小牧の養蚕について 
            1.はじめに
              これから記述します養蚕については、殆どを小牧叢書15 「 小牧の産業史話 2」 小牧市教育委員会
             により、まとめたものであります。詳しい事は、上記冊子を読まれて下さい。              

            2.江戸末期に於ける小牧の養蚕
               江戸時代も末期、尾張藩は、藩財政確立の為に養蚕業を奨励した。この方針に沿って、小牧代官所、
              小牧陣屋が、農民に桑の栽培をするよう奨励したのが小牧の桑苗養蚕の始まりであったのでしょう。こ
              の当時では、小牧は、綿花の栽培が、主流ではあった筈。もともと細々と野菜を与えて飼育する養蚕は
              行われていたという。

               江戸末期には、開国後は、外貨を稼ぐ事の出来る商品は、生糸であり、高値で売買されるようになっ
              ていったようであり、作れば売れる、そうした経済状況の上での養蚕業の奨励でもあったのでしょう。

            3.明治期の小牧の養蚕
               桑の栽培は、明治初期から徐々に多くなっていったようであり、明治20年代になって、作付け面積に桑
              畑が増加してきた事が、はっきりしてきたようであります。この明治20年までは、綿・たばこ葉・菜種・甘蔗
                               (さとうきび)栽培が主流であった。この当時、愛知県は、大阪に次いで、木綿県と言われていたくらいでし
              た。綿の栽培は、明治20年以降輸入綿花の導入があり小牧の綿栽培は、衰微し、そして、明治25年以
              降養蚕が、徐々に主流になっていったようであります。また一時葉タバコ栽培も盛況になっていたのですが、
              専売法により、作付け面積の制限、栽培許可制となり、養蚕に切り替えられていったようで、大正末期には、
              全て桑畑に切り代わっていったという。菜種も輸入油が、入荷し、価格も低下した為衰微したと言う。こうし
              た諸々の輸入事情により養蚕は、大正期以降は、繭価格の不安定さはあっても拡充していったようであり
              ます。

               この明治20年代は、春蚕と夏蚕であり、自然の気温を利用した養蚕であり、30年代になって、やっと、
              秋蚕に手を染めていったばかりという状況であったという。

               日清・日露戦争以降、生糸の需要に支えられて大幅に繭の生産は、増加したという。明治31(1894)
              年、愛知県の生糸生産は、全国8位。明治39(1906)年には、全国4位と飛躍的に発展している。
               当然、小牧の農家も、この時期から桑の作付面積と繭の生産は、急激に増加し、養蚕が盛んに行われ
              るようになったという。水田にも桑の木が植えられるようにもなったという。

                                明治中期になると20〜50人位の女工さんを集めた製糸工場があらわれたという。

               * 農業の合間に行われる養蚕
                 5月頃
                  農家は、田植えの仕事で忙しい時期ではあります。作業は、手作業であり、水田の畔の点検修理、
                 苗田の水管理、後半には、水田への水入れ水路の点検等、分担作業が、あった筈。その合間に、ふ
                 化したばかりの稚蚕(ちさん)を蚕座に移し、毎日、蚕に桑の葉を与えるのに大忙しとなる。
                  当然、桑畑からの蚕葉の収穫の作業もあった筈でありましょう。蚕の卵は、種紙に植えつけられてい
                 たようで、大正7年頃には、既にあったようであり、間々原新田には、清栄館という蚕種専門会社があ
                 り、本庄、下末(神盛館 館主 神戸 眞 元小牧市長)にも蚕種屋があったという。養蚕が盛んになっ
                 た頃は、そうした所で蚕種を購入したようであったという。

                  蚕用の桑の葉は、一日2回朝と夕方に摘み、蚕には、一日4回(午前5時頃、午前10時頃、午後3
                 時頃、午後8時頃)桑の葉が与えられた。4、5令の蚕は、よく葉を食べるので、足りなくなる農家もあり
                 その為の桑問屋が、各村に一軒はあったようです。常設問屋ではなく、多忙期の時期だけの問屋であ
                 ったという。

