共破損に付き
           高須藩主へ向け千両、大垣藩主へ向け四千両拝借仰せ付けられる旨云々とあり。
                (  再版 美濃気候編 付録  P34   岐阜県岐阜測候所監修  参照  )
     
            美濃気候編以外の二大地震についての記述も併せて併記しておきます。
                  
                             < 安政東海地震 >

             安政元年11月4日(1854年12月23日)、駿河湾から遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源とするM8.4という巨大地震が発生した。
                この地震が発生した年は嘉永7年で、当時の瓦版や記録はすべて嘉永としているが、この地震の32時間後にはM8.4と推定される安政南海地震が
               連続して発生し、さらに広範囲に被害をもたらせたため、この両地震から元号を嘉永から安政に改めた。年表上は安政となるため後に安政東海地震と呼
               ばれるようになった。

                この地震で被害が最も多かったのは沼津から天竜川河口に至る東海沿岸地で、町全体が全滅した場所も多数あった。また、甲府では町の7割の家屋
               が倒壊し、松本、松代、江戸でも倒壊家屋があったと記録されるほど広範囲に災害をもたらせた地震であった。

                地震発生から数分〜1時間前後に大津波が発生し、東海沿岸地方を襲った。伊豆下田、遠州灘、伊勢、志摩、熊野灘沿岸に押し寄せた津波で多くの
               被害を出した。伊豆下田では推定6〜7mの津波が押し寄せ、948戸中927戸が流失し、122人が溺死したという記録が残っている。また、江浦湾で
               も6〜7m、伊勢大湊で5〜6m、志摩から熊野灘沿岸で5〜10m大津波が襲来し数千戸が流失した。
                特に伊豆下田では折から停泊中のロシア軍艦「ディアナ号」が津波により大破沈没して乗組員が帰国できなくなった。そこで、伊豆下田の大工を集め
               て船を建造して帰国させたが、このときの船はわが国の外洋航行可能な船の建造の始まりでもあった。

                清水から御前崎付近までの地盤が1〜2m隆起し、清水港は使用不能となった。地震の被害は流失家屋8300余戸、死者600人余と甚大なものだっ
               た。

   
                   <       安政南海地震    >

               安政南海地震は、安政東海地震1854年12月23日)が襲来したわずか32時間後に発生した南海道沖を震源とするM8.4の巨大地震で、近畿か
                ら四国、九州東岸に至る広い地域に甚大な被害をもたらせた地震である。

                 32時間前に発生した安政東海地震と共に被害が余りにも甚大であったがためにその年(嘉永7年)の11月27日に元号を嘉永から安政に改元する
                ほどの歴史的な地震であった。

                 近畿地方などは安政東海地震と被害は区別しにくいが、潮岬以西の火災、津波災害はこの地震によるものである。被害の最も大きかった土佐領内
                では推定波高5〜8mの大津波が襲った。倒壊家屋3000余戸、焼失家屋2500余戸、流失家屋3200余戸、死者372人余という大災害に発展した。
                 また、大阪湾北部には推定波高2.5mの津波が襲来し、木津川、安治川を逆流し8000隻の船舶が破損、多くの橋を破壊し700人余の死者を出した。

                 さらに紀州沿岸熊野以西では津波被害が多く大半が流失し、紀伊田辺領内では推定波高7mにも達し被害を大きくした。この津波は遠く北米海岸に
                も達したという記録も残されている。

                 この地震による全国的な被害は全壊家屋20000余戸、半壊家屋40000余戸、焼失家屋2500余戸、流失家屋15000余戸、死者約30000人
                と推定されている。
                 この地震で高知では約1m地盤が沈下して浸水しその他の地域でも1m前後の沈下または隆起があったといわれている。宝永地震のときと同様に
                四国道後温泉では温泉が翌年の2〜3月になるまで湧出が止まった。この地震の余震はその後9年間に2981回ありそのうち大地震は7回もあった
                と伝えられている。安政の南海地震の5ヶ月前の7月9日(嘉永7年6月15日)に伊賀上野地震があり、奈良から伊勢湾沿岸に被害があった。  
                        
                 ( この二つの大地震についての記述は、防災システム研究所 HPから抜粋しました。参照     
                                                          http://www.bo-sai.co.jp/anseitoukai.htm  )
 
