古代 尾張 春日部、丹羽、山田郡に於ける 式内社等の覚書

            1.はじめに
               尾張 特に私と関わりの深い地域(春日部郡、丹羽郡、山田郡)に限定して、式内社等々を記録し
              ておこうと考えました。幸い郷土を愛する方々が、調査され、記述されている書籍がありましたので、
              それを参考にして、まとめておこうと思います。

               尾張地域の式内社に関する研究は、江戸時代元禄期から宝永期にかけ活動された神道学者 天
              野信景が、その著「尾張国神名帳集説」(本国神名帳集説)にまとめられているようです。

               その後、江戸後期には、津田正生が、天野信景の著に対して訂定追考し、「尾張国神名帳集説乃
              訂考」を著したという。

               そして、郷土史家とも言える 加藤 宏氏により「古代尾張氏の足跡と尾張国の式内社」として昭和
              63年に出版されておりました。

            2.春日部郡の式内社
               春日部郡は、和名抄(東急本)に「加須我倍」と記され、池田・柏井・安食・山村・高苑・余戸郷の6郷
              を擁し、その後、中世になり、山田郡が廃郡され、一部が、春日部郡に編入されたという。

               現在の地域で言えば、春日井市・小牧市・瀬戸市の北部・尾張旭市・名古屋市守山区、北区、名東区、
              東区、西区の一部・師勝町・豊山町・春日村等の西春日井郡を含む広大な地域であったという。

               延喜式神名帳には、尾張の国春日部郡には、12社が記載されているという。

               ・ 非多(ひた)神社 
                  所在地は、明らかでないと言う。
                  天野信景は、この非多神社を小牧市大字林にある三明神社を想定している。林には、卑田(ひた)
                 と呼ぶ地域がある故であろうか。

                  津田正生は、平田村前並天神ではないかと。その昔、この地は、卑田と称し、今は、平田と言う。
                  また、林の神社は、丹羽郡域であり、春日部郡ではないと退けたという。

                  「しかし、大字林の三明神社は、古老等の口伝では、その昔、大県神社の別宮であり、この地域は、
                 二ノ宮領であったようであり、年貢等も二ノ宮に納めていたという。天正戦国時代、二ノ宮の社人は、
                 放捨し、逃走したという。それ以後は、村方の祥雲寺(曹洞宗)が、拾ったという。」(東春日井郡誌 参
                 照)
                  丁度、春日部郡と山田郡と丹羽郡の境界辺りであり、どちらに所属していたのかは、不明としか言い
                 ようがない地域であったのでしょう。(筆者注)

               ・ 乎江(ヲエ)神社
                   所在地は、不明。
                   東春日井郡誌(大正12年発行)によれば、「小牧市大字本庄にある八所社は、式内乎江神社に
                  て、氏子は、近郷田中村・文津村・小松寺村・本庄村の4ヶ村であった。然るに正慶年中(1332年
                  〜)兵乱の為、消失して絶社。天正3年 肥前平戸城主 松浦肥前守の舎弟 松浦讃岐守勝政が、
                  当地に帰農し、社殿を再興。」したという。

                   春日井市大留町溝口にある 神明社も、該当するのではないかという。高蔵寺町史には「、この地
                  は、乎止江村とあり、尾張氏の祖 乎止与命にちなむ名と考えられる。」という記述もあり、定かでは
                  ないが、関連がありはしないかという事のようでありましょう。

                   大留とは、庄内川を挟んで反対側、名古屋市北区安井4丁目の別小江(ワケヲエノ)神社も、そうで
                  はないかということも言われていると言う。(ここは、当時山田郡内であった。)

               ・ 外山(とやま)神社
                   小牧市北外山字南屋敷にあり、この境内と境外の境を明らかにする為、大正4年4月作業中に、地
                  中より銅鐸が出土したという。その銅鐸は、現在小牧市歴史郷土館(小牧山山頂に建っている。)に陳
                  列されている。

               ・ 片山神社
                   諸説あり、一つは、小牧市村中字洞木の片山八幡社。そして、小牧市間々字片山の白山社。最後に
                  春日井市牛山町字四屋敷の天神社が考えられると言う。
                   尾張国神名帳集説乃訂考では、村中の片山八幡社が、片山神社であろうと記述されていました。

               ・ 訓原(くにはら)神社
                   西春日井郡師勝町井瀬木にあり、西春日井郡誌に「訓原神社は、祭神 少彦名命(すくなひこなのみこ
                  とと読む。一説には、尾張佐迷連の子 栗原連ともいう。)を祀れる郷社にして、一名 栗原天神ともいう。」
                  と記される。
                   おそらく、古代の尾張氏の一族の栗原連がこの地に住み、氏族の祖神を氏神として祀ったのが、始まり
                  ではなかろうかと考えられる。

