小牧市に於ける 江戸時代から明治〜昭和期にいたる市(いち)についての覚書
1.はじめに
江戸時代、この現 小牧市は、尾張藩であった。お隣現 多治見市 池田町屋は、美濃国
でありましたが、尾張藩の支配下であり、藩士の祭地でもありました。
さて、「池田町屋は、寛文2年(1662) に東海道と中山道を結ぶ下街道の宿駅に定められ
た。」(岐阜県史 通史編 近世下)ようで、また、「寛文2年には、 町屋は、宿屋、雑貨商が立
ち並び近郷近在村落の購買の中心であった。」 ( 多治見風土記 加納陽治著 )という。
「寛文2年当時、池田町屋は、尾張藩士 酒井平九郎の支配地であったが、寛文4年(1664)
平九郎に子なきため断絶 尾張藩の蔵入地となり、水野代官所の支配下に入ったが、山は、幕
領であり、山年貢を笠松代官所へ上納したという。」(池田町屋 郷土史 P,153)
「今一つこの宿場を繁栄させたものに 「「 六齊市(ろくさいいちと読み、月に6回程開く定期市)
1.6.11.16.21.26日開催でありましょうか。いわゆる1と6の付く日開催市 」」がある。江戸
時代初期から開かれ、生活の糧、情報交換の場としての役割を果たしていたが、この後廃止にお
いこまれた。しかし、地元は勿論、他領からの要望も強く、寛文13年(1673)から許可され再開の
運びとなったという。」(前掲書 池田町屋 郷土史 P156 参照)
「市では、薪、炭、池田名産の栗、美味の土岐川の鮎などの物資と生活必需品の塩、野菜と交換す
るなど交易場となり同時に12月中旬〜二十日間開くことを認められた馬市とともに栄え、この地方
で最も栄えた宿場でもあったという。」( 前掲書 P,156 または、岐阜県史 通史編 近世下 二
つの書籍の記述の出典は、徳川林政史研究所所蔵 <寛文延宝万覚書>が基になっているのであ
りましょうか。・・・筆者注 )多治見市の池田町屋の市(いち)が、いつまで続いたのかは不明でありま
すが、寛文期に一時中断があったのは、おそらく尾張藩による小牧宿の援助救済策という政策の流
れの中での池田での市(いち)の停止であったかも知れません。
この市(いち)が、池田町屋のどの場所で行われていたのかは、よく分かってはいないし、いつまで
続いたのかさえよく分かっていないのである。ただ、交通の妨げにもなるだろうから、下街道沿いでは
なかったであろう。そして、現代風に言えば、露天商的な市場であったと推測する。また、そこそこの平
坦地で市(いち)は開催されたのであろうから、おそらく、お寺の境内、乃至は池田のお稲荷さん{今は、
山の上にお稲荷さんはあるが、中央線が開通する前までは、池田町屋内の大門(土岐川沿い)にお稲
荷さんはあったのである。}辺りではないかと推察するのでありますがどうだろうか。
こうした経緯もあり、この小牧市の市(いち)を調べる事により、懸案の多治見市の市(いち)の類推
もできるのではないかと考えるのであります。
2.小牧に於ける 江戸期の市(いち)について
小牧神明社内にある「市神」の碑裏には、小牧の市に関する碑文が残されているという。この碑を建
てたのは、横井治兵衛である。
「寛文7(1667)年、尾張藩主により、馬市を開く事が許され、資金200両が貸し与えられた。人々は、
これを喜び、村劇を演じたり、相撲を行ったり、華やかなことが行われた。(中略)毎月1.6の日は、いろ
いろな商品を集めてこれを売った。しかし、町としては、まだ完全ではなく、そのため、取締役を設けて、整
備していった。これによって、商業は大いに栄えた。取締役を町民は、長元(ちょうもと)と呼んでいた。文
政2(1819)年、最初の長元は、虫老原茂平であった。その後田中金三、その子甚九郎、少し経って舟橋
岩蔵に譲られ、更に、和田正治郎に譲られ、そして、横井治兵衛が受け継いだ。その治兵衛の代で、この
市は、300年になるが、益々市は、盛んになっていった。」治兵衛は、この市の由来等が、後世に伝えられ