                     5. 多治見近辺での地震被害状況 
            
            江戸時代での美濃におけるM6以上の大きな地震は数回おこっていたのであるが、その当時多治見に在住していた人の日
           記等の書き物に地震の様子や被害を記録したものは、現存しているやも知れないが、私が、知りえる限りでは見当たらなかっ 
           た。
            多治見市史 窯業資料編に五郎兵衛一代日記( 三代目 加藤円治の個人日記 )があるが、市史には残念なことに嘉永5
           年までしか載っていない。安政元年とは、嘉永7年の事であり、その年の終わりに大きな地震が二つも起こった為、11月27日
           で元号を変更したようである。故に安政元年の実数は、僅かな日数しかなく、直ぐに安政2年となってしまうのである。この一代日  
           記の原本のコピーは、多治見市立図書館 郷土資料室に保管されているようであり、まだ、読み下しされていない部分もあるや
           に聞き及んでいるので、その読み下し文の載った市史の続編が出ることを期待している。さすれば、この安政の東海地震につい
           ての現多治見市内の記述を見出せるやもしれぬのである。 ( 後日、郷土資料室に確認したところ一代日記は、嘉永7年3月ま
           でしかないとの返事でした。地震は、嘉永7年11月4日(元号が11月27日から安政に変更されたので、安政元年11月4日とな
           った。)なので、残念ではありますが、五郎兵衛さんは、安政東海地震を体験されたであろうと推察しますが、日記には残されなか 
           ったようであります。・・・筆者注 )

            この安政東海地震を含め多くの地震被害の研究をされてみえる宇佐美龍夫氏の著書 「 日本被害地震総覧 [ 416 ] -2001 
           東京大学出版会 2003年 4月発刊 P,152〜153 参照 」 には、その地震の旧震度表での調査結果が図示されている。 
            それによると、多治見辺りのM 8、4の揺れは、震度5の範囲内であり、限りなく震度6に近い揺れであったという。多治見に
           近い所での被害状況も調査されていて、報告されている実数は少なめに統計されているという。

            それによると「、名古屋城下 死者4名、潰れ家 147軒。尾張藩内では、死者7名、潰れ家と流失家合わせて 4081軒。潰 
           れ蔵 253。潰れ寺社 146ヶ所。であったとか。

            豊橋吉田城下 潰れ家10軒、半壊家 46軒、損壊家 107軒、潰れ蔵 5、半壊蔵 6、潰れ、半壊寺社 8。吉田藩内
           (29町240村)では、死者 14名と溺死者 14名、潰れ家 653軒、流失家 4軒、半壊家 808軒、潰れ蔵 155、潰れ
           寺社 31、半壊寺社 26。であったという。

            堅固な名古屋城内では、大破無く、浜御殿(伊勢湾に近い所に建てられていた。)は、大破、城内の灯篭の倒壊多し。吉田城
           内では、辰巳櫓が潰れ、住居 大破、門潰れ、大破。櫓損壊多し。という状況であった。ちなみに、名古屋は、震度6に限りなく
           近い震度5。吉田(現 豊橋市)は、震度6であった。」 (前掲書 P,156〜157参照 )
                           
                          瀬戸市史 通史編 上 P,420〜424のなかにも、瀬戸での安政東海地震の被害状況が述べてあった。{「染付け新製窯元
           16軒が瀬戸にあり、その窯元の粘土で作られた丸窯 9つ崩れ、粘土で作られた小窯 103崩れ<全面的な作り直し窯とな
           り>、粘土で作られた小窯 36破損<修復可能窯>であり、染付け製品に至っては、窯焼きの半数弱が何らかの被害をうけ
           た。」(大地震ニ付御拝借初書付類 文書集 2 加藤円六家文書 18号文書 参照)

            また、尾張藩南部、特に沿岸部では、液状化現象が起こり、建物の倒壊が最も深刻であったことが記述されている。「飛島新
           田(飛島村)では、家数210軒中 全壊38、半壊120軒に及び75%の家屋が住居不能状態となった。大地は、<震込み(揺
           れて沈み込むような状態)、地割れして、泥砂が吹き出し、その様子を変えた。」(尾地震農家田畑破損帳 旧蓬左文庫所蔵 
           参照)と述べられていた。

            が、尾張東部丘陵地域の定光寺廟番で、尾張藩の山方同心を兼ねていた加藤正左衛門家の日記には、地震発生の日の日
           記には記述はないが、後日役所の地震被害報告の召集で呼び出され、<諸向きの破損状態などを取り調べて報告し、帰宅し 
           た。>とある。被害はあったであろうが、甚大という程ではなかったのではなかろうか。比較的地盤がしっかりしていたので、安
           政東海地震の被害を他地域ほど受けなかったかも知れない。