               ・ 牟都志(むつし)神社
                   所在地は、西春日井郡師勝町六つ師。
                   創建は、白雉2年8月と伝えられているという。西春日井郡誌に「古説によれば、風の神か、水の神か、
                  然らずんば小治田連の祖 六見命を祀られるにあらざるかといへり。」と記されているという。

                   続日本紀 神護景雲2年12月甲子の日に、尾張国山田郡の小治田連の薬等八人に尾張宿禰の姓を
                  賜ったという。とすれば、やはり、この神社も、小治田連の一族の氏神を祀ったものと言えましょうか。

               ・ 味まり(みまり)神社
                   所在地 名古屋市北区楠町味ま、祭神 宇麻志麻治命(うましまじのみこと)、味間見命(あじまみのみ
                  こと)

                   祭神 宇麻志麻治命は、物部氏の始祖、ニギハヤヒ命を父に、その子は、祭神 味間見命である。
                   当社の北東に二子山古墳があり、この地方では、古くから宇麻志麻治命の墳墓であるとも伝えられてい
                  るという。また、この古墳の上に、昔、物部天神という祠があり、宇麻志麻治命が祀られていたという。
                   現在は、すぐ北側の白山神社古墳に鎮座する白山神社に合祀されているようで、以前には、当社から二
                  子山古墳へ神輿渡御が行われていたと伝えられているという。

               ・ 物部神社
                   所在は、詳らかではない。
                   一説には、所在地 西春日井郡豊山町豊場字木戸。祭神 宇麻志麻遅命の八所神社かと。宮司は、山
                  県正英氏で、「古い伝承に拠りますと、神輿渡御が行われていたと言う。それは、祭礼の前日に、神輿は、
                  この八所神社から出て、当社より東南500m程の所に富士社がありますが、この社へ渡御し一泊します。
                  富士社はお旅所となります。お旅所となる富士社は、青塚と呼ばれる円墳の墳上に鎮座する社でもありま
                  す。加えてこの青塚古墳は、物部氏のお墓と聞いております。」と述べられたという。この青塚古墳を、古い
                  地籍図で確認されたようですが、前方後円墳であったと推定できたという。

                   もう一社は、白山神社(春日井市二子町鎮座)で、万治2(1659)年8月に付近に鎮座していた物部神社
                  を合祀したと、東春日井郡誌には記すが、これは、あくまで伝承のみであり、根拠となる資料も明示されて
                  はいないという。

               ・ 伊多波刀(いたはと)神社
                   所在地は、春日井市上田楽町の八幡宮に該当し、田楽(たらが)という地名は、奈良時代中期以前からの
                  呼び名であり、尾北古窯跡群から発見された瓦に「多楽里張戸連」銘があり、これは、現 田楽であり、張戸
                  連を尾張戸連と小牧市教育委員会の発掘調査書では、解釈されているようであります。尾張戸神社、尾張
                  戸古墳等が、東谷山付近にはあり、ここを拠点とした尾張戸連は、田楽里の里長を兼ねていたのかも知れ
                  ないという。

                   この神社の語源は、志賀剛氏は、式内社の研究第9巻 東海道の巻で、「語源は、イタハタ(伊多畑)」であ
                  り、「イタ」は、「ユタチ(湯立)」の意であり、つまり、水の湧く畑がある所ではないかと。傾聴すべき意見であろ                         
                  うと記述されていた。

               ・ 高牟(たかむ)神社
                   所在地は、名古屋市守山区瀬古高見。矢田川に掛かる天神橋から200m程下流、北側の堤防を下りた所
                  に高牟神社は、鎮座しているという。

                   名古屋市教育委員会の由緒を記した高札には、「当社は、尾張物部氏の武器を納めた倉が神社になった」と
                  書かれている。

                   千種区にも、高牟神社があり、東区にも高牟神社が存在し、北区には、味まり(みまり)神社があり、瀬古の
                   高牟神社は、三社の中間に位置しているという。物部氏に関係する神社ではあろう。

                ・ 内々神社
                   所在地は、春日井市内津町。祭神 建稲種命(尾張氏の始祖 天火明命の後裔)。

                ・ 多気神社
                   所在地は、小牧市多気中町。当社のすぐ東の多気東町に、坂庭神社があり、往古、坂庭神社で作られた
                  神酒を、豪族尾張氏が、奉祀したと言われている尾張神社に貢献していたと伝えられている。同じように尾
                  張氏の勢力が及んでいた当社も、貢納していたのかも知れないであろうと記述されていました。
                  