ない事を心配して、この碑を建てたという。{この碑は、1967(昭和42)年頃建てられたのでしょうか。・・筆
者注}
この碑文からすると、小牧の市(いち)の最初は、馬市が始まりのようであったのでしょう。お隣の美濃国
池田町屋でも、寛文13年(1673)頃、市が再開されたという。おそらくこの市も馬市が、市のはじまりであ
ったのかも知れません。しかし、お隣美濃国では、いつしか、市も開かれなくなっていったのか、尾張藩によ
り停止されたのか・・・・。良く分かっていないのが、実情ではあります。それに反して、小牧市は、紆余曲折
はありましたでしょうが、昭和の御代まで続き、昭和48(1973)年に、愛北青果共同市場(愛北市場)とし
て再編されたという。( 小牧の産業史話 平成6年 小牧市教育委員会 参照 )
小牧市史 通史 P.165 商品流通の項目にも小牧市の市(いち)についての記述があります。
「 記録の上ではっきりしているのは、寛文7(1667)年の駒市である。この頃になると、毎年3月16日から
4月16日にかけて馬の売買が行われ、同時に日市も許されたという。(寛文覚書)
これは二代藩主 徳川光友が、領内に駒市を立てる場所を探していたところ、御国奉行 山本平太夫、お目
付け 慮沢佐衛門、小川六太夫、山奉行 菅沼弥太夫らが寛文6年に御国巡見した際、小牧に白羽の矢を立
てた為である(尾州藩古義)ことによるようであった。小牧宿の駒市取立ては、小牧宿振興の助成策でもあった
のであろう。
駒市期間中は、茶屋女(一種の遊女)も許され、芝居などの興行もあった。しかし、武士の馬に対する需要が
減ったことや、小農民の自立化による農民の馬飼育や保持が激減したことなどから、駒市は元禄・宝永の頃(
1688〜1710)より次第に衰微し、正徳の頃(1711〜15)に、ついに中止されるに至ったという。
お隣 美濃の池田宿(下街道 内津峠を越えた最初の宿場)は、寛文4年までは、尾張藩士 酒井平九郎の
支配地であったようで、その酒井氏が、没家となって以降の寛文期に、池田の市(いち)は、尾張藩により停止
させられていった可能性が高い。この地は、尾張藩の直轄領となり、瀬戸の水野陣屋(水野代官所)の支配と
なったようであり、こうした市(いち)には、芝居小屋等の遊興施設も併せて開かれるのが慣例であり、どうして
も生活規律が乱れる基という認識が、藩にはあったようで、藩の許可がないと開設できなかったようでありまし
た。
話は、元の小牧宿に戻りますが、この小牧では、馬の取引が中止された後も名前は、駒市として市が立てら
れ、諸商売も許され、また芝居興行も行われたようであります。
諸事願書滞控 岸田宗喜蔵 「奉願上候御事 宝暦3年 小牧村庄屋 江崎善左衛門以下村役一同」代官
浅井茂左衛門宛 文書から知る事が出来るという。
「尾張じゅん行記」にも、市日には、近在の村々から農民が、農具、薪、芝等を持ち寄って、農民は、農間稼
ぎとして現金収入を得ていたように記されていた。
3.明治期の小牧に於ける 市(いち)について
この市は、明治期になっても衰えることなく、近郷近在の農家からの農産物、工芸品をはじめ、瀬戸、一宮か
ら陶磁器、衣類などの商品を中心とした露店が街路の両側に立ち並ぶ活況を呈していた。ことに明治末には、
陶磁器、篭類、桶類、呉服、雑貨、鳥等を扱う市(いち)と、野菜、果実、芋類専門に扱う「青物市」、明治中頃か
ら加わった「鶏市」の三つの市が開設されていたようであります。
こうした市の開設場所は、「青果市」の場合、当初は各所に散在していたが、明治30年頃横町の戒蔵院付近
に統合され、さらに市場法によって他の二市場とともに明治43年に改めて開設が許され、小牧町を管理者とし
て、明治45年に中町に移転されたようであります。小牧青果市場が、中町に開設されたが、この創設者は、横