                  毎日が、大忙しの日々であり、休む間も無いほどの忙しさの中で、一日一日を送っていたのであった。
                 
                 6月頃
                  6月の初め頃になり、蚕室の蚕が、大きな繭を作る。丹精込めた繭の出荷が済むと、途端に家の中が
                 広く感じるようになったという。繭の出荷後、現金収入があり、どの農家も潤ったようでありました。

                  春蚕が終わると、田植えが待っている。田起こし、田ならし、苗田からの苗抜きと同時進行で行なわなけ                       
                 ればならず、その後は、一家総出の田植えが待っていた。

                 7月〜8月頃
                  7月中旬頃には、夏蚕の作業に入る。夏の暑い最中の桑の葉摘み、その葉を朝から夜半まで与えなけれ
                 ばならず、暑い故に、蚕の出来不出来が起こりやすく、不作となる事もあったという。蚕は、「お蚕さま」とか
                 「お蚕さん」と呼ばれ、この時期の蚕様は、家の中で一番涼しい所で飼われており、人間様以上の扱いを受
                 けていたという。だから、大抵の農家では、人間は、土間とか、空いた所で寝ていたという。この夏蚕は、お
                 盆の直前には出荷するという。また、成長した蚕が、桑の葉を食べるとまるで雨が降っているような音がし
                 たと、年配の方々は異口同音に言われます。

                 9月
                  盆が過ぎ、田の草取りをしている内に、9月の声を聞く。この頃になって、初秋蚕の作業が、始まるという。
                  夏蚕に下葉を摘んだ桑の幹の上部に葉が付き始め、この葉を摘み取り、蚕に与える。成長するにつれ気
                 温も下がり、一番蚕にとって過ごし易い季節ではありますが、蚕特有の病気の発生が起こりやすくなるのも、
                 この時期であり、白いミイラのようになって死んでいく事が起こり易い。大量に死んだ時は、大川に流すか、
                 埋めるしかなかったという。この蚕の出荷は、秋祭りの前には終わっていたという。
                  この繭代は、農家の冬支度や田んぼの肥料代に使われたという。

                  年三回の蚕の飼育、その合間の農作業と交互に繰り返され、農家は、ゆっくり休む事が出来ない一年で
                 あったという。その後は、農閑期になり、多少農家にとっては暇な時期になるという、そうした時期に晩秋蚕
                を飼う農家も出てきていたという。何と言っても、現金収入は有りがたい事ではありました。
            
            4.大正期の小牧の養蚕
               大正に入っても、農家の重要な収入源であり、価格が、不安定であっても、農家は桑の栽培と蚕の飼育量を増や
              していったという。大正7(1916)年には、愛知県は、長野県に次いで全国2位になっていた。
               繭代金も、安定しているとは言えず、繭価格は、製糸業家{良く知られた製糸工場には、山吉(現 料亭 翠泉の
              地)、だま製糸(現 天理教小牧大教会の地)があり、大部分の繭は、グンゼ(郡是)製糸(春日井)という大会社に
              引き取られていたという。}の一方的な値決めによって決まっていたといい、不況下では、養蚕農家がまともに被害
              を蒙ることもあったようだという。

                                 参考までに、大正末頃の篠岡村大字内の地域での耕地割合、産物等々の記録を添付しておきます。(内容は、
              昭和2年発行の篠岡村誌 p、72〜77の資料によります。)

               その当時の各大字の耕地(田、畑)の1戸当たりの広さは、以下のようであり、主は、米・麦の生産にあったという。
                   大字          田       畑        合計
                    大草       5、605反   2、700反   8、305反    *  どの大字も、耕地の平均は、似たり
                    大山       3、811     1、900    5、711      拠ったりでありましょう。
                    野口       3、911     2、623    6、524       やや上・下末の田の割合は、多いと
                    林         3、609     3、301    6、910      言えましょうか。
                    池之内      4、510           2、316    6、826       他の大字は、田と畑とは、半々か、田
                    上末       6、027     1、505    7、527      の半分を占め、やや畑地が多いように
                    下末       6、012     2、420    8、432      感じます。

