小牧市一帯に於ける 弥生、それに続く古墳時代の遺跡等についての覚書
                                       − 小牧市史等から垣間見られる遺跡、遺物についてー

              1.はじめに
                 古代の小牧市一帯についての遺跡で、私が知っているのは、居住地域である大山古墳群くらい
                でありましょう。系統的な流れをは、一切関知しておりませんでした。

                 大山廃寺の事もあり、ここらで一通り古代の流れを概観し、覚書としてまとめてみようと考えまし
                た。

                               2.小牧市域の縄文遺跡
                ・ 織田井戸遺跡、総濠遺跡
                  所在地 小牧市小木地区( 古墳時代には、宇都宮古墳・甲屋敷古墳・浄音寺古墳が造られた地域
                                   であります。 この織田井戸遺跡からは、弥生後期と思われる遺物が出
                                   土しています。)
                  *  この地域は、古代には、巾下川の流域であり、五条川の支流であります。遺跡は、鳥居松層にあり、
                   位置的には、小牧山からやや南西寄りの地域にあたるようです。

              2.尾張地域の弥生時代の概観
                ア、弥生に関する早期の遺跡 ( 早期の弥生文化と晩期の縄文文化の接触地帯であったのでしょう。 )
                   ・ 西志賀貝塚  (名古屋市北区)          矢田川下流域カ
                   ・ 朝日貝塚   (西春日井郡清洲町)  五条川中流域
                   ・ 二反地遺跡  (   〃      )      〃
                   ・ 元屋敷遺跡  ( 一宮市 )               〃

                   ・ 松河戸遺跡  (春日井市)        庄内川下流域

                イ、弥生の中期
                   三河に生まれた水神平土器も遠賀川式土器も共存し、稲作農耕が、一般化した頃かと。
                   僅かに 同市 小木より石包丁が1点、出土しているだけであるという。( 織田井戸遺跡出土カ)
                   八田川支流カ(地蔵川流域)の勝川遺跡(現 春日井市勝川町)に弥生中期の集落が見つかって
                  いる。

                ウ、弥生の中期後半
                   畿内(近畿地方)の影響で、長床式土器が成立し、尾張から遠江(静岡県)まで、長床式土器
                  の文化圏に統一された。
                   同市 小木の北部 甲屋敷古墳の西方洪積世の段丘面に 長床式土器が少量出土している。
                   小牧市周辺では、春日井、犬山、岩倉、大口にかけて多くの遺跡が分布し、出土している。

                エ、弥生後期
                   長床式土器の文化圏は、その後 寄道式土器(別名 宮廷式土器とも呼ぶ。)文化圏と、欠山式
                  土器(無文の土器)文化圏の二つに分岐。( 明治39年に出来た篠岡小学校の校庭より この二種
                  類の土器は出土している。 大山川流域カ)

                   欠山式土器文化圏は、同市では、小木、船津、三ツ淵、横内、河内屋新田、入鹿出新田、北外山
                  の遺跡等であり、同土器が、出土している。(巾下川・境川流域カ)

                   更に、北外山より弥生時代の銅鐸が出土しているという。また、大縣神社のある二宮村からも銅鐸
                  が出土している。こうした銅鐸は、三河から12例、尾張より10例の存在が確認されております。
                   春日井市では、神領小学校近くの庄内川堤防から銅鐸は、出土したという。この地域は、庄内川中
                  流域ではあります。

              3、尾張地域に出現する古墳
                   現在では、下記のような見解が、妥当ではないかと思われます。
                << 木曽川左岸の前方後方墳の東之宮古墳(4世紀初頭か)と小牧市小木の前方後方墳、3世紀末〜 4世紀頃の
               宇都宮古墳が、尾張地域では、古い古墳と認定できましょうか。とすれば、伊勢湾より庄内川を遡上し、この当時は、
               五条川は、庄内川へ流入し、木曽川の一之枝川(青木川又は石枕川)とも繋がっていた。犬山市より南西域の扶桑、
               江南、一宮市千秋町辺りも、木曽川の派流が流れていた地域でありました。ここへも伊勢湾より河川を遡上し、定住
               した氏族がいた。五条川自然堤防上には、清洲の朝日遺跡があり、大規模な弥生前期遺跡であります。・・筆者注>>
                小牧の小木古墳群が存在する地域は、五条川へ合流する支流河川(巾下川)と、大山川中流域に挟まれた地域で
               あります。

                この記述の後で、小池 昭著「濃尾平野の歴史 二 古代の川と地名を探る」 を読むことができました。
                確かに、木曽川派流についての氏の見解は、私には納得でき無い部分もありますが、五条川系列と旧日光川(古
               川)系列が、濃尾平野では、その当時の主要河川であったという指摘は、新鮮な響きがありました。

                それ故、この二大河川の自然堤防上、後背湿地は、大いに活用されたといえましょう。水田やら住居跡、古墳等が
               存在したようです。只、旧 日光川(古川)流域は、奈良時代以降木曽川本流の流れが、一部変わり、水害等を引き
               起こし易くなった可能性が高いと思われます。

