日本史に於ける 空白の4世紀についての覚書  

                1.はじめに
                   古代史に関する記述をしてきましたが、おおよそのガイドラインらしき姿が、みえてきたかなと
                  は思っています。あくまで、私が、そう思うだけでありますが・・・。

                  {漢書地理志には、「夫れ楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳事を以て来り献見
                  すと云ふ」の記載があり、紀元前1世紀には倭と呼ばれていた現在の日本列島(主として西日本
                  一帯と推測される)が、百余りの小国に分立しており、その一部が朝鮮半島にあった漢の楽浪
                  郡と定期的に通交していたことが記されており、確実に日本列島の住民について記した最古の
                  文献資料である。なお、紀元前1世紀は、一般にいう弥生時代にあたる。}この記述は、ウイキペ
                  テイア フリー百科事典 ゙http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E4%BA%BA 最終更新 2012年
                  8月12日 (日) 18:17 版によります。

                   そして、私が、日本歴史上確かであろう空白の4世紀とその前後と考える年表を提示しておき
                  ます。                                               
                           『日本史年表』の空白の4世紀とその前後

西暦57年 倭奴国王が後漢に朝貢し、光帝から金印を授かる。(日本書紀紀元前29年)
  107年 倭国王帥升ら、後漢の
帝に生口160人を献ずる。(日本書紀紀元前29年)
 桓帝(146〜167)霊帝(167〜189)の間、倭国大乱。<『梁書』は霊帝の光和年間(178〜184)とする>
               (日本書紀紀元前29年)             (日本書紀紀元前29年) 

 239年 倭の女王卑弥呼、魏に朝貢し、少帝から親魏倭王の称号と金印を授かる。
 247年 魏の使者張政が邪馬台国に到着した時、卑弥呼はすでに死んでいて、直径百歩の塚を作っていた。
 248年 卑弥呼の宗女で13歳の台与、即位して倭の女王となる。
 266年 倭の女王台与、使者を遣わし、西晋に朝貢。
 271年 崇神天皇没年(日本書紀紀元前30年)

 271 垂仁天皇即位年(日本書紀紀元前29年) ← 空白期間の始まり
     
空白期間 11代垂仁・12代景行・13代成務・14代仲哀・摂政神功
       
日本書紀の空白期間(紀元前29年〜紀元後269年)→復元年代の期間271年〜390年
 364年 百済人久ら、卓淳国を尋ね、倭国との通交を求とめる。
 366年 倭国の斯摩宿禰、卓淳国へ行き、使者を百済におくる。
 367年 千熊長彦を遣わして新羅を責める。
 369年 新羅を攻め、比自体(ひしほ)以下の7国を平定し、比利以下の4邑を降伏させる。
 372年 百済の肖古王、久らを倭国に遣わし、七枝刀1口・七子鏡1面をおくる。
 382年 襲津彦を遣わし、新羅を攻める。
 
390年 神功皇后没年(日本書紀269年)     ← 空白期間の終わり

胎中天皇

 390 応神元年(日本書紀270年)
 391年 倭、百済・新羅を破り、臣民とする(高句麗広開土王碑)。
 399年 倭、新羅に侵入、新羅は高句麗に救援を要請する(広開土王碑)。
 404年 倭、もとの帯方郡の地域に出兵し、高句麗に撃退される(広開土王碑)。

応神天皇

 413年 倭国、東晋に貢物を献ずる。
 421年 倭王の
、宋に朝貢し、宋の武帝から除授の詔をうける。

仁徳天皇

 438年 これより先、倭王の讃没し、弟の珍立つ。この年、、宋に朝貢。

履中・反正 

 443年 倭国王の、宋に朝貢して、安東将軍倭国王とされる。

允恭天皇

             
                ( この年表のあるHPは  http://www.geocities.jp/yasuko8787/kokindenzyu-3.htm  であります。)

                 それによると、紀元前1世紀頃、九州地域等 には、百余国もの小国が、存在していた事になります。
                 そして、西暦57年には、倭の奴国が、後漢の光武帝に朝貢し、金印を授けられたようであります。一
                応、倭での国王という肩書きを得、これは、後漢との正式な交渉相手と認められた事を意味していると
                言えましょう。

                 その後、九州では、現在注目されている 吉野ヶ里遺跡のあった辺りを中心として 米多(めた 或い
               は中国史書等には、面土とも記述されている。・・筆者注)国の帥升らが、生口160人を献じて朝貢したようであり
                  ます。

