古事記、六国史以外の「古史・古伝」について

               1.はじめに
                  記紀についての記述で紀元前から雄略天皇の間は、中国の史書の年代と照らしても
                 その辻褄が合わないことは、先学の研究者も指摘されていることであり、確かにその各
                 天皇の時期とも合わないようであり、学会でも大和の五王が誰であるのか確たる確証を
                 持ちえていないようでありますが、「武」のみ、雄略天皇であることは、はっきりとしている
                 ようであります。

                  古代の国選の書物「古事記、六国史」は、誰しも知りえる書籍ではありますが、それ以外
                 にも民間に伝わりし古書があったとしても不思議なことではないでしょう。
                                       また、古事記・日本書紀共に原本は、存在しません。全て写本として残っており、成立年は、
                 古事記の序文より、「和銅五年正月廿八日」(西暦で712年)と記載されている事から、古事
                 記については、712年とされているという。
                  日本書紀には、序文はなく、「続日本紀」の養老四年(西暦で720年)の条に日本書紀が完
                 成したとの記事を根拠として、720年とされているようです。

                  あの忌まわしい太平洋戦争に至る戦前戦中では、天皇制という現実が、この日本にはあ
                 り、天皇について、記紀以外の古史・古伝の内容を発表しようものなら、内容いかんによっ
                 ては天皇に対する 「不敬罪」とかで、命の保障がないという時代であったという。それ故、
                 君子危うきに近寄らずでしょうか、誰もそうした事柄を知りえていようとも、そっと日の目を見
                 ないように隠されていたのでしょう。

                  各地に残っているのは、由緒書きに類する古史・古伝であるようです。歴史学では、確かに
                 由緒書きに関する資料は、何らかの史実を表してはいるという認識はありますが、それが真
                 実かとなると、なかなか認めがたい二次的資料扱いではありましょうか。これから述べる事
                 柄は、そうした部類の事柄であります事を先にお断りしておきます。

               2.古史・古伝の所在について
                  私は、最近までそうした資料が、現存していたという事すら知りませんでした。{古史古伝が
                 明かす 謎のシルクロード 日本人の現郷「高天原」を求めて}(佐治芳彦著)を読むまでは。
                  
                  そして、佐治芳彦著 「 謎の東日流外三郡誌(なぞのつがるそとさんぐんし) 」なる書物の
                 存在を知りました。この東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)は、寛政年間より文化文政
                 期にかけて三春藩初代藩主 秋田孝季(秋田家は、日本書紀に出てくるナガスネヒコの子孫
                 と言われているようです・・筆者注)とその婚戚和田長三郎(和田家)の二人が、自分の家や同
                 地方に伝わる古文書や系図、古老の語る伝承、諸国を行脚して収集した古文書や語り書を全
                 360巻にまとめ、両家で秘密裏に保管していたようであるという。今まで門外不出という枠がは
                 められていたのでしょうか、やっと、昭和の後半になって、「市浦村史資料」三巻(青森県北津軽
                 郡市浦村村史編纂委員会)として、公表されるに至ったという。

                 { こうした資料は、「古史・古伝」と呼称されているようであります。この部類に入る資料には、下
                記のものがあるようです。
          
                「 上記(うえつふみ) 」・・鎌倉時代に豊後の国守 大友能直が家臣に命じて古文書を集め、編
                               纂したと伝えられる。 
                                 ( 縄文・弥生時代の百科事典とも言われているようです。 )

                「 秀真伝(ほつまでん) 」・・神代文字で綴られた全文57調の短歌と長歌からなる一大叙事詩。
                                 四国宇和島市小笠原家で完本が発見された。
                                 (記紀の原典とも言われているようです。)

                「 竹内文書 」・・神代文字で記された伝承を武列天皇の勅命で武内宿邇の孫 平群真鳥(へぐ
                          りまとり)が漢字かな混じり文に訳した古書。
                                 ( 富山県の赤地神明宮の竹内家の文書 )

                「 九鬼文書(くかみもんじょ) 」・・和歌山県熊野本宮大社の九鬼家に伝わる文書。九鬼家は、中
                                    臣(藤原氏)の系譜と言われているようです。 
                                        ( 出雲王朝の実在を告げる文書 )

                「 物部文書 」・・秋田県協和町 唐松神社文書とも言う。蘇我氏に敗れた物部守屋の子が、焼け
                          てしまった原本の写しを持って東北の地へ。それに関係した文書であるという。
                                 (富士高天原王朝を伝えている文書)

