古代に於ける 尾張北部地域の窯業地帯についての覚書

            1.はじめに
               私が、居住している桃花台は、かって古代の窯業の中心地の一つで あったようです。

              居住しているすぐ近くにも穴窯があったようで、須恵器、し器(灰釉を使用した土器)、瓦、硯等を作っていた
                             ようであります。

               弥生時代の土器は、野焼き形式で焼き上げた赤褐色の素焼きの土器で、土師器といわれていたようであり、
                              奈良・平安・鎌倉時代にも使用されていたという。

               5世紀中ごろ朝鮮半島より伝わった須恵器が、5世紀後半から尾張(現 名古屋市東部の東山丘陵地帯)で
                              生産され始めたと言う。
               山の斜面、丘陵の斜面等を利用して穴窯を作り、轆轤を使い、作り上げた雑器を、1000度近い温度で焼き
                             上げる土器であったようです。

                               2005年版 岩波書店より出された「列島の古代史4 人と物の移動」内 須恵器の生産者ー5世紀から8世
             紀の社会と須恵器工人ー 菱田哲郎氏の論述は、現在の研究成果のまとめ的な論述かと。
              それによれば、「尾張地域の須恵器生産が陶邑(畿内)からの系譜なのか、朝鮮半島からの直接的な伝播な
             のかは議論の分かれるところであり、その決め手を欠くのが現状であろう。」(須恵器の生産者 P.209参照)と。
             「いずれにせよ、尾張地域に根付いた技術がそのまま維持され、やや独自色を持った展開過程を辿ったことは確
             かであり、いわば、尾張型須恵器と呼称すべき製品が誕生していると評価できよう。」と述べてみえるようでありま
             す。

            2.尾張地域での須恵器以後
            ア、初期のし器の生産(東山古窯址群ー>猿投山西南古窯址群へ)
               奈良時代中ごろには、猿投窯に於いて、わが国で、初めて灰釉陶器の生産が始まったとされる。(8世紀中
                               ごろ)
               奈良時代後半から平安時代前半にかけて急激に発展し、10世紀以後は、日本の窯業の中心地となった。

               こうした土器は、貴族や寺社、地方の豪族の間で好んで使用されたという。

             イ、もう一方の窯業生産地の形成(東山古窯址群ー>尾北古窯址群へ)
               春日井市下原地区に見られる古墳時代の古窯址群であり、この下原古窯址群は、古墳時代末期頃の操業カ。小牧
              市篠岡地区で発展し、尾北古窯址群を形成した初発は、7世紀後半からであり、下原古窯と尾北古窯の操業間には、
              凡そ100年間は隔たりがありそうですが、その中で、篠岡地区が、最も窯が、密集していたようであります。

              延喜式(えんぎしき)とは、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)であり、完成は、延長5(927)
                             年で、施行は、967年(康保4年)であったという。
              その中には、尾張国は、正税として年料雑器を貢納していたと記述され、9世紀半ばには、源高明著「西宮記」
                              には、「尾張青瓦(せいし)」の言葉があり、また、延喜神祇式践祚大嘗祭の時、納める雑器(ゆかものと読み、
                              祭事などに用いられる供え物を入れる甕の類)を製作するのに、8月上旬宮内省の史生(下級官人)が、尾張、
                             三河に一人ずつ派遣され、貢納する雑物(ゆかもの)製作作業を監督したという。

                               尾張には、山田郡に国衙工房か郡衙工房があった可能性が大きい。とすれば、尾張国衙が、現稲沢市域にあ
                             ったようで、現篠岡地区は、国衙に最も近い窯業生産地であり、ここに国衙工房があったとも推察されると小牧市
                             史 P.78には記述されているようです。しかし、そこで造られた官物は少量であり、主は在地の需要に対応する生
             産ではなかろうか。

                               その後の研究成果(篠岡112号窯 発掘調査報告書 小牧市教育委員会 P.51〜53)により、{第1の瓦類
                             の生産についてみると、瓦類を併焼した須恵器窯には、篠岡2号窯(現 小牧市大字上末)、66A号窯(現 小牧
                             市大字大草)、74号窯(現 小牧市大字大草)、78号窯(現 小牧市大字大草)がある。尾張における瓦陶兼業
             窯は、この篠岡窯4基のみである。

                              また、陶管の生産は、篠岡窯では、篠岡2号窯の他にも、最近、篠岡56号窯(現 小牧市大字池之内)、111
             号窯(現 小牧市大字大草)で、陶管の存在が明らかになったが、尾張の須恵器窯では、他には猿投窯の岩崎
             77号窯で認められるのみである。(中略)このうち、供給地が判明しているものとしては、篠岡2号窯(現 小牧市
             大字上末、発掘調査後滅失)で焼成された軒丸瓦が、現 稲沢市東畑廃寺に供給されていることが明らかになっ
             ている。