            3.丹羽郡の式内社
                  丹羽郡は、現在の犬山市・扶桑町・大口町・江南市・岩倉市・一宮市の東部を含む地域と推定されている。
                  先住者は、爾波(にわ)氏であり、爾波県の県主として祭祀関係を司っていたと思われます。安閑2年(535)、
                 爾波県内に入鹿屯倉が置かれ。爾波縣主と丹羽稲置が並立し爾波縣主は大縣神社を象徴とした祭祀権、丹羽
                 稲置は朝廷に対する税等の実質支配権を分掌していたのではとも。その後、祭祀の優位性は無くなり、税等の
                 実質支配権が、勝るようになり、爾波縣君(大荒田命)は衰退し、婚籍関係により融合した尾張丹羽氏がその後
                 を継いだという。確かに、天皇家でも、古代では、祭祀は、兄が司り、弟が、天皇になって政治をみたという時代
                 があったという。

                  「続日本紀」承和8年(841)4月の条に、「縣主前利連氏益賜姓縣連。」という記述があり、丹羽郡には、県主の
                 前利連(さきとむらじ)氏の存在も確認でき、氏神神社式内社 前利神社もあり、丹羽氏と同族であるという。

                  参考までに、一宮市史では、爾波(にわ)氏が、入鹿屯倉の県稲置であり、丹羽氏が、県主という位置付けであ
                 るとも記述されているようであるが、通説とは、まったく逆の捕らえ方であり、真偽の程は、不明としておく。
                  丹羽郡での式内社は、22社で、大縣神社を除いて21社は、小社であるという。

                ・ 阿豆良(あつら)神社
                   所在地 一宮市丹陽町吾鬢郷内。垂仁朝の頃の創建と言い伝えられているという。

                ・ 田縣神社
                   所在地 小牧市田県町 祭神は、玉姫命{この地の開拓の祖 大荒田命( 爾波県主の祖、後の丹羽氏)
                  の娘。祭神にゆかりの深い荒田塚が、当社の近くにあり、今は、「山の神」と刻銘した石碑が建っているという。

                ・ 稲木神社
                   所在地は、江南市寄木字東郷、この稲木の名称は、姓に由来するという説と官職に由来するという説がある。
                  皇室と深い関係があるようではあります。平安時代末には、郡司 良峯高光が、私領を稲木庄と称し、長講堂
                  に寄進したと伝えられている。

                   稲木神社は、旧暦10月30日にかがり火を焚く、「神迎え」の神事が重要な行事であるという。出雲国で神在
                  祭が行われる時、旧暦10月1日に、おかがりを焚いて、出雲へ神送りをし、10月30日にも、かがり火を焚い
                  て、神迎えをするという。この稲木神社は、送る事は無くなっているようだが、神迎えは残っているようであります。

                ・ 石作神社
                   所在地は、江南市石枕、祭神は、建真利根命(天孫本紀には、石作連、桑内連、山辺県主の祖と記述。)
                   「姓氏録」には、「石作連、火明命の六世孫。建真利根命の後也。垂仁天皇の御世、天皇の皇后の為に石棺
                  を作り奉りて之を献ず。」とあり、石棺を作る氏族と考えられ、当時、尾張国へ土師部と共に移住してきた相当の
                  勢力を持った氏族であり、その氏族を祀る場として神社を創建したのであろうか。

                ・ 山那神社
                   所在地は、丹羽郡扶桑町大字南山名、祭神八野若日女命(須佐之男命の御子、出雲の氏族が祭っている神)
                  が、何故、当地で祀られているのか。出雲系の氏族が、当地へも居住してきたのであろうか。

                ・ 爾波(にわ)神社
                   爾波神社は、昔、大江川(木曾川派流か)の東南、天神の地に鎮座していたという。寛文6(1666)年に、現在
                  の一宮市丹羽町宮浦に遷座されたという。
                   祭神は、神八井耳命(かむやいみみのみこと)を祀る。古事記神武天皇の条に、「神八井耳命者意富臣、小子
                  部連、尾張丹羽臣、嶋田臣等之祖也」とある。丹羽臣は、丹羽の地を本貫とし、現 一宮市大和町一帯に、嶋田
                  臣は、現 名古屋市天白区島田の一帯に勢力を伸ばした豪族と伝えられ、小子部連は、大海人皇子に付いて、
                  壬申の乱に功があったと言われるが、直後に自害して果てたという氏族であろうか。

                   尾北の歴史(西村大民著)には、「丹羽郡の地には、土着の大豪族、爾波氏がおり、本宮山麓一帯から平野部
                  に勢力を伸ばしていた。この爾波氏は、県主となり、大縣神社に祀られた大荒田命であるという。その後、しだい
                  に勢力が衰え、新たに入国した丹羽臣と婚姻関係等を通して融合した。」 とある。

                ・ 前利(さきと)神社
                   所在地は、丹羽郡扶桑町斉藤、祭神は、爾波神社と同じであり、斉藤の地一帯を支配していたのは、前刀連
                  であり、丹羽臣とは、同族となったようで、丹羽臣の祖を氏神として、創祀したという。