                          残念ではありますが、多治見市内の様子は、在地の方の日記もなく、具体的には、分かりませんが、瀬戸市の様子から類推
           すれば、多治見の窯元の粘土で作られた窯も、多大な被害を蒙ったであろうと思われます。本郷庄屋であった加藤円治は、窯
           株を持ちえていたし、窯元へ多大な影響力を持ちえていた筈であり、地震後は、その対策に奔走したことでありましょう。

                           海溝型の大地震は、有史以来この東海地方では、およそ150年周期(100年〜200年の間で)で起こっているようで、安政東
           海地震のその前の大地震は、宝永地震と言われている。この周期でいけば、既に安政東海地震から150年はゆうに超えてい
           る筈。いつ起こっても不思議ではない状況にあることは疑いようがないと言えましょうか。あくまで、これは、東海地震についてで
           はあります。東南海地震、南海地震は、2030年台には、起こっても不思議ではないという予知?は出てはおりますが・・・。

            安政元年の安政東海地震の多治見村の被害状況の記録は、見つかってはいないが、周辺の被害状況から推察すれば、お
           そらく多治見村にも潰れ家は、あったのではないか。また、窯元の窯にも相当の被害がでたのではないかと思われる。が、何
           分確実な資料が無いため、推察以上のことは言えないのが現状である。
            以上が、安政東海、安政東南海地震、南海地震 (海溝型地震)の被害状況の様子です。

            唯一 脇之島に関する記録として残っているのは濃尾大震災(直下型地震)であり、以下の通りである。                  
                         1891(明治24)年10月28日午前6時37分11秒の濃尾大震災により脇之島にも以下の被害が出た。
               1、土岐川の脇之島側堤防15ヶ所約1.5Kmに甚大な被害。 ( 拙稿 脇之島にかかわる河川改修顛末記 参照)
               2.現平和中学校より西北西側の麓にあった陶器窯3つが倒壊。 ( 多治見市史 通史 下 P.159 )

             私も、おじいさんから子供の頃、この濃尾地震のことを聞いたことがあり、地震後しばらくは余震もあり、殆どの人は、屋外
            で寝泊りしていたようで、おじいさん一家は、家の近くの竹やぶで、寝泊りしていたそうだ。理由を聞くと、竹は根をしっかり張
            るから地割れしにくいから少しは安全であろうと言ってみえたのを記憶している。           

             脇之島地内ではないが、現 養正小学校(当時は、多治見小学校)の玄関の屋根は落ち、校舎全体も各所で瓦が落ち壁
            には亀裂がはいり、ガラスは破砕が甚だしかったようだ。   ( 多治見市史 通史 下 P.156 )

             また、 かたい道路や、藪からは、岩がでてきたり、「田からはブクブクと水が噴出していた」。<俗に言う 液状化現象か
             ・・・筆者注>  ( 多治見市史 通史 下 P.157 )という記述もあった。
               
             しかし、岐阜周辺の被害に比し、多治見における被害は軽微であったという。

            *   地震については、脇之島区では、記録に残る甚大な被害は、濃尾大震災だけなのかもしれない。それでも、倒壊家屋は、
             脇之島区では、その地震時には皆無であったという。その当時、人家は、山麓にあったと思われる。平地には、この頃人
             家は、無かった筈。硬い地盤上に家を建てていたから被害が無かったかと。現在は、昔、田であった所を埋め立てて家を建
             てているようであり、液状化等の心配はある。人家への被害が、相当でるのではないか。とは言え、地震よりもこの脇之島区
             では水害による浸水被害の方が、人々の記憶に残っているのかも知れない。

              知りえる限りでは、記録に残っていないのではあるが、江戸時代、海溝型の地震で、安政元年には、脇之島区においても
             甚大な被害があったと思われるので、もしかして、二福寺文書のなかに安政元年に関する記述が残されているやも知れない。    
             現在、郷土資料室で、読み下しがされているやに聞くにつけ、早い資料の公開を期待している。(平成23年6月現在) 
             
              それに対して、直下型の地震では、多治見の直下地盤には、活断層が見あたらないので有史以来甚大な被害を被る
             機会は、無かったのかも知れない・・・。