              瓦や陶管などは、寺院に供給されたと考えられるが、篠岡窯自体が、尾張に古代寺院が相次いで創建された岩
                             崎17号窯式の時期(7世紀末)に操業を開始し、古代寺院の建立が一段落する8世紀半ばの岩崎25号窯式以降
                             は衰退する点で、機を一にしており、斉藤孝正著「尾張における飛鳥時代須恵器生産の一様相ー篠岡2号窯出土
                             資料を中心にしてー」(名古屋大学文学部研究論集107、史学36 名古屋大学 1990))によれば、「尾北窯に
             おいては尾張北部の古代寺院の造営を一つの契機として、・・・瓦陶兼業窯として須恵器生産が再開された」と推論
             されている。

              第2に、硯類の生産をみてみよう。飛鳥時代・奈良時代の篠岡窯の須恵器窯で硯を焼成した窯には、篠岡2号窯
             (既述)、56号窯(現 小牧市大字池之内、発掘調査後滅失)、66A号窯(現 小牧市大字大草、発掘調査後滅失)、
             78号窯(小牧市大字大草、発掘調査後滅失)、81号窯(小牧市大字大草、発掘調査後滅失)、112号窯(20号窯の
             可能性が高いとも推察されるとか。とすれば、現 小牧市大字野口となりますが、この古窯は、我が家のすぐ北にあ
             る外周道路の北側部分の自然林の中に存在していたようで、最初は、農業公園化する予定であったとか。しかし、
             窯跡は、半ば、外周道路にかかり、重機にて、破壊されたようで、発掘調査後は、滅失したとも言われております。)
             がある。6基の窯から、硯が出土しており、オーソドックスな円面硯だけでなく、蹄脚式円面硯、獣足式円面硯と多彩
             な内容である。特に、蹄脚式円面硯は、官衙などに多く出土するものとされており、(中略)また、獣足式円面硯は、
             新羅等でみられるが、当地方では、篠岡窯だけに認められる。このような特殊品の生産は、官衙との強い結びつき
             を前提に考えないと理解しにくい点も、斉藤孝正氏、城ヶ谷和弘氏の指摘のとおりである。(中略)
                         
              このように、篠岡窯では、瓦陶兼業窯の存在など尾張北部における寺院の造営との関連、国境を越えた製品の供
             給、官衙等で使用される硯などの特殊品の生産など、猿投窯に比して中央との結びつきが強いことはあきらかである
             が、それら特殊品の生産量はごくわずかあることも事実である。主体を占める杯類は、(中略)むしろ法量分化の少な
             い在地的な生産のあり方をしめしている。
                        
              (中略)むしろ、城ヶ谷和弘著「七、八世紀における須恵器生産の展開に関する一考察 −法量の問題を中心としてー」
             (考古学雑誌70−2)で、「須恵器生産は、基本的には在地向けの生産を基盤として、・・・これに特殊な用途をもつ生
             産が加わるという二重構造的な生産が行われていた」とする見解であった。}と以上のようにまとめられておりました。

                                最近の研究では、「尾北窯は、官衙工房という視点ではなく、需要に対する猿投窯工人が、その対応において当地
              に移住して窯を作り、生産をした」という論が提出されています。( 大塚友恵氏 東海地域における律令期の須恵器
              生産と流通 参照 )
               
               とすれば、こうした猿投窯よりの移住工人を保護した者は、誰であったのか。この尾北窯は、7世紀後半から8世紀
              中頃には、古代寺院創建が衰微していく事と軌を一にするようで、こうした瓦陶兼業窯で製作していた尾張北部の在
              来の工人達はどのようになっていったのであろうか、自然淘汰されてしまったのであろうか。その後、猿投窯工人が
              流入し、生産を再開したと考えればよいのであろうか。

               尾北古窯祉群が最盛期を迎えたのは、8世紀〜10世紀にかけてであり、発生は、6世紀まで遡る事ができるとも記
              述されております。しかし、11世紀末からは、原料 陶土と燃料の不足により、大物の焼き物、次に小物の焼き物生産
              は、渥美半島や知多半島へ移り、篠岡窯の使命は終焉したと言えます。( 小牧市史 参照 )

               不思議に思うのは、尾張尾北地域の古窯史の記述からは、工人の居住区についての記述が見られない。工人は、
              一体どこに住み、どのようにして窯焼き生産に従事していたのであろうか。