                ・ 諸くわ神社
                   所在地は、小牧市裏之門、名鉄楽田駅近くであり、創建は、桓武天皇の御代か。尾張・伊勢に土賊が出没し、
                  農民を苦しめていたという。そこで、征夷大将軍 坂上田村麻呂に命じて、勅討せしめようとされた。そこで、将
                  軍が、日頃諏訪大明神を崇敬されており、この地に、諏訪大明神の祭神を分霊し、祀られ、祈願された所、見事
                  に征伐できたという。

                ・ 阿具麻(あぐま)神社
                   所在地は、一宮市千秋町惣神、創建は不明。以前は、旧暦10月に出雲国で、神在祭が行われる旧暦10月
                  1日は、かがり火を焚いて神送りの神事が執り行われ、10月30日には、神迎えの神事が、盛大に行われてい
                  たという。当時は、参拝客も多く、露店も出て、大賑わいであったという。古い神社の形式を持っていたと思われ
                  ます。

                ・ 針綱(はりつな)神社
                   所在地は、犬山市東丸の内、祭神は、尾治針名根連命他多く、皇室とも、丹羽氏とも、尾張氏とも深い繋がり
                  があったようです。この祭神の母が、田縣神社の祭神 大荒田命の娘 玉姫であってもおかしくないと犬山市史
                  P146には、記述されております。
                   神宮式年遷宮時は、お木曳きの神事が行われるという。
 
                   当初は、犬山の峯に鎮座されていたが、天文6(1537)年、織田信康が犬山城築城にあたり、現 成田山
                  名古屋別院付近に遷座され、その後、慶長11(1606)年4月8日 市内名栗町に遷された。犬山城主 成瀬
                  家代々の祈願所でもあった。そして、明治15(1882)年11月に、当初の地に再び遷座されたという。

                ・ 生田神社
                   所在地は、一宮市千秋町芝原、祭神は、織物の神 稚日女尊(わかひるめのみこと)であるという。

                ・ 宅美(たくみ)神社
                   所在地は、一宮市西大海道中山、祭神は、仲哀天皇の弟 武田王であり、社記によれば、「武田王の子孫
                  代々丹羽建部(盾部であり、常備兵の意であるという。)君として、この地に住み、土地を墾き、産業を勧め、
                  美術工芸の指導と守護をしてきた。」 と記されているという。

                ・ 鳴海木丑(なるみてかし)神社
                   所在地は、犬山市羽黒字成海郷、祭神は、山岬多良斯神(やまさきたらしのかみ)と言い、意味は、山からの
                  水で十分潤す事が出来る高台であるという事を示す神であるという。

                   事実、神社の東300m位の藪の中から、こんこんと水が湧き出ていた。冷たくきれいで十分水田を潤していた
                  と。この成海郷は、洪積台地でありながら、この辺りは、木曽川の伏流水の恵みで、穀倉地域として利用できた
                  と言う。

                   旧 41号線を犬山に向かって走り、蝉屋の交差点を左折し、直進した池ノ向の交差点の北西寄りの所にこじん
                  まりと佇んでいた。現在では、伏流水は、枯渇したようで、汲み上げないと水は出てこない状況のようで、過去に
                  は、 池は満面と水をたたえていたでしょうが、干からびてしまい、内側にコンクリートで内池が造られ、くみ上げた
                  きれいな水は、その内池に貯められ、鯉が飼われていた。周りは、まだ水田が残り、用水路も存在し、米作りは、 
                  営々と続けられているようでした。

                ・ 削栗(けつくり)神社
                   所在地は、一宮市千秋町勝栗、祭神は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)。創建は、今から1000年くらい前
                  であり、この地は、栗の木を削って器物を作っていたといえよう。栗の実を乾燥し、砕いて粉末にして、食料の一
                  部に充当していたとも伝えられる。伊勢神宮の御薗でもあったという。

                ・ 託美(たくみ)神社
                   二社あり、1社は、丹羽郡扶桑町高雄、もう1社は、一宮市西海道で、祭神は、大美和津ね命(おおみわつくね
                  のみこと)か。この祭神は、新撰姓氏録に「工部 同祖(火明命)十世孫 大美和津ね命後也」とみえ、扶桑町史
                  に「託美は、タクミであり、太田亮によれば、この地に工部(たくみべ)があり、この部民が託美神社を奉斉したと、
                  されている事を併せ考えると、この祭神は、尾張氏の諸道具の製作や、水防土木等の仕事をしたものと考えられ
                  る。工部の部族が、尾張の祖先を祭ったものである。
                   工部の部民はその氏族の必要とする、建築家具、あるいは武具等を作る事を専業とする部民で、平素は、それ
                  ぞれの奉仕する氏族の生活に必要な食糧、衣服などの生産に従事するものとされているが、尾北の地方では、水
                  防は極めて重要であり、この部民が水防の故に、おのれの奉仕する氏族の祖神を祭ったと考えることも可能であ                    
                  る。」と記述さていた。