                が、後漢では、この面土王らを正規の使者とは、認めなかったようであります。
                正規の交渉相手は、倭の奴国であったからでしょう。面土国は、その奴国を攻めて、大きくなっていった
               と思われます。面土国は、その後ろ盾がなく、その後 40年間位、倭国は大乱の時期を迎えたようであり
               ます。そして、面土国は、後ろ盾もなく滅亡したのでしょうか。その後の魏志倭人伝にもその名前は出ては
               きませんでした。(拙稿 2〜3世紀頃の九州一帯の諸国分布の一考察 参照 )

                卑弥呼の登場で、大乱は終止符を打ったといえましょうか。(2世紀後半頃でしょうか。)卑弥呼死後(3世
               紀中頃)、再び乱れましたが、台与が新女王として治まったようであります。
                266年 倭の女王台与、使者を遣わし、西晋に朝貢。 271 崇神天皇没年 となるようです。この間僅か5年の差
               しかなく、とすれば、九州地域と畿内両地域で何らかの王朝が、並立していたとも理解できます。中国王朝
               より正式な交渉相手としては、邪馬台国の系統である 台与新女王の国が、そうであると言えましょうか。

                2王朝並立という状況が、日本列島内には、あったということでありましょう。( 3世紀頃の事かと推察い
               たします。)

                             2.空白の4世紀について

              ア、上記 年表にある倭国の斯摩宿禰でありますが、この人物について見ていきたいと思います。
                 日本書紀の神功紀には、藤原不比等の何らかの思惑が込められていますので、そうした思惑を取り
                除いた史実に戻して記述してみたいと思います。不比等は、中国での史書類に精通していた節があり、
                そうした史実を巧みに取り入れながら、卑弥呼と神功を類推させるように記述したのではないかと思え
                るのです。

                 さて、その前に、364年 史記には、この年、百済は、加羅諸国と和親とあり、日本書紀の欽明紀に
                も、百済聖明王の言として、昔 我が先祖速古(肖古)王、貴首(貴須)王の世に、安羅・加羅・卓淳と厚
                く親交を結べり とある故 事実の出来事でありましょう。そして、また、366年 2年前(364年)に百済
                使が、卓淳に来て、倭への道を尋ねた という。これは、むしろ道を尋ねたのではなく、紹介の意味を尋
                ねたのでありましょう。そして、それは、以下の文言の通りであったのでしょう。

                 { 366年、斯摩宿禰は、卓淳に至り、百済の意向を聞いて、従者の爾波移を百済に使いさせた。
                百済王はよろこび倭へ遣使したいといい、爾波移を帰した。斯摩宿禰と爾波移は卓淳から帰還した。

                 367年、百済王は久低(くてい)を遣わし倭に至り貢物を献じた。倭王(垂仁天皇カ)はよろこび、千熊
                長彦すなわち斯摩宿禰を遣わし、久低を送らした。(新羅の記事は略、またこの年斯摩宿禰の帰還を述
                べていないから、斯摩はそのまま半島にいたことになる)

                369年、前燕の内紛により、ようやく後方の脅威から解きはなたれた高句麗が、一気に南下する。国
               力は高句麗に及ばない百済は、しかし王と太子が善戦してこれを撃ち破った。百済王は近肖古、太子は
               貴須である。

                その翌年の370年、千熊(斯摩)は久低を連れて倭に帰還し、倭王はこのとき「何事があってまた来た
               のか」と久低に問うている。果たして翌371年百済王はまた久低を遣わした。倭王は歓待し、再び千熊
               (斯摩)をつけて久低を百済に送らせた。

               372年、高句麗は雪辱を濯ぐべく南下を図る。百済は計を案じ、伏兵を置いて高句麗を破り、さらに平壌
              を攻めて高句麗の故国原王を射殺した。(これが百済にとっていかに栄光の勝利であったかということにつ
              いて、後の百済の蓋鹵王472年に北魏に送った上表文に「祖の須(太子貴須)は剣(故国原王)の首を梟斬
              す」としてこれを誇っている)
               そしてこの年久低はまた千熊(斯摩)と連れだって倭に到り、七枝刀と七子鏡を倭王に贈った。百済はまた
              この年晋に遣使し、晋から「鎮東将軍百済王、領楽浪太守」の称号をもらっている。