         6.将来における東濃地域の地震発生確率について

             地震には、海溝型と内陸直下型があり、海溝型の地震では、安政東海地震その32時間後の安政南海地震により、確か
            に愛知、三重、静岡三県の沿岸部において地震とその後の津波で大災害にみまわれているが、 内陸部の多治見市にお
            いては、津波の被害はなく、最大震度が、震度6に限りなく近い震度5の揺れを経験している筈。相当な被害が出たと考え
            られるのに確実な資料が出てきていないのは、理解しがたいことではある。むしろ内陸直下型の濃尾大震災の方が、多治
            見市に、はるかに大きな被害をもたらしたと理解されているのも不思議なことではある。
             
             江戸時代、各藩では、それなりの安政の地震の記録が残っているようであるが、幕領内の地震の被害は、陣屋がまとめて
            いただろうが、何分管轄領域が広く、その陣屋に配属されている武士は少なく、陣屋自体も甚大な被害を蒙り、陣屋内の対
            策に忙殺され、被害状況の記録まで手がまわらなかったのでしょうか。( 前述の気候編 付録には、安政元年の地震の欄の
            末尾に、陣屋の被害の状況も述べられており、高須、大垣両藩藩主に対し、総額5千両の拝借金を陣屋から仰せ付けた云
            々なる記述もあり、甚大な被害を蒙ったことがうかがえるのである。)
             或いは、明治維新のどさくさで、笠松陣屋の旧幕臣も逃げ出し、沢山の記録類も紛失してしまったのであろうか

             これでは、宇佐美氏といえども東濃一帯の幕領内の記録を見出せなかったのもうなずけるというものである。
             近い将来来るであろう平成?東海地震とそれに連動して起こるだろう南海、東南海地震では、相当な被害が、多治見でも
            起こるだろう事を覚悟せねばならないだろう。地震学の某権威のある方のデータに基づく地震予知?では、2030年台が、要
            注意ということのようであります。その頃、私は、生きているのであろうか。18年後以降のことではありますが・・・。
             
             多治見において、唯一記録に残る大地震の被害は、濃尾大震災であり、内陸直下型の地震である、この地震について、
            名古屋大学 地震火山・防災研究センター諸氏による「いま活断層があぶない」(中日新聞社発行 P,72〜77参照)によ
            ると、濃尾大震災を起こしたのが、福井県池田町から岐阜県の根尾、本巣町を経て、美濃加茂市あたりへ延びる全長約8
            0Km程の大断層、濃尾断層帯(別名 根尾谷断層)と呼ばれるものであるという。

             この断層帯による地震は、有史以来から数えると2回程とか。上記一覧表の地震にある 745年(M7.9)?と1891(明
            治24)年10月28日(M8.0)の濃尾大震災であり、濃尾断層帯での地震発生間隔は、約2100〜3600年とされている。こ
            の濃尾大震災は、明治24(1891)年という過去におきた事ではあるが、地震学では、つい最近発生したばかりであり、地震
            発生確率は、当分、ほぼ0%と算出されている。それ故、我々団塊の世代は、生きているうちには、経験することはないであ
            ろうということになる。
             
             「また、この濃尾断層帯の岐阜市から一宮を経て名古屋市北部にいたる分岐断層帯(岐阜ー一宮線)があるとされているが、
            存在は、未だ確認されていないという。その岐阜ー一宮線と梅原断層の間(各務原市から犬山市付近)は、濃尾地震時に、顕
            著に土地が隆起していたようで、紛れも無い事実であった。」( 前掲書  いま活断層があぶない 中日新聞社発行 P、74
            参照 ) 美濃市付近での2〜3箇所の三角点では、最大70p隆起したというし、関市付近の三角点では、西北西に2m程移 
            動したということである。

             あと危険と考えられる多治見市に近い活断層帯は、2ヶ所程あり、その一つは、阿寺断層帯といい、岐阜県下呂市から付知
            、坂下を経て中津川市北東部に抜ける長さ70Kmほどの断層であり、この断層帯の地震発生間隔は、北部 約1800〜25                       
            00年とされ、南部では、約1700年と想定されている。この断層帯北部で最近起きたのは約3400〜3000年前とされ、南部
            では、1586年の天正地震(M8前後)とされているのであり、地震発生確率は、北部では、2035年までは 6〜11%と非常
            に高いのである。

             もう一つは、屏風山断層帯(中津川市から恵那市にかけて延びる全長15Kmの断層)と恵那山ー猿投山北断層帯(中津川
            市から瑞浪市を経て豊田市の北西部にかけての全長約51Kmの断層)であり、屏風山断層帯で起こる地震は、M6.8程度
            と推定されている。対して、恵那山ー猿投山北断層帯での将来起こるであろう地震は、M7,7程度で、多治見では震度6弱と
            推定されている。この地震の発生間隔は、7200年〜14000年であり、最近のこの断層帯での地震は、約7600〜5400
            年前とされており、地震発生確率も2035年までにほぼ0〜2%であり、やや高い部類に入っている。この恵那山ー猿投山北
            断層帯で地震が起これば、多治見市内においても相当な被害がでるであろうことを覚悟せねばならないだろう。