                また、この二大河川の上流域に前期古墳が多くあり、中流域には中期古墳が、上流域には、後期古墳が、多い
               とも記述されておりました。氏の木曽川派流域に書き込まれた遺跡、古墳等の図は、参考になりました。また、五
               条川へ流れ込む支流(巾下川・境川・矢戸川)についても、新たな発見があり、これもまた参考になります。
                  
                そして、大山川上流域の大山古墳群は、大山1号墳 大山2号墳(滅失)と続き、1号墳は、6世紀末〜7世紀初
               頭頃の古墳と推定されています。更に、大山3号墳は、7世紀後半であろうと推定されておりました。この大山古墳
               群は、大山川源流域部分の水田を見渡せる山裾に造営されておりました。大和王権に取り込まれた豪族の下に
               組み込まれていた小豪族等は、こうした後期古墳期に力を付けてきて、遅ればせながらと小古墳を築造していっ
               たのでしょうか。

                また、入鹿出新田 牛屋古墳は、6世紀頃の古墳。三ッ淵原新田 日塚古墳は、6世紀初頭の古墳とされていま
               す。この地域も、五条川へ合流する支流河川か、大山川中流域である筈。後期古墳に該当し、豪族の下にいた農
               民層の古墳でありましょうか。

                とすれば、弥生中期以降には、水田稲作農耕が行われた地域でありましょうし、在地の勢力が、成長し、豪族化
               しえたのかと。

               *  小牧市域は、西春日井郡、春日井市の一部とともに 春日部郡を構成したとも言われます。しかし、現 陶、下
                末、上末等を含む地域と春日井市の現 牛山辺りは、山田郡ではなかったかとも言われています。田県神社の
                ある辺りは、丹羽郡に含まれるのであり、小牧市域は、春日部郡、丹羽郡、山田郡が入り組んでいたと言えまし
                ょう。

                また、正倉院文書、三代実録によれば、 尾張宿弥 人足、尾張連 石弓、尾張宿弥 弟広等が、郡司として名
               前が出ており、尾張氏一族でありましょうか。
    
                尚 白山藪古墳ー>白山神社古墳ー>春日山古墳ー>二子山古墳・・・>断夫山古墳 系列( 味美付近を支
               配した小国家支配者の墳墓でありましょうか。・・・小牧市史 通史 参照 )
                < 小牧市史では、尾張氏について 畿内からきた氏族という説を取りつつ、在地支配から勢力を持ちえた氏族
                 かもという説を内在させているように読み取れました。>

                断夫山古墳は、熱田台地上に存在し、尾張氏の墓でありましょうが、北区から勝川にかけての二子山古墳は、尾
               張氏とは違う在地の豪族の墓であろうと新修 名古屋市史 通史では、述べられておりました。
                  
                更に 宇都宮古墳ー>浄音寺古墳ー>甲屋敷古墳は、小牧市 小木を中心とした小国家を形成した豪族の墓で
               あり、尾張氏一族の墓の可能性が大であろうと小牧市史では推察されています。( この小木地域の豪族は、尾張
               氏一族であったとは一概に言えないのではないかと。この一族は、五条川の支流 巾下川流域であり、五条川に合
               流する辺りに在住していたのでしょう。その後、移動をしたのか、何らかの規制がかかったのかは、分かりませんが、
               古墳が造られ無くなった事は確かであります。・・・ 筆者注 ) 

                こうしてみてくると、伊勢湾に流れ込む河川の上流域支流 例えば、五条川の支流(巾下川・境川・矢戸川)流域・
               大山川・内津川・八田川流域は、弥生時代中期以降には、早くも水田稲作農耕が行われ、在地において勢力を持
               ちえた農耕民が、いたのでしょう。そうした農耕民が力を付け、前期古墳を造営していったと推察する事ができまし
               ょうか。

                春日井市史では、春日氏・和爾氏は、早くから大和朝廷に取り込まれ、県主として在地に君臨したのでしょうか。
               丹羽氏も、大県神社を祀り、丹羽県主として丹羽郡一帯に君臨したかと。多治見市史には、この丹羽氏の一族が、
               隣の美濃国現 多治見市域の土岐川以北 高社山近辺にも進出し、この辺りを開発していったようで、大県神社を
               分祀し、帳内社 正二位大県明神を 多治見市西山町高社山に鎮座させた。平安期以後この明神は完全に衰退し、
               江戸時代の前頃 根本領主が、高社神社として再興させ、祀ったという記述があります。

                尾張氏については、拙稿 尾張連氏と熱田さん(現 熱田神宮)の歴史的変遷についての考察 を参照されたい。

                参考文献
                 ・ 小牧の文化財 第八集 昭和58年刊 小牧市教育委員会
                 ・ 小牧市史 本文編 昭和52年発刊 昭和60年 復刻版
                 ・ 春日井市史 通史 昭和48年 復刻版
                 ・ 多治見市史 通史編 上 昭和55年刊
                 ・ 濃尾平野の歴史 二 古代の川と地名を探る  小池 昭著
                                                           平成24(2012)年 9月15日  最終脱稿
                                                           平成25(2013)年1月11日  加筆修正
                                                           平成25(2013)年4月23日  部分修正