               要するに、百済はこの時期すでに高句麗との衝突を予想し、計画的に兵力の増強を図るべく、周辺諸国に
              接触をはじめた。それが甲子年(364年)である。人口はすなわち兵力であり、百済のそれは明らかに高句
              麗に劣っていた。百済が加羅諸国に和親を求めたという事も、百済が倭への道を尋ねたという書紀の記述も、
              要は兵力を頼んだのに違いない。
 
               したがって366年から372年にいたる一連の百済と倭との交渉は、対高句麗援兵の要請(百済)と応諾
              の派兵(倭)の経緯と読める。

               斯摩宿禰は367年から369年の間百済または加羅に留まった。その後371年から372年まで、再び半
              島に留まった。このすべての往還には百済の使者久低が同行している。ひるがえって百済はこの時代加羅
              や新羅と争乱はない。加羅とは和親と言い、新羅とは倭への貢物のことで争ったと書紀にあるが、大勢に影
              響はない。従って百済は当時その東辺・南辺ともに後慮をもたなかったともいえるのでありましょう。

               要するにこのとき斯摩宿禰が百済に強力するためには、いくばくかの兵をもって百済軍に合流するしかな
              んらの意味をもたない。かくして百済は369年と371年の対高句麗戦に、倭の援兵をともなって出撃した。
              それが事実であったのだと思う。

               ちなみにその兵の規模はもとより大きなものではない。このケースにもっとも近い、後の七世紀の新羅 真
              興王が百済に救援して高句麗を撃ち破ったときの派遣兵力は300名であった。歴代の半島における軍事行
              動が千人を超えるのは希であったといっていい。
               斯摩宿禰の軍勢は、国家のそれでなく斯摩宿禰のいわば家の子郎党であったであろう。}という所が、事実
              でありましょうか。

               では、いったい この斯摩宿禰なる人物は、その後の誰に比定できるのでしょうか。日本書紀には、詳しい
              説明はなされていないといえましょう。が、以後の記述で明らかになる筈であります。
               ( ここまでの記述の{ }は、http://www9.plala.or.jp/juraku/soki1_3.html の引用である事をお断りしておき
              ます。)

            イ、七支刀について
               「百済王が372年に久低を遣して倭王に贈った七支刀は、間違いなく現在も石上神宮の神宝として祀られて
              いることは、事実であります。

               久低の言葉に「百済の河の水源である谷那の鉄山の鉄を採って作る」とあり、その制作の年も七支刀の銘文
              によって369年と見られる。
               七支刀には、こう刻まれているという。  

              泰和四年*月一*日丙午正陽、造百練鋼七支刀。*辟百兵宣供供侯王、****作。
              先世以来未有此刀。百済王世子奇生聖晋、故為倭王旨造。伝示後世。
        
           従ってこの銘文はこう読むとよいようであるという。

        泰和四年(東晋年号・世紀369年)...百練鋼の七支刀を造る。百兵を辟く...宣しく侯王に....吉祥
        先世以来、未だこの刀有らず。百済王世子奇、聖晋に生まれ、故、倭王の為に旨して造る。後世に伝せよ。    
       と。もう少し詳しい解説文にすれば、

        先世以来、未だ此の(如き)刀有らず。百済王世子奇(貴須)(奇しくも)(倭王と時を同じくして)(世界の盟主に 
       して)聖なる晋(の世に)生まれ、(かく倭王と出会った今日がある)故、(いま好みを通じ、共に晋の侯王たる)倭  
       王の為に、(工人に)旨して造らしめる。(来るべき)後世に(この結好の証しを)伝示せよ。となりましょうか。
 
        この七支刀は、現在も現存し、石上神宮では、基本的に非公開でありますが、近年では2010年5月17日から6 
      月11日に、時間および人数限定で公開されたというようであります。

       余談になりますが、七支刀と一緒に贈られた七子鏡については、後日談があります。それは、こうです。

       「七支刀と同時に奉られた七子鏡は、アメリカ合衆国のボストン美術館に所蔵されている銅鏡ではないかとする
      説がある。この鏡は、丸い突起が同心円上に七つあり、七子鏡の名称に相応しいという。これらの遺物は、187 
      5年(明治8年)大雨で崩れた大仙陵古墳(仁徳天皇陵)から発掘されたもので、ボストン美術館には銅鏡や環頭
      大刀などが収蔵された。これらの品は、1908年(明治41年)には既にボストン博物館に所蔵されたという。