                                  < 参考 > 
             大山川 上・源流域に於ける古墳の位置を示す地図 ( http://book.geocities.jp/ysk1988tnk/ooyama/4matome1.html 内にあり
                     ます地図を転写させて頂きました。)
                                                                                                                            
               
              *  尾張に於ける瓦陶兼業窯は、この篠岡窯4基(上末1ヶ所・大草3ヶ所)のみである。尾北(篠岡)窯は、7世紀末
              に操業を開始し、古代寺院の建立が一段落する8世紀半ばには、衰微しているとか。

                                  春日井市史 P.75には、この尾張東部地域での古窯址について、「下原地域は、5世紀末の古墳時代に属する
                               窯と平安時代のもの。高蔵寺地区は、奈良時代と鎌倉時代。篠岡・桃山地区は、古墳時代末から鎌倉時代初めま
                              で。」と記述され、おそらく、燃料となる木が、枯渇した為、操業を停止し、時期をおいて戻って操業していたのであろ
                              うか。原料の陶土が枯渇した場合は、戻る事もままならない筈でありましょうから。こうした猿投系の須恵器工人は、
                              一定期間は留まり、この近辺の陶土の存在する地域で、操業し、燃料が枯渇すれば、順次移動して操業を繰り返し
                             ていたようにも思えます。

               大草で創業された3ヶ所の古窯は、下原古窯に近く、下原工人の系譜であろうと推測できそうですが、上末地区
              で、最初の瓦陶兼業(篠岡2号窯)として操業したようです。この末地区は、平安末期 伊勢神宮領 末御厨として
              立荘された点、美濃国(現 多治見市)の池田御厨では、平安末期以降の古い窯跡が発見されていることからここ
              の工人の移動は考えられないのであろうか。

               多治見市史には、次のように記述がしてありました。「多治見に於ける奈良時代から平安時代の窯跡は、生田地区
              を除いて、土岐川以北の丘陵地帯であり、池田御厨、帷加納(かたびらかのうと読み、どちらも伊勢神宮の神領であ
              ります。)のなかに分布していることであり、この窯は、伊勢神宮と深い繋がりがある事を示しています。

               また、こうした窯は、丘陵の麓にあって、谷に面し、付近には、工人の居住跡が見当たらない。
              したがって、これら工人の生活の本拠は、半農半工というより農業を主体とした小河川流域に存在していたのではと
              考えられるという。

               窯跡は、大別すると、高社山丘陵地一帯か長瀬山丘陵地一帯に分布しているといえましょうか。
               古代美濃窯に於ける陶器生産の中心地であり、工人達の集落が、窯付近の平坦地に存在し、また麓のどこかには、
              生産された陶器の荷つくりや運搬をした人たちの集落も存在したと考えられるという。」( 多治見市史 通史 上 P.
              182〜183 参照 )という記述は、尾張尾北地域の工人の生活を類推する一助にはなりましょうか。

               上記記述のお隣の美濃国には、11世紀中ごろに、猿投窯古窯工人が、伊勢神宮の保護を受けて招かれ、池田御
              厨(現 多治見市 土岐川川北地域)内の高社山丘陵地一帯において、白し窯を築き、生産を始めたことは、知られ
              ております。 (多治見市史  通史 上 参照)  篠岡窯の終焉と相前後して開始されていることは、何を物語っている
              のでありましょうか

                                 飛鳥・奈良時代の尾北古窯址の硯の内 「獣足式円面硯は、新羅等でみられるが、当地方では、篠岡窯だけに認
              められる。」という記述に注目したい。こうした硯や瓦と須恵器併用窯は、この地域で最初に須恵器が焼かれた下原
              窯に近い大草一帯で焼かれているという事実。新羅でしか見られない硯の存在。こうした製品を作り出した工人は、
              果たして日本人なのであろうか。寧ろ、渡来工人の存在があったと推測できえるのではないかと思う。

               また、この辺りには、須恵器窯を造りし工人とほぼ同時期に古代たたら製鉄跡地も近くに存在していた事も知られ
              る。このたたら工人も、朝鮮経由の新羅工人の可能性が高いのではと推測いたします。そして、こうした工人は、白
              山神を崇拝していたのではとも指摘される方々も存在するやに聞き及んでおります。
              ( 詳しくは、拙稿 桃花台周辺に存在した 古代のたたら製鉄跡について の覚書 及び
                               白山信仰と7・8世紀須恵器古窯跡地域との関連についての覚書 を参照されたい。)


               この拙稿を書き上げた後、中世の風景を読む 3 網野善彦・石井進編 ( 土に生きる「職人」ー東海の山茶碗
              生産者についてー 藤澤良祐氏の論考)に出会えた。