                ・ 虫鹿(むしか)神社
                   所在地 犬山市前原字東向屋敷、旧社地は、丹羽郡入鹿村にあり、江戸時代に入鹿池が造られし時、池底に
                  沈んだという。それ故、現在の地に入鹿村の住民と共に遷座されたという。
                   この丹羽郡入鹿村は、継体天皇の子 安閑天皇在位中に、入鹿屯倉が置かれたその屯倉に存在した村であり
                  ましょう。

                ・ 立野神社
                   所在地は、不明。

                ・ 井出神社
                   二説あり、1社は、江南市大字宮後字宮東の井出神社。もう1社は、岩倉市井上町井出南の神明神社。どちら
                  も、湧き水に関係する神社であろうか。

                ・ 小口神社
                   所在地は、丹羽郡大口町小口字城屋敷、古は小口天神とも言われ、祭神は、少名毘古那命(すくなびこなの
                  みこと)で、この神は、大国主神と共に国を治められた神であるという。

                ・ 塩道神社
                   所在地は、一宮市千秋町塩尻居屋敷、千秋村史に、「木曽川氾濫時代に、伊勢湾が当地地区まで入り込み
                  海浜をつくったものと推定される。」 と記されていた。
                   宮司さんによれば、「この辺りは、現在では濃尾平野のまっただなかでありますが、昔は、一帯に沼地が多く
                  あり、葦が一面生えていた。」 という。また、「この近くに、花の木山という塚がありました。古墳か貝塚のような
                  ものでした。今は、取り壊され、上を名神高速道路が通っている。」 という。

                ・ 大縣(おおあがた)神社
                   所在地は、犬山市宮山、丹羽郡内では、唯一の大社であるようです。爾波氏(後の丹羽氏)の氏神であると言
                  う。
                   権禰宜の牧野武彦氏は、「本宮山を奥宮とし、大縣神社を里宮、田縣神社を田宮とした考えが、以前にはあっ
                  たようで、また、一説には、田縣神社は、大荒田命の邸宅のあった地とも言われています。」とも語られたという。

                   この大縣神社は、古い神の形式が、段々と形ある神社形式へと形を変えて変遷した名残りを残した神社かと推
                  察いたしました。(筆者 感想)以前は、当社は、西向き(本宮山を背にして)であったようですが、現在は、南向き
                  になっているという。

            4.山田郡の式内社
                山田郡は、古代から中世末まで存在した。その範囲は、定かではないという。愛知県の地名(平凡社)によれば、瀬
               戸市・尾張旭市・愛知郡長久手町・日進市の北部・名古屋市守山区・北区・西区・東区・千種区・天白区・名東区・春日
               井市の一部であろうとされています。小牧市史には、小牧市の上末・下末も山田郡に含まれていたのではとも記述され
               ておりました。式内社は、19社あるようです。

              ・ 片山神社
                 所在地は、名古屋市東区芳野2丁目、創建は、定かではないが、天武13(684)年とも伝えられると言う。祭神は
                国狭槌尊(くにのさづちのみこと)で、国初めの頃の国土生成の神とされているようであります。また、蔵王権現も祭
                神であり、修験道の開祖 役行者 小角(おずね)とも関わっているようであります。

              ・ 大目神社
                 所在地は、瀬戸市巡間町、創建は定かではないという。しかし、この辺りは、古窯群もあり、土師氏との関わりが                 
                想察されるという。

              ・ 深川神社
                 所在地は、瀬戸市深川町で、瀬戸の市街地の中心にあり、名鉄瀬戸線尾張瀬戸駅から歩いて10分程のところに
                あるという。創建は、はっきりしていないが、社記によれば、宝亀2(771)年と伝えられる。
                 祭神からこの神社は、土師氏と何らかの繋がりを持った神社であろうと推察できるという。

              ・ 羊神社
                                     所在地は、名古屋市北区辻町、鎮座地の辻町は、尾張志に「今、村の名を辻といへるは、羊の省かりたるやとそ」
                尾張国地名考に「往昔、火辻(ひつじ)村といひしを後世火の字を忌みて、単(ただ)、辻村と書くといふ」と記される。

                 この神社の名前の由来は、群馬県多野郡にある「多胡碑」に関係するとか。それは、和銅4(711)年、上野国に
                多野郡が設けられた時の建郡の記念碑であり、羊は、新羅系の帰化人の呼び名であったという。この帰化人が、
                奈良の都へ上る時、当地に立ち寄ったという。ゆかりの屋敷が神社の近くにあったからだという言い伝えがあるとい
                う。

              ・ 川嶋神社
                 所在地は、名古屋市守山区川村町、祭神は、伊邪那美命(いざなみのみこと)、大苫辺命(おおとまべのみこと)
                となっており、五穀豊穣、村落・家の守護神として祭祀されたのでありましょう。