               この結果、篠岡村では、畑地が多い事から、副業的な畑地作物栽培が行われていたようであります。
               「幕末頃は、甘蔗(さとうきび)栽培が盛んに行われたと言う。しかし、明治維新前後の木綿栽培に押され、甘蔗栽培
              は、暫時衰退したという。また、この木綿栽培は、明治27.28年頃から盛んに栽培されるようになった煙草栽培へと
              転化し、大正4年からは、畑地は桑畑へと変身し、養蚕が盛んになったという。その傍ら、養鶏も行われるようになって
              いったという。」( 篠岡村誌 昭和2年発行 P、74参照 )

               大正12年現在の養蚕農家戸数は、篠岡村全村で、春・夏・秋蚕平均で、約7百数十戸であった。その当時、篠岡村
              の総戸数は、1001戸であったようです。約7割強の戸数が、養蚕に携わっていたと言う事になりましょうか。

               また、同時期の養鶏戸数は、698戸であり、これも約7割弱であり、小規模自家用養鶏であったと思われます。
               更に、甘藷(さつまいも)も作られており、作付け総反別 249反であった。これは、篠岡村全畑地242反強であり、         
              辻褄が合わない。しかし、雑種地もあり、これが、130反強存在しますので、ここも使われていたと推察いたします。

               この当時でも、まだ池之内・林・野口の三ヶ所では、細々と甘蔗(さとうきび)の栽培が行われていたようです。その
              作付けは、75反であり、僅かな量であったという。

               この頃は、農業機械はなく、耕作及び運搬用に牛 11頭。運搬、肥料採取用に馬 24頭が飼われ、豚も肉用に
              29頭飼育されていたようであります。まったくの自己完結型の飼育でありました。それ故、この当時は、副業的臨時
              現金収入は、蚕の繭が最盛期であり、農家にとっては、死活問題でもありました。

               その為に、繭価格決定には、繭の品質をみる検定技術の必要性が出てきて、後の繭検定所と技術指導所を作る
              基になったようであります。

            5.昭和期の小牧の養蚕
               昭和11(1936)年に、農家の養蚕組合と生糸業者との取引契約を合理化する「産繭処理統制法」が公布され、同
              年、グンゼ(郡是)製糸は、その当時小牧町にグンゼ(郡是)製糸乾繭所を設立し、養蚕組合と特約取引契約を結ぶ
              事と相成りました。また、同年8月には、北外山入鹿新田(通称 米野)に県繭検定所小牧支所(後、現 小牧第1幼
              稚園として利用)が竣工し、業務が開始されたようです。多忙期には、そこに寝泊りして、業務をこなさないとできない
              という忙しさであったという。

               愛知県は、長野県に次ぐ、養蚕王国となっていきますが、それを支えたのは、養蚕王国長野県からの助っ人養蚕
              教師の力があった事を忘れてはいけないと思います。そうした方の中には、小牧に骨を埋めた方々もあり、いずれも                 
              長野県東筑摩郡出身者で、向町には、前田保房、東町に前田省吾、下町には、百瀬よう州がいたという。

               一方で同じ時期に西町(後の現 市立図書館)に愛日養蚕技術指導所(愛知県蚕業取締所小牧支所)が創設され
              ていったようでありますが、その後、養蚕業は、昭和6(1931)年の満州事変(柳条湖事件)以降、対米貿易にも影
              響し、生糸の輸出に影が出始めたという。昭和12年から始まった日中戦争と同16(1941)年の太平洋戦争突入は、
              海外市場の喪失、戦争統制経済、食料増産の強化、養蚕縮小政策の為、農村は決定的な打撃を受ける事となった
              という。さらに、化繊開発の初期の製品 人絹(人造絹糸)の登場、大量生産、低価格路線の工業製品により、駆逐
              されていったのでしょう。
               自然に頼る生産品は、やはり化学工業製品には、太刀打ちできなかったのでしょう。農家にとっても、過酷な長時
              間労働にもかかわらず、繭の値段は、その労働に比例せず、低下する一方であり、下火となっていったという。