        鏡は細線式獣帯鏡で、青龍、白虎、玄武、朱雀などの霊獣を文様とする立派なもので、後漢製の舶載鏡と推  
       定される。しかし、百済の武寧王陵から同種の鏡が発掘され、中国の南朝での製品という可能性もある。

        刀は、刀身が折れて無くなっていて、長さ23センチの把(にぎり、柄)と環頭(柄尻)が残っている。環頭は鋳銅
       で形を作り、その上に金鍍金がしてあり、環の中央には竜の首を彫刻し、竜首を取り巻く環には双竜を浮き彫り
       にしている。把には連続した三角形の中に禽獣を浮き彫りにした帯状の飾り金具を付けている。この類似品は
       朝鮮半島南部の新羅や任那の古墳から出土している。

      宮内庁書陵部  の研究によると、これらの出土品は、ボストン美術館中国・日本美術部勤務であった岡倉天心
     により、1906年(明治39年)に京都で購入された可能性が高く、また、実年代は「6世紀の第1四半期を中心とした時 
     期」であり、古墳の築造時期とずれがあるとも指摘されている。大仙陵古墳が仁徳天皇の稜である場合、仁徳天皇
     が没したとされる399年以降に、これらの銅鏡が収蔵されたことになるという。」( 以上の記述は、ウイキペデイア 
     フリー百科事典 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E6%94%AF%E5%88%80  最終更新 2012年7月10日 (火)
     09:33 版によります。 ) 記述もありました。

       崇神の治世の終りころ加羅の人 蘇那曷叱智が来たという。崇神の時代に、すでにおぼろげな半島との交流
      のはじまりがあったのでしょう。361年、天日矛 {  網野町浜詰にある志布比神社の社伝(『網野町史』よ   
    り。網野町は現在、周辺5町と合併し京都府京丹後市として、新たに生まれ変わりました)には、

 
   「創立年代は不詳であるが、第十一代垂仁天皇の御代、新羅王の王子 天日槍が九種の宝物を日本に伝
    え、垂仁天皇に献上した。九種の宝物といのは、『日の鏡』・『熊の神籬(ひもろぎ)』・『出石の太 
    刀』・『羽太玉』・『足高玉』・『金の鉾』・『高馬鵜』・『赤石玉』・『橘』で、これらを御船に積 
    んで来朝されたのである。この御船を案内された大神は『塩土翁(しおづちのおきな)の神』である。
     その船の着いた所は竹野郡の北浜で筥石(はこいし)の傍である、日本に初めて橘を持って来て下っ
    たので、この辺を『橘の荘』と名付け、後世文字を替えて『木津』と書くようになった。」とある。}

       渡来という記述もあり、この日矛は、新羅の王というが、時に新羅はまだ斯廬の都邑に過ぎず、新羅の建国の王 
      と思われる奈勿王の即位は356年と伝えられる。そもそも新羅は、6世紀の真平王が隋に上表したなかに「王は 
      もと百済人。海から逃げて新羅に入り、ついにその国の王となった」という記事がある。

       新羅は朴氏・昔氏・金氏と王統を継ぎ、真平王は金氏であるが、昔氏の神話には「海から逃げて(一時加羅に 
      留まり、入れられず)新羅にはいった」ともある。真平王の二代前の法興王は慕秦と伝え慕姓(慕韓すなわち馬
      韓)を称したという。

       その斯廬との争いは、時期的に加羅と斯廬との、時に羨望の的であった、弁辰の鉄を巡る衝突の始まりかも知
      れないようであります。

       崇神から垂仁の治世のはじめ、大和の朝廷としては、はじめて半島の情報に直接接したのでありましょう。たと 
      えば弁辰の鉄も大和朝廷の直に採るところであった筈はない。山陽・山陰・九州のどこかの豪族をもってして、間
      接的にこの益権を享受していたであろう。( 例えば、草薙の剣の朝廷への献上とか。 )
       その権利の糸がこの時脅かされそうになった。或はこの種の益権を朝廷は、もともと持たず、ただそれを有する
      筑紫の豪族の有利を、この時よく承知するところとなったのでありましょう。

       熊本県の大津町の西弥護免遺跡では、この遺跡は、弥生時代の環濠集落で鉄器工房跡、218戸の住居跡。墓
      地群。それを囲む4重の環濠が出土しているとも言われ、吉野ヶ里遺跡でも同様に鉄に関する工房跡が、あった
      とか、早くから九州地域は、中国、朝鮮より鉄の塊が、持ち込まれ、小鍛冶技術が、出来るようになっていたので
      しょう。鏃(やじり)等に加工し、戦闘に利用したと推測されます。
 