               この論考には、興味を引く事柄が随所に出てくる。
               そのまず一、一つの穴窯での一回の焼成量のデータが記載されていた事
               13世紀前葉 山茶碗を主に焼成した知多郡美浜町の小原池1号窯(全長 7.5m 最大幅 3.2m 床面積
              18.4平方メートルの焼成室)傾斜の強い焼成室内に山茶碗を水平に保つ為の焼台が、整然と並んで検出された
              ようです。焼台は、544個であったとか。通常 重ね焼きされる山茶碗は、溶着資料から平均14〜15枚であると
              推量できるとか。

               とすれば、14枚×544=7616枚と予想される。(小原池団地遺跡調査団『小原池古窯址群』 1979年 参照)
           
               或いは、13世紀中葉の瀬戸市 下半田川C1号窯(全長 5.1m 最大幅 2.5m 床面積 10平方メートルの
              焼成室窯)には、焼台 415個が想定され、この窯では、山茶碗 8〜15枚が重ねられ、その上に小皿数枚を置き
              更に窯道具としてに蓋が被せられたものが確認されており、平均12枚とすれば、12×415=4980枚となり、約
              5000枚の山茶碗が、焼成されていたことになりましょうと。

               その2、結論のみ記述しますが、一つの穴窯の使用回数は、10回程度とも記述されており、耐用年数は、さほど
              長くなかったとも記されておりました。

               その3、穴窯での製品の歩留まり(損耗率)が記され、製品化率は、一回の焼成で、70%、30%分が廃棄処分
              であったとか。あくまで参考データとして記載されております。

               その4、廃棄された工房跡からは、轆轤ピット(轆轤軸を固定する為に造られた粘土で造られた遺構)は、山茶碗
              や石で被せられて検出されるようであり、これは、宗教儀礼的とみる見方と次に使用するまでの保護を目的とする
              見方があるという。こうした轆轤軸は、使用されたのは一挺であり、成形に携わった生産者は、極小人数であり、経
              営規模は、さほど大きくはないと推測されると。

               その5、一回の焼成にかかる労働量の推測
                小原池1号窯の7616枚の山茶碗量は、一個の山茶碗の重量を約300gであることから、成形に要した粘土
               量を3トン近くと想定し、製土から窯出し、選別までの労働量を、製土8、成形40、乾燥4、窯詰8、焼成40、窯
               出し・選別12とし、計112人と推定し、一回の焼成に必要な薪 赤松材で2トンと仮定し、更に築窯に要する労
               働量を40人。とすれば、この窯で約7000枚の山茶碗作成に要する総労働量は、延べ272人位でしょうか。

                この作業を極小人数で行っていたと推測されますので、仮に4人ががりで働いたとすれば、2〜3ヶ月を要する
               大事業であったと指摘されていた。

                それでは、一年間に、何回窯焚きをしたであろうか。ここには、1回の焼成が、4人がかりで最低3ヶ月を要する
               と仮定すれば、農閑副業ならば、年1回が限度であろうし、専業であったとしても、せいぜい年2回程度であろうと
               記述されていた。

                特に、東海地方の中世陶器生産は、薪を切り尽したら廃窯し別の場所で開窯するという、経営基盤の不安定
               性=移動性を有していることから、半農半工か否かの立証には、窯跡の分布と群構成を明らかにし、生産者の
               移動範囲を確認する必要があろうと記述されていました事を付記しておきます。
                
 
                       参考文献
                         ・ 小牧市史
                         ・ 尾張の歴史 展示解説U 古代 名古屋市博物館発行
                         ・ 尾張の歴史 展示開設T 旧石器〜古墳  名古屋市博物館発行
                         ・ 日本史辞典 角川書店
                         ・ 桃花台ニュータウン遺跡調査報告Y 小牧市古窯址群  愛知県建築部
                                                              小牧市教育委員会
                         ・ 愛知県小牧市大字野口地内 篠岡112号窯 発掘調査報告書  小牧市教育委員会
                         ・ 東海地域における律令期の須恵器生産と流通  大塚友恵  名古屋大学大学院研究科
                                                                 教育研究推進室年報 Vol.
                         ・ 多治見市史 通史 上 
                         ・ 中世の風景を読む3 境界とひ(いなかカ)に生きる人々 網野善彦・石井進編 新人物往来社
                         
                                                           平成24(2012)年9月20日 脱稿
                                                           平成24(2012)年10月2日  加筆
                                               平成25 (2013)年5月1日    加筆
                                         平成25(2013)年10月28日  加筆
                                         平成28(2016)年10月25日  加筆
                                         平成28(2016)年11月6日  修正