                「 富士文書 」・・別名宮下文書とも、徐福文献とも言う。元宮阿祖太神宮の大宮司の後裔にあた
                          る富士吉田市子明日見の旧家 宮下家(現 当主 宮下義孝氏所蔵)の文書。
                           第7代孝霊天皇73年に中国 秦から渡来した徐福とその子孫によって、神代文
                          字で書かれたものが漢訳されたという伝承がある文書。
                          大正10年にかな混じり文として「神皇記」(岡村書店)として発刊された。 }
                  ( 以上の内容は、謎のシルクロード 佐治芳彦著等より抜粋いたしました。)

               3.むすびにかえて
                  古史・古伝を元に、ネット上には、興味深い記述が目白押しにアップされておりますし、書籍として
                 も出版されてもおります。

                  その中でも、佐治芳彦氏の書籍は、あっという間に読み終えてしまう程でした。こうした事柄をまと
                 めて、私のHP上に推敲した雑文をアップしたいとは思っております今日この頃です。

                                        これらの古代に関する古史・古伝関係の文書のなかで、神代文字で書かれていたとされる物があ
                 り、この神代文字をかな混じり文に直した後のものについては、それなりに信憑性も存在するように
                 思いますが、そうでない文書については、文書発見当時の状況等も含めて再検討すべきと考えられ
                 ます。

                  神代文字の原文が存在するなら、何らの利害を持たない中立的な方が、数人で再吟味し、読み直し
                 をしてみて欲しい。富士文書に於いても、除福に神代文字を読み解き、教示した方が、あった筈。ご教
                 示された方は、どのような立場の方であったのか、そうした検証は、現在ではでき得ない。そこに一種
                 の大和朝廷とは違う何らかの作為が有ったのか、無かったのか。神代文字の原文が有れば、再度の
                 吟味はできえましょうが・・・。また、伝承として除福とその子孫により漢訳されたという、そうした文書が、
                 再度大正10年頃に、かな混じり文にされているという。どのような位置に立つ方がされたのでしょうか。
                 そうした吟味なしでは、文書は、正しく扱えないのではないかとは思えます。

                  神代文字での原本が存在するのは、秀真伝( 定本 ホツマノツタエ )のみでしょうか。

                                        竹内文書が、偽書と判断されたのは、狩野 亨吉氏であり、「竹内文書」の写真7枚のうち5枚を
            もって昭和11年(1936年)「天津教古文書の批判」により偽書と証明されたようであります。

            昭和11年と言えば、まだ、皇国史観全盛の時でありましょうか。狩野 亨吉氏がどのような
           立場の方であったのか私は、知りません。そうした事柄のチェックは、どうのようになっている
           のでありましょうか。そうした事なども知りたいとは思います。

            更に、東日流外三郡誌に於いても、確かに村史編纂に関わる所から文書は出ている訳ですが、
           これにも処々の出所事情をも吟味する必要がありましょう。以下そうした事柄を併記しておき
           ます。( 以下の部分は、ウイキペデイア フリー百科事典より抜粋いたしました。詳しくは、                         
           http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%B5%81%E5%A4%96%E4%B8%89%E9%83%A1%E8%AA%8C
           を参照下さい。)

            東日流外三郡誌は、青森県五所川原市在住の和田喜八郎氏が、自宅を改築中に「天井裏から落ちて
           きた」古文書として1970年代に登場したという。

            発見状況の不自然さ{和田家建物は1941年(昭和16年)建造の家屋であり、古文書が天井裏に隠
           れているはずはない}、古文書の筆跡が和田喜八郎の物と完全に一致する、編者の履歴に矛盾があ
           る(「秋田孝季」とは何者なのか?)、他人の論文を盗用した内容が含まれている、等の証拠により、
           偽書ではないかという指摘がなされた。

                 喜八郎氏生前に活字化された内容と同じ『東日流外三郡誌』の底本は含まれていなかった。(和田氏は論文
                盗用をめぐる裁判において『東日流外三郡誌』の底本は紛失したと主張したという。) 以上であります。

                                     和田喜八郎さんの人となりは、どのような方であったのでしょうか。郷土史家的なというか、歴史を
           いささか学ばれていた方なのでしょうか。そうした情報が、一切無い状況かと。こうした幅広い視野
           に立っての検証も必要であったのではないでしょうか。偽書と断定するには、はや気に失したのでは
           なかろうかと思えました。発表されたのが、安保闘争華やかりし頃であったでしょうか。和田氏は、何
           を思って公表されたのか。そうした事なども知ってみたいと考えております。