古代史に登場する 神宝である剣 についての覚書

                1.はじめに
                   古代史を読み始めてから、幾度となく古代の豪族の神宝の事を見聞した。こうした宝は、いろ
                  いろの名前が付き、一つしかない物なのに、度々名を変えて登場してくる物もあります。或いは、
                  一つではないから名がいくつもあるのでしょうか。

                   記紀をはじめとして、それ以後の正史とか、他の書物等に記述されている神宝(剣)について、わか
                  る範囲内で記述をしてみようと考えました。

                 2.神宝類(剣)について
                  ア、十挙(とつか)の剣( 十握の剣、十束の剣とも記述される。)
                     この剣は、スサノウが、大蛇(オロチ)を切り刻んだという剣であるという。日本書紀、石上神宮旧
                    記には、この剣は、吉備国(現 岡山県赤磐郡吉井町石上)の石山布都魂(いそのかみふつ
                    のみたま)神社にあったと記述されています。

                     また、この剣の長さは、(一握とは小指から人差し指の間の幅であり、8〜10cmとされ、)80
                    〜100cm程度の長さであったという。こうした長さの剣は、銅剣にはなく、鉄剣であろうとされて
                    います。

                     そして、この剣は、仁徳天皇の御代に、石上神社に合祀されたという。天武朝になり、石上神宮
                    と名称を替え、国家的な権威付けがなされたという。

                     また、石上神宮の祭神は、よく似た名前の三神が存在しているという。
                     布都御魂神(ふつのみたまがみ)・・建御雷の神が、大国主の神に国譲りをせまったとき帯びて
                                          いた霊剣であり、熊野の高倉下(たかくらじ)を通じて神武天
                                          皇にさずけられ、熊野平定に霊威を示したという平国の剣に
                                          関わる。
                     布留御魂神(ふるのみたまがみ)・・饒速日(にぎはやひ)の尊に関わる。
                     布都斯魂神(ふつしみたまがみ) ・・十挙の剣は、天の羽々斬とも、蛇の麁正(おろちのあらまさ)
                                          とも、天の蝿斬(ははきり)の剣とも、蛇の韓鋤(からすき)の
                                          剣とも言われる剣に関わる。

                    *  石上神宮にあるという十挙の剣と平国の剣は、別物でありましょう。いわれも違いますから。

                                                更に、明治7年 石上神宮の大宮司 管政友氏は、拝殿の後ろの「禁足地」を発掘した際の報
                     告書( 教部省宛 明治7年8月24日付報告書 大和史料所 参照 )に、「地下1m程に30cm
                     ばかりの石を積み上げて造られた3u位の石窟から、鉾とその柄、そして剣が発掘された。」と
                     いう記述があったという。それらは、現在当神宮に納められているという。はたしてこの剣は、ど
                     ちらの剣でありましょうか。

                      しかし、一方で織田信長が、京へ攻め入った時、この石上神宮は、尾張の雑兵に狼藉され、兵
                     器庫は荒らされたという。それ故、神宮方は、こうした神宝類が、紛失しないように地中に埋めた
                     という言い伝えもあるやに聞き及んでいますが・・・・。真偽の程は判りかねます。

                 イ、平国の剣(ことむけの剣と読むそうです。)
                    建御雷の神が、大国主の神に国譲りをせまったとき帯びていた霊剣であり、熊野の高倉下(たかく
                   らじ)を通じて神武天皇にさずけられ、熊野平定に霊威を示したという剣であります。
                   ・ 鹿島神宮には、この平国の剣があるというが、レプリカでありましょうか。                       
                   実際は、直刀・黒漆平文大刀拵(ちょくとう・くろうるしひょうもんたちごしらえ) (附 刀唐櫃) とい
                    うようであります。

                     この剣は、「布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)」「平国剣(ことむけのつるぎ)」とも呼ばれるよう
                    で、柄(つか)・鞘を含めた全長2.71m、刃長2.24mの直刀。奈良時代末期から平安時代初期の制作
                    であろうという。出土した刀ではないという。国宝に指定されています。
                 