町の石黒金秋二郎、屋号は紙本、中町の津田信次、屋号は平久らであった。こうした店が、戒蔵院付近であっ
たことから明治30年に統合された市場は、この店付近であったと思われますが、「小牧青果史60年の歩み」で
は、この市場は、戒蔵院境内であったとも記されているようです。明治45年に開設された青果市場は、現在の
小牧市農協本店付近で、西林寺の南側であったという。
このように明治期の小牧は、「市(いち)」を仲立ちにして近隣の村々の商品流通の中心地として役割を果たし
ていた(小牧市史 通史 P.517〜518 参照 )ようでありますが、その後は、盆・正月にのみ、かっての賑
わいを呈したという。
4.戦前(昭和初期)の小牧の市について
小牧市では、明治期以降常設店舗も増え、「市」の重要性も低下し、市は、盆・正月にかっての賑わいを呈す
るようになっていく。昭和に入っても、市(いち)はなお開かれ、盆・正月には賑わいを見せていた。周辺農村か
らは野菜、一宮方面よりは衣類、尾西地方よりは魚類というように商品が持ち寄られ、市日には、遠方からも
買い物に来る人も多かった。しかし、統制の強化とともに市(いち)は下火になり、昭和14年には、消滅し、終
戦まで開かれる事はなかったという。(小牧市史 参照)
5.戦後の小牧に於ける 市について
小牧市の市(いち)は、戦後長元となった田辺正一さんが中心となって、復活した。範囲は、横町にあるカドヒ
ョウ洋品店角から始まり、南に向かって秋田印刷付近の屋根神秋葉様まで続いた。その後、市(いち)は、昭和
40年代後半まで続いたが、露店販売は、道路許可の問題等により自然消滅していったという。
当時は、花、野菜、竹製品、衣服、布等が売られていた。露天商の場所は、長元のもとで、抽選によって決め
られていたという。この戦後の情報は、小牧の産業史話 P.88 の田中末子さん(当時76歳)、酒井英雄さん
(当時62歳)からの聞き取りにより知られることであります。
更に詳しく記述すれば、戦争により統制が強化され、市は開催される事がなかったようですが、戦後は、通称
「人参とごんぼの市(いち)」と呼ばれた市が立ち、範囲は、上之町の紙本書店前辺りから横町のカドヒョウ洋品
店を西に折れ、戒蔵院まで進み、これを更に南下し、今の小牧センター辺りまでの道端での露店として続いたよ
うで、この市は、旧暦の年末に開かれたものであり、特に、人参やごぼうがよく売られていたことからこの名前が
ついたという。
しかし、旧暦の年末時期しか市が開かれなかったということから、明治の末期に青物市が独立していったこと
により、この市(いち)も衰退していったのではないかと推察されます。が、露店販売は、道路許可の問題等によ
り自然消滅していったのでしょう。
青果市場は、明治45年開設された西林寺前の場所が、大正から昭和の初めにかけて、青果市場の中心で
あったという。第二次世界大戦中は、配給制が行われた為、尾張青果株式会社に統合され、同社小牧支所と
なっていた。昭和28(1953)年同社から分離して、小牧中央市場株式会社として西林寺前に設立されたよう
であります。
この間に、別の青果市場が、中町旧十六銀行南につくられ、後に西町の商工会館北四つ角北西に移転され
たようであります。
昭和41(1966)年1月、小牧青果市場は、現 保健センター付近に移転し、別の青果市場も参加したという。
昭和46(1971)年12月、小牧青果市場、江南青果卸売市場、岩倉青果市場の三つが統合し、愛北青果協
業組合となり、小牧市大字河内屋新田字上岩倉木入603番地に広大な市場として開設されていったという。
参考文献
・ 小牧市史
・ 小牧産業史話 小牧叢書14 平成6年 小牧市教育委員会
・ 岐阜県史 通史編 近世下
・ 多治見風土記 加納陽治著
・ 池田町屋 郷土史 財団法人 池田町屋公民館(多治見市)
・ 小牧の産業史話(2) 小牧叢書15 平成8年 小牧市教育委員会