               小牧では、桑畑にかわって、桃畑が、増えていく事となっていったようであります。桃の木への農薬が、桑の葉にか
              かり、蚕の生育に影響していった事も一因でありましたでしょう。蚕にとって農薬のついた葉は、害以外の何物でもな
              かった筈でありましょうから。

               現在は、全国的に養蚕の「よ」の字も聞かれないくらい、養蚕業は、下火となってしまったようであります。小牧の
              養蚕農家は、この後、桃の生産へと機軸を変更し現在に至っているようではあります。

                                全国的には、僅かではありますが、養蚕農家は現在でも存在し、平成7年には、そうした養蚕農家を対象とした意
             識調査がされておりました。それによると、現在は、日本製繭の1Kg当たりの価格は、1500円前後であるようです。
              これでは、養蚕だけでは収入が足りず、農外収入に頼らざるを得ないようです。せめて、10a当たりの収入が、18
             万〜20万円相当あれば、養蚕農家は、よしとされるのでしょうが・・・・。現実は、中国からの安い生糸に押され、価格
             は、低迷するばかりかと。しかし、絹製品は、お高いのが現状、どこへ、その差益は、吸収されているのでしょうか。
              上記の事は、H7年 養蚕に対する意識調査よりの抜粋であります。詳しくは、下記 PDFファイルにて参照下さい。
          ( http://www.library.maff.go.jp/GAZO/20002816/20002816_03.pdf#search='%E9%A4%8A%E8%9A%95%E7%B5%8C%E5%96%B6' )

            付記
               こうして小牧の養蚕の推移をみてくると、輸出入による諸事情により、諸々の生産は、影響を受け、衰微したり、
              興隆しているようであり、自然に頼る栽培は、人工生産物(工業生産物)には敵わないという負い目があるようです。

               農業、林業、水産業のような自然相手の産業は、今後は、工業生産品としての性格を強く持たせる産業へと構造
              改革を政治が主導して、自給率を向上させるか、国内的には、保護主義に徹して、自国の旧来の第1次産業を、徹
              底的に保護し、自給率を上げる方策を取るかの分かれ道に来ていると言えましょう。TPP問題は、そうした第1次か
              ら第3次産業までを包括的に開放しようとする政策であり、軸足をしっかり定めて突き進んでいく事が涵養かと・・。

               私が生まれた多治見市旧 脇之島も、大正期までは、養蚕農家が大勢いましたが、不況続きで、昭和11年には
              桑畑も、土岐川の川底に沈み、見る影もなくなったというように聞いております。繭の買い手もいれば、作られましょう
              が、売れなければ、廃業も時の移ろいでありましょう。

               また、私の母が、尋常高等小学校へ通っていた時、桑の実を学校帰りに食べた事。男の子は、行きに食べて、先生
              に口の中をチェックされていた事等聞いた事がありました。どこにでも、桑の木はあったようで、桑の実を食べる事が、
              できる環境であった事を知る事ができる逸話かと思いました。

               これは、筆者の独り言ではありますが、年を取ってくると、肌にやさしい下着がなにより。パンツ、シャツ、パジャマ等
              々。ここ数年使用しておりますが、なかなかよろしい物であります。が、実物を見て購入する事が難しい。絹織物専門
              店は、インターネット上の通販が主流。ここは一番、どこぞの安売り衣料店が、連携して先ずは、夏物として大々的に
              売り出さないかと期待をしています。年金生活者は、年寄りばかり、きっと売れると思いますが・・・。老人は、アナログ
              志向、現物をみないでは買いません。購買力がありながら、こうした潜在的な部分を掘り起こす努力を経営者は、何
              故しないのだろうと思います。

            参考文献
             ・ 小牧市史
             ・ 東春日井郡市
             ・ 小牧の産業史話 2  小牧叢書15 小牧市教育委員会
             ・ 小牧の米作・麦作と養蚕 小牧の文化財 第11集 小牧市教育委員会 昭和62年
             ・ つつじ <街づくり・ふるさと百話><小牧今昔物語> 小牧商工会議所発行 1994 第95号  
             ・ 篠岡村誌 昭和2年発行 篠岡村誌編纂部