       垂仁天皇が、太子 景行をして西征に派遣した背景には、こうした現実的な理由があったのだと思われます。


       本題に入る前に、先ほどの361年、天日矛( 新羅王の王子 天日槍とも記述か。)についてですが、興  
    味深い記述が、ありました。

    { 出雲神族の末裔「富氏」の口伝には、「物部」を将としたアメノヒボコ族が、「出雲」に攻め込で 
    いくという一節があります。アメノヒボコ族というのですから、個人ではないことになりますが、アメ 
    ノヒボコ=「誉田真若王」とすれば、日本海側にいた「誉田真若王」が、「河内」にたどり着く経路が 
    推察できます。

     と言うのも、『但馬故事記』にあるニギハヤヒの降臨コースと、多分に重なってくるように思えるか
    らです。
     『先代旧事本紀』は、ニギハヤヒの降臨を次のように伝えています。

  
   「饒速日尊は天神の御祖の命令を受け天磐船にのって、河内国河上の哮峰に天降った。さらに大倭国 
     鳥見の白庭山に移った。いわゆる、天磐船に乗り、大空を翔行きこの郷を巡り睨み天降られた。いわ 
     ゆる、空より見た日本の国とはこれである。」

     『但馬故事記』は、この白庭山(しろにわやま)に着くまでの行程を伝えていて、

 
     田庭の比地の真名井原→但馬国美伊→小田井→佐々前→屋岡→比治→丹庭津国→河内国村上哮峰

     というのですが、簡単に言えば、但馬→丹波→河内の順になります。しかし、田庭の比地の真名井原
    が「丹波国与謝郡」(常識的に考えれば、真名井神社のある籠神社)に比定されていますから、「但馬
    」も「丹波」も大きい意味での「丹波」なのでしょう。「田庭」は「但馬」とも「丹波」とも読めます
    
     これだけでは、何のことか良く分からない筈でしょう。日本書紀 
垂仁紀には、「崇神天皇の御代 
    に、額に角の生えた人が、ひとつの船に乗って越の国の笥飯の浦についた。そこでそこを名づけて角鹿
    (つぬが)という。越前 敦賀 の地名由来のようでもありますが、このとき訪れた人物とは、「大加羅 
    国」の王子「都怒我阿羅斯等」(つぬがあらしと)でした。となるわけです。

       さて、本題の斯摩宿禰の斯摩とは、それを理解するに取って置きの金石文があるという。
       隅田八幡社画像鏡に刻まれる文がそれであり、全文は以下の通りであるという。

     癸未年八月日十大王年乎弟王在意柴沙加宮時斯麻念長  奉遣開中費直穢人今州利二人等所白上  
    同二百悍所此鏡
  
   その解釈文は、

     癸未(四四三年)八月日は十日、(すぐさき)大王(たるべき)年の男弟王、忍坂宮にある時、斯麻の念 
    長、奉つるに河内直と穢人(西漢)今州利二人等を遣わし、白上銅二百悍を取りて此の鏡を作る。とな 
    るようであります。

     その鏡の文言に、斯麻念長なる人物が出てきています。遥か後の世、蘇我氏全盛時、蘇我の大臣の
    事を 嶋大臣とも別称しているようです。それは、母方の出自が、嶋(葛城地域)と呼ばれた地域の方で
    あったからであります。このように、地域名で言われる事は、珍しいことでもなく、氏族名も、地域にのっと
    って付けられたのでしょう。斯麻(しま 或いは嶋カ・・筆者注)念長であったのでしょう。

    { 葛城が嶋すなわち斯摩なら、隅田八幡社画像鏡の斯麻念長なる人物もまた、葛城の一族でありまし 
   ょう。そして神功紀に「その何姓の人かを知らず」という斯摩宿禰は、必ず葛城宿禰に違いない。藤原不比
   等は、知っていてすっとぼけているのでありましょう。

    斯摩宿禰は、実は太子であった景行に随行して戦い、その後更なる利権を求めて半島に渡った人物
   であり、要するに葛城の豪族、あるいは豪族とならんとした氏族の突出した最初の一人であったと思う。  
    葛城の姓もおおくの氏族の姓と同じく、後世の付会なのであろう。