                 この神社の創祀の地は、東山(通称 余慶山と呼ばれる丘陵地)の麓、白沢川の流れる辺りであったという。
                 庄内川に近いこの東山あたりの丘陵地に、集落を形成した尾張氏の一族が、この地に氏神として創建したので
                ありましょう。

              ・ 小口(をくち)神社
                 所在地は、確定していないようであります。この式内社は、山田郡に存在していたという。瀬戸市菱野丘陵には、
                古墳も多数存在し、山田郡には、山口郷があり、その辺りは、現 菱野団地が立ち並んでいる所であろうと言う。
                 それ故、山口八幡社が、小口神社ではなかったかと想定されてはいますが、確定はしていないという。

              ・ 伊奴(いぬ)神社
                 所在地は、名古屋市西区稲生(いのう)町、庄内川に掛かる庄内橋南東600mの所にある社であります。
                 この神社の言われは、二つあり、一つは、修験道の山伏による創建説と、天武天皇の御世、創建されたという
                説であります。当地は、庄内川の氾濫で難渋していた所であり、山伏により洪水が収まったとか。

                 もう一つの説、壬申の乱は、この尾張の地より畿内に攻め入った筈。海人族の拠点が、尾張であり、大海人皇子
                を助けたという。どちらの謂れが正当なのか判断はしかねます。

              ・ 金(かね)神社
                 所在地は、瀬戸市小金町、祭神は、尾張金連とか。この尾張金連は、天香語山命15世の孫であるとか、尾張各
                地に勢力圏を築いた中心的な氏族の一つではありましょうか。

                 旧社地は、水北町であり、中央を水野川(庄内川の支流)が流れ、標高は150m程で、住居には適した土地であり、
                尾張金連が中心となって開発した地域でありましょう。旧社地の南200m辺りには、円墳(山畑古墳)があるという。

              ・ 和に良(わにら)神社
                 有力な地は、春日井市和に良字寺中、ここは、春日井市上条あたりで、明治に入り、上条村と八田新田、大光寺新
                田が合併し、和爾良(かにら)村となり、その後、小野村と和爾良村が合併し、鳥居松村となったという。庄内川の右岸
                に辺り、内津川が庄内川に合流する辺りかと。

                 旧社地は、春日井市朝宮の地であったようで、この地に勧請されたという言い伝えがあるという。
                 祭神は、阿太賀田須命(あたがたすのみこと)といい、新撰姓氏録大和神別の条に「和仁子、大国主6世の孫、阿
                太賀田須命の後也」と記され、和仁(わに)氏の祖であるという。また、仲哀記には、「天火明命の17世孫の建振熊
                宿禰(たけぶるくまのすくね)が、和仁氏の祖である」とも記されています。

                 この社に該当するのが、白山社であり、地元の氏子等は、この白山社を和爾良(かにら)神社と言うようであります。
                 春日井市史(P108 参照)には、「尾張氏より古く、この地には、春日氏が多数存在していた事は、事実であり、物
                部氏系の氏族であり、春日氏の一族に和爾部(わにべ)があり、こうした一族は、いずれも天帯彦国押人命の子孫と
                述べていることから、彼等は、いずれも春日氏の一族であり、和爾部氏に属するらしく(愛知県史 第1巻)、その本貫
                地は、和爾良の地であったらしい」 という。この春日氏は、後移住してきた尾張氏の支配下に入ったのでありましょう。

                               ・ 多奈波太(たなはた)神社
                 所在地は、名古屋市北区金城4丁目、名古屋城の北、黒川、古くは大幸川と言い、堀川の上流域に当たると言う。
                 神社は、この黒川の辺りにある。旧鎮座地は、田幡村であったという。

                 祭神は、天之棚機姫命(あめのたなはたひめのみこと)と言い、機織の神様のようで、伊勢神宮の神御衣を奉織す
                る神服織機殿の守護神で、神服(はとり)氏の祖神という説もあるという。

                 近くには、機織に関わりのある式内社、羊神社があるという。

              ・ 綿神社
                 所在地は、名古屋市北区元志賀町、ここは、国道41号線の北区黒川交差点から北西300mの所であるという。
                                     この祭神は、古は、海童神(わたつみのかみ)とも、綿津見神(わたつみのかみ)、綿津見命とも書き、本国帳、尾
                張志にも、祭神は、同様な記述となっている。それらの書には、「むかしは、この辺りまで入海にて、神社西なる新川
                を堀し時地中よりはまぐりの殻の多く出でし所ありて、そこは西志賀貝塚と呼べり。志賀は、水辺の里を呼べる例多く、
                淡海の志賀里をはじめ諸国に多し。」とある。