                            新編「日本の活断層」分布図と資料 活断層研究会編 東京大学出版会によれば、危険度については、分からないのです
            が、多治見市の極近いところに、笠原がありますが、その笠原の南側で東西に走る二つの笠原断層と呼ばれる活断層が重
            なり走っている。
             もう一本は、犬山市と多治見市の間を南北に走る華立断層がある。この二つの活断層が、多治見市からみて一番近いとこ
            ろの活断層と言えよう。真下には、活断層は無いとはいえ、極近い所に存在するのであり、注意を要する。

             濃尾地震が起こった翌年、{「1892(明治25)年1月3日 M5.5  濃尾国境に強震あり。うち最も甚だしかりしは、尾張
            国東春日井郡及び土岐郡にして、粗造なる家屋及び土蔵は多少傾斜し、障壁に裂け目を生じ、棚上の器物を倒落し、振り
            子時計は、往々停止し、陶器窯は倒壊して、陶土坑を崩塞するに至れり。」( 出典 美濃気候編 )とあるが、これが、華立
            断層のなせる地震であったのであろうか。震源域は、華立断層の最南端であり、また、この地震は、笠原断層の最西端に
            位置している所でもありましたから、この笠原断層が、関係していたのかも知れません。多治見市に一番近い震源域であった
            と思われます。}(出典 新編「日本の活断層」分布図と資料 活断層研究会編 東京大学出版会 )という記述もあります。

             1681.3.28 (天和1.2.9)  Mは、不明  東濃地震   ( 出典 大日本地震史料 )も上記活断層によるもので
            ありましょうか。とすれば、ほぼ200年間隔かと。次は、2090年台でしょうか。後約80年先。私は、体験できないでしょう。

             この二つの活断層の地震周期は、分かっていませんが、名古屋大学 地震火山・防災研究センター諸氏による「いま活断
            層があぶない」(中日新聞社発行 参照)には、何ら記述がされておりませんので、発生率は、ほぼ0%でありましょうか。最
            近の発生が、明治25(1892)年でありますから、まだ地震学上では、直近の出来事でありましょう。

                            極最近、平成24(2012)年4月19日の朝日新聞朝刊 14版左下部分に東海地方の直下型地震の想定記事が掲載され
            ました。二つの直下型の記事であり、一つは、この拙稿にも記述した猿投ー高浜断層帯であり、もう一つは、養老ー桑名ー
            四日市断層帯でありました。前述の猿投については、私が記述した内容とほぼ同様である故割愛し、桑名方面の断層帯に
            ついて概略を述べておきます。規模は、M 7.7クラス、東海三県と滋賀県で、死者5900人、19万棟の全壊と予想されて
            いるやに読み取りました。が、発生率等については、何も記載されておりませんでした。相当の被害予想であり、朝日新聞社
            であれば、もう少し突っ込んだ記事にして頂きたいとは思いました。以上の記述は、直下型の内陸地震についての地震発生
            被害予想についてであります。

                                                 
                < 参考文献 >

                  ・ 多治見市史 通史 下
                  ・ 「いま 活断層があぶない」  名古屋大学 地震火山・防災研究センター 安藤雅孝等編著
                                                                   中日新聞社発行
                  ・ 岐阜県災異誌       岐阜県気象台監修   昭和40年発行                                               
                  ・ 日本被害地震総覧  [ 416 ]  - 2001     宇佐美龍夫著  東京大学出版会 2003年4月版
                  ・ 瀬戸市史 通史編 
                  ・ 再版  美濃気候編 付録      岐阜県岐阜測候所監修
                  ・ 新編「日本の活断層」分布図と資料 活断層研究会編 東京大学出版会
                  ・ 朝日新聞 朝刊  平成24(2012)年4月19日 14版
                  ・ 朝日新聞 朝刊  平成24(2012)年9月13日  13版
                  ・ 高蔵寺町誌 昭和7年版
                  
                                                           平成24(2012)年3月11日  加筆修正
                                                           平成24(2012)年4月19日  加筆修正
                                                           平成24(2012)年9月13日   再加筆
                                                                                                                                  平成26(2014)年2月4日   部分加筆