    それがいつごろなのかは分からない。もと斯摩で、その後葛城と称し、或はこれを並行して呼称してきた
   のなら、その由来も明らかに思える。すなわち加羅城(葛城・・筆者注)の意味であり、その始めも半島に
   交渉をもった斯摩宿禰に由来するのであろう。加羅はもと弁韓また弁羅といい、弁はカル、カルラと訓み、
   弁羅でカルラギと訓むは、新羅をシラギと訓むのに等しい。

    葛城の一族は知られている限り葛城襲津彦を始祖とする。それ以前には前後の関連なく、気長足姫の 
   母という葛城高額媛と、古事記の開化記にいう葛城垂水宿禰、そしてもうひとり、武内宿禰の弟とする甘美
   内宿禰の母、葛城高千那毘売がある。書紀の襲津彦は古事記には葛城長江襲津彦とある。その女磐之
   媛は仁徳の后であり、履中・反正・允恭を生んだ。

    古代その地は斯摩(嶋)と呼ばれてきた。崇神が大和に入った時から、その本拠とした畝傍周辺から見
   て、東に磯城、西に斯摩の勢力があったのであるという。

         大和岩雄著 「秦氏の研究」P62〜66にも、葛城襲津彦についての記述があります。氏によれば、葛城  
   襲津彦の出自は、朝鮮半島の倭人集団の長(倭王)であったという位置づけであるようです。かの魏志倭
   人伝に出てくる朝鮮半島にあった狗邪韓国が、実は、倭人の国でもあり、弁辰韓伝では、その国は、弁辰
   狗国と記述され、同一の国であるという。即ち倭30ヶ国の一国であり、弁辰12ヶ国の一国でもあったよう
   であります。大和氏は、この倭人の流れである国の後の長が、葛城襲津彦であろうと。

    そして、葛城という名を名乗るのも、この長の出身地が、加羅はもと弁韓また弁羅といい、弁はカル、カ
   ルラと訓み、弁羅でカルラギと訓むは、葛城であろうと。推察されるのでありましょう。

    また、葛城臣の祖は、葛城襲津彦であり、この臣は、天皇をないがしろにする程の権力を持ち、この後、
   葛城臣は衰退しても、大王と葛城臣の血縁者でなければ、皇位につけなかったのは、単に権力だけでな
   く、血統も大王と同じレベルであったことを暗示しているとも記述されておりました。4世紀頃のことではあり
   ましょう。

    百済記には、壬午(382)年に、襲津彦(沙至比足危)は、新羅より美女二人を受け、加羅国を討った。  
   と記述されていた。このことは、加羅の倭人集団の長が、加羅国の加羅王を討とうとした事でありましょう
   か。

    五世紀の倭王権で、権力を二分するほどの力や、大王家と同列の血統を”帝紀”に記している事実の説 
   明には、襲津彦(沙至比足危)を単なる「朝鮮系渡来人」とみるより、朝鮮の倭人の首長(倭王)と見る方が 
   説明が、しやすい。と記されております。


 3.まとめ
    以上空白の4世紀といわれている部分を史実に即して概観してきましたが、そこには、九州を基盤とする
   邪馬台国。そして、その並列的に畿内地域を基盤とする大和王権という2王朝が、日本列島内に内在して
   いたのではないかという結論に至るのであります。

    そして、中国王朝との交渉では、倭として正規の交渉国は、奴国から邪馬台国へと移り、畿内の王権は
   中国王朝との交渉を間接的にしか行えない状況であったのでしょう。そこを、突き破っていったのは、垂仁
   朝末期の太子 景行であり、周防への西征であり、この地から筑紫の勢力と対峙し、大和の勢力としては 
   はじめてこれに打撃をあたえ、半島への既得権の一部を冒したのである。その時、活躍したのが、太子に 
   付き添っていた斯摩宿禰という豪族であったと言えましょう。

    4世紀頃には、半島からの寄港地は、末ら国の唐津からかって奴国といわれた国の那の津(現 博多 
   港)へと変更したようであり、半島内 現 釜山辺りの遺跡からは、九州の遺物ではなく、畿内の遺物が多 
   くなるという状況を呈しているという朝鮮半島での遺跡発掘報告があるという。寄港地の変更を裏付けて
   いると言えましょう。

    そして、継体天皇御代に筑紫の君の反乱が起こり、物部荒甲(古事記での豪族名)により鎮圧され、この
   九州北部( 邪馬台国の頃の末ら国、奴国、伊都国の部分)は、大和朝廷の実質支配化に置かれるよう
   になったといえるのでしょう。邪馬台国系の国々は、更に南下して、残存していったという。