                 金城文化財保護委員会々長 三谷政明氏は、「名古屋市北区の綿神社ですが、和名抄では、山田郡の綿神社と
                記され、水を交通手段として利用するのが得意な海人族が、当地に移行してきた事はまちがいないでしょう。当時は
                この辺りまでが海岸線だったと思われます。その為、当社は、綿津見神の綿の意味(渡る・海)をこの氏神の名として
                残したのでは」と記述されているという。参考までに、海神は、万葉仮名で「わたつみ」と表現し、特に航海する事に重
                点を置き、それを守護するのが、この神の特質だと考えられるとも言われています。とすると、機織とは関係しない神
                社なのかも知れません。

                 現在の祭神は、玉依比売命(たまよりひめのみこと)であり、同命は、綿津見神の御子であるという。

               ・ 渋川(しぶかわ)神社
                  所在地は、尾張旭市印場元町北島、ここは、守山区に近く、尾張旭市の西端で、矢田川の堆積物で出来た沖積
                 地帯であります。
                  現在は、当社の南に天神川という小川が矢田川に注いでいる。「古くは、渋河(そぶこ)と言い、鉄分を含んだ赤
                 茶色の小川が、お宮の近くを流れていたと聞いています。天神川は、その名残りでしょうか。」と当社宮司 朝見武
                彦氏は、語られたと言う。神社の名も、古の川の名からきているとも伝えられると言う。

                  創祀は、景行天皇の御世に、高皇産霊大神(たかみむすびのおおかみ)を現社地の西南数百mの地に祀ったの
                 が始まりという。
                  お宮の南に田圃が広がっており、天武天皇の御世、白鳳5(676)年に当地の田が、新嘗祭の献上地となり、斎田
                 になったといわれております。

               ・ 大乃伎(おおのき)神社
                  所在地は、名古屋市西区大野木2丁目、ここは、庄内川に矢田川が合流する庄内橋から少し上流域であり、ここに
                 鎮座している。

                  この大野木一帯は、肥沃な土地であるが、昔から水害に見舞われていた。しかし、こうした地域は、弥生時代から
                 水田稲作に適した土地であると言えよう。現在は、庄内川を挟んで反対側に、大乃伎神社と同一の斎神を祀る別小
                 江神社が鎮座している。こうした同一神を祀るという事は、同一氏族であったのでしょう。庄内川の氾濫により、いつ
                 の頃かは、不明でありますが、分かれた地域になってしまったのかも知れません。
                  祭神は、天照大神の御子6神であります。

               ・ 尾張神社
                                        所在地は、小牧市小針字中宮、この辺りは、濃尾平野の北東部に位置し、早くから開けた地域であったという。
                  祭神は、香山命であり、日本書紀にも、「その天火明命の児天香山は、是尾張連等が遠祖なり」と記されている。
                  
                  本殿は、この地方では珍しい東向きであり、真東には、春日井市に高座山があり、天香語山命が降臨されたとい
                 う言い伝えもあり、更に、香山命は、高座山から庄内川を隔てた東谷山へ白鹿に乗って移られたと伝えられると言
                 う。
                  東谷山の山頂には、尾張戸神社が鎮座し、祭神は、天火明命、天香山命、建稲種命等々を祀るという。
                  尾張神社は、往古、小針に居住した尾張氏一族の氏神として祀ったのであろう。

               ・ 別小江(わけをえ)神社
                  所在地は、名古屋市北区安井4丁目、庄内川を挟んで、反対側には、大乃伎神社があり、際神も同一であるとい
                 う。

               ・ 大井神社
                  現所在地は、名古屋市北区如意2丁目でありますが、もとは山田郡大井町(現 北区大我麻町あたりか)にあった
                 ようですが、そこは水袋の地であり、水難を避け、鎌倉時代にその神社を創建した集落を、春日部郡豊場村(現 西
                 春日井郡豊山町)の南に移した時、現社地に遷座したと言われているようです。

                  大井神社と称する式内社は、全国に6社存在しているようですが、いずれもその神社には、共通点があるという。
                  いずれも井泉、泉池、或いは、大井川と呼ぶ川やその伏流水が存在している点であるという。

                  往古の旧社地も水に関係していたようであり、現社地も、昔は、大井の井といわれた池があったとか。この池の
                 水源は、庄内川の伏流水によるものであったようです。しかし、現在は、井泉らしきものもないようでありますが・・。

                  昔の人々は、五穀豊穣に欠かす事の出来ない水を枯渇させることがないように心を込めて水の神を祭祀したよう
                 であります。

               ・ 坂庭神社
                  所在地は、小牧市多気東町、祭神は、国常立命(くにのとこたちのみこと)、国狭槌命(くにのさづちのみこと)であ
                 るという。国常立命は、国土の生成にかかわる神であり、国狭槌命は、山の神 大山津見神を父とする神であり、父
                 は、娘が子を生んだ時、喜んで天たむけ酒をつくり神々に振舞われたという記述が、書記に記されているという。
                  この神社の宮司 舟橋新治氏は、「古老から、大昔、このお宮で酒をつくり、尾張神社へ、お神酒として貢納して
                 いた事を聞いた事があります。」 と尾張神社との関わりを語ったという。