                     参考までに、「春日大社」には、タケミカヅチ、フツヌシが祀られ、「香取神宮」には、フツヌシが、「鹿
                    島神宮」には、タケミカヅチが祀られていますが、それらの神社は「藤原(中臣)家」の氏神社、あるい
                    は関係のある神社だということです。また、鹿島神宮社のある辺りは、古代大和朝廷の蝦夷征伐の
                    前線基地のあった辺りでもあったという。果たしてこの神社は、当初から中臣(藤原)氏の氏神さまで
                    あったのでしょうか。一説には、物部氏の氏神であったのを中臣氏が、後から引き継いだものなのか
                    も・・・。という説もあるようです。

                     由緒正しいふつのみたまのつるぎは、鹿島神宮ではなく、石上神宮にあるということのようです。

                    * こうしてみてくると、石上神宮は、古代の大和朝廷を支えた有力な武器庫であったことが分かりまし
                     たし、大元のこの神社の氏族は、布留氏(新羅系の渡来人)であり、大和朝廷に服属した者であった
                     のでしょう。

                   ウ、草薙の剣
                      古事記、日本書紀ともに、ニニギノミコトに与えられたと記述されています剣であります。
                      古語拾遺では、やたの鏡と草薙の剣の2つは、天璽(あまつしるし)であり、神武天皇の御代には、
                     正殿に安置されていたという。

                      崇神天皇の時、天璽(あまつしるし)である鏡と剣のレプリカを作らせ、本物は、笠縫邑に磯城(しき)
                     の神ろぎ(ひもろぎ)をつくり、移し、皇女 豊鋤入姫(とよすきいりひめ)にまつらせたという。

                      天武天皇の御代に、伊勢神宮が創建され、草薙の剣等は、そちらへ収められたという。その後、草
                     薙の剣は、熱田神宮へ移されたようです。(記紀、古語拾遺ともに景行天皇の条に記述)

                      日本書紀 天智天皇の御代に、法師 道行(どうぎょう)は、草薙の剣を盗み、新羅へ持ち帰ろうとし
                     て失敗したという。(尾張国 熱田大神宮縁起では、この道行は、斬刑に処せられたことになっていま
                     すが、知多半島知多市 法海寺略由緒では、道行は、知多半島 里崎の浦の土牢に入れられていま
                     したが、天智天皇の病を加持祈祷で治したたことから許され、法海寺の開基を許されたということにな
                     ているようです。)道行が盗んだ後の剣は、しばらくは宮中にあったようですが、天武天皇の御代、天皇
                     の病の元が、この草薙の剣のせいであるという事になり、剣は、熱田神宮に返却される事になったとい
                     う。それ以後は、草薙の剣は、代々熱田神宮に収められている事になっています。

                      この草薙の剣には、後日談があります。
                      「 江戸時代の神官が神剣を盗み見たとの記録があるようで、それによれば長さは2尺8寸(およそ85
                     センチ)ほどで、刃先は菖蒲の葉に似ており、全体的に白っぽく、錆はなかったとある。神剣を見た神官
                     は祟りで亡くなったとの逸話も伝わっている。」とか。

                      「 昭和天皇の侍従長であった入江相政の著書によると、太平洋戦争当時に空襲を避けるために木
                     曾山中に疎開させようとするも、櫃が大きすぎて運ぶのに難儀したため、入江が長剣用と短剣用の2種
                     類の箱を用意し、昭和天皇の勅封を携えて熱田神宮に赴き唐櫃を開けたところ、明治時代の侍従長山
                     岡鉄舟の侍従封があり、それを解いたところで明治天皇の勅封があったという。実物は検分していない
                     が、短剣用の櫃に納めたという。」と記述されているとか。
                      この二つの事柄は、ウイキペデイア 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、あまのむらくものつるぎ)に
                     記載されておりました。
                         ( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%A2%E9%9B%B2%E5%89%A3 参照 )

                     余談になりますが、本来神社は、今のような建物があったのではなく、ご神体は、大巌(おおいわ)であ
                    ったり、山そのものがご神体であったのがはじまりであったのでしょう。建物が建つのは、新しい神社形式
                    でありますし、御神体に、剣が祀られるのも、同様であった筈であります。