         上記記述は、日本の歴史学上の記述を基に2014年7月27日 AM7時18分 最終脱稿であります。
    現在、5年以上が経過していますし、上記記述は、東洋史研究者からの見解は、殆んど含まれていません
   でした。日本歴史上、空白の4世紀に関わる文献は、日本書紀・古事記が、主であり、何らかの改変等が加
   えられていましょうか。東洋史学専攻の方の日本の歴史の見解も加味したい。

    *  『日本書紀』は純漢文体であると思われてきたが、森博達の研究では、語彙や語法に倭習(和習・和臭)が
         多くみられ、加えて使用されている万葉仮名の音韻の違いなどの研究からα群(巻第十四〜二十一、巻第二
        十四〜二十七)とβ群(巻第一〜十三、巻第二十二〜二十三、巻第二十八〜二十九)にわかれるとし、倭習の
        みられない正格漢文のα群を中国人(渡来唐人であり大学の音博士であった続守言薩弘恪)が、倭習のみら
        れる和化漢文であるβ群を日本人(新羅に留学した学僧山田史御方)が書いたものと推定している。
          またα群にも一部に倭習がみられるがこれは原資料から直接文章を引用した、もしくは日本人が後から追加・
        修正を行ったと推定されている。特に巻第二十四、巻第二十五はα群に分類されるにもかかわらず、乙巳の変・
        大化の改新に関する部分には倭習が頻出しており、蘇我氏を逆臣として誅滅を図ったクーデターに関しては、元
        明天皇(天智天皇の子)、藤原不比等(藤原鎌足の子)の意向で大幅に「加筆」された可能性を指摘する学者もい
        る。

                     『日本書紀』は欽明13年10月(552年)に百済の聖明王、釈迦仏像と経論を献ずるとしている。しかし、『上宮聖徳
                  法王帝説』や『元興寺縁起』は欽明天皇の戊午年10月12日(同年が欽明天皇治世下にないため宣化天皇3年(538
                  年)と推定されている)に仏教公伝されることを伝えており、こちらが通説になっている。このように、『日本書紀』には
                  改変したと推測される箇所があることがいまや研究者の間では常識となっている。と
                    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80  最終更新 2017年12月5日 (火) 07:07*




               小林恵子著 解読「謎の4世紀」 文芸春秋 1995年初版本より  氏は、岡山大学法文学部文学科東洋史専攻かと。
               詳細は、上記著書を読まれたい。概略を記せば、「高句麗の東川王は,強力に周辺を侵略し、魏を脅かしたので、24
              8年 幽州刺史のかん丘倹(魏の武将)に追われ、高句麗の東川王は、北九州に上陸し、邪馬台国を滅ぼしたが、東遷
              の途上、安芸の辺りで死去と」。(同書 P.104 参照)

                    *  確かに魏志倭人伝では、247年には邪馬台国の卑弥呼は、死去していた。そして、248年には、卑弥呼の宗女
                で13歳の台与、即位して倭の女王となっていたし、266年には、晋に使者を使わしていた筈。*

                *   幽州とは、「 中国にかつて存在した州。 上古の中国の九州の一つに数えられている。具体的な区域については、『爾雅』、
                『呂氏春秋』では「燕である」としており、『周礼』では「東北」としている。『晋書』地理志では「北方は陰気が多いことにより、
                幽冥をもって名称とした」としている。また、「刺史、州牧が州全体に影響力を及ぼし治所を中心に直轄できる郡県があり、
                また兵力を持てたようです。*
    
              「その息子 カミヌナカワノミミ(書紀にいう綏靖天皇)が、266年近畿大和地方で倭国王となり、司馬氏の晋に承認を求め
             て使者を送ったと。神武朝の事と。」 (私からみると、神武朝ではなく、崇神朝に合致するのでは・・・・。私の注)
               https://sites.google.com/site/ribennowenhua/mino-si-shi-ji も参照されたい。

               *  私の疑問 後漢にしろ魏にしろ晋にしろ、中国王朝は、同時期に列島から使者が同年に来た場合、どちらを優先させ
                るのであろうか。やはり、以前から朝貢した国を採用するのではあるまいか。実際は、中国王朝は、この時期替わって
                いる筈ですからどうでありましょうか。
                 やはり、倭国の女王 登与を取るのではなかろうか。晋書では、どのように記載されているのであろうか。不明*