                  その昔、大山津見神は、酒の神といわれ、その子も同様でありましょう。とすれば、ここを氏神として祀った氏族
                 も酒作りをしていたのではないだろうか。そのつくった酒を尾張神社に貢納していたのであれば、尾張氏とこの氏
                 族は、何らかの関係があったと推定出来るのではなかろうか。

              ・ 尾張戸(おわりへ)神社
                 所在地は、名古屋市守山区上志段味であり、瀬戸市十軒町でもあるという。名古屋市内の古墳の6割が、この東
                谷山付近に集中しているという。しかも古墳は、4世紀から7世紀にかけての全般に渡っているという事でもあり、古く
                から開けた地域でもあったのでしょう。

                 この神社は、尾張氏と深い繋がりがある神社と言われており、この先古墳等の発掘が進めば、新しい事実が出て
                くることは必定でしょう。

              ・ 石作(いしつくり)神社
                 所在地は、愛知郡長久手町岩作、祭神は、建真利根命。新撰姓氏録には、「石作連、火明命6世孫建真利根命の
                後也。垂仁天皇の御世、皇后の為に石棺を作り奉りて之を献ず。」 とある。石棺をつくる氏族であり、尾張国へ土師
                部と共に移住した氏族であるという。尾張氏と石作連は、同系の氏族ではありましょう。

            5.春日部・丹羽・山田郡に於ける式内社についてのまとめ

               < 春日部郡の式内社から推察出来ること >
                  12社あったようですが、名古屋市瀬古を中心にして、千種区、東区、北区、あじま(春日井市)辺りに、物部
                 氏に関連する神社が、鎮座していた。

                  小牧市の犬山寄りの小牧市大字林、本庄辺りには、大県神社を氏神にしていた丹羽氏に関連する神社が、
                 あったと推察できましょう。

                  春日井市の東よりから庄内川、東谷山近辺、春日井市田楽、西春日井郡師勝町辺りは、尾張氏に関係する
                 神社群が存在している事が知られる。

                < 丹羽郡に於ける式内社から推察できること >
                   式内社は、22社。その内所在が確定できない神社もありました。
                  22社中、9社が、何らかの形で 大和朝廷と深い繋がりのある神社かと。5社が、丹羽氏との関わりが濃い神
                  社であり、2社が、尾張氏と深い関わりがあった。出雲系かと思われる神社も3社含まれてもいました。

                   土着の爾波(にわ)氏にかわる後の丹羽氏は、尾張外から移住してきた氏族のようでもあり、大和朝廷と関わ
                  りのある神社も、やはり尾張外からの移住者であったように推察されました。

                   畿内から近い郡であるからであろうか、春日部郡と比べ、有力氏族に関わる神社よりも、大和朝廷の息の掛か
                  った民に関わる神社が多いように感じた。尾張氏の神社が2社と少ない事は、丹羽氏を通して、丹羽郡を支配化
                  に置いていたとも考えられましょう。

                < 山田郡における式内社から推察できること >
                   山田郡式内社 19社の内、最も多いのは、大和朝廷との関わりがある部民に関する神社が、8社。(内訳 4社
                  が、国つくりの神を祭神にしている神社、機織に関する神社 2社、土師部に関する神社 2社) 次に多いのが、
                  この尾張地域を支配していた尾張氏に関わる神社が、6社。残りは、山伏(役行者 小角に関わる神社)が絡む
                  神社 2社。土着の豪族 春日氏に関わる神社 1社でありました。
                
                   そして、私が関わっている地域の歴史は、尾張全域ではありませんが、古代、大和朝廷との関わりが強く、この
                  地域には、古代 屯倉が置かれたり、大和朝廷の東方向への最前線であった事も関わっていたからでしょうか。

                   土着の豪族は、県主として、大和朝廷と祭祀関係で繋げ、屯倉を設置して部民により直接支配を強めていった
                  のでしょう。そして、その地域での支配を強めていったようであります。その後、垂仁朝前後に畿内の氏族等を移
                  住させ、大和朝廷の支配を、さらに強めていったと推測できましょうか。それが、古代の式内社の神々、氏族の氏
                  神である神社の存在としてみてとる事ができるのではないでしょうか。

                  参考文献
                   ・ 古代尾張氏の足跡と尾張国の式内社 加藤 宏著 昭和63年
                                          ・  東春日井郡誌   大正12年発行
                   ・ 高蔵寺町史
                   ・ 西春日井郡誌                                  
                   ・ 桃花台ニュータウン遺跡調査報告Y 小牧市古窯址群  愛知県建築部
                                                        小牧市教育委員会
                   ・ 小牧市史
                   ・ 春日井市史
                                                            平成24(2012)年10月27日 最終脱稿