              「255年には、幽州刺史 かん丘倹は、司馬氏に反乱を起こして滅ぼされた。朝鮮半島と遼東一帯は、東川王系の勢力
             が、楽浪郡・帯方郡の一部を除いて支配したと。」 (それが、高句麗 西川王の登場か。)

              「3世紀終末頃、晋の王室は内紛のため弱体化、周辺の軍事力を持つ騎馬民族が台頭。代表は、匈奴の劉氏・鮮卑の慕
             容氏。劉氏二代目 劉聡(ソウメイ)が、316年 晋(西晋)を滅ぼした。その為高句麗西川王は、列島に亡命したと。新羅も30
             0年頃には、劉氏の支配下に、列島も高句麗を通じて劉氏の支配下に下っていたと。それが、記紀では、崇神朝と。」

               *  書紀では、271年 垂仁天皇即位年.。271年 崇神天皇没と。東洋史との整合性はどのようになるのでありましょうか。
               古事記では、崇神天皇没は、もう少し遅いようです。*

             「列島での劉氏系の国は、294年 百済を経て伊都国に入った高句麗人の日矛(穴門の伊都都比古)。北陸・関東・東海
            に盤拠する大彦命、武ぬ川別父子。出雲振根(実は、百済王子 恩羅<ウラ> 慕容氏系)を滅ぼして吉備・播磨・出雲の中
            国地方を支配した吉備津彦と、いわゆる記紀のいう四道将軍と言われる人々。」と

             * 垂仁2年条に「伊都都比古(伊都国王)が穴門(山口県)の 国王を自称した」 とあるので、山口県はまだ支配下になかっ
             た。 この当時の伊都国王は、名目的な九州王朝の盟主であったが、卑弥呼・台与の200〜 270年頃の九州王朝(邪馬
             台連合)の領域であった西中国(穴門)の支配者を自称したのであろう。これが、294年の高句麗人 日矛の事柄でありま
             しょうか。*

            「列島では、298年 慕容氏側にあって百済と連合していた新羅 儒礼尼師今が暗殺され、新羅 儒礼の息子 天の日槍(ア
           メノヒボコ)が亡命し慕容氏の援助のもと、中国地方一円と播磨を支配下においていた吉備津彦(劉氏系・・私の注)と播磨で戦い、
           降伏させ、それから但馬に行き、318年狭穂彦の丹波王国を滅ぼして出石に定着。列島では劉氏系の高句麗人 日矛は、北
           九州を制圧しており、東海・関東・北陸の大彦命は、存続している。」と

             *  古事記では、狭穂彦(垂仁天皇の皇后の兄)が殺された318年をもって崇神朝は終わったと記す。これが史実なら、崇神
             天皇(実は高句麗の東川王の息子カ)は、この年までで、亡命した高句麗の西川王(実は、記紀にいう垂仁天皇カ)が、垂仁
             天皇として即位した可能性はないのだろうか。ここまでみてくると、朝鮮半島と列島は、密接不可分な関わりがあったかのよう
             です。3世紀頃でも、朝鮮半島と列島間では、海上交通は、頻繁に行われていたとみるべきなのでしょうか。*

           更に小林恵子氏は、記紀に記載されるヤマトタケルは、景行=ヤマトタケル=誉津別=慕容儁(ボヨウシュン)と想定されているよう
          で、慕容コウの息子とされている。氏は、記紀の「景行」は、架空の人物とされ、実質は、ヤマトタケルの事と推論されるようです。
           古事記のヤマトタケル東征コースと書紀のコースには違いがあり、古事記は、3世紀の頃、書紀は4世紀という違いであろうと。

           そして、書紀では、景行天皇として記述しているのは、ヤマトタケル王朝だと。ヤマトタケル王では、東征が余りに王らしくない戦
          いであるが故に、別人格の「景行」を創出して記述したのだと。

           *  私は、東洋史関係の書籍には、ほとんど目を通していませんので、晋書・三国史記等の比喩的表現は分かり兼ねます。氏は、
           こうした比喩的表現を、王朝の交替・人物の想定に使われ、記述をされているようです。推測の上に成り立っている書籍かと理解
           しました。また、このようにも読み解けるのかと理解しました。いわゆる列島での3〜4世紀(日本史では空白期)は、匈奴の劉氏
           系一族と鮮卑の慕容氏系一族の日本でも王朝対立抗争の期間であったと。*